good boy | ナノ
南門から職員玄関へ続く階段を上がり、外靴を脱ぐ。
職員用にあらかじめ決められている目線の高さと同じ靴箱の扉を開き、それを入れて内履きを出したと同時、右横に音も立てずスッと現れた影に気付いた。

「おはようございます。冨岡先生」

同じように内履きを出して履くその姿に挨拶をすれば「あぁ」と小さく返される。
曲がりなりとも生徒に挨拶の大切さを教えている立場なんだからおはようの4文字くらい言えないのだろうかと思うが、それもいつもの事だ。
少し遅れて内履きを履く私に
「どうしたんだ?」
いきなり飛ばしてくる発問も主語がなさ過ぎてすぐに理解が出来なかったが、その視線が右手に向かっている事に気付いて、何を言いたいのかを悟った。
「ただの虫刺されです」
右手の甲に出来た5ミリ程の発疹は、昨日家に迷い込んだであろう蚊に吸血されたもの。
次に向かってきた時には返り討ちにしてやったので被害は手だけで済んだが、こんな小さい発疹を目ざとく見つけてくる辺り、冨岡先生の執念というか恐ろしさを感じる。
ロッカーを閉めようと上げた右手をかっさらわれたと思えば、まるで童話などで良く見るワンシーンみたいに手の甲に口付け、ではなく舌が這った。

good boy


途端にぞわぞわと全身に走る鳥肌に手を振りほどく。
「…なにっ!してるんですか!?」
「こういうのは舐めとけば治る」
「治らないです!例え治るとしても何考えてるんですか人の許可なく勝手に舐めるとか!」
「前もって言質を取れば良いのか」
「いや、取らせませんよ!?何でイエスしかないみたいな言い方なんですか。私の中ではノーしかないんですけど」
「そういえばこの間の返事も聞いていなかった」
「あの一方的な独白に返事を返せと?どんなに頑張ってもそうですかとしか言えないです」
「好きだ、付き合って欲しい」
「ノーしかないって言ってる相手によくそれ言えますね。わかりましたもう一度言いますね。ノーです全部ノー、いいえ、不承です」
一息で言い切って職員室へ向かう、前に
「それでも好きな場合はどうしたらいい」
背中で聞いた声は聞こえないフリをした。


* * *


ああああああああああああああああああああ

液晶に並ぶその文字をただひたすら眺める。
今すぐにでも叫び出したい気持ちをパソコンに代弁してもらっていた。
それでも?好きな場合は?どうしたらいい?
そんなもの私が知る筈ないし諦めたら良いのではないかと、やっぱり振り向いてでも言うべきだった。
何でこんな事になったのか。私は何処から道を間違えたのか。
冨岡先生に好かれるような事をした心当たりが一切ないのがまた恐ろしい。
頭を抱えたくなる衝動を我慢してもう一度Aのキーボードを長押しすれば、その分『あ』の文字が瞬く間に増えていく。

冨岡先生がやばい人間なのは重々認識していた。でもそれは単純に教師としてだけのやばさ。
今は人間としてのやばさというか狂気をひしひしと感じている。
いきなり同僚の手の甲を舐めるとか、セクハラを遥かに超えて傷害でしかない。
ここまでくるとあの人はもはや人間ではないのでは、という選択肢しか思い浮かばない。
人間のフリした犬とか、でもだとしたら前世が犬の方が説得力はあるのか。

散々打ち込み続けた『あ』の文字をバックスペースで消して、仕事に取り掛かろうとしたところで
『前世は犬』
無意識で打ち込んでいた文章に今度は実際に頭を抱えた。
さっきから全く仕事にならない。
今この右横に元凶が居ないだけ有難いと思うべきか。

「…苗字?」
後ろから聞こえる不死川先生の声に顔を上げた。
「はい」
冨岡先生の事は犬だと思おう。何か良くわからないけど、懐かれてるフワフワなものだと考えればまだ可愛く見えてくる…駄目だな。どう考えても可愛くはない。
「訊きたい事があったんだが、取り込み中だったみたいだな」
「いえ大丈夫です。取り込んでるのは脳内だけだったので。訊きたい事とは?」
後ろを向けば不死川先生は自分のパソコン画面を指差す。
「此処の線なんだけどよ。今この画面では統一されてるように見えるだろ?」
「はい」
「それが印刷画面にすると…」
マウスを動かす手に続き出てくる画面で何を言いたいか納得した。
「一部不自然に線が太くなってますね」
「そうなんだよ。これどうすりゃ直るんだ?何回入力し直しても変わんねぇしよ」
「私も余り詳しくないので確証はないですが…」
不死川先生が自分の椅子を引いて作ってくれたスペースに入るとデスクへ向かう。
「…多分これで直るかと」
マウスを動かして一部だけ太くなった線を切り取って新しく罫線を引けば
「おぉ!」
嬉々とした声をすぐ後ろで聞いた。
念の為に印刷の確認画面を出してから、いつの間にか立ち上がり身を乗り出していた不死川先生を見上げる。
「これで大丈夫ですか?」
「すげーな苗字!一瞬で直しちまった」
「適当にやっただけですよ」
こんな小さな事で感心する表情に思わず苦笑いが零れる。
「やって貰ってばっかじゃ悪ぃから今度おはぎ奢るわ」
「いえ、それはお気持ちだけで十分です」
おはぎが好きなのは周知の事実だが、何でピンポイントにそこだけをチョイスするのか謎を抱えたまま自分のデスクに戻ろうとして、動かそうとした椅子を止めた。
訊ねようとした口唇を一瞬噤ぐ。
こんな事を訊いたら不審に思われるだろうと思った。
「…どした?」
怖い顔に似合わずと言ったら失礼なのは承知しているけれど、その優しい声色に喉で止めた言葉を続ける。
「不死川先生。男性が女性に対して脈なしだと諦めるのってどんな時ですか?」
「何だお前…、もしかして変な男に付きまとわれてんのか?」
えぇ、そうなんです貴方の左後ろの席の人に、とは流石に言えない。
「いえ、今後の参考までに世間一般のデータを知りたいだけです」
無難にそう答えれば、不死川先生は両腕を組むと天井を睨んだ。
「まぁ、俺だったら…」

* * *

不死川先生に教えて貰った、いわゆる殿方が手を引く行動を脳内で反復する。
態度が悪い、反応が薄い、余り笑わない
思い返せば全く、ほぼほぼ自分に当て嵌まっていて余計に絶望するだけだった。
それでも私を好きだと言う冨岡先生はやはりどこか頭のネジが1本や2本のレベルじゃなく外れてるとしか思えない。
そんな中で唯一『無視をする』
それだけはまだ、実行した事がなかった。
仕事上話さないという選択をするのは難しく、そうでなくとも正直それだけは人としてやってはいけないという自制心もある。
でもそれで諦めて引いてくれるなら、それも一種の優しさなのかも知れないとそう考えたのも束の間
「冨岡先生。体育祭の冊子です」だの「冨岡先生、先程保護者の方からお電話をいただいたのですが…」だの、無視をするどころか、こちらから話し掛ける案件しかなく、その選択肢がそもそもない事に気付く。
せめてもの反抗に業務を終えた後、いつも言葉にする「お疲れ様でした」だけは冨岡先生には口にせず、職員室を後にした。

今は罪悪感と言う言葉が頭の中を占めている。
明らかに冨岡先生を避けたのを僅か数メートル歩いた所で後悔した。
確かにあの人は常人とは遥かに違うが、どう考えても存在の無視だけはやっぱり駄目だ。それだけは私の心が辛くなる。
無駄に重くなってしまった気持ちに明日謝ろうと決心して、靴箱を開けようとした時、それを後ろから伸びてきた右手が制する。
いつの間にか背後に立っている気配を感じて息を止めた。
「…どういう事だ」
相変わらず主語がない人だと思う。
「どういう事、とは何の話でしょうか?」
訊き返しはしたが、振り返る事はしなかった。
後ろから伝わる怒りを嫌でも感じてしまったからだ。

「どうして無視をする」
「…してしまいましたね。そうですよね流石に気付きますよね。それに関しては明日謝ろうと思ってたんですが今謝ります。すみません。お疲れ様でした」
そう言って靴箱の取っ手を掴んでも、出されていた右手が遮る。
「帰りたいんですけど、退いていただけませんか?」
「嫌だと言ったらどうする」
「心の底から嫌いになるだけです。それでも良いならどうぞこのままずっとそこに居てください」
「それは困る」
「困るならその手を離せば良いだけだと思います」
観念したのかスッと下ろした手に安堵して、靴箱を開けようとした右手をまたさらわれたかと思えば朝と同じ、ではなくチュッと音を立てて口付けされた。
「言っておくが…」
そうして冨岡先生の右頬に摺り寄せられる。
「例え無視されようが名前を好きなのは変わらない」
やっぱりアドバイスなんて人に乞う物じゃない。
常識も何もかも、この人には全く通じないからだ。


余計に酷くなってる


(何で勝手に名前で呼んでるんですか)
(呼びたいから以外、特に理由はない)
(清々しいほど独走的ですね)


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