ダイニングテーブルの上、通知を告げた画面に行儀が悪いと思いながらもトーストをかじりつつ左手の人差し指だけでそれを確認する。 "心配しなくても一昨日の行動のせいで名前が考えるような事態にはならないよ。大丈夫" 相変わらず明言を避ける言い回しな上、私の考えをいとも簡単に読んでいるような文章だけど、今すぐに冨岡先生の進退が決まる訳ではないのがわかって安堵はした。 この件に関しては、もうこちらから下手なアクションを起こすべきではないのかも知れない。 この2日でそう思うようになっていた。 実際これに対して、ありがとう、すみません、どちらを返しても正解ではないし、そんな言葉をあの人が望んでいるとも考えられない。 状況は最悪だ。 八方塞がりなのも変わらない。 でもそれを考えても無駄だと割り切れたのは、他でもない、冨岡先生のお陰なのか知れない。 自然と昨日のシーンが蘇ってきて、あの時見上げたどこか寂し気な表情が、何を考えていたのか推察しようとする頭を無理矢理止めて、一口分残っていたトーストを口へ放り込んだ。 good boy 「…ゲホ…ッ」 週末よりマシではあるけれど、咳払いをしながらマスクを直す右横を一瞥してから手元へ視線を落とす。 「先程配付した今回の年末大掃除についてですが、前年を考慮して清掃場所、及び分担を決めてみました。ご意見やご要望のある方はおっしゃってください」 途端にスッと挙げられた右手。 それが冨岡先生であると気付いて、意外だなと思うも 「どうぞ」 短く促せばその眉が下がるのが見て取れた。 「…俺と名前の清掃場所が違う上に遠く離れている。同じにしてくれ」 「公平に組んだ結果なのでそれは出来ません」 「せめて近くに「出来ません」」 宇髄先生と不死川先生が小刻みに肩を揺らしているのがわかるがそれは放っておいて続ける。 「ご要望はないようなのでこのままの内容で敢行させていただきますね。当日参加してくださる保護者数は32名、生徒数は40名。大掃除後の飲み物とお菓子の配付は例年通りPTAの方々にお願いしております。以上です。よろしくお願いします」 その言葉で次々に席を立つ教師陣の中、またいつかのように資料を見つめたまま固まる冨岡先生。 「…大丈夫か?冨岡ァ。変わってやらなくもねぇぞ?」 スッと椅子を引いて近付くこの人はほんとに根っからのお人好しだと思う。 「不死川先生、甘やかさないでください」 「これ俺達の配分、単純な力量で決まってんだろ?俺と冨岡が交代した所であんま変わんねぇし良んじゃね?」 「力の配分、尚且つ去年の担当場所を参考にして作っています。去年の不死川先生は体育器具庫の清掃及び整頓、冨岡先生は校庭の木々の伐採及び片付け、どちらも力仕事で大変な作業なので今回は敢えて逆にしています」 力と身長がある悲鳴嶼先生、宇髄先生には全体を回って貰う事にしているし、生徒人気が高い煉獄先生には主に児童の先導、胡蝶先生と伊黒先生には図工室と理科室の細かい清掃や、床のワックスがけの指揮をお願いした。 不死川先生の担当は今回、集会室前の樹木の伐採。 私が集会室の清掃を担当している事から交代を申し出たのだろう事は簡単に見て取れる。 そう考えるとこの2人が交代しても、まぁ何も支障はないんだけども、仕事に私情を持ち込むのも許可するのも違う気がする。 「でもよ、単純に考えて…」 言い淀む不死川先生へ何の懸念材料があるのだろうかと視線だけを向けて次の言葉を待つ。 「俺がチェーンソー振り回してんの絵面的に不味くね?」 「……。それまず振り回すっていう言い方が悪くないですか?」 「いや、でも実際そうだろ?」 「不死川は顔が怖いからな」 「オメェには言われたくねぇな。能面男。いっつもブスッとしやがって」 「ブスッとはしていない。ムスッとしているとは良く言われるが」 「似たようなもんだろ。言い方の違いだけだ」 「そこまでです。持って生まれた容姿の貶し合い程、見苦しいものはないですよ」 この2人は仲が良いんだか悪いんだか相変わらず良くわからない。 「絵面については完全に頭から抜けてました。2人が納得した上での分担交代なら私がとやかく言う事はないのでお好きになさってください」 これ以上大掃除について話しても仕方ない。 早々にデスクへ向き直し、校閲書類を取る。 「…不死川、頼む」 「しゃーねーな。今度何か奢れよ」 その会話を耳に入れながら、やっぱり何だかんだ仲が良いのだろうと考えた。 * * * 「いでででで!」 職員室に響く悲痛な声に、事務の先生方も慣れているもので驚く事もないし、振り向く事もしない。 「いてぇっ!!」 八つ当たり気味に叫ばれ、落としていた視線をその顔へ向けた。 「それはまぁ、痛いでしょうね…。ガラスの破片が刺さってますから」 膝に乗せたその足裏へまた視線を落とすと僅かに光る異物をピンセットで掴む。 「いでぇッ!!」 「はい、取れました。消毒しますね」 一度その右足を下ろすと三番目の引き出しから消毒液を出し、視線を上げた瞬間 「…嘴平、授業はどうした」 名前を呼んだ人物の背後、冨岡先生が立っていた。 「……うおッ!!?ビックリさせんなよ!万年暴力教師!!」 気配を感じなかったのか勢い良く振り返った嘴平くんに目を細めている表情は、余り機嫌がよろしくはないらしい。 「嘴平くん。その呼び方だと今の冨岡先生に当て嵌まってるのは教師という単語だけになりますよ」 もう一度その右足を膝に乗せると、これ程にない圧を感じて、あぁ、機嫌が良くないのはこれが原因か、と気付くも視線は上げない事にする。 「何をしている」 「傷の手当てです。ガラスを踏んでしまったと訪ねてきたので対応しました」 消毒液を吹きかければ、いででで、と先程よりかは小さい叫びが聞こえた。 「それは胡蝶の仕事だろう」 「胡蝶先生が対応してる回数が多いだけで明確に胡蝶先生の仕事と決めた訳ではないです。見てわかる通り、今授業中で居ないんですよ」 「…嘴平、何故いつも保健室へ行かない」 「あ!?だってアイツがいっからよ!」 アイツ、というのは愈史郎という生徒の事。 珠世先生を慕っているらしく学園に居る時間ほぼ全てを保健室で過ごしている、それ以外の情報は私も知らない、正直謎に満ちた子だ。 「あのワケわかんねぇオーラ出してくんのが気色悪くて保険医に近付きたくねぇ!!」 その似たようなオーラを今、貴方の後ろでも出してる人がいるんですけどね、というのは心の中でしか言えない。 まぁ、でも嘴平くんの言いたい事はわからなくもない。 正直私も保健室へは近付き難いものがある。 愈史郎くんが放つ独特な雰囲気は、生徒ながら圧倒されるものがあるからだ。 「化膿するといけないので包帯巻いときましょう」 「あぁ?いらねぇよそんなん!すぐ治るぜこんな掠り傷!」 「その掠り傷に叫んでたのは紛れもなく嘴平くん本人なんですけど…。わかりました。すぐ取れてしまうと思いますが、絆創膏だけ貼っておきますね」 気休めにしかならないそれを傷口へ貼ると 「ッシャー!伊之助様の復活だぜ!!」 勢い良く立ち上がるのを苦笑いで眺める。 「元気になったのは良い事ですが足元には気を付けてね。これ、念の為、予備の絆創膏を渡しておきます」 「…有難く貰っといてやんよ!じゃあな!!」 そう言って乱暴に絆創膏を掻っ攫っていったと思えばすぐに走り出し職員室を出ていく姿に、走ってはいけないと注意する事も出来なかった。 赴任したての時、靴を履いた方が良いと何回か口を出した事はあるが、今もずっと改善される兆しがないため、もう諦めに近いものを抱いてる。 まるで嵐が去った後のような静けさを感じながら引き出しへ医療品をしまっていく。 何も言わずにパイプ椅子を片付け始める冨岡先生に視線を向けた。 「ありがとうございます」 「俺と名前の間にこんな物を置かれては邪魔なだけだ」 これは、若干怒ってるな…。 片付け終えて自分の椅子に戻ってきた冨岡先生の横顔をチラリと見る。 マスクで上半分しか窺い知れないが不機嫌なのは不機嫌なんだろう。 けど、それを口にしないという事は嫉妬しても仕方ないと理解しているからなのかも知れない。 この人でもそういう所の分別がついてるのは正直凄いと思うし有難いとも考える。 生徒にまで嫉妬を全開に出された挙句、いちいち言葉に出されたら面倒くさい事この上ないし、やりにくい所の騒ぎじゃない。 「…名前の机には何でも入っているな」 突然の台詞に、すぐには対応しきれなかった。 「…え?…あぁ、何でも、ではないですけど…必要な物はあらかた揃えてるつもりです」 「俺がいつ怪我をしても安心という事だ」 「…わざと怪我しようとか考えてませんよね?それは流石にやめていただきたいんですけど。狂気にしか感じないんで」 「万が一の話をしている。名前はもう俺のものだ。そんな事をする必要もない。だからさっきも何も言わなかった」 「ちょっと待ってください。いつ私が冨岡先生のものになったと?」 「3日前の金曜、同じベッドで過ごした時だ」 「その言い方わざとですよね?わざと語弊を作ろうとしてますよね?」 「いや、あれは日付が変わっていた。ならば土曜か…」 また自分の世界に入り出した…。 「名前はどちらが良い?付き合った記念日をこの間の金曜にするか土曜にするか。悩み所だ」 「そもそも付き合ってないんでどっちでもないです」 「どっちでも良いと言うなら俺が決める。やはり金曜を記念日としよう」 「冨岡先生って私の声聞こえないんですか?それともその耳に都合の良いよう解釈する変換機能でもついてるんですか?ますます話が通じないんですけど」 「月の記念日は祝いたい方か?」 「すみません、会話を終わらせますね。仕事したいんで」 何を言っても深みに嵌りそうでキーボードを打ち始める手も 「毎月の記念日は祝おうかどうかを聞いている」 強めの口調に眉を寄せた。 「祝いません。一体何を祝おうって言うんですか。何もないですよね。おめでたいのは冨岡先生の脳内だけですよ」 「俺と名前が初めて結ばれた記念だ。毎月祝いたいのなら何かしら贈り物を贈るのもアリなのではと考えた」 「更に語弊しかない言葉を選ぶのがお得意なようで。毎月プレゼントとか重い上に面倒くさくないですか?そういうのマメにやりたがるんですね。意外です」 「正直マメではないが名前がやりたいと言うなら努力しようと思っている」 「そういう努力も最初の内は良いですけど、段々重くなって疲れますよ。人間慣れない事は最初からするものじゃないです」 「そうか。名前がそう言うのなら記念日は1年毎に祝う事としよう。やはりお前とは価値観が似ていて安心した」 「………」 黙ろう。もう何も言わないし答えない。 私は貝だ。口を硬く閉ざそう。 ゲホゴホ、と咳込む姿を目端で入れながら文字を入力していく。 「…話しても無駄だと思ったか?」 若干苦しそうな声に、答えようかどうか迷ってしまう。 悩んだ末、手は止めないけれど口は開く事にする。 「思いました」 「ならば俺の勝ちだ」 「勝ち負けを競ってる訳じゃないんですけど…。どんなに思い込んでも事実ではないですし」 「思い込みと開き直りは時に事実より強靱なものになる」 「狂った人と書いてきょうじんの間違いではないですか?」 「それも一理ある。気が狂った人間に常人では敵わない」 「そうですね。今ものすごくそれを痛感しています」 「ではその強靱な狂人相手に勝とうとするならどうすれば良いと思う?」 質問の意図を瞬時に考えるも強靱な狂人というワードが頭の中で邪魔する。 「簡単な話だ。相手を上回るレベルで狂えば良い」 「簡単に言いますけど私冨岡先生みたく強靱な狂人じゃないんで無理です」 「お前の強味は状況判断の早さと自己分析の正確さだが、それは時に弱味にもなる。敵わないと悟ると逃げ腰になるからだ。それでは相手の戦略にいとも簡単に乗せられてしまう」 何を、言っているのか。 その真意が掴めそうで掴めない。 いつの間にか止まっていた手を動かそうとするも 「道を探すのではなく作れば良い。名前にはそれだけの力がある」 そう言って日誌を書き出す横顔に眉を寄せる。 何かに気付いてるとは思ってはいた。 けれど、違う。気付いてるんじゃない。 この人は私の状況を確実に把握している。 じゃなきゃ今みたいに助言めいた事を口にする筈がない。 でも知っているならどうして何も言おうとしないのか。 そもそも何処から何処までを把握していて何処でそれを知ったのか。 この状況を知っているのは私とあの人しか居ない。 何処からも漏れない筈。 いや、ただ単に私が弱っていたから勘付いた?そうかも知れない。 何か、という具体的なものがわからなくても私が何かに追い詰められているのは冨岡先生ならすぐに察知出来る。 今この場で問いただす事が正しいと言えるのか。 もし全てを把握している訳じゃないなら更なる泥沼化を避けられなくなる。 だけどこうして私が何も訊ねないであろう事を見越してのその発言だったとしたら──…? 疑心暗鬼になり始めた思考を止めたのは 「また変なモン踏んじまった!!取ってくれ!!」 左足を引き摺った嘴平くんの叫びだった。 いい加減懲りないのか (今度は何踏んだんですか…) (何か丸いやつだよ!何だコレすげェ痛ェ!!) (…画鋲ですね。それは痛いと思います…) [ 39/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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