good boy | ナノ
まるですべてから護られるように抱き締められたまま眠ってようやく、この身に起きたことを全部、心の中に落とし込んで、消化できた気がする。

理屈で塗り固めて葬った感情は、それこそ噛み付く犬に丸裸にされた。
敢えて言葉にするのであれば、そんな表現が似合う。

どこかでいつも、思っていた。

本性を見せたら、周りには誰もいなくなるのではないかと。

それは飼い犬兼恋人兼飼い主にもだ。

本当の私は何ひとつ特別じゃなく、とてもつまらない人間で、いつだって冷静な判断を下せるわけじゃない。

平等や平静を謳うのも、言葉を武器にするのも、言うなれば鎧だった。

それが少しずつ、少しずつ、解けるように剥がされて、今ようやく"感情の決壊"と称した意味を知った気もする。

私がこのままの私でいられるのではなく、私が本来の私に戻っていく。

目の前で静かに眠りに就いているこの人は、それが狙いだったかもしれない。

端正な寝顔を眺めて、目を細めた。

口唇に触れようとした指先を迷った挙句戻したのは、勇気が出ないから。
どうにも私は、自分から行動を起こすことに臆病になっていると認識を強くして、まぁ起こしたら申し訳ないし、と心の中で言い訳をする。

代わりに、とは言ってはなんだけれど、肌蹴た浴衣から覗く胸板へ頬を摺り寄せた。
鼻いっぱいに吸い込むその香りに、頬が弛んでいくのを隠そうともしなかったのは、まだ薄暗いせいだということにしておく。

この香りを抱いてもう一度眠ろうと目を閉じれば、すぐに意識を手放した。


good boy


少しだけ寝過ごして、慌てて中身を詰め込んだキャリーケースを抱え、バタバタとチェックアウトした宿。
車のトランクにそれを積んでから、今日で最後となる交流研修の場所、小学校へと向かった。

「おはようございます」
「おはよ〜」

遅刻気味の時間にも関わらず、誰も何も咎めない緩さも、今この時は有難いと思う。

「あ、そうだこれ、届いてましたよ」

デスクに着くなりそう声を掛けられ振り向けば、女教員から差し出されていたのは見慣れたスマホ。
間違いなく冨岡先生のものだ。

「ありがとうございます」

てっきり本人が受け取るかと思えば、全く動かないことから代わりに私が礼を言う。

「そういえば校長は?」

ついでだからとまだ姿が見えない人物について訊ねれば、ハッとした顔をされた。

「そういえば伝えてくれって言われたんだった」
「……?」

動作だけで疑問を返して続きを待つ。

「昨日発見した鳥なんですよ!飛べたんです!」
「……。それは、まぁ鳥です、から?」

間の抜けた返答をしてしまったこちらとは正反対に、握りこぶしを作る手からは興奮が伝わってきた。

「違うんですよ!本当は飛べないはずなんです!そういう種類なんです!連絡したら大事になっちゃって!内地から研究者が朝イチで来たって、村役場がてんやわんやです!」
「……そこに校長も駆り出されているということですか?」
「そうなんです。発見した時のこととか詳しく知りたいって言われたらしくて付き添いで行ってます!お昼過ぎには戻ってくるみたいですけど」
「そうですか」
「何かすごい大発見らしいですよ!ほんとに幻の鳥だって表彰されてニュースとかになるかもって!」

期待による威勢の良さに、ちょっとばかし驚きもしている。だけどすぐに願った。

「そうなるといいですね」

そうしたら、あの子の中でまた何かしらの変化があるかも知れない。

「そうなんですよ!そしたらイケメンで金持ちの観光客いっぱいくるかな〜?私結婚して内地に住むの夢なんです〜」

そちらはそちらで、全くおくびもしない、素直な願望の吐露につい笑いが漏れてしまう。

「たくさん来るといいですね」

気持ちはまぁ、わからなくもないということで一応そう返しておいた。

自分のデスクに戻っていく背中から隣を見やって、だから差し出されたスマホを受け取ろうとしなかったのかもしれない。そんなことを考える。
犬の勘というか。そういうもので感知してそうだ。

「冨岡先生、スマホです」

差し出したそれを無言で受け取っていくのも、ここでは猫を被っているのが窺える。
指先にわずかに残る歯型に心臓が脈打ったのは、どうにか平常心で、と息を吐いて誤魔化した。

キメツ学園に提出する報告書を書いてしまおうと、デスクに向かってしばらくしてからのこと。

「……。あの」

職員がすっかり出払った職員室に響く呼び掛けが、誰のものかを知った瞬間に脈拍が速くなった。
顔を上げて、さらにそれが加速していく。

「……。何だ?」

いつもより低めの声で一言を返してくれた冨岡先生には、素直に安堵が込み上げる。

「あ、えっと…!昨日助けてくれたって聞いて、お礼にきました!すいません僕迷惑かけちゃったみたいで……あの、すいません!」

そう言って勢い良く下げた頭にも、張っていた気が弛んだのを感じていた。


私が促したことで空いている椅子へ遠慮がちに腰掛けた彼は、バツが悪そうに頭を掻く。

「……。すごい、クラクラするなってくらいしか、良く覚えてなくて」

消え入りそうな声に、自然と冨岡先生へ視線を動かすけれど、その瞳は真っ直ぐそちらへ向いたままだ。

「苗字先生、きっとビックリしましたよね。……ごめんなさい」
「いえ…」

萎縮している様子から窺うに、やはり記憶はないのだろう。
どこから、というのはここで詳細を訊ねるとややこしいことになりそうなので、気にはなりつつ流すことにする。

「それより怪我は大丈夫ですか?」
「あ、はい!もう全然!その気になれば走れます!」
「走るのはやめた方がいい。確実に傷口が開く」
「……。すいません…」

これはまた珍しい。冨岡先生が普通に突っ込んでる。
いや、走る云々は多分こちらに対する気遣いからくる言葉のあやなんだろうけど、そこもまぁ流すことにしておく。

「悪いと思っているなら、託したい案件がある」
そう言った冨岡先生の意図はすぐに理解した。
「何、ですか…?」
若干怯えた表情は、群青色を窺うもこちらへと流れたことで同じように動く。
2人ぶんの視線を受けて、何と説明をしようか思考を巡らせながらも口を開いた。

「昨日、私にご自身の家庭環境のことを話してくださったことは、覚えていますか?」

訪れた静寂に、ふたつの選択肢の先を考える。
記憶の有無次第では踏む段階も変わってくるためだ。

「主に、お母様のことです」
「……あ、あぁ!はい!覚えてます!…というか、思い出しました……。すいません、大変な状況だったのに僕の話ばかり聞いてもらって…」

消沈していく顔が俯き切ってしまう前に話を続けた。

「謝らないでください。正直なところ、私達はそこに希望を見出しました」
「希望…、ですか?」
「えぇ」

頷いてから話したのは当然、あの子のこと。
言葉を選びながら、重なる境遇であるといった主旨をどうにか傷付けないように説明するのに努めた。
時折揺れる瞳が、思い出したくはない過去を呼び寄せているとわかってはいても、あくまで続けたのは客観的な見解。

「この希望は、もしもの話です」

こればかりは強制もできない。

「それでも貴男なら、あの子の気持ちに寄り添えるのではないかと期待を持ちました」

言い切ったあと、泳いだ視線が下へ落ちて静寂が包む。
自分の中で落とし込む時間は必要だろうと、そのまま待つことにした。

「……。僕に」

暫くして出された声は、酷くか細い。

「僕にできるでしょうか…?」

それでも上げられた顔から、決意は垣間見えた。
後押しを待っているその背を押したのは、私じゃない。

「できると思えばいい」

穏やかな冨岡先生の声だった。

一切迷いがない返答で輝きを宿していく瞳と同じように、勇気を貰ったのを今も昨日のことのように覚えている。

「頑張って、みます」

自信はないながらも言い切ったぎこちない笑顔を、私自身が重なった気がした。

もしかして、冨岡先生は──…

「あ、じゃあ早速あの子と」
「今はいない。役場に行っている」
「……あぁ、そっか!昨日から大騒ぎですもんね!」

状況を的確に理解した目が大きく開かれて、
「じゃあ僕もそっちに」
立ち上がろうとするのを遮るように
「ここで待てばいい」
少し強い口調になったのは何故なのか考えた。
「あ、はい…」

もしかして、怪我の心配をしているのか、という可能性を考えた時

「その間に訊きたいこともある」

若干険しくなった顔に、こちらまで警戒を強めてしまう。

「昨日のことだ」

まさか記憶がない彼に真実を告げてしまうのか。修羅場に近いものを考えたのは一瞬。

「部屋の前まで来ただろう?」

意味を理解できず癖で眉を寄せた私と打って変わって、一気に赤くなる顔すら何がなんだかわからなかった。

「知って、たんですか…?」
「一度戸を叩いたのが聞こえた」
「……すいません。あの、聞くつもりはなかったんです…!すいません!」

部屋の前?戸を叩いた?

更に赤らいでいく顔に、昨夜のことを思い出した瞬間、絶句した。

声を、聞かれていた。その事実にしか行き着かない。

だからこちらとあまり目を合わせようとしなかったのか。
その答えに行き着いて、項垂れたくなった。

「あれから抗生物質とか、痛み止めとか飲んで…帰れたから、早めに謝ろうとしたんですけど…!本当に、あの、すいません!すいません!」

何度も頭を下げる姿は、存分に傷付いているだろう。
だけど私がそこで何か声を掛けることもできない。
また沈黙になるのだろうか。そう思ったのは束の間だ。

「俺は、名前をずっと好きだった」

突然の独白に近い台詞に彼ならず、私の顔も上がる。

「この交流研修についてきたのもほぼ無理矢理だ」

何を言い出すのか。
表情では読めない横顔を見つめた。

「昨日、やっとその想いが叶った」

落ちた静寂に、目を伏せる。
どうして、など訊かずともわかった。

そういうことにしておけば、彼を傷付けない。

だから私も、沈黙を貫く。

「……、そう、だったんですね」

笑おうとしても対して上がっていない口元は見なかったことにする。

「……。校長から聞きました!あの井戸の中、命綱もつけず飛び込んでいったって!すごいなって思いました!僕なんて足手纏いでしかなくて……」

あはは、と乾いた笑いのあとだ。

「……。カッコ良かったもんな……」

僅かに聞こえた声に眉を顰めたと同時に
「おめでとうございます!」
深々と下げる頭には、ひとまず倣った。

「ありがとうございます…」
「今日内地に戻られるんですよね?」
「そうです」
「少し寂しいですけど…、また良かったら遊びにきてください。ここ結婚式場でも人気な場所なんですよ!」
「考えておく」

珍しく、冨岡先生の口角が上がった気がする。

「じゃあ、失礼します…」

そう言って立ち上がった姿はどこか寂し気なものだったけれど、
「苗字先生、あとのことは任せてください!僕が責任持ってあの子の力になります!」
職員室から出て行く際に振り向いた顔は、どこか晴れやかなもので、
「よろしくお願いします」
こちらも深く頭を下げた。

* * *

午後になって戻ってきた校長達を始めとし、お世話になった全ての人達に挨拶に回る。
たった4日という時間では、特別感慨深いが込み上げてくるわけでもなく、子供たちに至っては、へー、そうなんだといった感じで実感がないようだった。

ただ、私と違いすっかり懐かれた冨岡先生は
「また鬼ごっこしようね」
「今度は海行こうよ〜」
などと声を掛けられていて、その光景は微笑ましい。

幻の鳥、もとい新種の鳥を発見したことで、生徒たちに「すごい」と持て囃され、ここに居場所を確立したあの子もその輪の中にいて、これはきっと良い方向に向かうのだろうと安心した。

子供たちに手を振られ、向かった昇降口。

「いやぁ、来てくれて助かったよ〜」

靴を履いたあと掛けられた校長の言葉には苦笑いは零れた。

「大したお力にはなれませんでしたが…」
「ううん、大した力さ〜。あの子の顔、全然変わったもんね〜」
「折り良くタイミングが重なったからでしょう」
「謙遜しない〜。自信は持ちなさいっ!苗字くんっ!」
「…はいっ」

突然厳しく強くなった口調で、とっさに背筋が伸びる。
驚きで固まる私をよそに、笑顔を湛えると、
「ありがとうさぁ。来てくれて。また遊びにおいでねぇ」
またのんびりとした声色で肩を叩かれ、少し泣きたくなったのは、それが本来の私だからだろう。

「是非、また来ます」

深く頭を下げ、上げてから、ぎこちないけれど笑顔を作った。

「次は新婚旅行だな」

抜け抜けと宣う隣に、つい癖でじとっとした目は向けてしまう。でもそれも結構いいかも知れないとか思うのは心の奥だけにした。



環境が変われば、心境も多少なりとも変化する。


それを強く自覚したのは、夕陽を見る最後のチャンスだと訪れた海辺だった。

壮大な自然に、あれだけちっぽけに見えた自分も今は少し、胸を張っているような気がしている。

「折角なので降りてみましょうか」

穏やかな潮風を感じながら、小さく打ち付ける波打ち際まで移動してみた。

今まで夏の海はどうにも苦手だったけれど、こんなにのんびりとした空間なら悪くないかもしれない。

「座ります?」
「……。敷くものがない」
「いいです。直で」

いつもなら気になってしまうことも、今はなんとなくどうでも良くなって、直接白い砂に臀部をつけた。

「これを敷け」
「大丈夫ですってば」

おもむろにジャージを脱ごうとする冨岡先生を苦笑いで制して、空を見上げる。
多分私が折れないであろうと察知して、隣に座る姿を目端で捉えた。

「ありがとうございました。一緒に来てくれて。本当に、冨岡先生がいてくれて良かったと、思います」

ちゃんと素直に言ってみようと思えば思うほど、心細さから立てた膝を抱えたくなる。
本当は名前で呼びたかったのに、それもどうにも呑み込んでしまった。

何も言わない横顔は、私がきちんと自分の感情を整理する時間を与えてくれている。そう感じて、小さく息を吐く。

「いつも、思っています。傍に、いてくれて……、ありがとう」

頭を下げた先は海で、どうにも直視して言うことができない。

「わざわざ言わなくても伝わっている」
「……それは、まぁ、そうなんですけど、でも口に出すのは大事ですから…」
「それなら俺も口に出したい」

ぐんと引き寄せられた腕に、心臓が大きく動いたのは一瞬。

「昨日みたいにいやらしく舐めてくれるか?」

そう、もう一瞬にして能面へと早変わりだ。

「嫌です」
「まだナニをとまでは言ってない」
「今ので大体わかります」
「わかったなら口に出してみろ。大事なんだろう?」
「ホントに…海に沈めたくなりますね…」
「名前と一緒なら沈むのも悪くない」
「私を巻き添えにしないでください。おひとりでどうぞ」
「実際そうなった時には、共に沈むだろう?」

こちらは呆れているんだと表情だけでこれでもかと伝えているのに、嬉々とする群青色で更に眉を顰める。

「一蓮托生の精神ですか?」
「お前はもう俺がいないと生きられない身体になってるはずだ」
「だからその語弊を作る言い方「そうだろう?」」

注視しなくてもわかる口元の笑みに、眉間が弛まった。

「精神的な面で言えば、そうかもしれないですね。飼い主で恋人ですし」
「飼い猫を忘れてる」
「知ってます?猫って結構、軽薄なんですよ」
「お前は軽薄じゃない。俺にしか懐かないし心を赦さない」

そう言われてから、まぁ、確かにそれはそうだな、なんて納得する。
納得したから、その肩に凭れた。

「……。そうですね」

私がこうして擦り寄れるのは、きっとこれまでもこれから先も、この人しかいない。
そんな風に思えるのは、いつもと環境が違うからじゃない。

そう、自信を持って言える。




日常に戻っても変わりはしないだろう


(もうすぐ陽が沈みそうですよ)
(俺はそのナカに沈ませたい)
(1回海に沈んでほしいですホントに)


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