着ぐるみもありかも。なんて思ってたのは多分、それこそ被り始めた当初のころだけ。 その重さと不自由さが時間が経つにつれ段々と枷のようになってきて、音を上げそうな自分がいる。 ついでにいうと、着ていれば着ているぶんだけ熱が籠もる構造なのか、すごく蒸れて熱い。 正直、フラフラしてきた。 「……冨岡先生、ちょっと」 カラカラになった喉で訴えてみても、この分厚い生地に阻まれて当然聞こえるわけがないので、その手を掴んでみる。 掴むといっても肉球というデコボコがついた丸い手では力も入らないので、ほぼ添えただけだ。 「どうした?」 その籠もった声はかろうじて聞こえたけれど、いかんせん顔は犬なので緊張感に欠ける気がする。 「ちょっと、休みたいんですけど……」 訴えてる間にも、滝のように噴き出した汗が顔を伝っていく感覚がした。 この息苦しさ、何かに似ているんだけど考察する余力がない。 少し空いた間にも、着ぐるみの表情は変わらないので何を考えているかも読めなかった。 「保健室に行こう。ベッドもある」 そう言って、今度は犬の手が私を引っ張る。 いつもならここで警戒、もしくは抵抗という名の突っ込みを入れるところなんだけど、大人しく従ったのはその元気もないというのと、具体的かつ冷静な解決策だという提案だとわかるからだ。 こうして歩いている間にも、誰かしらとすれ違い続けている。 文化祭の最中は人の出入りが激しく、誰にも見つからない死角が圧倒的に狭まる上に、この目立つ着ぐるみを脱いで息を吐けるところはそれこそ職員室と保健室くらい。 どちらがここから最短かといったら後者であるし、珠世先生を守るが如く常に張り付いている愈史郎くんの雰囲気も相まって、あまり悪戯に生徒が訪ねてきたりしないのがこちらの利点にもなる。 「何あれ?着ぐるみ?」 純粋な好奇の目にも今は反応している余裕もなくただ足早に歩いた。 good boy 「……ふう」 やっと腰を下ろせたのと、重たい頭から解放された安堵感から出すつもりのなかった溜め息が自然と零れた。 「エロい」 「すごく汗を掻いていらっしゃいますね。喉が渇いたでしょう?今お水をお持ちいたします」 冨岡先生と珠世先生の声が混ざったので、片方は聞かなかったことにする。 「ありがとうございます」 そうしている間にも突き刺さる視線を感じた。というか、この扉を開けた瞬間から向けられている。 「愈史郎、苗字先生達にタオルをお出しして差し上げて」 「はい!珠世先生!!」 返事こそ素直で威勢もいいが引き出しを開けたあとで、タオルを片手にこちらに向かってくる形相はとてつもなく険しい。 フンッと鼻息を立てて渡された、というかなかば放り投げられたそれを気にすることなく私に分けてくる冨岡先生は睨まれているというのに全く動じていない。 「……ありがとうございます」 どちらにもお礼を言ってから、未だ垂れてくる汗を拭う。 そういえば冨岡先生って前から愈史郎くんに対しては全くの無関心だな、なんて思ったところで、 「珠世先生の願いだからだ。お前達のためじゃない」 はっきりと言われたことで、あぁだからか、なんて笑ってしまいそうになった。 この2人は全然違うけれど、ある一部分においては重なるほど似ている。 だから冨岡先生にとって関心がないのではなく、気持ちがわかる上に認めているから、敢えてそこの境界線に入っていかないんだろう。 そしてまた、愈史郎くんが境界線を越えてこないと知っているから、敵対をしない。 ある意味この2人は仲良くなれるのでは?なんて考えながら、まだまだ引きそうにない汗を拭った。 「どうぞ、お水です」 差し出された紙コップを受け取る前に、愈史郎くんがそれを攫っていったかと思えば、 「俺が渡します!珠世先生は座っていてください!」 私達との壁を作るのはさすがと言える。 さりげなく2つとも冨岡先生に渡してるのも愈史郎くんなりのこちらに対する気遣いなのか。それともただ単に珠世先生以外の異性に近付きたくないだけなのか。 細かい心理は読み取れないけれど、これだけはわかる。 「これを飲んだらさっさと出て行け。珠世先生はお忙しいんだ」 全く、それはもうこれっぽっちも歓迎されていないことだ。 「ゆっくりなさっていってくださいね」 そして直前の凄みは本人の耳には入っていないということも今のでわかった。 「……。すみません」 いつもなら居心地の悪さから、すぐにでも腰を上げるところだけど、今すぐまたこのバカをつけたくなるほどでかくて重い頭を装着する気力も体力もない。 だから恐縮ながら、もう少し居座らせていただこう。 半分ほど喉に流し込んだ水は、身体にひしひしと沁みていくのを感じた。 生き返る。 まさにそういった感覚がしてる。 これはなんていうか。 そうだ、サウナに入った後のような。ということは着ぐるみの中はそれほどに温度が上昇しているというわけか。 そう考えると止むことのない睨みを気が付かないふりをすれば、空調の利いたここは天国だと言える。 「…大丈夫ですか?」 頭からタオルを下げて、遠くを見つめている横顔を窺えば、コクと首だけが動いた。 珍しく目に見えて汗を掻いているし、やはり体力は持っていかれているかもしれない。 まだ午前中だというのに2人してバテてしまってはこの先が思いやられる。 少し今後の行動について考え直さなければ。 それにしても…… プルルと鳴った保健室の電話を、珠世先生が取ったのを眺めつつ溜め息をひとつ。 「着ぐるみってこんな過酷労働だったんですね……」 思わずしみじみしてしまっていた。 窮屈、暑い、動きづらいのまさに三重苦。 今まで着ぐるみに対して特別な思い入れはなかったけれど、これから着ぐるみと出会うことがあるならば、確実に敬意を表すると思う。勿論心の中でだけど。 「すみません、高等部で怪我人が出たようで呼び出しが…」 「俺も行きます!」 申し訳なさそうな表情の珠世先生に間髪入れず、キッと眉を上げた愈史郎くんが続いて、この子もこの子で犬並みに反応が早いな、なんて思った。 置いていかれそうなのを瞬時に察知したのかもしれない。 「私達のことは気にせず向かってください。少し休ませていただいたらお暇いたしますので」 「……わかりました。くれぐれも無理はなさらないでくださいね」 綺麗に頭を下げた後、行きますよ愈史郎と言う珠世先生に嬉しそうに続く背中を何とも言えない気持ちで見つめた。 何だかちょっと、おかしいような気もするし、その反面微笑ましくもある。 なんていうか、良かったね愈史郎くん。そんなことを考えている自分がいてふと思う。 もしかして冨岡先生と私も、第三者から見ればそんな風に見えていたのかもしれない、なんてことを。 胡蝶先生とか煉獄先生辺りには特に。 2人とも一生懸命な人間を心の底から応援するタイプだから、私が今感じているような気持ちを抱いていた可能性はある。 そういえば胡蝶先生といえば……、 「ジャージにして正解でした」 つい溜め息混じりに出た一言。 さっきから顔に垂れてくる汗ばかり気にしていたけれど、気付けば下着にまで汗が伝わっている。 ただ校内を歩くだけなのだからといつもより動きやすい恰好にすればいいやと高を括っていた数日前の私に、胡蝶先生は笑顔で助言をくれた。 「苗字先生も冨岡先生みたいな恰好の方がいいんじゃないかしら?」 何気なく、だけど胡蝶先生が言うことはいつも理にかなっているのを経験則で知っていたので、その通りにしてみたら案の定。 汗にまみれた衣類がジャージとTシャツで良かった。 これがお気に入りの一張羅だったら落ち込むどころの騒ぎじゃない。 「ジャージの利便性は高い」 ポツリと言って、紙コップを口に運ぶ横顔はやはりこう、いつもと違う気がする。 何と言うか、寡黙? いや、いつももベラベラ喋るタイプじゃないけれど、今この時は哀愁に近いものがあるような…。 「どうしたんですか?ずっと遠くを見てますけど」 「……。思い出していた」 ゆっくり閉じた目蓋が開いて、群青色の瞳がこちらを向いた瞬間、あ、カッコイイななんて素直に思う。 「ここで初めて名前に触れた」 伸びてきた手に一瞬ドキッとしたものの、頭に乗っかる肉球の重さに苦笑いが零れた。 「初めてではない気がしますけどね」 「初めてだ。よく覚えてる」 「その前に人の手舐めてませんでしたっけ?覚えてませんか?」 「あれは治療の一環だ。触れたうちに入らない」 「成程。そういう基準なんですね」 今だからそんなこともあった、なんて笑えるけれど、当時の私にとってかなりの衝撃的だったのは間違いない。 「あの時、どうしてもお前に触れたくて堪らなくなった」 真剣な表情は熱を帯びているのに、頭を引き寄せる着ぐるみの手と、互いにぶつかり合う寸胴な身体がどうにも不釣り合いだ。 同じことを思ったのか、下方に落とされる視線は厳しい。 「邪魔だな」 もぞもぞと動き出すものだから思わず毛むくじゃらの手で同様のそれを止めた。 「脱いじゃ駄目ですよ」 「安心しろ。お前のも脱がせる」 「尚更駄目です」 「何故だ」 「何故ってさっきのこと忘れたんですか?」 目だけで訴えてくる疑問に、小さく息を吐く。 「これを着る時、胡蝶先生達に手を貸してもらいましたよね?」 単純に着慣れていないというのもあるけれど、問題は背中のチャックだ。 どうやっても手足を入れてからじゃないと閉められない構造であると着てみてから知った。 当然自分では閉められないし、例えば私か冨岡先生、どちらか片方がそれを担ってもその後が問題だ。 分厚いこの手では手先を使えないため、必ずどちらかは着られないという事態が起こる。 そもそもこの着ぐるみを自力で脱げるかということから問題になり、私にとっては難しいけれど冨岡先生なら造作もなさそうな気もした。 なので今、止めている。 恐らく珠世先生が戻ってくるのは相当に時間がかかると思うので、助けを求めるのも他の教師を呼び出すしかなくなるし、すぐに来てくれるほど暇を持て余しているわけではないのは明らかだ。 できれば穏やかにここを後にしたい。そしてあわよくば、もう少し体力を取り戻してから。 「駄目なのか?」 驚きに満ちた群青色の瞳は、全くそんなことを考えていないのだろうけれど。 「駄目ですね」 「……。そうか」 それでも大人しく離れていくのは偉いと素直に思う。 これで強行された時にはいつものごとく折衷案か脅しに近い説得をしなければならないところだった。 また滴る汗を拭っては、遠くを見つめる横顔も、カッコイイとまた素直に思ってみる。心の中だけなので。 しかし細めた瞳にはどこか違和感が漂った。 「……疲れました?」 いつもなら、どれだけ走ろうが動こうが涼しい顔は崩さないから余計心配になる。 「疲れてはいない。むしろ今ならいつもより多く名前を抱ける気がする」 「いや、そういうことじゃなくて。変なスイッチ入ってハイになってません?」 「ハイ……?」 「知りませんか?ランナーズハイとかそういう現象」 「……それなら知ってる」 突然含み笑いをし始めるものだから、つい警戒をしてしまった。 「ということは俺は常に名前ハイになっているということか」 ムフフと笑い続けるその姿には思わず遠くを眺めたくなる。 「何ですかその造語」 「名の通りだ。名前を摂取することによって多幸感が続いている状態をさす」 「色々突っ込みどころが満載なんですが、あながち間違いと言い切れないのがまた怖いですね」 「そうか、それなら俺はいつでも全力で薙ぎ倒せるということだ」 「出さなくていいですよ。大体何を薙ぎ倒すんですか」 半分以上ご自分の世界に入ってしまわれたけど、一応訊ねてみれば突然向けられる真剣な瞳に勝手に心臓がドキッとした。 「お前を傷付けるもの全てだ」 その言葉にはまた能面になるしかなかったけれど。 「またどこぞの歌詞にありそうなことを言い出しましたね。そういえば冨岡先生って好きな歌手とかいらっしゃるんですか?」 「誤魔化すな。俺は本気で言ってる」 「それはわかってますけど……」 何を着ぐるみに身を包んで、しかも汗だくの状態でこんな話をしているのか。 そんなことを思わなくもないけれど。 でも、そうか──……。 「ホントに冨岡先生って犬みたいですね」 込み上げてくる笑いがどうにも我慢できない。 そうしてこの人が大人しかった理由を、今少し知った気がする。 思い返せば、そうだ。 今まで認めたくないと否定をし続けていたけれど、この場所は私にも特別な場所だった。 体調が優れず今にも死にそうな顔をして、それでも弱さを見せまいと虚勢を張り続けるこの人に重ねたんだろうな。 私は、私を。 「あの時、拾ってよかったです」 頭を撫でれば着ぐるみの違和感しかなくて、それも何だか笑ってしまう。 「ようやく全ての行いを認めたか」 「……その言い方、こちらがすごい悪いことをした気分になってくるんですけど」 「俺はずっとそう言われるのを待っていた」 「それは…、すみません」 苦笑いを返せば、間髪入れずに近付いてくる顔に目を瞑りかけた時だ。 互いの着ぐるみで閊えて先に進めないものだから、ついまた笑ってしまった。 何だか少し、楽になったような気がする。 冨岡先生はこれでもかと不服な表情をしているけれど。 「頑張りましょうか。着ぐるみの仕事」 「何故突然やる気になった?」 「失礼ですね。やる気はいつでもありますよ。強いて言うなら休んだからですかね?」 思い切り目を窄めては不審とでも言いたげに見てくるものだから、視線は合わせないようにした。 「冨岡先生のやる気が出ないのであればここで休んでいてください」 むぅと口唇まで結ぶのは、望む言葉でなかったからというのもわかってる。 「俺もいつもヤる気はある」 返答が斜め上だったのもわかっていたので、 「その代わり、これを着てればどこでも一緒に行きたい放題ですよ」 そう言えば途端に瞳がキラキラ輝いていくのも知ってる。 「イキたい放題……」 「そっちの話じゃないです」 「そっちとはどっちの意味だ?」 「さぁ、仕事に行きましょうね!」 なかば無理矢理犬の頭を被せたけれど、それ以上暴走はせず大人しくついてくる姿には可愛いなんて考えてもいた。 原点は此処にありなんて (やべえ!猫の着ぐるみかわ…ゲフッ!) (それ以上近付くな) (だから足払いしちゃダメですってば) [ 199/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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