good boy | ナノ
道は、出来た。
いや、正確には作って貰った。

恐らく最後の武器になるであろうそれを大事にしまった鞄。
抱える手に自然と力が入った。

今出来うる全て、頭をフル回転させて、全ての選択肢を探し出そう。
私が此処で道を間違えたら、またあの人は彼を標的にする。
教育委員会の重鎮が絡んでしまっていては何処へ行こうが逃げ切れない。
彼が今平和なのも、あの人の興味がそちらに向いていないからだ。
あの件はもう終わった、過去のものとして見られてる。
そんな所にこの録音が出てきたとなると全力で潰しにかかってくるのは明白。
だからこそ中途半端な覚悟では戦えない。
冨岡先生だけの進退だけじゃなく彼の今後を左右する。
今度こそ少しの綻びが命取りになってしまう。

部屋の鍵を開けた所で506号室へ視線を向ける。
電気ひとつ点いていないその部屋は静まり返っていて、まだ帰ってきてないなんて珍しい、と思いながら玄関の戸を開けた。


good boy


まずすべきは上着を脱ぐより証拠の確保。
この間購入したボイスレコーダーを探すも何処にもない事に気付き、手を止める。
一度記憶を遡るために思考を働かせた。
日曜の朝にはこの手にあったのは覚えている。
その後、冨岡先生が来た事でリビングの何処かに置いた、までは確定的事由。
でもそのリビングの何処にも見当たらない。
配達業者が来た時、何処かに紛れてしまったのか、私が間違えてゴミと一緒に捨ててしまったのか。
仕方ない、と諦めてひとまずスマホにその音声を複製した。
『名前も要らない』
その言葉に別段心が動かされていないのに気付いて、レコーダーを眺めながら小さく笑う。
あの時そう言っていた当の本人が、今になってその要らないものに必死に固執してるなんて、くだらなさすぎる。

録音を終えたスマホで時間を確認してから意を決して立ち上がる。
今からボイスレコーダーを買いに行こう。
明日、なんて悠長に構えていられないし恐らくまず定時でなんて帰れないのがわかっている。
溜まった仕事がやっと片付き始めた頃なのに更に詰め込んで自分を追い込みたくはない。
あの人と戦うために精神の安寧は必要不可欠だ。

今日が月曜、だから…、水曜にしよう。
水曜に約束を取り付ける。
それまでにこの武器を最大限に使える道を探し出す。
彼から託されたレコーダーだけは失くしてはいけないと食器棚の引き出しへしまってから鞄を抱えると外へ出た。

* * *

先程買ってきたばかりの機械に同じように音声を録音する。
炬燵の天板の上に並べられたボイスレコーダー2つと、スマホ。
これで原物と複製、計3つの物証を残す事が出来た。
万が一の事を考えてあの人にはこのコピーの音声を聴かせる。
元になったレコーダーを眺めてからおもむろにB5サイズの封筒の中に入れた。
封をしようとした所で一度手を止める。

考えていた。
この物証の使い道を。
行き着いたのはやはりというかなんというか、まぁ自分でもだろうな、という選択。
この音声を聴いてから、薄々気が付いてはいた。

これは、私の武器にならない事を。

音声を聴かせた所で、あの人は全く笑顔を崩さないまま言うだろう。
「だから何?」と。
多少の動揺はするとは思う。でもそれも最初だけ。
私がその音声を、公表出来ないという事実にすぐ気付く。
彼を巻き込み、結果的にまた苦しめるという選択を出来る筈がないというのを、一瞬で見抜かれてしまう。
だから私はこれを使う事が出来ない。
じゃあ諦めるのか、と言えばそれも違う。
私以外が使えば、最強の武器になるには間違いない。

出した結論は、彼から預かった証拠を更に冨岡先生へ託す。
勿論、馬鹿正直に経緯を説明するなんてのはしない。
ただこれがその手元にあるという既成事実で勝負を賭けるための布石を作る。
彼と何も接点がない冨岡先生なら躊躇する理由が何もないため、公表すると言う言葉の真実味がより一層増すからだ。
それは間違いなくあの人にとって脅威になるし、同時に冨岡先生へ向けられる敵意の抑止にもなる。

パソコンを立ち上げてから、Wordを開いた。

けれど、これだけでまだ半分。
あの人が彼を攻撃した場合の守る術がない。
だから、戻る。あの人の元へ。
と言ってもよりを戻す訳じゃなくて赴任先を戻すだけだ。
そう提案し、彼に手出しをさせないようにする。
あの人は熟考した上で必ずこの条件を呑むだろう。
音声データを持っている人間を常に監視下に置けば何かと都合が良いし、自信のあるあの人はまた情で絆させる隙を窺えるまたとないチャンスを逃さない。
私の思惑をわかって尚、それでも呑んでくる。確実に。

冨岡先生へ

この一連の流れを、今打った人物が知るのは、私がキメツ学園を去ってからになる。
ボイスレコーダーと共にその趣旨の説明を入れておこうと、手を動かした。
簡潔に事の経緯を文にしてから、

あくまでこれは抑止力として持たせた物証です。
何が起きても絶対に公にはしないでください。
冨岡先生なら、私のこの言葉を理解してくれると信じています。

そこまで打ってから最後の一文を消した。
どうもこう、感傷的になってしまうのはきっと申し訳ない気持ちと、あと少しの寂しさ。
だけど、もうこれしか完璧な道がない。
彼と冨岡先生を守る道は何処かで妥協しなきゃ作れない。
折角打った文字を、バックスペースで全て消してから頭を抱えた。

違う。
わかってる。
本当はこれも、完璧じゃない。

目の前の問題だけを片付けるには最適と言える。
でもその後は?
全てを知った冨岡先生が、こんな手紙ひとつで納得して諦めるとでも?
そんな筈がないのはもう骨身に沁みてわかってる。
それこそ中学校に殴り込みに来られたら今度は全く別の問題として取り沙汰され、キメツ学園の教務主任じゃない私が助ける手立てもない。
もはや諸刃の剣どころか完全に共倒れだ。

それでも今はそれしかない。
冨岡先生が暴走しないようにある程度連絡は取れるようにしておけば何とか…

「…何それクソほどめんどくさ」

つい声に出ていた。
あの人を抑制しつつ冨岡先生も牽制する?
無理に決まってるでしょそんなの。
大体何で奴らは私に拘る訳?そんなの頼んでないしこんなゴタゴタする愛だの恋だの心底どうでも良いわ。
ほんとにどいつもこいつも自分勝手で腹立つ。

苛立ち紛れにキーボードを叩いてから印刷をクリックした。

頑丈にガムテープで封をしてから時間を確認し更に玄関を開けて、隣の部屋の電気が点いてるのを確かめてから一度戸を閉める。
上着を羽織ってから506号室へ向かった。

チャイムを押して暫し待つも、反応がない。
電気が点いてるだけでもう寝てたりして。
点けっぱなしのまま寝落ちしそうだし。
容易に想像出来て思わず口角が上がりそうになるも、ガチャッ!と勢い良く開けられたその姿を目に入れて完全に思考を止めてしまう。
「すみません、取り込み中だったようですね。お邪魔しました」
「取り込んではいないしまだ迎えたばかりだ。どうした?」
「…どう、したじゃないです。何なんですかそのカッコ」
「風呂から上がった所だった。下は履いてるので問題ない」
「問題ですよ。何で上も着て出てこないんですか」
確かに下はいつも通りのジャージ姿だけど、上半身は裸なこの状況。
直視しないよう右手で遮ると視線を下へ向けた。
「モニターに名前が映っていたため急いで出た」
「そこで一言応対していただければ服を着る間くらい待っていられるんですけど…。何でそのまま出てくる選択肢を選ぶんですか」
「この寒い中1秒でも長く名前を待たせる訳にいかない。照れてるのか?」
「照れてはないです。終わるまで待ちますんできちんと着替えてきてください。また風邪ぶり返し…」
右手首を掴まれて玄関へ上がったと同じくして、冨岡先生の左手が扉を閉めた事で物理的に近付いた距離でふわっと良い香りが鼻を掠めていく。
お風呂上がり特有のそれに心臓が動いた。
「開けっ放しは寒い。閉めさせて貰う」
「あぁ、それはそうですよね。すみません」
気が回らなかったと素直に謝るも手首を掴んだまま距離を詰めてくる姿に眉を寄せる。
「用は何だ?」
「とりあえず服を着ませんか?」
「このままで良い。お前の照れた表情は最高に可愛い」
「照れてないって言いませんでしたっけ?また体調崩してもその時は何もしませんからね」
此処で攻防を続けるよりさっさと本題に入ろう。
「これを預けに来ました」
左手で握る封筒を差し出せば、その両目が不思議そうに細くなった。
「何も訊かず受け取って貰えますか?」
「…中身が何かというのも訊くなという事か?」
「そうです。そして私が良いというまで絶対に開けないでください」
「お前にしてはえらく一方的で投げっ放しな頼み事だな」
「言われると思いました。ですがこれは、冨岡先生を信頼しての事です。受けていただけますか?」
珍しく私へ対して疑念を隠さない瞳の色が見つめ続けてる。
「これは冨岡先生にとって最強の武器になります。もし何かあった時には…」
出し掛けた言葉を喉で止めた事で沈黙が流れた。
しかしそれも数秒
「…わかった。預かろう」
迷いながらも受け取った右手に安堵して、視線を落とす。
「よろしくお願いします。あ、失くさないでくださいね。大事なものなので」
「お前から預かったものを失くすようないい加減な事はしない。胡蝶が描かれたファイルもきちんとしまってある」
「カナ子ちゃんですね。そういえば返して貰うの忘れてました」
「丁度良い。今持ってくる」
「…良いです。冨岡先生に差し上げますよ」
僅かに見開いた目がわかりやすい。
「良いのか?」
「ファイルなら仕事で使えますし」
カナ子ちゃんのファイルを使ってるこの人を想像すると何だか可笑しくて笑ってしまいそうになるけども。
また顔を逸らして小さく咳込みながら、私の手を掴んだまま離そうとしない左手に更に自分の左手を添えた。
大きくて温かい、この感触を脳に焼き付ける。
嗅ぎ慣れた匂いも今この場で全身で感じるように息を吸った。

「…冨岡先生の、強靱な狂人の精神力をお借りしますね」

もう何があっても後悔はしないように進もう。

左手を離すと同時、思い切り抱き締められ眉を寄せた。
「…何してるんですか」
素肌から直接伝わってくる体温を頬に感じる。
「強靱な狂人の精神力を分けている」
「いや、もう十分戴いたんで大丈夫です」
「まだ足りない。全部持っていって良い」
「そしたら冨岡先生どうするんですか?強靱な狂人じゃなくなっちゃいますよ?」
「心配はない。名前が居る限り強靱かつ狂人で居られる」
「それはそれで困るんですけど…。何で冨岡先生ってこう、良い塩梅を見付けるのが下手なんですかね」
「お前もそうだろう?」
「…冨岡先生よりはもう少し上手く生きているという自負はあります」
急に身体を離したかと思えば落ちてくる口唇を止めるより先に、額にされたキスに瞬きが多くなった。
思わずその箇所に触れる。
「物足りないって顔だな」
「そんな顔してません。予想とは違う動きをされたので驚いただけです」
「何処にされると予想していた?」
「…知りません。帰ります」
「名前は何処にキスされたかったのか教えてくれ」
「何処にもされたくないです。何一人で勝手に盛り上がってるんですか」
「俺はお前のその口にしたい」
「わざわざ言うのやめてもらえますか?何でそんな恥ずかし気もなく…ほんとに謎なんですけど」
「駄目だとは言わないんだな」
「…だ」
めです、と続ける前に塞がれる口に声が出せなくなった。
こうなると抜け出すのは至難そのもの。
「…んっ…」
出来る限り声を押し殺しながらその顔を押し返すしかない。
絡んでくる舌は早々に離れ、首を吸う口唇に身体が震えた。
「……っ」
何度か啄まれた後、顔を上げた冨岡先生の表情が驚きで満ちている。
「抵抗しないという事は首にされたかったのか?」
「…違います。抵抗しても無駄だと悟ったので無になってただけです。帰りますね」
弛んだ腕から抜け出しノブヘ手を掛けた瞬間、今度は後ろから抱き締められて動きを止めた。
「…名前」
左耳で聞く囁きに目を細める。
「もう一度お前の鳴き声が聴きたい」
「何言ってるんですか。もう絶対に鳴きませんよ」
「鳴かないならこのまま抱く事にする」
「またそうやって…」
冗談だと思ったのも束の間割って入ってきた手が太腿に触れて身体が反応してしまった。
「ちょっと…、冨岡先生?鳴き声ひとつと交渉しようとするのには代償高過ぎません?」
「そう考えるなら素直に鳴けば良い」
「鳴いたら理性が負けただの何だの難癖つけないって言い切れます?私をこのまま無事に帰すって誓えます?」
「言い切れる。そして誓う」
そう言いながら足を這う指に眉を寄せる。
何でそんなにそこに拘るのかと考察しようとする頭は足の付け根を撫でる指先で止めざるを得なかった。
「わかりました!わかったんでまずその手を退けてください!じゃなきゃ鳴きません!」
途端にスッと引き抜かれた左手に小さく息を吐く。
そうだ思い込もう。私は猫だ。猫。猫がにゃーと言ってたって何も恥ずかしい事はない。

「…にゃあ」

駄目だ。恥ずかしさで崩れ落ちそう。
まだ背を向けてるだけマシだけど、何やってんだろうって考えが頭を占めてる。
言い聞かせたって猫になれる筈がな…
またグッと近付く背後の圧に眉を寄せた。

「やはり可愛い」
「それは…どうも。褒められても何ひとつとして嬉しくないんですけどね」
「照れた顔が見たい。こっちを向け」
「嫌です。冨岡先生に慈悲という心があるならこのまま帰らせてください」
頭に埋められた顔に、見える訳じゃないのに視線を上へ向ける。
「ならこのままで良い。今の鳴き声はこの間より思い切りがあって猫らしかった。最高だ」
「私は人間であって猫じゃないんですけどね」
「思い込めば何にでもなれる。それが強靱な狂人の法則だ」

その言葉にふと、冨岡先生の真意がわかった気がした。

それは時に思考を止めること


(私に出来ますかね?)
(出来るかどうかじゃなくやると決めれば良い)
(さすが強靱な狂人…)


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