good boy | ナノ
秋季最大のイベントといえる文化祭を無事に終えたことで、学園内に少しばかりまったりとした空気が流れ始めた頃だ。
年末という、これからのことを考えればそこまで悠長にしていられないのはわかってはいるけれど、今年はどうにも平和で穏やかだと感じている。
それもこれも、思い返さなくても蘇ってくる散々だった去年が比べる対象だから余計に思うんだけど。

それとプラスして、教務主任として張っていた肩の力がいい感じで抜けたというのも理由としては大きいだろう。
ひとりで全てを背負い込む必要がなくなったというのは、こんなにも心を軽くさせてくれるのか。

いや、むしろ"ひとり"ではなくなったというのが大きな要因なのだと、本当は気が付いていなくもない。

「苗字先生、お疲れ様っ」

後ろからかけられた言葉が、誰のものかなんて振り向かなくてもわかる。

こんなに可愛らしい声の持ち主はひとりしかいない。

ついでに言うと"お疲れ様"と口にするのは教職員しかいないので、余計にわからないはずがない。

「……胡蝶先生、お疲れ様です」

わかっていても尚、振り向くとドキッと心臓が動いてしまうのはもはや胡蝶先生が可愛すぎるせいだということにしておく。

「見回り?」
「そうです」

素っ気なく返してしまったのを後悔しつつ、必要以上に緊張しているのは何故かと考えた。

あぁ、そうだ。ここ数日会ってなかったからだ。

すごく単純な話。

土日を挟んだのもあるけれど、月曜は胡蝶先生が出張だったため丸3日言葉を交わすどころか顔すら合わせていない。

それは緊張するのは当然だ。

「胡蝶先生は授業終わりですか?」

思い切りとってつけた、しかもわかりきった質問にも動揺の色が出てる。

「えぇ」

それでもにっこりと微笑んでくれる胡蝶先生はやっぱり女神だ。

笑顔を直視できないまま落とした視線で、あることに気付く。

「…綺麗ですね。爪」

思ったそのままを言ってしまってから、触れてよかったのかと若干焦りが込み上げた。

「あ……、もしかして目立つかしら?」

教科書一式を抱えた手が遠慮がちに動いて輝いていたそれが見えなくなる。

「いえ、似合います」
「……そう?ありがとう」

咄嗟にそれしか出なかったけれど、喜んでいただけたので良かった。

「マニキュア、ですか?」

職員室へ向かいながら自然と会話が続くのが、私としてはとてつもなく嬉しい。

「ジェルネイルなの。駅前にあるお店なんだけど、クーポンを貰ったから試しに行ってみたんだけど、デザインネイルは立場上できないでしょう?だからクリアジェルだけ塗ってもらったのよ」
「そうなんですか。それだけでもすごく綺麗ですね」
「そうなの〜。やっぱり綺麗になると嬉しいわよね」

すらりと伸びた指が頬に触れたことでよく見えたその爪は、いつもより形の良さが強調されて女性らしさが倍増している。

「あ、でも、冨岡先生に怒られないかしら?校則違反だって…」
「大丈夫だと思います。最近は融通も利くようになってきましたし」

正直、冨岡先生がすぐに気付くとも思えない、というのも本音だし、

「それなら良かった」

もしも胡蝶先生に怒ろうとなんてしようものなら、真っ先に私が止めるだろう。

「あ、そうだ。クーポンまだ余ってるんだけど苗字先生、良かったらもらってくれない?」
「……いいんですか?」
「もちろんっ。というより新規のお客さん限定だからもらってくれると助かるわ」
「ありがたく頂戴します」
「良かった〜。デスク戻ったら渡すわね」

頷いたことで一度途切れた会話で、自然と自分の爪に目がいった。

そうしてこれまで長さ以外のことはそれほど気にしたことがなかったことに気付く。教師になってからは尚更だ。

「冨岡先生も喜ぶんじゃないかしら?」

突然の笑顔に一瞬、思考が止まっていた。

「喜ぶんでしょうか……?」

いや、まぁ嫌がりはしないとは思うけど、さすがの冨岡先生でも爪ひとつでそこまでわかりやすい反応はしないとは、思う。多分。

これまで何度か美容院に行ってても、そこまでじゃなかったし。

職業柄と性格上、そこまで髪型に劇的な変化があるわけじゃないから尚更だけど。

むしろ美容院に行った日には、

「名前の匂いじゃない」

なんて犬みたいに不貞腐れられてる始末だ。

そう考えるとそのネイルに関しても、あまりいい顔はされなさそうだ。

さすが爪に関して匂いがどうこうとは言い出さないだろうけど。

「ちょっと待っててね」

いつの間にか到着した職員室と、胡蝶先生のデスクにふと我に返る。

「これ、今月までだから期限短くて心苦しいんだけど、必要なかったら誰かにあげても、棄てちゃっても大丈夫だから」

眉を下げながら渡された一枚の紙にネイルがまた映えるな、なんて考えた。

ご新規様限定、と銘打ったそのクーポンは"50%OFF"と書かれていて、なかなかに太っ腹な割引率だな、なんて思う。
まぁでも集客+リピーターを獲得するためと考えれば、むしろ妥当か。

「クリアジェルだけなら1600円でできたわ。ワンカラ―なら1800円だって言ってたから、参考にしてみて」
「そうなんですね。わかりました。ありがとうございます」

詳しくないので安いのかどうかはっきりと判断がつきにくいけれど、イメージしていたよりはお手軽な値段だとは思う。
1回くらいなら試してみようかって気にはなる。

「苗字先生なら淡いピンクとかも似合うんじゃないかしら?絶対可愛いわ」

にっこりと微笑まれ、少しばかりその気になった単純な思考は一切見せないようにしてもう一度お礼を言ってから自分のデスクへと戻った。


good boy


胡蝶先生に"可愛い"なんて言われてしまえば、これはもう行くしかないと使命感を抱いた。というのは半分冗談で、やっぱりご好意を無下にするのは申し訳ないし、ネイルに興味も出てきたので1度くらい経験として行ってみようかと気持ちに傾いている。

しかしそうなると、いつ行くか。それが問題となってくる。

仕事もあるし、休日は恋人である冨岡先生への相談なしに勝手には決められない。

ついでにいうと、下手をすれば話を持ちかけた時点で却下される可能性もある。

そう考えるとしれっとした顔で事後報告してしまった方が面倒ではないかも知れない、なんていうのはちょっと思い浮かんでもいた。

それに、もし私が何も言わずネイルを施したら、冨岡先生はいつの時点で気が付くのか。ちょっと興味が湧く部分ではある。

というのも、数日を経ても恐らく胡蝶先生の爪のことは気が付いていなさそうだからだ。

それとも気が付いているけど、触れないでいるのか。

私に対してのみ稼働するという察知能力の高さは身を以て知っているので、それがどれだけ発揮されるのかというのを試してみたい。

あと少し、どんな反応をしてくれるのかのが単純に気になるところだ。

たかが小さな爪の変化でも、やっぱりこう、好きな人には褒められたいし喜んで欲しいと思ったりもしなくもない。

今までこんな感情を、持つことさえなかったのに。なんて思い返してみたら照れ臭くもなる。

「それでは、行ってきます」

というわけで、私にしては珍しく仕掛けてみることにした。

毎月恒例の"ファミレスでハンバーグを食べる"という約束の日。
今回は受験で忙しいという彼がようやくゆっくり時間が作れるという日曜日を選んだ。これは事前に了承を得ていたので、この日に合わせてネイルサロンを予約し、冨岡先生には「駅で買い物があるので早めに行きます」と告げて今から家を出る。

「気を付けろ。何かあったらすぐに駆け付ける」

まるで戦地に送り出すみたいに、愛しそうに頬を撫でる指にはちょっと罪悪感は湧いてくる。

いや、嘘は吐いてない。駅前で買い物があるのは本当だ。
胡蝶先生にお礼という名の菓子折りを買うのは立派な目的だから嘘じゃない。

「大丈夫ですよ。そこまで遅くはなりませんし」

せめて僅かでも安心を得て欲しくて頭を撫でれば、その表情が柔らかくなった気がする。

「じゃあ行ってき「キスはしないのか?」」

思わず目を窄めれば、口唇を突き出す仕草に溜め息が零れた。

これは間違いなく"私からしてこい"ということだ。

キスだけで済むのかが気がかりなので警戒しつつ、その口唇へと触れる。

その瞬間噛み付いてくる気配を感じて瞬時に後ろに引いた。

「……早いな」
「仕掛けてくる気がしたので」

いや、でもあからさまに避けすぎたかも知れない。疑心の目をしてる。

「時間なくなるんで、行きますね」

もう一度頭を撫でたことでその色はスッと消えたけれど。

「何かあったらすぐに連絡しろ」
「なにもないと思いますが……。わかりました」

ここでまた問答しているとそれこそボロが出そうなので、とにかく頷くことにした。

無事に家を出られたのはよかったけれど何だか心は痛むので、お土産にケーキでも買って帰ろうかな、なんて思いながら駅までの道を歩く。

市販のケーキじゃあまり喜ばないか。それだったらちょっと手の込んだ料理とかの方が……、いや、冨岡先生の好きなものを作った方が喜んでくれる気がする。というか確実にそうだろう。

でもそこまですると、まるで私は何か疚しいことをしているように思われるのも問題か。
それなら気が向いたのでケーキ買ってきました、の方がまだ自然なように思える。

堂々巡りというのはこのことか。

目的のサロンに到着するまでずっとそんなことを考えていたからか、突然現れたように感じるオシャレな雰囲気に圧倒された。

「いらっしゃいませ〜。お座りになってお待ちください」

他のお客さんを施術中の店員さんの指示に従って、空いている椅子に座る。

ざっと見ただけでも忙しそうなのは何となく伝わってきたので、目の前に用意されているタブレットに触れてみた。

カタログと称されたページが出てきたかと思えば、網羅される様々なデザインに目を奪われる。

自分には縁がないものだとそこまで真剣に吟味したことはなかったけれど、実際にその世界に足を踏み入れてみると自然と好みを探してしまうものだ。

今は秋にちなんだデザインが多いんだなとスクロールしていけば、夏をイメージしたそれらに手が止まる。

この深い青、冨岡先生の瞳みたい。

なんて今この場でも考えてしまうのは他でもない。

私の頭の中はだいぶあの人の存在が占めているらしい。

とても口には出せないけど。

「お待たせいたしました〜。こちらへどうぞ」

気が付いたらすぐ傍まで来ていた店員さんに一瞬ドキッとしながらタブレットを置いた。
言われた通りにレジ台兼受付のカウンターへ向かう。

「予約していた苗字と申します」
「苗字様ですね。本日初めて、ということですね。何か割引かお友達ご紹介の券はお持ちですか?」
「こちらをお願いいたします」
「はい。お預かりいたします」

そうして差し出した胡蝶先生から頂いたクーポンが店員さんの手に渡っていく。
一瞬だったけれど深緑のネイルが長い爪に映えて綺麗だと思った。

「今回デザインなどはもうお決まりですか?」

訊ねられてから、まだ自分が迷っていることに気が付く。

「職業柄あまり目立たないものを考えているのですが、まだこれといったものは決まっておりません。初めてなもので勝手がわからないもので…、申し訳ございません」
「いえいえ〜、とんでもないです!それでしたらクリアジェルか……、あとは薄いピンクとかベージュとか、ちょっとお待ちくださいね」

手を伸ばしたかと思えば、目の前に置かれたのは爪の形をしたプラスチックだ。様々な色に塗られている。

「これが見本なんですけど、ここらへんは肌馴染みが良く指先が綺麗に見えるというので人気のお色味ではあります。どのお色にするかは人それぞれ好みで分かれますね〜」
「そうなんですね」

ぱっと見たところ、余り違いがわからない。
いや、色が微妙に違うのはわかるけれど、どれが好みだとか答えられない。

これは下手に色をつけて後悔するよりは胡蝶先生のように透明を選んだ方が無難なのでは?

「迷いますよね〜」
「……そう、ですね」

まずい。忙しいというのにここで時間を取らせるのは申し訳ない気になってきた。
私のせいで途中でお待たせしてしまっているお客さんのためにも早く決めなければ……。

「あの」
「指先、お借りしてよろしいですか?」
「はい」

まるで先読みされたようにそう言われて、よくわからないまま右手を差し出す。

「好みは関係なく、似合う色だけで提案しますとお客様は…うーん、この辺のピンクが一番お肌と近いですね」

人差し指に乗せられたその色味は全く違和感がなくて、見入ってしまった。
ついでにいうと支えるその手が温かい。

「もう少し暗めにしたいとか、肌との境界線を強くしたいのであればこちらのベージュっぽいお色味も落ち着いていて素敵だと思います」

替えられたチップの色も、なるほどどうして、すごくしっくりくる。

「どちらも綺麗ですね」
「ありがとうございます。ゆっくり考えてもらって大丈夫ですよ〜」

一切曇りのない笑顔に少し緊張が解れたような、そんな気がした。

似合う色を提示されたおかげで選択肢は一気に2択になって、迷わずその色を指差す。

「こちらのピンクでお願いします」

これなら学園内でも目立たないし、嫌味がない。そして何より胡蝶先生の言葉を思い出して即決していた。

「かしこまりました。お席に着いてからのお色、デザインの変更などは料金がかかってしまいますがよろしいですか?」
「大丈夫です。お願いします」
「それではお席へご案内いたします」

そうして施術してもらう間、変な緊張が再発したのは常に手を触られるということを知ったからというのもあるんだけれども、どこにどう視点を向けていいかわからないままで、相当に不審な動きをしていたように思える。

居た堪れなさが多くを占めていたその時間も終わってみればあっという間で、

「触っていただいて気になるところなどございますか?」

その質問がされたころには自分の爪が見たこともないほど輝いていた。

「……ありません」

胡蝶先生のおっしゃっていた意味が今、とてもわかった気がする。

これは、なんというか……。

「すごく綺麗ですね」

カタログに載っていたようなデザイン性はなく、決して煌びやかではないのに、素直にそう思った。

「ありがとうございます」

私の拙い一言に、嬉しそうに微笑んでくれた店員さんの人柄も手伝ってだろう。

これで1800円というのは、いささか安すぎる気もする。

いや、絶対にそうだと確信したのは、お会計を終えて帰り際だ。

「ご存知かもしれませんがジェルネイルは自然に落ちないので、落としたくなったらまた来てくださいね。オフだけでしたら無料で行っておりますから」

そう言ったあとで、

「折角施術してもらったのにもったいないとか思わないでくださいね。自爪のためにも」

向けられた微笑みで、あぁ、ここに来てよかったと本気で思った。

それと同時にあの人はこちらの心中を的確に読んでいた、そんな風にも考えている。

途端に浮かんだ飼い犬兼恋人の顔に、あぁ、そうだとスマホを確認してから思わず目を見開いた。

何の連絡もない。

まだ家を出てから2時間にも満たないから当然なことだ。なのに勝手に寂しくなった。


これって相当私らしくないのでは



(あれ?おねーさんひとり?どう?これから俺と)
(………)
(今日はなに?休み(話し掛けないでいただけませんか?今考え事してるんで))


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