good boy | ナノ
バキッだの、ドンッだの、バタバタだの。すべてがどんなだったかは覚えてないけれど、とにかく幾重にも重なった崩壊音だったのは確かだ。

パラパラと落ちてくる木屑や葉に顔を上げたことで見える遥か頭上の明るさに、自力で登ることは無理だと悟る。
ついでに言えば落ちた衝撃で身体のあちこちが痛むため、登れたとしても半分もいかず体力が尽きそうだ。

これは、落とし穴か何かか。

突然光が遮断された空間のせいで、周りが良く見えない。
ポケットの中にあったはずのスマホを取り出そうにも、何も入っていない感覚に息を吐いた。
落下の衝撃で、同じくどこかに打ち付けられたのかもしれない。

「大丈夫ですか!?」

すぐ傍で聞こえる声に、あぁやっぱり一緒に落ちてしまったか、と眉を寄せた。

「こちらは大丈夫です」
「……良かった。ちょ、っと待ってくださいね!今スマホ…」

言葉が途切れてたあと、眩しいくらいの明かりに顔を照らされて目を窄める。

「あ、すいません!」
「…いえ」

下に向けられた明かりに、そこが一応ぬかるんではいるが地面だというのを知る。
そのお陰か、高さの割に大きな負傷はしていない。
身体の下にあるビニールシートと木の板らしき感触に、この穴が敢えて隠されたのだというのも知覚できた。

「…これ、周りが石ですね…」

囲まれた壁を視角と手の感覚で確かめる姿の傍に、見慣れたスマホが転がっているのに気付く。

「すみません。そこに、スマホがあるので取っていただいてもよろしいですか?」
「あ、はい!……あ、これか…!どうぞっ!」

差し出される腕へ手を伸ばし返して、かろうじてそれを受け取った。

大人2人が片腕を突き合わせた距離は、およそ何十センチだったか。
個体差はあれど、測る指針にはなると聞いたことがある。だけど今すぐに正確な数字が出てこない。

凭れた背中に感じる冷たさは、ところどころ照らされる明かりに円形を模っているというのを知った。

「……古井戸か、何かですかね…?」

駄目元でその石壁に掴まれるものはないかと探ってみるも、指が入らないほどの隙間があるだけ。やはりこれを登るのは得策ではないと、立ちあがろうとした足を止める。

正直言えば、動かせない。というのが正しいか。

どこをどう打ったのか把握できてないため恐らくだけど、足を打撲したらしい。
ズキズキとした痛みはこれから引くか、或いは悪化するかはわからない。けれど今ここで動いて体力を消耗するべきではないのはわかる。

他人任せというのが何とも情けない話だけど、自力での脱出は諦めて上からの助けを待つ方が利口だ。

幸いにもスマホの電波は生きてるし、大事には至らない。

万が一、あの子を発見し説得している最中という可能性もなくはないので、敢えてメッセージで送る。

"井戸らしき穴に落ちました"と。

ここに残っている教職員の誰かが見つけてくれたとしても、男手を外に割いている今、見つけてもらったところで救出は困難だ。

だから冨岡先生達が戻ってくるまで待つ、という選択肢しかない。

「連絡をしたので、そのうち来てくれると思います」
「……。よかった…」

焦ったところで仕方がないので、そう声を掛けてから、無意味ながら上を見上げてみた。


それからどれくらい経ったか。体感時間は長い気がするし、でも実質、そこまで経っていない気もする。
唯一、外部と繋がるスマホのバッテリーが切れては元も子もないので、画面をつけるのは思い直した。

しかしここで無言で待ち続けるのも、いささか気まずいものがある。
それは向こうも感じたようで、

「……。どうして、いなくなっちゃったんでしょうね…?」

投げかけられた質問に、何と答えようか考えた。

「私のせいです」
「…え?」
「恐らくですが、心当たりはある、という話です」

例え子供であろうが、人間は推し量れない。そんなことはわかっていた。
重々自分に言い聞かせていたつもりでも、どうも時間が経つにつれ意識が薄れていく。
感情をある程度読めると、余計に。

その場では平気な顔をしていたって、突然揺り起こされるように、辛さが、悲しさが、鮮明に蘇ってきてしまうことは、ないとは言い切れない。

堪えてきた感情が溢れ出すことも、張っていた糸が突如として切れることも、おおいにある。

子供だから、特にそうだ。

なぜ私はあの時、大丈夫だと判断をしたのだろうか?

きっと突き詰めていけば、こうなる前に対処ができたはずだった。

「……よく、わからないですけど、苗字先生のせいじゃ、ないと思います…」

たどたどしい声は全然違うものなのに、自然と群青色を思い出す。

「あの子最近、内地からきたんですけど、両親が離婚したから…そういうのがあるんだと…」
「ご存知だったんですか?」
「あ、はい。でもそれしか、知らないんですけど…!島は狭いから、そういう噂はすぐに広まります」
「……。そうですか」

だからあの子は、なおさら居心地が悪かったのかもしれない。

「僕ちょっとですけど、いなくなりたくなる気持ち、わかるなって思いました」
「と、言いますと?」

暗さにだいぶ目は慣れてきたけれど、表情まではわからない。こうやって日常的に窺おうとするあたりが良くないのだと思い直した。

「僕の親も離婚してるんです。母はいつも男の人とどっかに行っちゃうんで、小さい頃は祖母とずっと一緒に暮らしてました」

僅かに湿った声と吐露された内容について、驚きは眉を動かすだけで留める。

「……。そうなんですね」

相槌だけで返すのは失礼だろうと、言葉を続ける。

「ポチと名付けた、おばあさまですか?」
「あ、そう、です!よく覚えてますね…」
「猫にポチというのは、なかなか斬新だったので」
「あはは、ですよねぇ…」

途切れた会話を縫うように、落ちてきた雫に気付いて上を見上げた。

──…雨、だろうか?

「降って、きましたね」
「さっきまで快晴だった気がするのですが…」
「この島って…空が近いぶん天気が不安定なんです。急に雨が降ったり、嘘みたいに晴れたり……。多分、もっと強くなります」

言葉の通り、間を置かずバタバタと打ち付けてくる大粒の雫に、これは悠長に構えている場合ではないかと考え直す。

スマホが濡れないように覆ってから確認しても、まだLINEの既読はついていない。
読んでいたら真っ先に連絡がきているはずなので、別段驚きはしなかった。

ただ、通話ボタンを押しても一向に繋がらないのには、少し焦りが募る。

あちらも立て込んでいるという証拠なのだろう。

小学校に電話を掛けて救助を頼むか。いや、それは最終手段だ。
今は余計な仕事を増やさせたくない。

「苗字先生、こっちに…。スマホ壊れたら…俺が屋根になります……」

一応、防水という機能を備えているので大丈夫。そう言う前に、別のことに疑問が湧いた。

その必要以上に弱々しい声は、何故なのだろうと。

「どうしました…?」

明らかに肩で息をするのが、鮮明ではない視界ですらはっきりと見える。
単純な疲労や異常な状況下からくるものではない。

「大丈」

痛みが引いた気がする足を動かし傍へ寄れば、力なく凭れかかってくる頭に眉を寄せた。
「……つっ」
小さく唸ったのが、打ちつける雨音の中でも聞こえる。

もしかして―…

「どこか怪我してるんですか?」
「…だい、じょうぶ、です…」

力のない言葉は無視して、その肩から背中を手で触れてみる。正直骨を折っていたとしても、私には見極めが難しい。

こんな時、冨岡先生がいてくれたら的確に判断してくれるのに。

縋りたくなる気持ちは外へ追いやって、足へ手を伸ばした瞬間、雨とは違う、生温かい液体に触れた。
形容しがたい、ぞわっとする恐怖に似た感覚を息を吐くことで抑える。

スマホの灯りで照らした先、太腿に突き刺さった木材から滴る鮮血に息を吸うことは叶わなかった。


good boy


悲惨な光景を目にした途端、眩暈に似たものを感じたけれど、一度肺の底から空気を吐く。
どうにか少しでも状況の改善に努めなくては。そう言い聞かせて僅かに震える指先に力を入れた。

貫通はしていない。だけど、どれほど刺さっているかまで見ただけではわからない。
気が動転して抜こうとしてしまうのが、逆効果になるというのは有名な話。救助がくるまでこの木材には一切触れないことを、改めて自分に言い聞かせた。

だけど、このまま放置するのも得策じゃない。
雨に打ち付けられ続ければ、それだけ血液が失われるし体力が大幅に削がれていく。

せめて止血を試みたほうがいいのか。だけど鞄は職員室に置きっぱなしだ。

ドドッ!

突然鳴り響いた音に今度は何が起きたのか、と上を向いた瞬間、今度は地面が大きく揺れた気がした。

まさか、地震?
心の中でそう呟いたのと同じくして

「……雷まで、鳴り出しちゃいましたね…」

力ない笑いを含んだ声に眉を寄せる。

「しっかりしてください…!」

止むどころか勢力を増してる雨粒で、早くも泥濘はじめた地面に靴が沈んだ感覚にドクッと心臓が動いた。

そうだ。元々井戸だったら地盤など、あってないようなものだ。

こうなったら悠長に構えている場合じゃない。
とにかく警察でも消防でも何でもいい。外部と連絡を取って助けを求めなくては。

タップする画面を覆う手は、当たり前に私より大きい。

「……そのうち、誰かくるなら、だいじょうぶです、僕は……急がなくて…」

また小さく笑った息が肩にかかる。

「ですが…」

この状況でもこちらに気を遣っているのか。純粋無垢というのもまた無意識な自己犠牲の精神を―…

「苗字先生と、こうして…いたいです」

意味を理解した瞬間、後ろに引こうとした身体を止めたのは、今もなお流れ出る真っ赤な血だった。

スマホを下ろさせる手の力は、拒否しようと思えば簡単に逃げられるほどに弱々しい。

「……少しだけで、いいから…」

湿り声のあと身じろぎもしなくなって、突き放すことができなかった。

だけどそこでできた沈黙で、本来の冷静さを取り戻す。

私が連絡しているのは冨岡先生だけだ。
これまで長く連絡が取れないということは、あちらも身動きが取れる状況ではないと判断して、次の行動を起こさなくてはならない。

「ですが、この状況では然る機関に救助を求めないと」
「ロクでもなかったんです。僕の母親……」

このままで聞くべきなのかを正直迷う。

そうしている間にも、刻一刻と状況は悪化していく一方だ。
今はそんな場合ではないと、凭れかかる頭を離すことは正直容易にできる。

だけどその境遇に、残酷だけど新しい希望を見出したのも確かだ。

私達がこの地を去ったあと、あの子が抱える問題をこの人に一任することが可能なのではないかという希望。

元々読み聞かせで顔を合わせているため、既に心象は良い。
それを加味して似通った境遇であるなら、なおのこと適任だ。

だから私は、突き放すことも、上手くあしらうこともできずにいる。

この状況を飼い犬兼恋人が見たら、知ったら、どんな暴走をするかもわかっていてもだ。

希望を実現するためには、拒否という選択は選べない。

「……覚えてることといえば、いっつも派手な化粧して、香水くさくて……そんな嫌な記憶しかなくて…だから僕、正直、女性が苦手だったんです……」
「……そうだったんですね…」

理解を示そうとしていると出した相槌は、思ったより深いものになった。

だからこの人は、必要以上にこちらとの距離を詰めてこなかったのかと。
"望んでいない"のだと、奇しくも冨岡先生の言う通りだと裏付けられた。

「……でも、苗字先生は、今まで見てきた女性とは違うなって…」

何がどう違うのかはこちらにはわかりかねるけれど、

「…、僕を、僕として扱ってくれるなって…」

小さく笑ったことで、それが悪いものでないのは窺える。

それと同時に、1つの答えに辿り着くこともできた。

私に対して向けられているこの"好意"というのは、男女の恋愛という括りではない。
人で在るという根本的な承認欲求が満たされたことで、自然と心を許したんだ。

拾われた犬のように。

だから冨岡先生は敵視をしなかった。それどころか傷付けないように立ち振る舞った。

理由は明確だ。自分に重ねたから。それだけ。

「そう見えたのは…、きっと職業柄でしょうね」

このままでは、この人にも冨岡先生にも失礼だと思い直して、私がやんわりと引いた線は嫌でも感じたと思う。

「とにかく助けを求めましょう。このままでは「好きです…!苗字先生!」」

とっさに離れようとした身体は、引き寄せられた腕で身動きが取れなくなった。

「…好きですっ!僕苗字先生が好きなんです!!」

抱き締める、というよりは必死でしがみついてくる子供のような必死さに一瞬止まってしまった自分に気付く。

「落ち着いてください」

突然拒否する方に回ったのは、完全に失敗だった。
多分今、自分の行動すら冷静に捉えられていないまま、この場の雰囲気に流されてる。

「苗字先生…っ!」

グシャッと嫌な音を立てて沈んだ背中と、服を引っ張られる感覚に眉を寄せた。

「……ちょっと、待ってください…っ!」

バタバタと打ち付けてくる雨で視界が悪く、口唇が重なりそうになったのを気付いたのは直前で、どうにか顔を捻って交わしたはいいけれど、それで解放されるはずもなく縺れ合う。
「やめてっちょっと!」
必死に抵抗をしようが力の差は歴然だ。それでも抗い続けるしかない。

捲り上げられた服から脇腹を滑ってくる手の感触に、いいようのない気持ち悪さが込み上げた。

どうにか蹴ろうと足を動かしてみても、ぬかるんだ地面では滑るだけで何の意味も持たない。
説得をしようにもこの状況じゃ全く聞く耳を持たないだろう。

本当に、どこにも逃げ場がない。

いや、落ち着いてどうにか―…

必死さで最善策を考えるも、込み上げてくる恐怖に目を瞑った。

いやだ怖い気持ち悪い助けて。


「助けてっ!!義勇ッ!!」


叫んだ瞬間、大きく舞った水飛沫に息を止める。

泥だらけのスニーカーが見慣れたものだと気付いた時には、その手が彼の首根を掴んでいて、振り下ろされる拳に声を出す間もなかった。

殴ってしまう。

そう覚悟をして目を逸らしそうになったから、すんでの所で止まった動きにまた反応が遅れる。
何を思っているのか、拳を下ろすより早く放した手で、力なくその身体が地面に沈んだ。

「……。遅くなった」
「…い、え……」

優しく包み込んでくる両腕はまるで壊れ物を扱うみたいで、安堵から涙が出そうになるも、

「苗字先生〜!!大丈夫〜!?今助けるから待っててよ〜!!」

頭上から聞こえた校長の声に、どうにかぐっと堪える。

徐々に下りてくる救助用ロープが地面に着く頃には、あれだけ打ち付けていた雨も小降りになっていた。

「背中に乗れ。俺が登る」
「……」

返事をしようとして、倒れたまま動かない姿へ視線を向ける。

「気絶しているだけだ。俺が掴んだ時にはもう意識がなかった」
「そうですか……」
だから殴ろうとしたのをやめたのか。
「…でも足に「わかってる。何も言わなくていい。俺にとってはお前が最重要で最優先だ」」
そう言い切られてしまっては、その広い背中に身を預けるしかない。
「……。失礼します」
いくら体力があるからといって、この高さを登るにはだいぶ骨が折れるだろう。
申し訳ない気持ちを感じつつ、ロープを掴む手に比例して、こちらの手も強くなる。

「足は大丈夫か?」
「よくわかりましたね…」
「すぐにわかる」
「……すみません…」
何に対してのものなのか、自分でもよくわからないまま出した謝罪は、
「…やはり離れるべきではなかった…俺がいたら名前をこんな目に遭わせていなかったのに……」
ブツブツと出される後悔に掻き消され、一切のブレなささに何故か口角が上がってしまった。


だから私は私でいられるんだ


(そうだあの子は…!)
(それも心配ない。既に発見し拘束した)
(そこは保護って言いません…?)


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