good boy | ナノ
くしゅん。

どこからともなく聞こえたくしゃみに、あぁ、そういえばもうこんな季節かと、画面を見つめていた視線を外す。
凝り固まった首と肩を感じて、軽くほぐすように顔を上げた。

多くは春の時季、顕著になる花粉症。

同じくパソコンに向かっている右横の人物もさぞかし辛かろうと動かした視線は涼しいもので、そうでもないことを知る。

マスクすらしていないその姿は、正直意外だった。


good boy


「冨岡先生」
「…何だ?」
「今年は大丈夫なんですか?花粉」

正直アレルギー反応というのは本人にしかわからないためそう訊ねれば、すんと鼻を動かす。

「それほどじゃない。症状が出る前に薬を服用し始めたのが功を奏したらしい」
「それは良かったですね」
「名前の助言のお陰だ」
「お役に立てて何よりです」

去年は花粉そのものでも、その症状を抑えるために飲んだ薬の副作用でも辛そうだったから、素直に嬉しいと思う。

仕事を再開させようとして、口元の違和感を思い出したと同時、

「花粉症になったのか?」

相変わらず突然の質問に、一瞬だけど考えてしまった。

「いえ、花粉症ではないです」

冨岡先生がその考えに至ったのは十中八九、このマスクのせいだろう。

「それなら調子が悪いのか?昨日まではしてなかった」
「調子が悪い、といえばまぁそうなりますね」
「早退しよう。俺がつきっきりで看「それほど酷いものでもないので大丈夫です」」
不満げな表情はこの際見なかったことにして続けた。
「最近、ちょっと唇が荒れている自覚はあったんですけど、今日になって結構目立つようになってきまして、乾燥を防ぐためにもマスクをしています」
「見せてみろ」
反論するより早く引かれた椅子と群青色の近さに、仕方ないと耳紐を取る。
少し見開いた目には、今の自分がどう映っているのか気になった。
「…確かに、腫れてる上に赤みが増してる」
「ですよね。一応市販薬は塗ってみてるんですけど」
近付いてくる指に、身を後ろへ引いて避ける。
「何故逃げる?触るだけだ」
「いえ、その触るっていうのが一番困るんですよ」
顰めた眉が暴走スイッチにならないうちに腫れぼったい口を動かした。

「良く見てください。口の端も赤くなってませんか?」
「なってる。痛々しくて見ていられない」

今度は眉を下げながら自然を装って近付いてくるのを何とか凌ぐ。

「そうなんですよ。さすがにここまでくると痛いので、触られたくないんです」
「病院には行かないのか?」
「行く時間が取れないので珠世先生には相談してみました」
「その様子だと病名がわかったんだな?」
「えぇ。口唇炎と口角炎を併発しているそうです。あくまで可能性だとは付け加えられましたが」

だけど珠世先生が言うならその通りなんだろうという確信もある。
一介の保険医だからと本人は謙遜しているけれど、その見立ては常に冷静で正確だ。

「原因は?」
「どうやら刺激みたいです」
「ストローもそのためか」

デスクへと移る視線の先には、いつものマグカップ。
まぁ良く気が付くことで、と今更なんだけどやっぱり感心はする。

「できるだけ口唇に食べ物や飲み物で刺激を与えないようにした方がいいと指導されたので」

念のためコーヒーも断って水を飲むようにしているお陰か、朝よりかは幾分か気にはならなくなってきた。

「大丈夫なのか…?」

口元の代わりに頬に触れる指に苦笑いが零れるけれど、本気で心配してくれてるんだと思うと嬉しくもなる。

「大丈夫です。市販薬でもこまめに塗り続けていれば、数日で良くなると言われましたし」
「…そうか」

納得も安心もしてくれたようで離れていく手に、こちらも安堵の一息を吐いて耳紐を戻そうとして、思い出した。
ついでだから塗っておこうと手に取ったチューブ型のリップクリーム。

「俺が塗る」

その声が飛んできたのは既にそれを綺麗に攫われたあとで、眉が寄ってしまう。

「いえ、大丈夫です」
「塗りたい。それくらいはいいだろう?」
「……まぁ、そうですね」

念のため見回した職員室に、不死川先生を始めとした主要教師は授業中でほぼ誰もいないに等しいし、非常勤職員や事務員は自分の仕事に忙しそうだ。

「塗るだけなら」

何となく曖昧に返事する間にも、キャップを取ると、じっと口を見つめてくる瞳に居た堪れなさは感じる。
かといって目を閉じるのはどうにも自殺行為にしか思えないので、明後日の方向を見つめることにした。
丁寧に塗られていく感覚にどうも笑ってしまいそうになるのは、その手元が心なしか緊張しているように感じるからかもしれない。

「できた」
「ありがとうございます」
「随分テカるな」
「保湿力を重視してるんでしょうね」

珠世先生に薦められて買いに行ったそれは、リップクリームにしては値段が張るものの、確かに良品だと、この数時間で感じている。
このまま外部からの刺激に気を付ければ、短期間で症状が落ち着きそうだ。

「今、思ったんだが」
「……なんでしょう?」

訊き返した瞬間から嫌な予感がしてる。

「キスはどうすればいい?」

それが予感じゃ済まなくなったことで能面になってしまった。

遅かれ早かれその問題に行き着くだろうと想像はしていたけど、その質問は想定していなかった。

「どうするも何も、治るまで控えていただくしか選択肢はないかと」
「そうだな……」

これはまた、珍しく引き際が潔い。そう思ったのが一瞬なのはもういつものことで、

「1日3回に控えておくか」

すごく、ものすごく譲歩したような表情に、もはや開いてるのかわからないほど目を窄めた。

「すみません。こちらの説明の仕方がよくなかったですね。控えるのではなく禁止です」
「嫌だ」
「嫌だと言われてもこちらが嫌ですよ。いいんですか?炎症が悪化しても」
「嫌だ」

溜め息を吐いてる時にもじっと見つめられる口元に危険を感じてマスクで隠す。

「今の暴走スイッチはどこですか?」
「その口だ」
「……詳細をお願いします」
「いつもより厚ぼったい口唇がこれほどなく潤っているのが色っぽい」
「……。成程。お気持ちはわかりました」

そういうので滾るものもある。またひとつ勉強になった。そう思うことにして仕事を再開させることにする。

「返事はそれだけか?」
「それだけです」
「それなら了承したと受け取るが」
「受け取らないでください。たった数日ですよ?我慢できないんですか?」
「できない」
「即答ですか……」
「正確にはできるがしたくない」

項垂れるけれど、タイピングの手は弛めないのはなかなかに耐性がついた。
しかしこれはまた、折衷案を模索しなくてはならないらしい。
未だその手に収まるチューブに目を止めて、わかりやすく溜め息を吐いてみせたのは、そこに仕方がないという大義名分をつけるためだ。

「わかりました」

ピクッと動いた頭に、あるはずのない犬の耳を一瞬見てしまった。

「どうしてもしたい時はそちらもその薬を塗ってからでお願いします」
「これか。わかった」
「いえ、今ではなくて」
「いつならいい?」
「家に帰ってから「無理だ待てない」では却下です」

隙をついて自分の口へ塗り付けてものだから回収しようと伸ばした手より先に、キャップが閉まっていく。

このままでは私が回収される。された先ではキスが待ち構えてる。

それはまずい。とてもまずい。

逃げ道を探したところで、落下していくリップを見止め、とっさに椅子から降りていた。
拾おうとしたのはあちらも同じだったらしい。
手が重なった瞬間、引き寄せられる身体に後悔しても時既に遅し。

これが狙いだった。

そう気付いた時には潤った口唇が笑っていた。

「これなら誰にも見られない」
「相変わらず死角を探すのがお得意の」

言葉が続かないまま重なる口唇を受け入れるため目を閉じたのは、これもまた諦めだ。



そういう大義名分にしておく


(苗字先生、これはもう治っているのでは…?)
(…そうですか?確かに腫れも引いた気がします)
(薬の浸透が通常より早かったのでしょうか?不思議なことがあるのですね)


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