good boy | ナノ
珍しく就業中にLINEから、これまた珍しい人物から音声通話が入った。
かと思えば、その内容もまた珍しい。

かいつまんで言えばこうだ。

明日はPTAの本部会がある。
それまでに会長本人が用意しておくと言っていたUSBを買い忘れてしまった。
思い出したのはついさっきだが、今義実家におり、更に義母の誕生日のため拘束され動くのが難しい。
だからPTAの本部役員には内緒で買っておいてくれないか。

そんなようなお願い、というか依頼だ。

どうしてそれが私なのかと疑問にも思ったが、会長という立場を考えるとわからなくもないとも思った。

それぞれ家庭があり、仕事もある他の本部役員にはどうあっても負担になる上に、迷惑をかけるのは必至。

ましてや一番上の会長が"忘れていた"となると、体裁はよろしくないだろう。

その点、私は教師であれどPTAという組織においては会員であること以外は部外者だ。

「苗字先生にしか頼めなくて」

申し訳なさそうにそう言われてしまえば無下にできるはずもなく、それを受けることによって冨岡先生が常に張り巡らせているアンテナ、"自己犠牲"に引っかかることもない。

ただUSBを3つ購入すればいいだけ。

何も難しいことじゃない。

強いて言えば、明日どうやって会長に渡せばいいか相談が必要にはなってくるが、それはどうとでもなるのでそこまで構える必要がない。

なので、特に何も考えず、

「帰りに家電量販店に寄りたいんですけど」

そう飼い犬兼飼い主兼恋人に打診してみたところ、露骨に嫌な顔をされたあと、

「わかった」

渋々といった具合で承諾した心情を理解したのは、

「あ、苗字じゃん、久しぶり」

拳を軽く突き出す元同級生の存在を思い出してからだった。

しかしまぁ、それで何か問題が勃発したかといえばそうでもない。

ただの客と店員として売買のやりとりをしただけで、冨岡先生も特別警戒する素振りもなく呆気なくそこを後にした。

ついでに言えばその後、会長に頼まれた"おつかい"も無事使命を終え、特に表立ったごたごたも起きず、それから数日が過ぎている。

それなのに、あの時の冨岡先生の渋面が鮮明に蘇ったのは、今、私が置かれている状況に繋がっているからだ。

キメツ学園の体育館、よく声が響く空間の中、

「あ…れ?うそ!義勇だ…!」

見知らぬ女性が名前を呼ぶのと、

「……名前」

見知った恋人が全く知らない名前を呼ぶのを、聞き間違えとは思えないほど、はっきりと聴いてしまった。


good boy


蓋を開ければ、なんてことはない。

2人は小学校の同級生だという。

「近所だったんで、よくみんなで遊んでたんですよ」

昔を懐かしむように細めた瞳の中に、私の知らない冨岡先生がいる。

そう気が付いた瞬間、ちくりと胸は痛んだ。

だから少し、あの時の渋面に理解が示せている。

好きだという感情は、やはりプラスのものだけを生み出すのではないと再確認した。

彼女と最初に話したのは、それくらいだ。

というのも、すぐに生徒達がやってきたので私は職員室に戻る以外の選択肢がなかった。

「じゃあ始めようか〜。まずは初めまして、今日からここで講師として皆さんと一緒に体操をする、トミオカと申します」

しかしその自己紹介には思わず振り返ったし、ざわつく生徒達を前に、

「ビックリした?そこにいる冨岡先生と一緒の苗字なの。あ、でもね正確には漢字が違くて私の方には点が入るんだけど、言葉だけじゃどっちか紛らわしいから名前先生って呼んでください」

2人が名前で呼び合っていた背景も、何となくは察せた。

だから見つめ合った群青色の瞳には、会釈だけを返して体育館を後にする。

自分のデスクに戻ってからすぐに、おおざっぱにしか目を通してなかった書類を手に取った。

"体操教室の新設について"

その見出しで始まった書類の概要は、冨岡先生から口頭で窺っているのでほぼ内容は頭に入っている。

メディアで活躍するスポーツ選手のお陰で、様々なジャンルの教室が創設されたのはいいが、昨今、少子化の影響で会場を押さえることが難しくなってきているというのはいつだか耳に入れたことがあった。

なのでこの手の稽古事は最近では、小中学校のグラウンド、または体育館などを時間制で利用することが主流となっている。

そして、キメツ学園へその新設の依頼がきたのが確かだいぶ前の話だ。

これは教務主任が請け負う案件ではなかったため、校長、教頭、そして体育教師である冨岡先生に一任していた。

無事に週2回、放課後に新設されたその体操教室は、今日が記念すべき第1回目となる。

体操というだけあってトランポリンや鉄棒などの本格的な技術指南もあるため、安全を確保するため冨岡先生が補佐役として抜擢された。

ただ、それだけのこと。

"体操講師 富岡名前"

その名前に、漢字は違えど本当に同じ読み方の苗字なんだと、まじまじと見入ってしまった。

「名前」

思い出して、ちくりと痛んだ胸は敢えて認めることにする。

初めて聴いた。冨岡先生が私以外の女性を名前で呼ぶところ。

正直言えば、面白くないと思ってしまった。

そんなことを言い出したらキリがないし、私の方が冨岡先生にその感情を植え付けさせてしまっているのも知っているので、絶対に口にしないようにしよう。

私のこの感情は、仕事にも差し支えが出る。

そう思ってから少し、こそばゆくもなったし誇らしくもなった。

あぁ、そんな風に人を好きになれたことは、私にとってすごい進歩なのかもしれないと。

だから、その日のうちに私の不安要素を取り除こうとする冨岡先生の話は素直に聞けたし、

「講師については名前も把握していなかった」

そう言ってしゅんとする表情も、心の底から愛おしいと思った。

もしも冨岡先生が事前にこのことを察知していたのなら、何が何でも関わりを避けていたはず。

私を不安にさせないために。

それがわかっているから、こう言った。

「仕事なんですから、そんな落ち込まないでください。気にしてないです」

なんて、ちょっとばかし理解のあるイイ女ぶって。

でもそれは、半分以上本音だ。

正直冨岡先生が誰かに絆されるなんて、それこそ天と地がひっくり返っても起きるわけがない。

決して高を括っているわけではなく、これまでこの人と積み重ねてきた経験からくる信頼の強さだ。

もしもそれで冨岡先生が私の元を離れることがあるのなら、その元凶はこちらだというのも予想ができる。

だから不可抗力でこうなってしまったことに対して、自分を責めて欲しくない一心で余裕を前面に出した。

その時は、私対冨岡先生だったから当然波風が立つこともなく、むしろそこから発展した行為は、いつもよりお互いの存在の大切さを再確認できたような気がしてこれほどなく満たされている。そんな気持ちにもなった。

だけど、潤って満たされたはずの心というのはあっという間に渇いていくんだと思い知ったのは、2度目の体操教室が開かれた時。

「体育館お借りしますね。本日もよろしくお願いしまーす」

爽やかな笑顔で現れた富岡さんは、職員室全体に声をかけると冨岡先生と共にその場所へと向かう。
私が一緒に行く理由や必要性はどこにもないので、しばらくただただ仕事をするためにパソコンに集中していたところ、

「あ」

不死川先生が短く声を上げた。

「苗字、お前今動けるかァ?」

こちらの様子を窺いながらも渡された1枚の書類と、

「これ今日までなんだわ。悪ぃけど頼まれてくんねぇかァ?俺今から保護者に連絡しなきゃいけねぇんだよ」

早々に受話器を上げる動作にほぼ表情が見えなくなって、とにかくそれを受け取るしかない。

どなたにですか?

そう口に出す前に、"体育"という文字が目に入って、成程と納得はした。

「わかりました。届けてきます」

簡潔に返事をして立ち上がったのは、恐らくそれが不死川先生の気遣いなんだろうというのが伝わったためだ。

確かにおっしゃる通り、校閲の付箋には"本日中"と大きく赤文字で書かれてはいるけれど、実はそこまで急ぐ必要はない。

あと30分もすれば冨岡先生は確実にここ、職員室に戻ってくる。

その時に確認してもらればいいだけの話だ。

しかしこちらがそれを指摘してもあの様子から察するに、十重二十重と理由を用意していたと思う。

私を冨岡先生の元へ向かわせるために。

不死川先生に気遣われるほど、態度に出ていただろうか?
そういえばこの間も言われたっけ。"嘘が下手になった"と。

果たしてこれは良い兆候なのか悪い兆候なのか。

いや、気になっていないといえばそれこそ嘘にはなるので、こうして体育館に向かう理由を作っていただいたのは素直にありがたいと思うべきだろう。でも……。

なんて、堂々巡りの思考の中で到着したところで、

「いいねいいね〜!すっごい上手っ!筋がいいよ〜!」

晴れやかな声が聞こえて一度立ち止まる。

「先生、難しい〜……」

そう言って生徒がしゃがみ込んだのは大きなトランポリンの上。
少し動いただけで上下に揺れるその上を自由自在に動くのは、確かにかなりの練習が必要そうだ。

「大丈夫!まっすぐ跳べてたじゃない!最初は高さを意識するんじゃなくて、姿勢を身につけるといいんだよ?何事も基礎からっていうじゃない?ねえ?」

目配せをもらった冨岡先生は、コクと小さく頷いたあと、トランポリンの下から生徒が降りるのを補助しては、次の生徒が登らせている。
背中を向けているから、私がここにいることはまだ気付いていないだろう。

今ここで声をかける、ましてや書類を渡すなどもってのほかだと一歩引いて、タイミングを見計らうことにした。

というか、やっぱり戻った方がいいのかもしれない。

そう考えたのは、何か虫の知らせみたいなものなのか。

「じゃあ次はね、どうしよっか。ちょっと難易度上げてみよっかなぁ?」

悪戯に笑う富岡さんに、生徒達のブーイングに近い声が上がる。

「あははっ!冗談冗談っ!」

豪快に笑うその顔は、何と言うのだろうか。飾り気がなく、親しみやすい印象を受ける。

「じゃあ今度は、これをやってみよう!」

良く通る声でそう言ったあと、トランポリンの上で跳ぶ姿は、正直に言ってカッコイイ。

高さのある跳躍のあと、空中で足を前に真っ直ぐ伸ばし、座った姿勢でトランポリンを跳ねたかと思えば、また足をピンと伸ばして止まる。

「はいっ、これがシートドロップという技です」

一見すれば単純かつ簡単に見える動作も、跳びながら体勢を変えるのは容易ではない。

案の上、苦戦している生徒達に笑顔を絶やさないまま、指導を続ける姿を終始見入っていたと気が付いたのは、

「じゃあ今日はこれくらいにしよっか」

その声が響いてからだった。

次回の指導内容を軽く伝え始めたタイミングで、そろりとそちらに向かえばすぐに冨岡先生と目が合った。

驚いてはいないあたり、途中から気付かれてたんだろうな。

「すみません、こちら不死川先生から預かってきました」
「……。忘れていた」

書類を受け取って読み耽る姿から、解散をしていく生徒達へと視線を動かす。

「名前先生、ありがとうございました〜!」
「はーい、お疲れ〜」

生徒達に手を振って、トランポリンを降りようとした足がふらついたと気が付いた瞬間、

「あぶなっ」

咄嗟に出た声より早く落下した身体を抱えるのは、目の前にいたはずの青いジャージ姿だった。

「…………」

沈黙が流れたのはそこまで長い時間じゃない。

「……いや〜、危なかったね〜!助かった〜!」

豪快に笑う富岡さんに一瞬眉が動いたかと思えば、すぐにその手が離された。けれど何故か、それがすごく……

「義勇、相変わらず反射神経いいね〜」

軽く叩かれてた肩も無言で避けるだけで、何も言わないその表情を見るのが怖くなった。

「先に行ってますね」

職員室に逃げ帰った私に、不死川先生は少し驚いたように目を見開いただけで、何も聞いてはこないのがありがたいと思う。
少し遅れて戻ってきた冨岡先生は特にこれといって変わった様子もなく、不死川先生に書類を渡したあと、

「帰ろう」

そう言って繋いでこようとする手には、一瞬躊躇った。

いつもなら「仕事場ですよ」とか何とか理由をつけて避けるというのに、今の私ときたら素直にその手に包まれている。

握り返しはさすがにしないけれど、そのまま職員室を出たのは何と言うか、そう。

「体育館の鍵ありがとうございました!」

溌剌な笑顔が、それを見るという計算の上だ。

少しだけ驚いたようなそれでいて気にしていないような、何とも読めない表情のあと、

「お疲れ様です」

ヒラヒラと手を振って向けられた背中は、どういう心情なのかやはりわからない。

「……嫉妬したか?」

2人きりの帰り道、当然触れられるであろうことは既知していたはずなのに心臓が波打って図星だというのも自覚した。

「……。しました」
「珍しく素直だな」

冨岡先生が驚くのも無理はない。

この感情は、初めて認めた気がする。

「仕方がないことだというのもわかってます」

あの時、冨岡先生が支えなかったらどうなっていたか。それを考えたらこんなこと、思うべきではない。
腰に回した腕が咄嗟のものだっていうのもわかってる。
わかっていてもすぐに忘れられるほど単純でもないし、割り切れるほど理性的でもないから結局のところ、だ。

「怪我がなくてよかったですね」

無難な言葉を返すしかない。

でもそれもきっと、今の心情なんて見破られてるんだろうな、この人には。

理解を示そうとしてくれる。

だから皆まで言わずとも、こうして握る手に力を込めるだけで、それ以上で返してくれるんだ。

包まれた温もりと香りで、勝手に上がっていく口元を隠すように胸元に擦り寄れば、その力は更に強くなった。

「止めないのか?」
「……。止めてほしいですか?」
「いや」

それだけ言って離れた身体と、今度は近付いてくる顔がどういう意味を持つかなんてわかっていて、戸惑いから視線が泳ぎつつも自然と目蓋は下りていく。

「何だ、まだこんなとこにいたの?」

唐突に聞こえた声で、肩が震えた。
私から離れたのは、咄嗟に自制が働いたからかもしれない。

「もうとっくに帰ってたのかと思った」

向けられる笑顔はさきほどと同じ、爽やかそのものだ。

「…お疲れ様です」

軽く頭を下げれば、更にその笑顔は深まる。

「もしかして付き合ってるんですか?」

直球の質問が飛んできて、それが私に向けられているものだとはっきりと知ったのは、

「あ、お名前なんでしたっけ?」

困ったような、それでいて崩さない笑顔のまま傾げられた首によってだった。

そういえばきちんと名乗っていなかった気がする。

「苗字と申します」
「苗字さんっ!改めまして富岡名前です。よろしくね」

差し出された手を応える以外、道はなくてその手を握ればぐっと強く握られた。
一瞬顰めそうになった眉を堪えたものの、

「あ、やだごめんなさい!痛かったですか?」

パッと手を離す笑顔はどういう感情か読めない。

「…いえ」
「ほんといつも加減できないんですよね。昔からよく馬鹿力って言われてて〜」

軽く笑ったあと

「義勇も言ってたよね?」

そう言って顔を覗き込む仕草は嫌味を感じさせなかった。

「……。俺は言ってない」
「そうだっけ?じゃあ誰だったかな〜?」

顔を背ける冨岡先生にさして気にする素振りもなく、顎に手を当てて考えながら次々と出てくる名前のあとだ。

「そういやさ、知ってる?あいつ今夢叶えて海外で働いてんだよ?」
「そうなのか?」
「そう!見送り行ったけどマジで泣いた!めっちゃカッコイイじゃんって!」
「……そうか」
「それで6年の時一緒だった──」

返しているのは一言だけでも続いていく会話に、居心地の悪さを感じたのも束の間。

「私達が小学校で仲良かった子達なんですよ。ひとりは海外でドクターやってて、もうひとりはこの間結婚したんです」

こちらに対する細やかな気遣いに、申し訳なさが募った。

「そうなんですか…」
「それでその結婚式がめっちゃ楽しくって」

わざわざ私にも情景がわかりやすいよう話してくれる富岡さんは話術に長けている。そう素直に感じた。
加えて気取っていないざっくばらんな性格が相まって、何と言うか、話しやすさの中に頼りになるというのが所々に垣間見る。

「あ、じゃあ私こっちなんで」

分岐点で別れたことで、終始彼女のペースで進んだ話は突如として終わりを告げた。

思いがけず訪れたのは静寂で、私はそれを上手く受け入れられずにいる。

いつもなら何とも思わない横顔を窺ってしまうのは、多分これもまた嫉妬の類だ。

明らかに今までの冨岡先生と違う。

いや、正確には"私の知っている"冨岡先生とは違う。

確かに返していたのは相槌だけだった。けれど、今までの冨岡先生ならそれすらもしない。
それだけ言うとちょっと人としてどうかと思うけれど、その理由が明快かつ、耳は傾けていたから別段咎めもしなかったし、正直嬉しかった。

"私が不安にならないために"

その姿勢を貫いていたからだ。

じゃあ、どうしてさっきは会話をしていたのだろう、なんてことを考えてしまう。

それこそ、自惚れからくる驕りだってわかっていても。

そして不安が沸き上がる。

小学生の頃の同級生ということは、本来の冨岡先生を知っているということだ。

蔦子さんから聞いた話と、拝見したアルバムから察するに、当時の性格は今と真逆といっても過言ではないほど。

つまりはあの人は、私の知らない冨岡義勇を知っていることになる。

認めた瞬間、心臓が痛くなった。

初めて、かもしれない。こんなにざわつくのは。

「……どうした?」

不思議そうに見つめる群青色の瞳にも胸が軋んだ。

「……いえ。何でもないです」

一瞬、思ってしまった。

"どうして今この時は察してくれないの?"と。

そんな言葉が一瞬でも過ぎってしまったことが悔しいし憎らしい。

確かに冨岡先生の察知能力は凄まじい。いつも驚かされている。

だから、何?

察してもらってどうするの?

私が欲しい言葉を言ってくれるとでも?

だいたいそんなことを考えている時点で烏滸がましい。

冨岡先生は旧友に会っただけ。会話をしただけ。

それの何が悪い?必要だから関わっている。

私がいつも言っていることだ。

でも、それがこんなにも苦しいなんて。

「何でもないという表情には見えない」

じゃあ、どうすればいいの──…?

「何でもないです。というか何でもないと思うようにしたいので少しそっとしておいてくれませんか?」

自分でも気持ちが全くといっていいほど追いついていってない。

この雑然としたものを吐露したところで、どうしようもないのはわかってる。

むしろ冨岡先生を傷付けるだけだ。

だから少しでいい。落ち着くまで待ってほしい。そうしたら自分の中で消化ができる。

「……わかった」

明らかに納得はしていないのに身を引いたのは、それこそこちらの意思を尊重してのことだろう。

だけどそれが消化不良のまま燻っていくのを、この時点でまだ私は気が付いていなかった。

* * *

まるで表面張力を失ったかのように零れ落ちたのは、情けないことにそれから数日もしないうちだ。

きっかけなんて、取るに足らない些細なもの。

いや、私にとってはそれこそ天と地がひっくり返るような衝撃だった。

終了時間を過ぎても体育館から戻ってこない冨岡先生達に、何となく嫌な予感を覚えて"見回り"と理由をつけて向かった先は、なんてことはない。

ただ指導で使ったマットを片付けているだけの光景だ。

だけど、そこで聞いたのは決定的な言葉。

「私、今でも義勇のこと好きだよ?」

一瞬、何を言っているのか理解できなかったのは、多分認めたくないというのと、それがあっけらかんとした口調で発せられたことによる、一部のバグに近いものだった気がする。

それに対しての冨岡先生の返答は無言。

それは私がいると知ってのことじゃない。

この距離と位置からではさすがに察知はできないだろうし、知っていたら絶対にこちらへ視線を向けてくるのがわかっている。

じゃあ、何で何も答えないの?

言いようのないざわつきを感じている私をよそに、

「わかってるよ。彼女いるんだもんね」

その一言でまるで何事もなかったかのように会話が終わった。

だから私も、何も聞いていないかのように振る舞うべきだ。それか、ここを立ち去るべき。

そうは思うのに、片付けを終えた2人がこちらの存在に気が付くまで一歩も動けずにいたのは、自己顕示欲の現れなのかもしれない。

「……あ」

少し驚いた表情をしたものの、富岡さんはにっこりと微笑んだ。

「お疲れ様です。ごめんなさいね。お借りしちゃって」

そう言って差し出した体育館の鍵。

表面上はこの場所のことを指しているように見えて、そこに初めて彼女の感情を見た。

「いえ、お疲れ様です」

裏の意味を悟っても、それ以上のことは返せなかった私を、この人はどう見るんだろうか。

鈍感と思うのか、それとも余裕からくるものだと感じるのか。

鍵がこちらの手に渡ったあとも崩さない表情に、少しだけ翳りが見えたのはそれこそそうであってほしいという期待があるからだ。

しかし、富岡さんが立ち去ったその後に残ったのは、気まずい空気。

今までの成り行きを私が見ていたことは、態度からすでに伝わっているだろう。

それでもその話を振るのは、どうしても気持ち的に阻まれた。

「鍵、閉めますね」

ついまた、何事もなかったかのように振る舞っては平静を装ったのに、鍵を持つ手は明らかにおぼつかない。

「俺がやる」
「いいです、大丈…」

言い終わる前に攫われた鍵と、ガチャリと音を立てた扉をただ見ているだけだった。

今でも。

それがどういう意味を持つのか、勝手に思索している。

昔も好きだったということになるのは明白として、じゃあ、その時この人は、どんな顔をして、どんな対応をしたのだろう?

過去を知らない私には、想像する余地すらない。

「訊かないのか?」

だから誘導しようとするその言葉すらも、今は逆なでされているような錯覚さえした。

「何をですか?」

訊かないのは、聞きたくないから、なんて口に出せるわけもない。

私は冨岡先生と違って、自分が傷付いても相手の全てを受け入れるなんて到底できないんだと、わかりきっていたことを思い知らされた。

「何故素直に言わない?嫉妬しているならしていると言えばいい」
「言ったところでどうなりますか?」

咄嗟に返した棘しかない返答に、一瞬だけ寄った眉根がこれでもかと心を刺した。

「というか、してませんし」

自分でも可愛げがないと思う。本当に。

これは、ただの嫉妬という可愛いものじゃない。

人間の器の小ささを思い知らされた。

富岡さんという存在によって。

だから冨岡先生の態度でより一層、露呈している。

以前のこの人なら、きっと富岡さんのような溌剌とした方を好きになっていたんじゃないか。

それはもう多分、揺らぎない事実だ。いくら考えてもそこに行き着く。

少なくとも、私のように捻くれた人間には近づきもしなかったはず。

以前の、冨岡義勇さんであれば。

「俺は何があろうと名前以外、興味がない」

だから、本当は嬉しいはずのその言葉が今は胸を大きく抉っていく。

「別にいいですよ。無理しなくて」

そんな風にしか返せない性格に心底嫌気が差すのに、そうやって強がることで結局、自分を守ろうとしてる。

きっとあの人なら、もっと──…。

「何故信じようとしない?」

無意識のうちに俯いていたと気が付いたのは、肩を掴まれてからだった。

反射的に見上げた群青色の瞳は真剣で、また心は痛む。

「信じてない、というのとはまた違います。わかってますよ、大丈夫です」

この人が私を、本当に、もうこれでもかと想ってくれているのはわかってる。

じゃあ、こんなに悲しくなるのはどうして?

「…名前?」

名前を呼ぶその声に、胸が締め付けられていく。
その瞬間、勝手に流れ出た涙に気が付いた。

何を、泣いているのか。こんなことで。

冷静に考えているはずなのに、溢れていくそれは全く止まってはくれない。

「初めて、思いました……っ」

ジャージをギュッと掴んだ手が震えていて、自嘲が零れた。

「冨岡先生のこと、全部、私しか知らなければいいのにって……」

とんだ独占欲。

平等だの公平だの、ましてや人のことをどうこう言える立場じゃない。

本当は私こそ我儘で、聞き分けのない駄々っ子だって自覚してしまったことがショックだった。

名前で呼ばないで。触れないで。

そんなことばかり考えてしまう心を無理矢理押し込めて、素知らぬふりをしたのに。

視界にすら、入れてほしくない。その存在さえ──

本当に最低なことを頭に浮かべてしまった。

「……すみません、冷静になります」

絶対に口には出したくない。
隠し通したい本音が零れ出てしまう前に離れようとした身体は思い切り引き寄せれらて、口唇を塞がれる。

「…っ!?…んんっ!」

容赦なく絡んでくる舌から逃げようにも、力の差が歴然なのは明らかだ。

「…んっ、はぁ」

結局、立っているのがやっとなほど骨抜きにされた激しいキスがようやく終わったかと思えば、耳元に落ちてくる口唇と、服を脱がそうとしてくる右手に眉を寄せる。

「ちょっと……なにする…っんですか!?」
「決まってる」
「決まって…!?」
「言わせたいからわざと恍けてるのか?」
「ちがっ」

歯を立てられた感触に息を呑むも、はだけていく衣服の感覚に手を掴んだ。

「ちょっと待ってくださいってば!ここどこかわかってます!?学校ですよ!?」
「関係ない。俺の全部を名前に見せたいし与えたい」
「いや関係ありますし!全部っていうのはそういうことじゃないですしいやですよ絶対!ホント暴走しないでください!」
「お前が泣くのが悪い。お陰で抑えが利かなくなった」
「それはっ……、本当にすみませんでした…!でもほらもう泣いてないですから溜飲は下げてもらって…それは違いますね!下げなくていいです!!」

何とかボトムスを死守したはいいけれど、代わりにきょとんとした瞳に見つめられる。

「下げないと挿れるのは無理だ」
「無理でいいです!大丈夫です!」

縺れ合いながら、何とか物理的な距離を取ったことから出た溜め息。

ひとまず目の前の危機は脱出できた。

「そういうことじゃないんですってば……」

説明をしようにも、さっき考えていたことの大半がごっそり頭から抜け落ちた気がする。

何であんなに、涙が出るほど悲しくなったのだろう?って。

目の前のこの人は、何も変わらないのに。

「もういいです……。職員室に戻りましょう」

何だか真剣に悩んでいた自分すら馬鹿らしくなってきて今度は強がりでなくそう言えば、

「そうだな。帰ろう。早く名前のナカに入りたい」

しれっと言いのける涼しい顔に、本当にどうでも良くなった。

かと思えば、

「俺がそう思うのもお前だけだ」

若干柔らかくなった口調と、優しく繋いでくる手に、あぁホント惚れたもん負けだな、なんてしみじみしている。

「…そうですか。それは、嬉しいです」

さっきまで痛くて堪らなかった心は、またこれほどになく潤っていってる。

"触れるだけで満たされる"

この人が言っている言葉の意味を、今更痛感した。

「その割には随分仲良くなさってませんでした?」

嫌味っぽくなってしまうのは、もはや癖だと諦めよう。

何せこの感情を抱いたのが初めてなのだから、上手く伝える術を持っていないのも当然だ。

「……。嫉妬か?」
「そうですね。これはもうまごうことなき嫉妬です。もう心が雑然としてますよずっと」
「やっと全てを認めたな」

笑いを含んだ物言いに、こちらまでつられたのは何故かわからない。

「まぁ、ちょっとは…」
「可愛い」

絡まる指が強くなった心情も、よくはわからないけれど。

「発想の転換という名の開き直りです」

全部、欲しい。

そんなこと、絶対に叶うわけがない。

だから悲しくなった。

私が知らない過去がある。その事実に。

加えて、富岡さんの人柄の良さに触れ、抑えていたものが溢れ出て尚更卑屈になった。

だけどそれが私で、そんな欠損ばかりでもこうして抱き締めてくれる人はいる。受け入れてくれる場所がある。

そう、心の底から感じることができたから、不思議なことに今すごく落ち着いている。

「今でも好きってどういう意味ですか?」

これには少しばかり罰が悪そうな表情をするので、あぁ、この顔は何か隠してるなと瞬時にピンときた。

「富岡さんだけにはいつもの狂人さがありませんけど、それはどういう心境からですか?」

畳み掛ければ、その表情はさらに困惑していく。

「突然尋問が始まるな……」
「開き直ってるんで」

過去がどうこうなんて考えればそれこそキリがない。

今ここで目に映るものが全て。

きっとそうやって、冨岡先生も私のことを受け入れると決めたのだろう。

だったら次は私がそうする番だ。

「冨岡先生は私の全てを知っているのに、私が知らないのは不公平だと思いますがいかがでしょう?」

その言葉が、渋る背中を押したのかもしれない。

「好きだと言われたのを、思い出した。小学生の話だ」

蕪雑になりながらも観念したような回答に、胸が痛んだのも仕方がないことだ。

それにどう返したとか、どう思ったとかなんて、過去のこと。

まだ私達が出逢う前の話だ。だから受け入れる以外にはない。

だけど、気になるのはそこではなくて──…。

「聞き間違いでなければ思い出したとおっしゃいましたが……」
「聞き間違いじゃなく確実にそう言った。正直、会うまでその記憶は埋もれていたし、それくらい俺にとって取るに足らないことだ」
「……でも」

彼女にとっては?

そう口にしかけて噤む。

訊いたところでそれも仕方のないことだ。

「本当に、取るに足らないことだったんですか?」

それだって、訊いても仕方のないことだけど。

返答があったのは、パチパチと音がしそうなくらいの瞬きのあとだ。

「誘ってるのか?」
「どうしてそうなるんですか……」
「上目遣いでその質問は狡い。あざとさしか見えない」
「ちょっとおっしゃっている意味が計りかねますので先に話を先に進めたいのですが…」

嫌な予感がした瞬間に距離を取ろうとしたのに、ぐんっと近付けてくる顔に動けなくなる。

「何故俺があんなに大人しかったかわかるか?」

その質問に対する答えは、すぐには出なかった。

考えてみれば、沢山の可能性がある。

少しは彼女に気が合ったから。
それが仕事だから仕方なく。
はたまたご褒美をもらうため。
いや、でもそれなら事前に告知しているか。
それなら──…

「感情の波に揺れ動く名前が見たかったからだ」

どこか勝ち誇ったような表情を見て、言いようのない気持ちが湧いてくる。

「それはとても悪趣味ですね」
「悪趣味じゃない。これから先、その感情を受け入れるのは大事なことだと踏んだ。でないとお前はいつまでも誤魔化し続ける」
「…それは、そうですね」

何だ。やっぱり"私のため"で的確にこちらの心情を察知しているじゃないか、なんて一瞬でも安心してしまった自分が恨めしい。

これは相当に、愛されているなんて自惚れてしまってる。

「それに」

ぽん、と頭上に乗った掌の温かさで上げた視線の先には群青色の瞳。

「過去の俺は既にはっきりと断っている。相手の傷口に塩を塗るような真似は名前が望むことじゃないだろう?」
「それもそう、ですね……」

もしかしたらじゃなくても冨岡先生、覚えてくれているんだろうな。

初めて階段に座って2人きりで話したこと。その背景も。ちゃんと、全部。

そう思うと嬉しくなる。さっきまでは複雑、というか毅然とした態度じゃないことが嫌で堪らなかったのに。

でもちょっと、待って?

「…え?断わったんですか?」

かなり遅くなった反応に、その瞬きが早くなった。

「そうだ」
「いつ?」
「小学生の時だ。その場で言った」
「なんて?」
「"好きにはなれない"と」
「直球ですね」
「相手も直球だったからな」
「そうなんですね」

そこで終わらせればいいのに、やっぱり、少し、いやだいぶこう、詳細を訊きたくてうずうずしている。

「何て言われたんですか?」
「気になるのか。可愛いな」

ムフフと笑う余裕さが恨めしくもあるけど、背に腹は代えられない。

「気になります」

はっきりと告げた瞬間、片手に抱えられて浮いた両足には困惑が沸き上がる。

「冨岡先生!?」
「駄目だ。我慢できない。早く名前の身体を堪能したい。帰ろう」
「なんでそうなるんですか…」
「愛おしいからだ」

悪びれもなく、そして恥ずかし気もなく言ってのけてくれるので、こちらが照れてしまった。

「ちょっと、離してくれませんか?」

制止はしたものの、無言で歩き出す姿に思わず脱力してしまう。

やっぱり強靭な狂人には敵わないのだと思い知らされた。というか打ちのめされた。

ここ数日の心のざわめきとか、痛みとか、全部吹き飛ばしてしまうのだから恐ろしい。

でも、また私は思うのかも。

富岡さんに会ったら。存在に触れたら。

自分でもコントロールできない感情が占めてしまいそう。

その時の対処の仕方が正直、いまいちよくわからない。

「私は話がしたいんですけど……」

このままじゃなし崩しだ。

だからこそ溜め息混じりで訴えたのに、立ち止まったその表情はきょとんとしている。

「沸き立つ感情を受け入れたんじゃなかったのか?」
「正確には受け入れている最中です。正直全てに納得しているわけではないので、もうちょっと噛み砕きたいですね。後学のために」
「そこまで真面目に考えなくていい。どうせあと数週間の付き合いだ」
「え?」

思いっ切り訊き返してしまったけれど、抱えられたままではどうにも罰が悪い。

「変更された後の新設要望書の書類を見てないのか?」
「見て、ないですけど。確か教頭から直接冨岡先生に渡されたはずでは?」
「そうか、俺が話してなかったのか…」
「あの、ひとりで納得されているところ申し訳ないんですけど、説明していただいてよろしいですか?できれば降ろしていただけると尚のこと嬉しいのですが「あの体操教室は期間が決まっている」…そのまま続けるんですね」

もういいや。ひとまずは話を聞こう。

「キメツ学園の体育館は常に運用依頼がきている」
「…確かに、あの規模の大きさの体育館といったらこの辺にはないですしね」
「余りにも依頼がひっきりなしにくるため校長が出した苦肉の策だ」
「それが期間限定ってことですか?」
「そうだ」
「でもそしたら生徒達はどうなるんです?」

突然教室が閉鎖になってしまえば困るのは子供達だ。

「その点も抜かりはない。生徒数に応じた移転場所は確保してある」

そこまで聞いてから、ヤケに冷静になっていく頭とは裏腹に焦りは募る。

「……だからっですか!?」
「何がだ?」
「期間があると知っていたから冨岡先生は余裕綽々でいられたんですね!?」
「余裕があるように見えるか?早く名前を抱きたくて仕方がないんだが」
「そういうことではなくて」

律儀に説明しようとして隠し切れていない口角で一気に眉を顰めた。

「もしかして全部……っ!」

わかったところでもう遅い。

「俺の全部、全て名前に捧げよう」

真剣な表情、それこそカッコよく宣ってくるものだから、溜め息すら吐けなかった。


その気概は充分わかってたはずなのに


(…今回は参りました。見事に完敗です)
(認めるのか、可愛いな…。やはり今から)
(せめて家に帰ってからでお願いします)


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