good boy | ナノ
"今度の日曜って空いてる?"

30分ほど前に入っていたLINEに、思わずデスクに置いてあるカレンダーを確かめてしまってから、送信間違いかも知れないという可能性を思い浮かべた。

蔦子さんから個人間で送られてきたそれは、もしかして私ではなく親族である弟、つまりは冨岡先生へのものだったのではないか。

というか、そっちの方がしっくりくる。

蔦子さんとのLINEのやりとりはそこまで頻繁でなければ、脈絡もなく休日の予定を訊ねられるほどに心の距離が近いわけじゃない。

直近の連絡は、年が明けてから新年の挨拶を冨岡先生を含めたグループLINEでしたくらいだ。

むしろ誤送信の方がしっくりくるし、そう考えると何と返せばいいのか頭を捻るところでもある。

やんわり失礼のないよう、かつ間違いであるならば蔦子さんに気恥ずかしさを与えないよう伝えなくてはならない。

暫し考えたところで、ようやく指で画面をタップした。

"今度の日曜でしたら、冨岡先生も私もお休みですがどうされました?"

ひとまずこの当たり障りない文面で様子を見よう。

もし蔦子さんが誤送信に気が付いたなら私は"3人のグループLINEに送られていたものだと思いました"というような主旨の返信をすれば、そこまで角は立たない。

勘違いが勘違いを呼ぶことは往々にしてあるものだ。

返信したあとスマホを置いて、パソコンへと向き合う。

ご子息が1歳になって、ますます目が離せないと言っていたからこれは蔦子さんなりのSOSなのかもしれない。

もしそうなら、微力でも力になりたいとは思う。それが100%蔦子さんの望むものじゃなくても。

強く思ったところで、あぁ、冨岡先生の比にはならないけれど私も蔦子さんのこと、好きなんだなと自覚した。

恋人のお姉さんだからとかそういう建前は抜きにしても、蔦子さんは魅力的だと思う。

もし本当の姉だったら、なんて考えたところで光ったスマホの画面へ触れれば、

"義勇はいいの。名前ちゃんに会いたいな"

その文面で綻ぶ顔はどうにか険しい表情を作って誤魔化した。


good boy


蔦子さんの負担にならないよう冨岡家の最寄り駅を待ち合わせとしたため、約束の時間よりだいぶ余裕を持って乗った電車の中、告げた通知にそれを開く。

"今何処だ?"

ムスッとした犬のアイコンが相まって、不機嫌さをより際立たせている気がする。

"電車の中です"

すぐに既読がつくあたり、きっと家で退屈しているんだろうというのも窺えた。

今日、蔦子さんと会う。

そう告げた私に、冨岡先生が面白くないという態度を見せたのは当然といえば当然。蔦子さんが頑なに弟の同行を拒否したからだ。

それでもついていくという冨岡先生とのメッセージのやりとりは平行線を辿り、業を煮やして通話に切り替えた冨岡先生に蔦子さんは言った。

『たまには女同士で出かけてもいいじゃない。それとも私はそんなに信用ないの?』

これにはさすがの冨岡先生も反論できず、なかば蔦子さんの一人勝ちとなった今日。

だからといって全面的に納得したわけじゃないので、こうしてLINEも来るし、何なら玄関を出るまで何度まとわりつかれて噛み付かれたかわからない。

あれはもう、ホントに犬だ。

"気を付けろ"

まぁ、こうして心配をしてくれている辺り、可愛いなとも思うけど。

素直に"気を付けます"と打っていたところで、

"痴漢がいるかもしれない"

その一言に思わず顔を上げてしまった。

さほど混んでいない車内で菓子パンを食べているおじさんと目が合ってしまって、無駄に気まずくなりながらすぐに目を逸らす。

"大丈夫ですよ。それほど混んでませんし"

そう返した矢先、

"今何処だ"

また振り出しに戻った文に、どうも能面になった。

"まだ電車です"
"どの駅を通り過ぎた?"

また上げた視線でドアの上部に映るモニターを確かめてから駅名を入力した。

"っていうかこれもしかして逐一報告しなきゃいけないんですか?バッテリー切れますよ"

このままのペースだとそれは確実に起こり得る未来だろう。

私にとっては電子マネーが使えなくなるのが不便になるくらいで、それも切符を買えば帰りの電車には乗れるしさして問題ではない。

困るのは私ではなく、冨岡先生本人だ。

その意図を汲み取ったのか、

"わかった"

その一言のあと静かになったスマホをしまえば、ちょうど目的の駅に着くアナウンスが流れて、スマホをしまった。

* * *

改札を出たところでまだ時間が早いことを確認する。どこかで時間を潰そうか迷っていれば、通り過ぎていく小さな子供を目が捉えた。

あれ?あの子……。

「あ、ちょっと待ちなさい…!」

振り返ろうとして聞こえた声にそのまま顔を上げれば、慌てて追いかけようとしている蔦子さんと鉢合った。

「「あ」」

互いに声が出たのも束の間、てちてちとおぼつかない足どりで離れていく背中を同時に追う。

大きな荷物を抱える蔦子さんに比べて幾分か身軽なお陰か、辛うじて追いついた背中側から掬うように腕を伸ばしその身体を抱えた。

意外とずっしりくる重さと、

「ん〜!まぁ〜!」

仰け反っては暴れる力の強さには驚きを隠せない。

「こんにちは、お久しぶりです。覚えてますか?」

そんなことを言ったって、返答がくるわけがないのはわかっていてもどうにか声掛けは必要だと敢えて口にする。

「ごめんなさい名前ちゃんっ!ありがとう!」

打ち上げられた魚のようにバタバタと暴れる身体が蔦子さんへ渡っていけば、少し大人しくなった気がした。

「もうっ、勝手に行っちゃうなら抱っこ紐しちゃうからね?」

優しい口調で腰に下げたそれを引き上げる動作に、手を差し出す。

「お荷物持ちます」
「ありがとう」

背中のバックルがパチンと止められた頃には、バタバタとしていた足も大人しくなって、じっとこちらを見つめていた。

「こんにちは」
「だ〜、う〜?」

心なしか、誰?と聞かれた気がする。

「苗字名前と申します。大きくなりましたね」

記憶の中ではその中にすっぽりと収まっていた身体は立派に太腿から先が出ているし、何なら靴も履いていて、どこをどう見ても成長しか感じられない。

「あう」

短い返事のような声とともに、

「ふふ、赤ちゃん相手にも丁寧なのね」

小さく笑う蔦子さんに少し気恥ずかしくもなった。
しかし同時に我に返りもする。

「……お早い到着ですね。まだ約束の時間ではないですが…」
「名前ちゃんこそ」

また小さく笑われて、今度こそ返す言葉がなくなった。

「ありがとう」

かけられたお礼の言葉の意味を、鞄を受け取る右手に気付いてから理解をしている。

「公園に行ってたの。家の中じゃ退屈みたいで」
「そうなんですね」

トントンと背中を軽く叩きながらゆっくりと始める横揺れで、さっきまでパッチリ開いていた目が徐々に閉じかけていくのを見た。

眠りに誘われていく姿を、細めた目で見つめる蔦子さんからは溢れんばかりの愛情を感じる。

「良かった。寝てくれそう……」

それでも呟いた一言はどこか緊張が解れたようにも思えた。

「歩きましょうか?」
「…えぇ、そうね。ありがとう」

咄嗟に出した提案の意図を、瞬時に汲み取って動かした足に倣う。

完全に横へ並ぶのは気が引けて、少し後ろに歩幅を合わせつつ考えた。

「もしかして、お昼寝と合わせて時間を調整してくださいましたか?」

何となく感じたことを疑問として出せば、振り向いた顔は嬉しそうな笑みを湛えている。

「だって名前ちゃんと初めてのデートなんだもの。ゆっくり楽しみたいじゃない」

デート。

そのワードが頭の中を占めて、呆気に取られている私に今度は眉が下がっていく。

「ごめんなさい。迷惑だった?」
「いえ…」

やっぱり節々に冨岡先生の面影があるというのを実感したと同時に、どうにも居た堪れず軽く頭を掻いた。

「すみません。蔦子さんとお会いするのが久し振りな上に、2人というのは、いえ、2人きりというわけではないのですがとにかく緊張するものだと顔を合わせてから知りまして、それにも関わらず楽しみにしてくださったという事実が嬉しくて暫く放心していました」

堪え切れず笑い出す蔦子さんに、更に罰は悪くなる。

「名前ちゃんって可愛い」

破壊力が抜群の笑顔に心なしか眩暈すらした。

「いえ」

どう反論すればいいのか詰まったところで、腕を組んでくる蔦子さんに心臓は跳ねる一方だ。

「実はちょっと買いたいものがあるの。付き合ってもらっていい?」

心なしか弾んでいるその声に頷くしかできなかったけれどそうしたことで見る満面な笑みに、即答してよかったと思う。

その間、うつらうつらしていたご子息は歩いているうちにすっかり深い眠りに就いたようだ。

「義勇とはどう?」

隣から向けられる笑顔に、一瞬考えてしまった。

「……迷惑、かけてない?」
「いえ、それは大丈夫です。というか私の方がご迷惑をかけてるんではないではないでしょうか」

最近それが顕著になっているような気がしなくもない。

「そうなの?」

意外、といったように驚いた顔はすぐに笑顔に戻った。

「じゃあ安心したっ」

何が、と言いかけたものの、

「名前ちゃんの支えになれてるのね。あの子」

心の底から滲み出る優しさで、胸がくすぐったくなる。

「……そうですね」

素直に返したのは、本人が不在だというのも理由としては大きい。

「蔦子さんは、どうですか?最近は」

自然に話を変えたのは、それ以上深く掘り下げられると気恥ずかしさしかないからだ。

「そうね。最近はちょっと余裕も出て来た、かな?まだわからないことばかりだけど、色んなところに行くようになって同じママさんとの交流も増えたから色々相談しあったりできるようになったの」
「そうですか。同じ立場の方との意見交換は貴重ですし、心強いですね」

にこりと微笑む蔦子さんは、正直今まで見た中で覇気があるように見受けられる。

まぁそれは大体産後間もなくだったり、月のもので憔悴している時だったので当然といえば当然か。

「あ、でもだから名前ちゃんの提案を断ってたわけじゃないからね?」

慌てた様子で返されて、少し口角は上がりそうになった。

「わかってます。蔦子さんの配慮だというのは伝わってきていました」

これまで何度か、弟である冨岡先生を介して"力になれること、あるいはご子息をお預かりする案件はないか"と連絡をしたことがある。
しかしそのどれもが"大丈夫よ。ありがとう"という言葉が返ってくるだけだった。

それに関して執拗に迫らなかったのは、蔦子さんの性格上、本当に辛い時は頼ってくれるという信頼があってこそ。
逆に今は落ち着いていらっしゃるのだという安堵する指針にもなった。

だからこそ、思い出した仏頂面に苦笑いは零れる。

「冨岡先生は不満そうでしたが」
「もう……、あの子はほんとに」

蔦子さんまで同じ表情をしてから、何かに気付いたように顔を上げた。

「……あれ?ちょっと待って。通り過ぎちゃった」

振り向いた先の駅ビルを私も目線で追う。

「もしかして先程の入り口でした?」
「そうなの。やだ。話に夢中になっちゃって…。ごめんなさい」
「いえ」

いそいそと方向転換をする姿が可愛らしいな、と思うのは心の中だけにする。

仮にも歳上の女性に対して口にする言葉ではないと思ったためだ。

しかし、

「……あれ?」

左右のガラス扉、締め切りの方を動かそうとして呟いたのがまた可愛らしいとつい口角を上げていた。

「こちら側が開きます」
「…あ、やだ!ごめんね…!いつも通ってるのに」

気恥ずかしそうにする蔦子さんは何だか新鮮で嬉しくなる。

同時に冨岡家はなかなかにドジっ子属性なのかと親近感も湧いた。

「どこのお店に向かわれるのですか?」
「…え、と2階の雑貨屋なんだけど。確かあそこのエスカレーターを登って……」

そこで言葉が途絶えては、悩む動作に自然とその手を引く。

「上がってみましょう」
「…えぇ」
「お先にどうぞ」

エスカレーターに乗る直前、その手を離してから後ろへつけば、小さな笑い声が聞こえた。

「名前ちゃんって紳士ね」

それは、初めて言われたかもしれない。

「そうでしょうか?」
「うん。だって今も後ろから守ってくれてるでしょう?」

秀でた察知能力も、冨岡家の特性なのか。

「守るというほどのものではありませんが…」

思わず言葉を切ったのは、振り向いたその笑顔に少なからず見惚れていたからだと、こればかりは素直に認める。

「そういえば、買いたいものとは?」

しかしそのままでは気恥ずかしいので話は逸らしておく。

「お弁当箱」

即返ってきた答えに思わず眉が上がっていた。

何だか既視感がある気もする。

「名前ちゃん、義勇にお弁当作ってるんでしょう?」
「……ご存知でしたか」
「たまに写真が送られてくるから。いつもすごく美味しそうだなって見てたの」

一度会話が途切れてそのままエスカレーターを降りてから、それは続いていく。

「少し余裕が出てきたから、私も作ってみようかなって」
「ご主人にですか?」
「うん。この子が産まれてから随分蔑ろにしちゃったから。ほんのちょっと罪滅ぼし?」

ふふ、と小さく笑う蔦子さんは幸せそうで、同時に夫婦仲の良さも窺えた。

しかしどうしてその買い物に私が同行しているのかはいささか疑問に感じている。

それこそ、そういう経緯があるのならご夫婦水入らずで選ぶべきものだろう。

訊ねても良いものかと迷った疑問は、

「突然作って驚かせたいんだけど、男性もののお弁当箱ってどういうのがいいのかわかんなくて、名前ちゃんに教えてほしいな」

悪戯っぽく微笑う仕草で答えをくれたことで納得した。

そして今回、何故敢えて冨岡先生の同行を拒否したのかも理解できている。

何年も前にできた小さなボタンの掛け違いは、どうにもまだ氷解とまではいかないようだ。

「お力になれるよう善処します」
「よろしくお願いします」

立ち止まって頭を下げられて、多少動揺した頭は咄嗟に同じ動作で応える。

「あ、こっちこっち」

まるで少女のように無邪気に手を引かれ、目当てという雑貨屋に向かった。

 * * *

お弁当箱コーナーで迷う蔦子さんを横目に、人知れず笑みが浮かぶ。

というのもその横顔は真剣なもので、

「どれがいいのかな?」

そう呟いたきり喋らなくなってしまった。

きっと今、蔦子さんの中には様々な選択肢が浮かび上がっているはずなので、声かけはせず見守ることにしている。

私が横から意見を述べれば邪魔になるし、的確なアドバイスができるほど蔦子さんの旦那さんという方の情報も持っていない。

なので自然と私も並んでいるお弁当箱を見つめる。

相変わらずムスッとした紺色の犬がいるのは別段驚きもしないが、その横に並べられた"NEW"というポップの下、同シリーズの猫を発見した時には思わず二度見をした。

こんなところまで展開してきていたのか。知らなかった。

「ドーム型って必要だと思う?」

いきなりの発問に猫から蔦子さんへ視線を動かす。

「ドーム型、とは?」
「蓋が立体になってるって。こういう」

指を差されてから、ようやくその意図を理解した。

「中身が潰れないという利点はありますね。私は使ったことがないですが、キャラ弁とか作る際にも重宝するかも知れません」
「キャラ弁かぁ」

うーん、と唸っている横顔をまた眺めるだけに留める。

「あら。これって」

ふと瞬きを速めた先にはムスッとした犬。

「LINEのアイコン…」

さすがに気が付いたらしい。

「そうですね」
「へぇ、猫もあるのね。かわいい。なんか」

1回区切った言葉に何となく嫌な予感がして、

「名前ちゃんに似てる」

それが的中したことをすぐに知った。

「そんなに似てますか…?」
「うん。あ、嫌だった?」
「いえ、弟さんも同じことをおっしゃっていたので少し複雑な気がしただけです」
「そうなの?」

クスクスと笑い出す蔦子さんに若干罰は悪くなったが、

「じゃあこれ、あの子にあげたら喜んでくれるかしら?」

思わず目が丸くなる。

「冨岡先生に、ですか?」
「うん。主人のお弁当箱を買いに来たのもそうなんだけど、もうすぐ誕生日じゃない?あの子」
「…そういえば、そうですね」
「毎年何をあげようかいつもすっごく悩むから、今年は名前ちゃんに相談しようと思ってたの。これなら喜んでくれそうかな?」
「そう、ですね」

猫と目が合って、冨岡先生の顔を鮮明に思い出す。

「正直、蔦子さんが選んだものなら何でも喜びそうですが」
「そんなことないのよ?特にここ数年は何あげても反応薄くってつまらないから、どうせならビックリさせたいの」

また悪戯っ子のように微笑む蔦子さんは可愛い。その一言に尽きる。

そうして、同時に嬉しくなった。

「実は私も、誕生日プレゼントに悩んでまして、蔦子さんに相談できたらいいなと思ってました」
「え?そうなの!?同じこと考えてたって、嬉しいなぁ…」

素直に感情を表現してくれるその柔らかい表情に、こちらもどうも頬が弛みっぱなしだ。

「でもそれこそ名前ちゃんからなら何でも嬉しいんじゃないかな?あの子」

そう言い切られたことに関しては、複雑だったりはするけれど。

「そうでしょうか?」
「そうよ」

まぁ、そうなんだろうっていう自覚はあるけれどやっぱり複雑だ。

「あ、じゃあ一緒に選んだものをプレゼントしない?折角だから」
「いいんですか?」
「勿論っ」

確かに連名でのプレゼントなら、冨岡先生の喜びも倍増しそうだ。

「あ、でもお弁当箱はもう、必要ないかな?」
「いえ、ちょうど買い足すかどうか悩んでいたところなので」

正直洗い物が間に合わず他のタッパで代用する時もあったから、増えても困りはしないどころか助かる。

「……なので、この猫は多少なりとも驚くと思います」
「ほんと?じゃあこれ買っていきましょう?」

更に咲いた笑顔は、すぐに悩ましいものへと変化した。

「どっちがいいかな?」

問い掛け、というよりは独り言のようなそれに、同じく視線を落とす。
箱の形状は同様ながら、異なる2種のデザインを交互に見た。

「名前ちゃんはどっちが……。あ、そうだ。せーので指差してみよう?どっちがいいか」
「え?」

訊き返している間にも、

「せーの」

始まった掛け声に、咄嗟に右側へ人差し指を向けていた。

「あ、一緒!」

嬉々とした蔦子さんの声に、思わず口元が弛んでいく。

「やっぱりこっちの方が可愛いよね」
「そうですね。色合いも落ち着いてますし」
「嬉しい!同じこと思ってた!」

屈託のない優しい笑顔に、思わず私まで笑ってしまっていたし、どことなく抱いていた遠慮や緊張が、この時解けていくのを感じた。

「それならカトラリーも同じデザインで揃えたいかも」
「いいですね。これならお箸だけじゃなくて使いやすいですし」
「あの子食べるの上手じゃないものね」

2人して吹き出してしまったのは、本人には言わないようにしよう。機嫌を損ねたらまたどんな仕返しがくるかわからない。

なんて、そんなことを考えたことすら綺麗さっぱり忘れ去った夕方。

開けた505号室の扉の先は、心なしかどんよりとした空気を纏っていたし、ぬっと出てきたその顔は明らかに不機嫌そのものだった。

「……遅かった」
「すみません、つい話が弾んで……」

一応LINEは入れたんだけど、この様子だと納得はしていないらしい。

「どこに行っていた?」
「駅前のビルだけですよ?」
「ビルのどこだ?」

ひとまず鞄を置いて、洗面所で手洗いうがいをする間も、ダイニングに戻って鞄を手にリビングへ向かう間も触れるか触れないかの距離でついてくるものだから、あぁ犬だ、なんて自然と思ってしまう。

「2階の雑貨屋さんです」
「……あそこか」
「ご存知ですか?」

訊いてから、そうだ、冨岡先生にとっても地元なんだということを思い出す。

「昔よく連れていかれた。で?」
「で?というのは?」
「雑貨屋の次はどこに行った?」
「あぁ…、その後は5階のフードコートで一休みして、軽くご飯を食べました」

その時にはぐっすり眠っていたご子息も目を覚まして、一緒に食事をしたから尚のこと成長を感じたのを思い出す。

「その後は?」
「それだけです」
「それだけにしては遅すぎる」

きっと時間を計算したんだろうな。こういう冷静に矛盾を突いてくる辺り、嘘が吐けないと思う。まぁ、吐く気もないけれど。

「何してるんですか?」

鞄をしまい終えたかと思えば、頭に感じる重さに視線を上げた。

「匂いを確かめている」
「わかるんですか?」
「大体わかる」
「……それはそれで怖いんですけど」

そのまま何も言わず動かなくなってしまったものだから、私までそこに留まざるを得なくなる。

やっぱり犬みたいだなと思ってから小さく溜め息を吐いた。

「フードコートが幼い子供に優しい作りになっていたんです」

わざわざ詳細を説明するのも、何というか"この人だから"だろうな。

「そこに小さな滑り台があってなかなか離れたがらなかったので、蔦子さんと見守りながら色々話をしていました」
「そういうことか」
「そういうことです」

どうやら納得はしていただけたようだ。心なしか圧が弱くなった気がする。

「というわけで、どうぞ。これ」

タイミングを見計らっていたけれど、今この場が一番だろうと紙袋を視線の位置まで上げた。

「土産で誤魔化すつもりか?」
「そういうわけでもないんですが、蔦子さんからお願いされたのでお渡ししています」
「……姉さんが?」

大人しく受け取る辺り、さすがというか何というか。

「多分ね、あの子すごく不貞腐れてると思うの」

困ったように笑いながら渡された紙袋には、さっき誕生日プレゼントとして購入したお弁当箱を始めとした一式。

「だから名前ちゃんから渡してくれる?それならきっと驚くし、すごく喜ぶと思うから」

そうして託したのは、きっと的確にこの状況を予期していたからなのだろう。

「…これは」

回想している間にいつの間にか開封していたらしい。
言葉を詰まらせる表情を見たくて天井を仰ぐ。

「驚きました?」

どんな表情をしていたかを蔦子さんに伝えたいんだけども、いかんせん角度が悪くてお弁当箱の底と両手しか見えない。

「名前が選んだのか?」
「蔦子さんが選びました。私に似ていると」
「……そうか」

そこで漸く開けた視界で、海のような群青色を見た。

「………」

何故か瞬きを早くして止まったその顔に疑問は募っていく。

「どうしました?」
「可愛い」
「気に入っていただけたなら良かったです。蔦子さんに伝えておきますね」
「違う。この猫のことじゃない。名前が可愛いと言った」
「……はい?」

これはまた話が長くなりそうだと一度悲鳴を上げ始めている首を戻そうとした瞬間に、顎に触れた指先が更に上げてきた。

「なんっ」
「この角度の上目遣いは初めてだ。可愛い」
「それは、ありがとうございます…。首が痛いので戻してもいいですか?」

ついでに言うと喋り辛さもあるので早々に頭を下げたいのが本音なのに、

「駄目だ」

その一言で口唇を塞がれて、抗う術がなくなった。

「…っ」

てっきり深くなっていくものだと身構えたせいか、啄むだけのキスに拍子抜けはしてる。

「……可愛いな」
「…っ、何が」
「この先を期待している表情が可愛い」

フッと笑った口唇が大きく開いたことで感じた身の危険に、咄嗟に身体を捻ってそちらへ向き直した。

「逃げるな」
「逃げますよ」
「今日は全くお前を堪能できなかった。休みだというのに」
「それは、すみません。本当に。でもほら、蔦子さんが冨岡先生のためにって用意してくれたんですよ?嬉しくないですか?」

ジリジリと距離を詰めてくる身体を制しつつ、そう言えばピタリと止まるのがまた何とも面白いところ。

「……嬉しくないはずがない」
「そうですよね」

良かった。また圧が弱くなった。そう思った瞬間、

「名前から貰えるのは当日か?」

また詰めてくる距離に明後日の方向を向きたくなった。

「一応それ、蔦子さんと連名という形で用意したんですけど…」
「そこまで仲良くなったのか」
「妬いてます?」
「妬いてる」

まぁ、だろうな。なんて考えるのは諦めに近い。

「わかりました。では改めて当日までに何がいいか考えていただけると有難いです」
「名前がいい」
「できれば私が用意できるものでお願いしたいですね」

とうとうその手に腰が捕まったけど、やんわりと逃げの姿勢は崩さないようにする。

「それなら記入済の婚姻届だ」

きっぱりはっきり言ってのけた真剣な表情に、思わずたじろいだ隙を突かれて口唇を塞がれてその後は会話にならなかったけれど、策にはまった。そんな気がしていた。

というのも、滑り台を堪能するご子息を横目に蔦子さんと話していた時だ。

話は色々と盛り上がったというのに、結局のところ

「あの子が一番喜ぶのは、名前ちゃんとの結婚なんじゃない?」

それはもう、とてもとても綺麗で純粋な笑顔で言われたものだから、改めて感じている。



冨岡姉弟恐るべし


(ってまだ私ご両親にご挨拶してませんよ)
(そうか。やっとその気になったか)
(いや、なってないです。電話とかかけなくていいですよ。ホントに)


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