good boy | ナノ
夕焼けという言葉が言い得て妙だと思ったのは、今日が初めてかもしれない。

雲ひとつない水平線に落ちていく太陽は、これまで見たこともない大きさと赤さを伴って、まるで空が燃え盛っているようだった。

凭れた肩、その先にある群青色に映えたその赤を、気が付かれないように眺めていたのに、自然とこちらに動いた視線は優しさを携えていて、俯くしかできない。

それでも抱いていた肩から移動した大きな手は、優しく頭を撫でて、ほんの少しだけ猫の気持ちがわかった気がした。

「綺麗ですね。夕陽」
「赤く照らされる名前の方が綺麗だ」
「ホントにブレないですね…」

小さく笑ってから、半分ほど水平線に隠れたそれをただ見つめる。

沈んでいくもの、と今の今まで思っていたけれど、この大きな陽は沈んでいるのではなくこの地球の裏側を照らすために動いているのだと、そんな広大さを垣間見た。

私の世界は、やっぱりちっぽけだと再確認してる。

「……義勇?」
「…何だ?」
「ずっと、傍にいて」

ちっぽけだから、そう強く願う。

それが犬としてでも、猫としてでもいい。

例え私を恋人というものに見られなくなっても、傍にいてほしい。

どうか、離れていかないでほしい。

最期にこの目に映るものが、その青であってほしい。

「それは俺の台詞だ」

見上げた先、その瞳は私しか映していなくて、その真っ直ぐさが嬉しいと何の捻りもなく思った。

「ずっといますよ?」

外に跳ねた髪の束を多少押し付けるように撫でたのは、完全な照れ隠しなのに、気持ち良さそうに目を細める仕草に顔が綻ぶ。

この気持ちが、この先ずっと変わらないなんて、そんなことは堂々と言い切れない。
だけど例え何が起きたとしても、今のこの瞬間は紛れもなく過去として残る。
それだけは、忘れずにいたい。

合図をしたわけでもないのに無言のまま、重なり合った口唇に目を閉じれば、さざ波の音が優しく響いた。


good boy


借りていた車を営業所に返してから、時間を変更したことによる手続きを空港の窓口で済ます。
それだけのことなのに意外と時間は掛かるもので、余裕を持って行動していたつもりが搭乗手続きの締切は刻一刻と近付いてきていた。
お土産をゆっくり見る暇もなく、保安検査場を早々に通り抜けて、すでに全乗客の乗り込みが始まっている搭乗口まで向かう。

小さい島から飛び立つ飛行機だ。
しかも夜となるとただでさえ客席はガラガラで、何の閊えもなく席まで進む。

番号と数字を確認して立ち止まると、後ろからキャリーを押す冨岡先生へ顔を向けた時だ。

「申し訳ございません。お客様」

穏やかな声にもう一度、進行方向だった先を見る。
眉を下げたキャビンアテンダントに、何かあったのかと眉を寄せそうになった。

「機材の関係でこちらのお席が使用不可となっておりまして、わたくしがご案内するお席へのご着席をお願いしてもよろしいですか?」
「……えぇ。大丈夫、ですけど…」

承諾しながらも疑心が込み上げるのは、単純にこの空席ばかりの状態を目にしているからだ。
正直、どこに座っても構わない気がしなくもない。
それでも大人しく案内する背中に続いた。

「こちらにお願いいたします。お荷物はわたくしがお入れいたします」

5本指で差された、先程と反対側の窓際2席。

「すみません。ありがとうございます」

ただでさえ時間ギリギリで搭乗している手前、これ以上の手間を掛けさせられないとお願いすることにして、ひとまず窓際に詰めて座った。
鳴れた手つきでキャリーを上の棚にしまうと頭を下げ、去っていく姿を見送ってから口を開く。

「窓際座りますか?」
「いや、いい」
「飛び立つ時の夜景が綺麗ですよ?」
「それなら夜景を眺める名前を見つめた方が有意義だ」
「……。そうですか」

機内のアナウンスがこれから滑走路に向かう旨を伝えて、ゆっくり動き出した。

結局最後までバタバタしていた気がする。
飛行時間で少しでも眠れたらいいな、なんて考えながらおもむろに繋がれる手に小さく笑った。

「まだ怖いんですか?」
「怖くはない。もう慣れた」
表情的に、嘘ではないらしい。
「それならこれからどこでも行けますね」
仕事柄、頻繁にとまではいかないけれど、もしどこかに行きたくなったなら、こうして2人きりで旅行なんてものも特別感があっていい。

穏やかな気持ちの中、機内に響く機長と名乗った男性の声を聞く。

『それでは皆様、左手側をご覧ください』

バスガイドみたいなことを言うな、と不思議に思いつつ、丁度そこにある窓へ視線を移した。

『今夜、内地へお帰りになる方々へ、島の住民からお見送りでございます』

パッと強い光に照らされた先、ここからでも容易に読める横断幕には、"苗字先生、冨岡先生、ありがとう"の文字。
大きく手を振る人々は、この4日間、私達が関わってきた全ての人達だった。

「冨岡先生…!あれ!」

身を乗り出した私達が、あちらに見えているのかまではわからない。

「ずいぶん派手な見送りだな」

珍しく目を丸くしたあと窄めるのを、滲んだ視界で捉えた。

『この島で過ごした思い出が皆様にとって未来の糧になりますよう、乗務員一同、心よりお祈り申し上げます』

胸に沁みた瞬間、零れ落ちた涙を隠すより先に撫でられた頭。その温もりが、余計に涙を誘っていく。

「……っ、実は結構、こういうの弱いんですよね…」

笑いで誤魔化そうと上げようとした口元は、

「知ってる。だから壁を作りたがるのだろう?」

全てを見透かした台詞で歪んだ。


優しさは、怖いと思う。


与えられたぶんだけ、また求めてしまいそうになるから。
だけどそうすると、際限がないんだ。

いつだか知った。

例えこちらが100%の力で受け入れ応じても、他人にとってはそれほど重要なことではなくて、記憶にも残らない。

その場しのぎのものばかりで、それが処世術と言われればそれまで。

傷付くのは、おかしな話。世の中の常だ。

それでも、全てがどうでもいい過程ばかりではないと、こうして他人の温かみに触れると実感する。

少なくとも、全部が全部、間違っていなかったのだと肯定を得ることができる。


聞こえないながらも、懸命に何かを叫んでいる子供達に手を振った。

これから先、また彼らに会えるかの保障はどこにもない。

私の世界はちっぽけだから想うことしかできないけれど、どうか二度と会えなくても、未来に希望が在りますようにと、願った。
それは生徒達だけじゃなく、この地で知り合った全ての人達に。

そして優しく抱き締めてくれる、この人に。



「……ん」

ふと、ゴォォォという低い音を認識して目蓋を動かした。

「……。起きたか?」

右側に感じる温もりでその肩に寄りかかっていたことを知る。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
まだ機内だというのに気付いて頭を上げた。

「どれくらい、経ちました…?」
「今着陸態勢に入っている」
「もう…!?」

正直、飛び立ってから少ししてからの記憶が一切ない。

「疲れてたんだろう」
「いや、それにしても寝すぎですよ。もしかしてずっと寄りかかってました…?」
「気にしなくていい。俺にとっては幸福な時間だった」
「……。すみません、と謝るべきところなんですが、ありがとうございますと返しておきますね」

水分を含んで重くなった目蓋を何度か動かして、窓の外を眺める。

ずいぶんと近くなった地上の電灯に、あぁ帰ってきたんだという実感が湧く。

「そういえば冨岡先生。夕飯どうします?」
何も考えていなかったと訊ねれば、きょとんとした顔が返される。
「突然日常に戻るな」
「突然も何も、必要なことなので…。さすがに今から作るのは厳しいので買って帰るか、食べて帰るかになりますけど」
「どちらの方が名前にとって手間にならない?」

そう言われて考える。
高度が下がったことで詰まり始めた耳を感じつつ答えた。

「どちらでも、と言いたいところですが、正直家に帰ってゆっくり食べる方が助かります」
「やはりそうか。俺も名前にゆっくり食べられたい」

一体何をおっしゃっていられるのか。

訊ね返す前に地上に着いた衝撃で、聞こえなかったことにする。
耳も詰まっていたし、きっと幻聴だと降りる準備を整えたところで
「聞いてなかったのか?」
畳み掛けてくる右横に眉を顰めた。
「何ですか?」
「帰ったら名前にゆっくり食べられたいと言ったことだ」
「接続詞が間違ってないですか?いや、それ以降も間違ってますけど…」
「間違ってない」

これはまた、参った。この人約束を早々に果たす気だ。

「明日まで待てません?」
「疲れてるのか?」
「…いえ、いや、それもあるんですけど…今日はあの子達の純粋な気持ちを胸に眠りに就きたいというのが正直なところで「だからだ」」

言い切った真剣な瞳に息を呑む。

「お前の一番は常に俺でいたい。他のもの、ましてや人間を考えながら寝るなど赦さない」

ブフッと、予期しない笑いが出てしまった。

「やっぱり冨岡先生って、私以上に生き辛いですね」

わかっていたことだけど、どうにもこう包み隠さず伝えてくる姿勢には100%で応えたくなる。

「わかりました。明日も仕事なので、少しならいいですよ。食べてあげても」

最後にそう付け加えたのは、周りに誰もいないという気の弛みからだ。そういうことにしておく。

少しだけ開かれた目は驚きを告げていて、頬も弛みそうになるのは、

「随分大胆になったな。やはり悪女で痴女の気質を持っていたか」

嬉々として迫ってくる顔で固まった。

「持ってませんよそんなの。強いて言うなら飼い主に似てきたんじゃないですか?」
「それなら尚のこと喜ばしい。これからどんどんエロくなっていく名前が見られるというわけだ」
「冗談で言ったんですけど…、離れていただけませんか?そろそろ降りる準備しないと…」
「俺を興奮させたお前が悪い」
「…っちょっと!」

舐められそうになった首は押さえ付けて制止はしたものの、
「そろそろ野外プレイもいいな」
なんて宣うものだから重い溜め息が出る。

「絶対嫌です。無理です」

機内に響くアナウンスが降機準備が整ったことを知らせ、冨岡先生が気を取られた一瞬でそこから逃げると、シートベルトを取りすかさず立ち上がった。

「ほら、行きますよ?」
手で示して通路に出るよう促す。
「先に出ていい」
「いや、冨岡先生が出てくれないと狭いんですけど…」

全く動こうとしない気配に、業を煮やして膝と椅子の隙間を縫った。

「……。失礼します」

鞄が当たらないように腕を上げていたから、捕まった両腕に必要以上にドキッとしてしてしまう。
抵抗する暇もなく胸に埋められる顔と、臀部を掴む手に小さく声が洩れた。
「…んっ」
決して意識したわけではないそれに、くくっと笑ったあとに上げられた顔は心底憎らしい。

「一瞬で感じたな」
「違います…!」

抱えていた鞄を頭へと乱暴に置く。物理的に黙らせたことで弛んだ手から抜け出した。

「ホントに外ではやめてください」
「そう言いつつ身体は正直だった。これなら圧せばいけるかもしれない。記念すべき初めての野外はどこにするか真剣に熟考すべき時期にきたか…」

また途中からご自分の世界に入られたのをもう放っておくことにして、収納棚からキャリーを取り出そうと扉を開ける。

「俺が出す」
「また脈絡もなく唐突に戻ってきましたね」
「……。そうか。キャビンアテンダントの恰好をさせるのもアリだな」

戻ってきてたわけじゃなかった。
というか、さらにどこか遠い場所に旅立ったらしい。言うなれば狂人な星か。
もう黙って見送ることにして、ひとまず飛行機を降りる。

帰ってきた。

そんなことを実感したのは、滑走路を見渡せるよう作られた一面の窓の外を眺めたからか。夜空は明らかに向こうより高くて遠い。

そういえば、ゆっくり見上げることもなかったけれど、きっと、今もあの島では無数の星が瞬いているのかもしれない。

遠く離れていても、同じ空の下にいる。

良く耳にはするそんな言葉を、これほどまでに噛み締めたのも今日が初めてだ。

「今度は星空を見に行きたいですね」

同意を求めたわけではない独り言。
後ろをついてきながらも、ご自分の世界に旅していらっしゃるのはわかってるので、そのまま歩き出そうとしたところで、

「星空の下でシたいのか?ロマンチストだな」

中途半端に拾ってくださった台詞で能面になる。

「夜なら名前の裸を見られる懸念も少ない。やはり初めてはベランダが濃厚か」
「絶対嫌ですってば」
「花火を見ながらできなかったことを考えると仕切り直しで丁度いい」
「また蒸し返してきますね」
「星空なら今日でもできるな。そういうことか。さすがは名前だ」
「何でそう人の話まったく聞かないんでしょうねホントにビックリするんですけど…」

とりあえずもう放っておいて進もう。
そう決めて歩き出せば、きちんとついてくる気配に、またブツブツ唱えてる声を聞く。
笑ってしまいそうになったのは、多分その原因が推測できるから。

他人の前では聞き分けの良い犬を演じていたぶんの反動と言えば、わかりやすいだろう。



飼い主の前では我儘全開な犬の如しなんて



(良く頑張りましたね。お疲れ様でした)
(……。偉いか?)
(えぇ、とっても偉いです。ベランダではしませんけどね)


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