身体中に付着した泥が乾き、固く張り付く感覚に少し動き辛さを感じ始めた頃だ。 「ごめんなさいっ…!ごめんなさい!」 そう言って泣きじゃくり続けていた彼の気持ちが落ち着いたのは。 「とにかく無事でよかったねぇ。よかったよぉ」 語尾を上げる独特な話し口調とともに、校長から何度も頭を撫でられ、ようやく話せるまでに嗚咽が止んだ後にポツポツと説明しだしたのは、私が予想していたものとは、大きく異なるものだった。 「いなくなっちゃったと思ったんだ……。僕の友達」 そう言いながら、職員のデスクに置かれた籠を眺める。 そこには1羽の鳥が捕獲されていた。 誰が何を、どう、訊ねるべきか。 彼を囲む教員が困惑している中、校長の視線を受けて口を開いた。 「お友達というのは、その鳥ですか?」 こくっと動いた頭で、今まで勝手に難しくしていた謎が紐解かれていく。 鳩と同じほどの体格をしたその鳥を見た誰かが言った。 「この島では絶滅したんじゃ…!」と。 この島"では"ということは、他の地域ではまだ棲息しているのかと気になる思考はさておいてだ。 そして、彼を発見に至った経緯を話している際、冨岡先生は言った。 「給食室の壁に空洞ができていた」と。 気付いたのは彼を捜索している最中。南側の断崖絶壁には姿がなかったことから、思いつくまま危険地帯を虱潰しに当たりながら、廃墟と化した空き家に入り込んだ時だという。 建物内でありながら吹き付ける風で給食室での不自然な風流を思い出し、その可能性に賭け、学校に戻ってきた。 隅から隅まで調べたところ、子供1人が屈んでようやく入れるほどの空間を発見。 彼はそこで小さく蹲ったまま眠っており、傍らにはその鳥が寄り添っていたという。 私達が昨日見た無数の白い染みは、鳥の排泄物だと言ったのは、確か校長か。 「いつのまにあんなフンまみれにされてたんだね〜知らなかったさ〜」なんてのんびりと言っていたのを、なんとも言えない顔で見つめてしまった。 そこもまぁ置いておいて、とにかくだ。 彼が給食室にこだわっていたのはなんてことはない。偶然入った時、弱っているこの鳥が住み着いていると知ったから。 そして今日、行方不明とされたのは、餌付けをしようとこっそり学校に戻った際、その姿がなかったことで、不安から泣き続け、そのまま眠ってしまった。という、私達が思い浮かべていた情景とは違い、遥かに平和な理由からだった。 しかしここでまた、疑問は出てくる。 「元気になったから飛んでいってしまったとかは、考えなかったんですか?」 「こいつ飛べないから……。給食室から出られないんだ」 それはまた意外な事実だと驚いた。 「確かに、あの窓枠から出るのは困難ですね」 それならその鳥は今までどこにいたのか。そこも気にはなってくるが、それに至っては答えが出るわけではないので考えるのをやめる。 「とにかく無事で安心しました。今お母さんもこちらに向かっているので……」 バタバタと走ってくる音に、言葉を止めた。 思い切り開かれた職員室の扉と名前を叫ぶ必死な声に、また彼の目が潤んでいく。 「お、母さん……」 「なにやってんのアンタ!!ほんとにっ!!」 ツカツカと近付いてきたかと思えば右手が振り上げられて、私が反応するより遥かに早く冨岡先生の右手がそれを止めた。 「何っよ!!」 「殴っても何も変わらない」 まさかその台詞をこの人の口から聴く日が来ようとは…。って感動してる場合じゃない。 開こうとした口は 「お母さんっ…ごめっ、ごめんなさぁあいっ!」 ワッと泣き出した声に、固く結んだ。 それは、母親の頬に伝う滴を見たからというのも大きい。 力が抜けたのを見計らったように離した手は、すぐにその小さな身体を抱き締めていた。 「何、してんの…!バカッ!!こんな大騒ぎになって…!」 「ごめっ、なさ…!」 「バカッ!ほんっとにバカッ!!どうすんのよ!アンタがいなくなっちゃったらぁ…っ!!どうしようって!!ずっと…っ心配してたんだからね!?」 お互いに嗚咽を漏らしながら抱き締め合う姿は、そのあとの言葉がなくとも気持ちは通じ合っているだろう。 経緯はどうあれ結果として良かったのだと、この件に関してはそう思うことにした。 good boy 「ほんとに災難だったね〜苗字先生。帰ってゆっくり休むといいさぁ」 母親と共に深々と頭を下げた彼が学校をあとにして、間髪入れずに校長はそう声を掛けてくる。 首を横に振りかけた私を帰宅する方向へ誘導したのは冨岡先生だった。 「大丈夫さ〜。今は熱も下がって落ち着いてるし、責任感じることないよ〜?気になるなら明日にでも診療所行ってみるといいさぁ」 その提案に言葉を濁したのは私自身、そこに関しての問題がクリアになっていないからだと言える。 土がへばりついて、どことなく動きづらさを感じる中ハンドルを動かす車内は珍しく無音だ。 癖で感情を読もうと目端で捉えた横顔は涼しいもので、これでもかと疑問がいくつも湧き上がっていく。 何から言葉にすればいいのか悩んでから、口を開いた。 「……さっきは、助けてくださって、ありがとうございました」 きちんとお礼を述べてなかったことに気付き改めてそう言えば、群青色の瞳が険しくなる。 「礼を言われることはしてない。今回はすべて俺の失態だ」 「失態って…、冨岡先生においては活躍しかしてないじゃないですか」 「子供を見つけることに重きを置きすぎた。やはり俺も名前の傍に留まるべきだった」 「教師として…、いえ、人間として当然のような気がしますが」 「俺はお前の従順な飼い犬だ。警察犬の真似事をして褒められようとしたのがそもそもの間違いだった」 「……。褒められたかったんですね」 笑おうとしたのに、それほど口角が上がっていないのはどうしてかなんて、わかり切ったことを考えようとした自分を嘲てしまった。 「冨岡先生が間違ってるんじゃないです。私が余計なことをしなければ良かったんですよ」 いつだって最良の道は選びたいし、できるだけ後悔はしないようにしたい。 取り返しのつかない失敗をしたからこそ、常に留意してきた。 だけど、私にはやっぱり、どうしても冷静な判断や対処ができないのだと思い知らされて、心に占めるのは虚しさと悔しさ。 「学校なら安全だと判断して、傍を離れたんですよね」 それがわかっているから、なおさらに申し訳なくなる。 平等だの平静だのなんだの謳っていた教務主任は、どこに行ってしまったのか。 いや違う。それが虚像だというのが顕著になったから、こんなに沈んでるんだ。 「そうじゃない。失念していたことを失態と言っている」 「…何を、ですか?」 「あの古井戸の存在は既に知っていた。お前が鬼ごっこと称した賭け事をした際、奴らが俺をそこに落とそうとしていたからだ」 そこまで聞いてから、記憶を蘇らせる。 「罠って言ってたのはそれだったんですか…?」 「そうだ。給食室の違和感もずっと頭の隅にあった。何故俺は、行方不明の一報を聞いた時、その可能性に気付けなかったのか」 ギリッ。 奥歯を噛む音がこちらにまで聴こえて、嬉しさより更に後悔が募った。 「"私"を優先的に考えた弊害です」 「弊害じゃない」 「弊害ですよ。それ以外何て言うんですか?」 "私"がいなければ、冨岡先生はわざわざ徒労しかない捜索に加わることもなく、すぐに真実を導き出していた。 "私"を優先にさえしていなければ、元々質の高い察知能力はいかんなく発揮され、こんな騒ぎにもならなかったはず。 わかりきっている結果に、後悔が押し寄せる。 終わったことを蒸し返しても仕方がない。それでも気持ちを切り替えるには、正直まだ時間が掛かりそうだ。 「名前は悪くない」 当たり前のように言ってくれるから、なおさら自分が無力に思えてくる。 「……海、寄ってから帰りましょうか」 すっかり陽が落ちた中で、そう提案したのは冨岡先生への気遣いでもなく、自分のため。 それでも 「そうだな」 短い肯定で返してくれるのが、今はなにより有難いと思った。 元々、昼間でも人や車の往来が少ないそこは、夜となると街灯以外明かりもない。 眼前に広がっているはずの真っ青な海も、今は漆黒の闇に近い色をしていた。 それでも波の音だけが聴こえるのが、癒しよりも言いようのないざわめきを運んでくる。 いつもは饒舌な冨岡先生が、黙っているのも要因かもしれない。 「……。訊かないんですか?」 「まだ気が動転してるだろう?話したくなったら聞く」 「…そうですね」 ついこめかみを押さえたのは無意識な癖なのだけど 「身体の方は本当に平気か?」 優しい声色に潤む目元を隠すにはちょうど良くはなった。 「大丈夫です。足の痛みも引きましたし。泥で気持ち悪いくらいです」 ここで真っ暗な海を眺めているより、早く温泉にでも浸かった方がまだ落ち着く気がしてきた。 「帰りましょうか」 まだ乾ききっていない目を、左側から見えないように隠そうと触れた髪はべったりと付着した泥で動きもしない。 「隠さなくていい」 指を優しく攫っていく手が、とても温かいと感じたのは、雨に打たれたからか。 「怖かっただろう?悪かった」 「……いえ」 言葉に詰まるのは、どうしてか。 こんな時、素直に感情を吐露できる性格だったなら。そうは思うのに、上手い返しを考えようとしてしまう。 それでも勝手に出てきそうな涙で止まる思考は中途半端で、 「怒らないんですね。意外でした」 可愛げのないものになった。 だけどそれは、全くの強がりでもない。 ただでさえ独占欲が強いのは嫌というほど思い知らされてる。 記憶を失くした常人に敵意を向けたのと同じように、もしかしたらそれ以上に怒りを表すと予測していた。 だから意外だと考えに至る。 「俺が感情のまま暴走すれば、そのぶん名前を傷付けるからだ」 両手で包み込まれる左手は、まるで今まで凍っていたみたいで、何かが溶けていく感覚がした。 「本当は殴っても良かった。気を失っていようが俺には関係ないとも考えたが…、教員からの証言で名前が職員室を出た時間を逆算したことで冷静になった」 「……。どういう意味ですか?」 「あの男は最初からお前を襲うつもりだったわけではなく、井戸に落ちた後、暫くは理性を保っていたという事実だ。もし最初からその気になり迫られていたら、俺は確実に間に合っていない」 言い切られてから、考える。 確かに最初はそんな雰囲気は微塵もなかった。そうなったのは私が拒否に回ったせいだと思っていたけれど…。 「首を掴んだ時、体温が異常に上昇していた。恐らく傷口から細菌が入りすでに感染症を引き起こしていたのだろう。身体機能が低下した時の判断力などたかが知れてる。あの時の記憶を宿しているかどうかも危ういところだ」 言われてみれば、そうだと言わざるを得ない。怪我をしたという事実だけではなく、ひどく苦しそうだった。 落ち着いて考えれば、それこそ冷静に対処できたであろうという現実は、また心に突き刺さる。 「あの一瞬でよくそこまで判断できましたね……」 「名前から学んだことだ」 「私そこまで冷静沈着じゃないですよ…。買い被りすぎです」 「知っている」 これほどにないくらい穏やかな声色に、直視できなかった群青色へを見つめた。 「だから殴らなかった」 「その……、だからの意味を訊いてもいいですか?」 「あの男を殴った手で、お前に触れるのは赦されないような気がした」 手を握る力が、心なしか強くなるのを感じる。 「本来のお前は感情を優先にする人間だ。だから他人を推し量れる。理解するために客観性を経由させるため、見ようによっては冷たく見えるだけだ」 返答を考えるのも忘れて、言葉の意味を心に落とし込み続けた。 「感情が先立って思考が止まることは悪いことじゃない。極限の状態で俺の名を呼んでくれたことが何よりも喜ばしい。まさかあの井戸に落ちていたとは思わなかったが……」 「……。私が考えてること全部、見抜いてるんですね」 「今回は見抜けていない部分もある」 「……どこですか?」 「何故俺に対し罪悪感を抱いているのかだ」 参った。 この人はホントに、全て、掬っていく。 「話を、しました」 咄嗟に逃げたくなる手は、また優しく包まれる。 "触れているだけで癒される"というのは、こういうことを言うんだろうな、とふと考えた。 「あの子がこの島に来た境遇と、過去が似ていたんです。あわよくば心の拠り所になるよう誘導しようとしました」 あまつさえ、好意という感情を、利用して。 どうにも口にできないまま、落ちた沈黙。 これにはさすがの冨岡先生も憤怒するだろうと覚悟した。 しかし続く、 「だからどうした?」 全く変わらない声色に眉を寄せる。 「だから…」 「それが名前が最良と判断したのだろう?」 「一瞬は、そう思いました。ですが…」 「俺がそんなことでショックを受けるとでも思ったのか?」 「受けないんですか?」 「受けない」 即答された。これはまた参った。 「例え生徒を救うという目的のためにあの男に抱かれる手段を選んだとしても、俺はお前を認め受け入れる」 参ったどころじゃない。 私が思うより遥かに強靭な狂人すぎてついていけない。 「それは絶対にしませんし、受け入れるとか有り得なくないですか?」 「有り得る有り得ないの話をしてるんじゃない。お前の全てを受け入れるという話だ」 「受け入れないでほしいんですけど……。それこそ暴走してもいいくらいですよ。どこまで自虐的なんですか」 「自虐的でもない。お前が選んだ道が俺の全てだ」 真剣な群青色に、目が離せなくなってしまった。 「俺は名前の味方でいると言った。何があってもだ。それはこれからも何も変わらない」 本当にこの人は、何が遭ろうが何が起きようが、私が"絶対"なのだと。 そう思うと、笑ってしまう。それこそ涙が出てしまうくらいに。 「じゃあ、そうですね。ますます行いには気を付けます」 「気を付ける必要はない」 「私が嫌なんですよ」 「…何がだ?」 「大切な飼い犬兼恋人兼飼い主を傷付けるのが」 最後まで言う前に塞がれた口唇に、目を閉じるより早くふと疑問が明確になった。 「…ちょっと、思ったんですけど」 「何だ?」 むすっとした顔をどうにか手でブロックして続ける。 「LINE、見てないんですか?」 どうにもさっきから引っ掛かる部分が多々あった。 さっきも"井戸に落ちたとは思わなかった"だの言っていた気がする。 「見てない。あの子供を発見し、職員室へ戻ってからお前がいないことを知った」 「……。そうですか。まぁ、バタバタしてましたし……」 そこまで言ってみたけれど、どうにも腑に落ちない。 「電話も、したんですけど…気が付きませんでした?」 顔色を窺いながら訊ねてみる。決して責めているわけじゃない。 だけど、何かが引っ掛かる。 「……。気付かなかった」 特にその不自然な間と、急に逸らし出した目線が。 それだけじゃなく、先程まで攻めようとしていた顔まで引っ込めてる。 これは確実に何かを隠してる。 「冨岡先生」 「………」 「スマホ、見せてくれませんか?」 「………。ない」 ない? 思わず顰めてしまった顔を弛めた。 「もしかして…」 「紛失した」 「どこでですか!?」 「それがわかれば苦労はしない」 「あぁ…まぁ確かに。ってそうじゃなくてですね、いつまであったか覚えてます?」 「最後にお前に連絡を入れた時だ。急いでいたため上のポケットに入れたまでは覚えている」 「捜索している間に落としちゃったんですかね……」 「恐らくそうだろうな」 「何で早く言わなかったんですか?」 「俺の失態で助けが遅くなったと知られたくなかった。しかもお前と揃いのスマホを失くしたなど言えるわけがない」 「そこは気にするところではないのでは……?」 この人はホントにこういうところで変な意地を張るんだから…。 なかば呆れながらスマホを取り出す。 「どうするつもりだ?」 「ダメ元ですが一応電話を掛けてみます。どなたかが拾ってくれているかもしれないので」 確か掛かったきた電話にはパスコードがなくても出られたはず。 鳴り続ける呼び出し音に、諦めが強くなってきたころ 『はいは〜い』 どうにも陽気な声に少し戸惑った。 「すみません、そちらのスマホを落とした者ですが…」 『あ〜はいはい〜。駐在所に届いてるよ〜』 ということは… 「警察の方、ですか?」 『そうそう〜』 なんとまぁ、フレンドリーというか軽いというか…。 『おたくもしかしたら内地から来た学校の先生ね?』 「……。そうです。よくわかりましたね」 『やっぱね〜。声聴いたことないと思ったさぁ。訛りもないしね〜』 「あの、冨岡と申します」 口に出した瞬間、左隣がとても喜んでる。 『とみおかさんとみおかさん。はいはい。そしたら明日学校に届けてあげよっか〜?』 「いいんですか?」 『いい、いい〜。どうせ暇なんさ〜』 そこで気が付いたのは、飛行機の時間だ。 午後の早い時間の便で帰るつもりでいたけれど、状況が大きく変わった今、タイムリミットが短すぎる。 「では明日お願いしてもいいでしょうか?生徒達が帰る時刻までは学校にいますので」 そう言った瞬間に、今度は驚きを宿していくのが見なくてもわかった。 失礼しますと切ったあと、 「明日は、夕陽を見てから帰りましょう」 そう提案をする。 「できるのか?」 「できます。ネットから便を変更すれば何も問題ありません」 そのぶんの差額は経費で落ちないんだろうけども。自腹を切る価値は大いにある。 「折角ですから夜までいましょうか。初旅行ですし。そういえばここの郷土料理もそんなに堪能してませんね。お土産も見たくないですか?」 慣れない感情の吐露は、この人の前でなきゃ言えないだろう。察して、受け入れてくれるという安心感はここ以外、どこにもない。 「……あと、提案なんですが」 「何だ?」 こちらが戸惑っているとわかるや否や、優しさを湛える表情に、あぁ好きだなと、その感情が湧き出していく。 「帰ったら……、指輪、買いに行きませんか?」 「……揃いのか?」 「えぇ。冨岡先生さえ良ければですけど」 「いいに決まってる。むしろ明日でもいい」 「いえ、帰ってからゆっくり選びたいです」 つい冷静に突っ込んでしまったけれど、キラキラしていく瞳に、言って良かったと小さく息を吐いた。 私なりの"ありがとう"と"ごめんなさい"を伝えて (それなら黒色の下着と共に指輪を装着した名前に跨ってほしい) (……。すっかり忘れてました) (その前に自慰(それは約束してませんよ?)) 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