good boy | ナノ
「悪い事は言いません。今すぐ私から離れてください」

気が付けば、小声で告げていた。
冨岡先生から放たれる負の感情が嫌でも伝わったのだろう。
掴まれていた手首の力が緩んだのを感じ、そこから抜け出すと生徒と冨岡先生を遮るために間に立った。

good boy


「看板犬の仕事はどうしたんですか?」
「そいつはお前に何をしようとしていた?」
「特に何も。会話をしていただけです」
「つまらない嘘を吐くな。会話をするだけなら触れる必要はない。本当の事を言え」
人の話を聞かない上に冷え切った口調に、あぁ、最初に会った時のこの人ってこんな感じだったな、と何故かしみじみ思った。
「冨岡先生、落ち着いてください。今の時点で全ては解決しています」
「全くしていない。少なくとも俺はそいつを殴らないと気が済まない」
その言葉にこれまでにない程、眉間の皺が増える。
「教育を逸脱した行為ですよ。その感情は体罰でもなく、ただの暴力の域です。認める事は出来ません」
「名前が何と言おうと許さない。良いからそこを退け」
重い、とてつもなく重い溜め息を我慢したと同時
「ゆ、許さないってお前に何が出来んだよ!」
背中から聞こえる強がりに固く目を瞑ってからすぐに開けた。
「すみません、今牙を剥いてる野犬を必死に宥めてる所なんで更に燃料投下するのやめてもらって良いですか?」
若干口調がきつくなってしまったのは私自身、この怒り狂った犬を冷静に戻させる保障が出来ないためだ。
今はまだ会話が出来ているので可能性はあるにはあるが、これ以上頭に血が上ってしまえば私の声も届かなくなるだろう。
「何故そんな奴をかばう」
「かばってる訳じゃないです。不毛だと思いませんか?殴っても何も変わりませんし誰も幸せになりません」
「そんな事はどうでも良い。黙ってそいつを渡せ」
「今殴ってしまえばまた癖になって元に戻ってしまいますよ?良いんですか?それで」
「関係ない」
冨岡先生のその少し後ろ、立ち竦んだまま怯えた表情に視線を向ける。
このまま宥め続けるより存在を視界に入れさせない方が賢明だ。
「今回の事は不問にします。手に持っているものをそこへ置いたらすぐに後ろの彼を連れて校舎に戻って」
「…は、はい!」
この子が素直に話を聞いてくれるのが唯一の救いだ。
しかしそれも、背後を全く警戒していなかった冨岡先生が勢い良く振り返り、鋭い目が捉えた事で動けなくなった。
「冨岡先生駄目ですよ。待てです待て」
ピクッと反応した身体が僅かに止まった隙をついて私の後ろまで必死に走ってくると
「…い、行こう!早く!」
走り去っていく2人分の足音を背中で聞いた。
「…チッ!」
追い掛けようとする姿を遮るため目の前を塞ぐ。
「待てって言いましたよね?追い掛けるのであれば、私を敵に回す事になりますがそれでも行きますか?」
「………」
未だ険しい表情のままだが、走り出そうとした力を緩めたのに気付いて無意識に溜め息が零れる。
「……。良く我慢しました。偉いですね」
若干緩んだ眉間の皺で冷静さを取り戻し始めた事が窺えた。
生徒が素直に置いていった煙草の箱を拾おうとその横を通り過ぎようとした所で右手を掴まれる。
「どこを触られた?」
「どこって別に、どこも…」
思い出してみても手首を掴まれただけで実害は全くない。
しかしそれも言い終わる前に冨岡先生の両手が胸と太ももを這った。
「…何するんですか!そんな所触られてないです!」
危険なのはさっきの生徒よりこの人の方だ。早々に離れると箱を拾いポケットにしまう。
「…で、どうして此処に居るんですか?っていうかどっから出て来たんですか?いきなり降ってきましたよね?」
「2階渡り廊下の窓からだ。教室から此処までの最短距離を考えると自然とそうなった」
「あそこから飛び降りたんですか?その恰好で?何やってるんですか。下手したら怪我してますよ」
「そこまで柔じゃない。しかしこれのせいで全速が出せずかなりの時間をロスした。いつもの姿ならば名前に触れさせる暇もなく一発で倒していたのが悔やまれる」
「…いや、だから倒さなくて良いんですってば」
少し考えてから続く疑問を口に出した。
「という事は最初から私が此処に居るとわかってたって事ですよね?」
「窓からお前が体育館倉庫に向かっていくのを見た。此処は人目につきにくい分、余り治安が良くない。1人で来るような場所じゃないと、止めにきたら案の定だ」
思い出したように険しい顔をする冨岡先生に
「…そうだったんですか」
無意識の内に目を伏せ
「あ!!」
突然、素っ頓狂な声が出てしまった。
「…どうした?」
そうだ今何時だ!?
急いで腕時計を確認すると13時まであと5分を切っている。
「冨岡先生は教室に戻って看板犬を続けてください。私も此処から離れます。では」
今どうなっているか全く状況がわからない。
近くに居るであろう誰かしらと合流した方が良さそうだ。
足を進めたと同時、また手を掴まれたかと思えばその腕の中に居た。
「…褒美が欲しい」
「すみません今ほんとに忙しいんで」
「今すぐ褒美が出ないのであれば教室には戻らない。名前と一緒に行く」
「どうしたんですか、また駄々っ子になってますよ」
「俺が居ない所でお前が誰かに触れられたと思うとその事実に憤死しそうだ。耐えられない」
「そんな手ぐらいで大袈裟な…」
「ずっと何処かに閉じ込めておきたくなる。俺の目にだけ入るように。俺だけが触れられるように…」
また頭に埋める鼻に眉を寄せる。
「犯罪犯しそうな人間みたいな台詞なんですけど大丈夫ですか?正直かなりの恐怖ですよ」
「俺も自分で自分が怖い。名前が目の前から居なくなったらと思うだけで気が狂いそうだ」
「大丈夫ですよ。そうなったらきっと誰かが拾ってくれます」
「無理だ。お前にしか俺は飼えない」
身体のラインを沿うように弄り始める両手に一歩後ろに引いても冨岡先生も同じ様に距離を詰めてくる。
「飼ってるつもりはないって何度言えば…っていうかちょっと…その手、やめてください」
「感じるのか?身体が反応してる」
「違っいます!拒絶反応ですよ!ほんとにしれっと何て事…っ!」
両手首を抑えようとしたと同時、逆に抑え込まれ顔を上げた目と至近距離で見つめ合ってしまい、息を呑んだ。
真剣な表情に目が逸らせない。
両手に優しく絡まる指と近付いてくる顔

「苗字!?」

を思い切り押し返していた。
「ってあれ?冨岡も居たのか…」
軽く息を切らしながら安堵の表情を見せる人物に冨岡先生は私の手首を掴むと退ける。
「不死川先生…どうしたんですか?」
「どうしたってお前なァ!何かあったのかって探しに…」
あぁ、そうだLINEをまだ開いてなかったからか、と思うと共に不死川先生が途中で言葉を止めたのは、冨岡先生がまた両腕の中へ強引に押し込んできたからだ。
咄嗟の反撃で顎だけは押し返したが、その腕は緩まる所か狭まる一方で、ミシミシと音を立てるそれに、こちらも押し返す力を強めた。
「…何やってんだお前らァ」
「すみ、ません…!ちょっと色々立て込んでまして、野犬と死闘を繰り広げてるんですよ」
「俺には犬と飼い主がじゃれてるようにしか見えねぇけどォ」
「これがそんな可愛らしいものに見えるなんて不死川先生の世界は平和で良いですね何よりです。こちらは生きるか死ぬかの瀬戸際ですよ」
冨岡先生にとって予期せぬ人物の登場で落ち着いた筈の感情がまた暴走し始めてる。
とにかくその牙だけはこちらに向けさせないようにしないと不死川先生の前で何をしでかし始めるかわからない。
「そちらの状況は?」
「あ?あぁ、13時過ぎたが特に何もないな。やっぱ悪戯だったんじゃねぇの?って話してたんだけどよォ。多分お前のLINE通知すげー事になってると思うぞ?」
「そうでしょうね」
「…どういう事だ」
未だにメリメリと音を立てながら両腕に力を入れ天を仰いだまま口を開く。
「何がですか。っていうかまず離してくれません?」
「何故不死川が名前の連絡先を知っている」
あからさまに機嫌が急降下していくその姿に
「仕事に必要だったからです」
一言そう言えば
「冨岡ん所にも来てっから見てみろォ。グループLINEに苗字入ってんぞ」
続く不死川先生の言葉にゆっくり両腕が離された事で私もその手を退けた。
懐からそれを取り出し、恐らく画面を確認した所で急降下していた機嫌が、今度は急上昇し表情が緩んでいく。
「…名前の、LINEだ…」
噛み締めるように画面をスクロールしていく姿はこの際放置しといて、不死川先生に視線を向けた。
「無駄な手間を掛けてしまってすみません」
「冨岡と一緒だったなら良いけどよォ。ここら辺治安悪いからあんま近付かない方が良いぜェ?」
「先程全く同じ事を冨岡先生にも言われました」
私の言葉に、一瞬考えたように視線を巡らせたあと静かに口を開く。
「…お前、やっぱ何かあったんだろ?考えてみれば冨岡が此処に居る事自体オカシイよなァ」
「それなんですよ。この脱走した看板犬送り届けてくるんでまたちょっと抜けます。すぐ戻りますから」
「…いや、多分もう何も起きねーだろうから苗字も自分の仕事に戻って大丈夫だぞ。俺達よりやる事山ほどあんだろォ?」
「そうですか、ありがとうございます助かります。冨岡先生、いつまでもスマホ見てないで行きますよ」
未だに画面の前で固まる腕を掴むと引き摺るように連れていく。
「良いですか?生徒に余計な不安を与えないでくださいね。何処に行ってたのか訊かれたらトイレとか適当に答えてください」
「……」
「聞いてます?」
「…聞いてはいる」
画面から全く顔を上げない姿に眉を寄せたものの、竈門くん達のクラスに戻れば先程の体育館倉庫裏と違い、穏やかな時間が流れていた。

「あ、苗字先生!来てくれたんですか?」
「看板犬を返しに来ました」
「冨岡先生!何処行ってたんですか?急に走っていっちゃうから皆で心配してたんですよ〜!」
「…トイレに行っていた」
女生徒の言葉にぶっきらぼうながら返す姿に安堵したが、今度は違う事に気付く。
「…随分と客足が落ち着きましたね」
落ち着いた所か1人も居ない。
私が見た時は看板犬の存在も手伝って繁盛していたのに。
「これから先輩達のバンドが出るんで皆そっちに行ってるんですよ。うちのクラスの奴らも暇だからって見に行っちゃいました」
その言葉に少しホッとした。
「…そうなんですね」
文化祭前の職員会議、そのバンドがかなり本格的なもので学校中で人気だというのは確か宇随先生に聞いた。
去年も特設ステージはかなりの盛り上がりだったらしい。
どんなものなのか多少興味が沸いていたが、今年は一目見る事も叶いそうにない。

「苗字先生、今ならお客さん誰もいませんし、折角だから食べて行ってください」

竈門くんの言葉に勝手に眉が寄ってしまった。
「……」
すみません、という言葉を出す前に喉で止めたのは、また大人しく看板犬に戻ろうとする後ろ姿を見てしまったからだ。
「…冨岡先生」
名前を呼べば静かに振り向いたその口が答える前に続ける。
「お昼食べました?」
質問の意図がわからないといった表情ではあるものの、
「……。忘れていた」
短く答えた事で五本指で2人掛け用に作られた机と椅子を指す。
今度は訝しげになる表情に答えるために続けた。
「奢ります。座ってください」
「…忙しいんじゃなかったのか?」
「もうどう考えても就業時間内に全ては終わらないんで諦めました。甘いものでも食べないとやってられません」
徐々にその口唇が嬉々として上がっていくのを横目に、先に椅子へ腰掛ければ、すぐに冨岡先生も向かい側に座る。
「私達がサボってた事、今此処に居ない子達には内緒にしてもらえます?」
竈門くんに向けてそう言えば、慌てたように何度も首を縦に動かす。
「あ、はい!勿論!皆まだ帰って来ないんで、今のうちにゆっくりしてください!」
「ありがとう。お薦めはどれでしょう?」
「うーん、どれもオススメですけど…一番人気は三色団子とお茶のセットです」
視線だけを冨岡先生へ向ければ理解したように小さく答える。
「それで良い」
「ではそれを2つお願いします」
「…はい。かしこまりました!」
パタパタと走っていく竈門くんから視線をそちらに移す。
「…顔がにやけてますよ」
わかりやすく機嫌の良い姿に自然と眉が寄ってしまった。
かと言ってこの表情の変化は周りには伝わらない程に微々たるものなのも理解はしているが。
「…名前と文化祭デートが出来るとは思わなかった」
「デートではないです。もしかして冨岡先生、こういうシチュエーションに憧れてたりするんですか?」
「それそのものに対してになら憧憬は全くない。名前が居るから価値が生まれるだけだ」
「そこに関しては全く変わらないんですね…」
「当たり前だ」

「お待たせしました!」

竈門くんは笑顔でそう言うとテキパキと配膳をした後
「ごゆっくりどうぞ!」
しっかりと挨拶をし給仕側へと姿を消した。
「いただきます」
軽く頭を下げた私にもう既に団子を頬張ろうとしている冨岡先生。
「…いただきますくらい言えば良いのに」
心の中で呟いたつもりの声は冨岡先生の耳に入ったらしい。
「…言った方が良いのか?」
「それはまぁ、そうかと。挨拶が出来ない人より出来る人の方が心証は良いと思いますよ。今の竈門くんみたいに」
「名前はどっちが好きだ?」
「断然後者です」
串を持っていた右手が迷ったかと思えば皿へ戻される。
流石の冨岡先生でも口うるさいと思っただろうか、ふと考えたのも束の間、静かに手を合わせると
「…いただき、ます」
辛うじて呟く声が聞こえた。
「これで良いのか?」
やや気恥ずかしそうに群青色の瞳が揺れるものだから、つい口角が上がってしまう。
「とても偉いです。食べましょうか」
すぐに嬉々としたものに変わる表情から三色団子へ視線を落とした。



ありがとうと言葉の代わりに


(美味しいですね)
(今まで食べた団子の中で断トツの美味さだ)
(またそんな大袈裟な…)


[ 20/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×