good boy | ナノ
「お疲れ様です」
国際教室の前で擦れ違った教師と軽い挨拶を交わしながら、廊下を進んでいく。
後ろからついてくる冨岡先生は大人しいもので、振り返らずとも機嫌は良いであろうと窺える。
さて、今日は何処から何処まで向おうかと考えつつ、自然と中等部へ足が動いたのは、無意識に彼の事を思い出したからかも知れない。
授業中ともなると、そこまで喧噪が聞こえてくる訳でもなく、時々引き戸の窓から授業の様子をそっと覗いていくだけに留めながら、歩を進めていく。
その先、壁に飾られている生徒達の作品の一部が床に落ちているのを見止めて、それを拾い上げた。
見上げれば天井に近い場所にあった事が窺える。
「…風か何かで取れちゃったんですかね」
半ば独り言に近いものを呟いて、付け直すのもこの高さでは届かないかと視線を落とした。
何か、台になるものはないか。
脚立はこの階には常備されてないし、わざわざ階を跨ぐより学習室の机が無難かも知れない。
「台になるもの持ってきます」
「俺がやる」
「良いです。怪我人はそこで大人しくしててください。それで悪化したら私が後悔するんで」
納得したのかグッと飲み込んだ喉を見てから2つ先の学習室へと向かった。


good boy


「届くか?」
後方、下の方からする冨岡先生の声聞きながら手を伸ばす。
「…何とか」
壁に残されたクリップを触れようと背伸びをした事で、指が届いた。
作品の両端を挟んで、落ちない事を確認してから手を離す。
砂絵で描かれているそれが『将来の自分』というテーマだというのに気付き、頬を弛ませた瞬間
「…名前」
名前を呼ばれた事で振り返れば差し出される両手。
意味を理解する前に両脇を支えられ身体が宙へ浮いた。
「……」
声を出す暇もなく、廊下へついた足にその手が離される。
「…大人しくしててくださいって言いましたよね?」
「名前を抱えるくらい造作もない。左手1本でも余りある」
「わざわざ抱えなくても自分で降りられるんで大丈夫です。気にしないでください」
「…偉い、とは言わないのか…」
「言いません。痛めてる腕で無理しても偉くも何ともないです」
若干口調を強めてしまったものの、眉を下げる表情に小さく息を吐くと逸らすように生徒達の作品へと振り向く。
十人十色のその世界は実に面白いもので、ふと思いついた質問を眺めながら口に出した。
「冨岡先生が子供の頃って何になりたいとか、そういうのありました?」
「……。特にはない」
「そうですか」
早々に終わってしまった会話に、まぁこの人が夢とか希望に胸を膨らませるタイプでもないか、と机を持ち上げる。
すぐに伸びてきた左手に支えられて視線を上げれば
「右手を使わなければ良いのだろう」
そう言われ、小さく頷いた。
「ちゃんとわかってるじゃないですか。偉いですね」
今度は自然と出てきた一言に、あぁそういえば確かに前は良く言ってたな、と懐かしい気持ちになる。
何で言わなくなったのだろうと考察した所で、冨岡先生が私を拾っただの飼っただの言い出したからかも知れない、というのが浮かんだ。
何だかこう、ほんとに飼っているように錯覚してしまいそうな、そして認めてしまった、そんな気持ちがなくもなかった気がする。
案の定、嬉しそうに口元を綻ばす表情に小さく溜め息が出た。
学習室まで机を運びながら、先導する冨岡先生の
「名前は子供の頃何になりたかった?」
突然の問いに、背中を見つめて答える。
「教師です」
「…即答か。迷いがないな」
「そうですね。小3の頃からそれだけは変わらなかったので」
「親が再婚した時、からか?」
「良く覚えてますね」
「名前の事は何ひとつとして忘れない」
「世の中にはもっと覚えなきゃいけない事があると思うんですけどね。正確には再婚して少し経ってからです。…あ、こっちにお願いします」
学習室へ入ると元あった場所へ運んだ。
向かい合ったその両目が私を捉えて、机から離そうとした両手を包むように触れる。
「何故、教師になりたいと思った?」
いつもの癖ではぐらかす言葉を探そうとした思考も、その手が真実を得るまで離そうとしないだろうという事にすぐ気が付き、内容を順序立て言葉を選ぶ方へと働いた。
「子供…特に小学生って、悪気なく人をからかったりするじゃないですか。突然苗字が変わればそれについて面白おかしく触れてくる子も居て、揉めた事があったんです」
それは本当に些細な小競り合いみたいなもの。
いつもなら相手にしない揶揄を正面から受けてしまったのは、あの時の私は少なからず心に余裕がなかったのだろう。
「その時に担任が止めてくれたんです」

ある日突然、環境が変わる、これから誰にでも起こる可能性がある事です。
そうなった時に、その人の気持ちに寄り添ってあげられるような人間になってくれたなら先生は嬉しいな。

そうやって穏やかに私達を諭す姿が、2人きりになった時
「先生も実は親が再婚してるから、苗字さんの気持ち、少しはわかるの」
肩を竦めて笑ってくれて、私もこんな人になりたいと強く思った。

「責める事も庇う事もせずあくまで"公平"を貫く姿に憧れて教師を目指すようになりました」

私はあの方と違って随分、選択肢は間違えてきてしまったけれど。

「…だからお前は常日頃客観的に物事を判断しようとするのか」
「そうですね…。その影響が強いと思います」
「その教師は男か?女か?」
「女性ですけど…、もしかして冨岡先生その先生にまで嫉妬なんてしてませんよね?」
「してはいない。だが、男か女かでは心象が全く違う。女で安心した」
「してるじゃないですか…。冨岡先生はもう少し公平さというのを考える必要があると思いますよ」
「公平さなど必要ない。俺にとって頂点は名前だ」
その言葉にあぁ、と納得してしまった自分が居る。
「そう言えば犬は周りを順位付けする生き物だって聞いた事があります」
そう考えると公平さなどとは無縁の世界に居るのかも知れない。
「…ほんと、冨岡先生って犬みたいですね」
耐え切れず笑ってしまった事で目の前に近付く顔に反応が遅れてしまった。
「……っ」
口唇を押し付けられてその顔を押し返そうにも抑え込む掌で指すら動かせない。
「……んっ…」
伸びてきた舌先が上顎を滑る刺激に身体が勝手に震えた後、離れた口唇が耳を這った。
「…可愛い」
「何その気になってるんですか。今すぐ離れないと怒りますよ」
自然とトーンを下がった口調に、ゆっくり解放された事で、確かに頂点は私なんだろうな、というのを理解して、また複雑な気分になる。
「…行きますよ」
学習室を後にして歩き出した廊下、やっぱりこの人と来るんじゃなかったかも知れないと考えるも
「お前は、自分の願望を叶えたんだな」
背後から聞こえる声に視線を落とした。
「まぁ、そう言われればそうですね。それで良かったかと言えばまた微妙ですけど」

「俺は、教師になる気などなかった」

思わず足を止めてしまう。
振り返って良いのかと迷ったものの、向き合った先、群青の瞳が何処か一点を見つめているのに気付いた。
あの時、煉獄先生が言っていた
『俺は教師に向いていない』
その言葉を思い出す。

「…本当は、何になりたかったんですか?」
静かに問い掛ければ、一瞬言い淀んだ口唇が動く。
「軍隊を志望していた」
「…マスゲームが好きだからですか?」
「それもある。軍隊に入ればマスゲームが行えるのではないかという期待もあった」
「マスゲームを見る方じゃなくてする方を望んでたんですね。勘違いしてました」
「軍隊でなくとも身体が資本の仕事が俺には合っている。そう考えていた」
「どうしてそう思ったんですか?」
「そういう所は大体親元を離れると知ったからだ。いつまでも脛を齧っている訳にもいかない。当時はそう考えていた」
「冨岡先生こそだいぶ自立力が高いように思えますが…。それでも此処に居るという事は教師という職を目指すきっかけでもあったんですか?」
「お前のように強固な理由など何もない。命を賭ける仕事を姉に反対され、親に薦められるままたまたま受けた試験で教員免許を取得し就職先となった。それだけだ」
だから煉獄先生に対してあの言葉が出たのか、と理解したと同時に何と言葉にしようかと迷う。
「後悔してます?」
出てきたのは、その一言。
「今はしていない。教師にならなければ名前に会う事はなかった、そう考えると寧ろこの道を選んで良かったと思う」
「それなら良かったです。動機は不純ですけどね」
小さく笑ってから歩みを進めた。
ついてくる足音を聞きながら大きく息を吸ってから吐く。
「強固な意思なんて私にもないんですよ。それこそ冨岡先生と同じく教員免許を貰えただけで、その後思い通りに生きてこられたかと言えばそうでもないですし」
多分これからも、人生に於いて思い通りになる事なんてほんの一握りだ。
だけど、だからこそ
「冨岡先生のその強靱な狂人の精神が、私を助けてくれたように、これから生徒の救いになるかも知れません。そう考えると…」
腕を引かれる感覚に言葉を止めざるを得なかった。
振り向いた先、珍しく真剣な瞳に瞬きが多くなったものの
「好きだ」
もう何度目かわからない告白に眉を寄せる。
「…それはもう何度も聞いてるんで知ってます」
「何度でも言う。好きだ。俺のものになってくれ」
引き寄せられる腰に身体が跳ねたのと同時に鳴った終業を告げるベル。
このままだと生徒達に見られてしまう。
「離してください。早く戻らないと次の授業間に合わなくなりますよ」
「好きだ」
「それはもう十分伝わりました。離してください」
ざわざわとし始めた喧騒で焦りが募っていく。
このままでは時間の問題だ。
「返事を聞いていない」
「わかりました!わかったので一旦離れましょう!」
「わかったという事は俺のものになるという事か?」
ヤバイ。廊下に出てくる気配がする…!
「そうですね!そうです!なので離してください!」
どうにか逃げようと力を入れていたものだから、スッと引いていく腕についよろけてしまった。
しかし間髪入れず廊下へ出てくる生徒達に、何とか見られずに済んだ、と胸を撫で下ろすものの
「……そうか。ついに俺のものになると心を決めたか」
含み笑いをする姿に眉を寄せる。
「は?いつそんな話になったんですか?」
「今お前が俺のものになる事を快諾した」
「…私今何て言いました?すみません、焦ってたせいで冨岡先生の話全く聞いてませんでした」
「俺のものになると言った」
「いや、それだけは絶対に言ってないと思うんですけど」
「言った」
廊下の真ん中で立ち止まったままの私達を不思議そうな顔で通り過ぎていく生徒達の視線がただでさえ痛いのに、また距離を詰めてこようとするのに気付いて後ろに引いた。
「わかりました!とりあえずはそれで良いです!戻りますよ!」
とにかくこれ以上此処に居ても仕方ないと歩を進めれば、黙ってついてくる足音。
擦れ違う生徒と軽く挨拶をしながら早々に職員室へと向かった。

* * *

「お疲れ様です」

終業を終えると共に上着を持てば、また不死川先生が若干驚いていて
「約束があるんです」
先回りして答えれば、あぁと小さく頷いた。
「一緒に帰るんじゃないのか?」
右横から聞こえた声に視線を向ける。
「そんな約束してませんよ?」
一体いつそんな話になったのか。
「…違うのか…。てっきり一緒に帰って湿布を貼ってくれるものだと…」
ボソボソという声を辛うじて聞き取れた。
「あぁ、湿布ですか。それなら後で伺います」
「誰と会うつもりだ?」
その答えを一瞬考えてしまった。
此処でどう、彼の事を言えば良いのか。
「レコーダーのお礼に行くだけです」
簡潔に答えれば、その眉がやや上がっただけですぐに納得した様子に変わる。
「そうか。じゃあ家で待っている」
「珍しく聞き分けが良いですね。一緒に行くとか言われるかと思いました」
「行くと言ったら連れ立つ事を許してくれるのか?」
「いえ、それは許しませんけど」
「俺は名前が本当に嫌がる事はしない」
「…そう、ですか?」
そうだっけ?いや、まぁ、最近はわりと…そう考えるとそうかも知れない。
「それに俺のものになった今、何も心配する事はない」
「そうだまだその誤解が解けてなかったですね。大体その、ものって言い方が嫌なんですけど」
「ならば言い方を変える。俺の彼女、恋人、飼い主、飼い猫、結婚相手、婚約者、妻、配偶者、嫁、伴侶、あとは何だ?」
「だからそれのどれにも当て嵌まってないんですってば。それだけ呼称を並べて何ひとつ掠りもしないっていうのが逆に凄いです」
不死川先生、また笑ってるし…。
って今此処でゆっくりしてる場合じゃなかった。
「すみません、会話の途中ですが不死川先生、あとはよろしくお願いしますね。どうにか私への誤解を解いてください」
勢い良く振り返った後
「苗字!オメェ!俺を巻き込むなっつっただろォ!?」
そう叫ぶ声につい笑ってしまった。


かなりの難題を投げる


(他に当て嵌まる言葉はないものか…)
(お前らに当て嵌まんの同僚と隣人だけだっつの!!)
(頑張ってください。では失礼します)

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