右隣のデスクの上、仏頂面したストラップがチラチラと視界に入る。 見れば見る程冨岡先生に見えてくるそれに、また笑ってしまいそうになるのを堪えた。 真剣な横顔で日誌を書く本人の邪魔をしないように書類を作ろうとパソコンの画面に集中した所で 「そんなに面白いか」 いつもの如く急に飛んできた発問に右へ顔を向けるもその瞳は日誌へ向けられたまま。 「面白い、というよりは微笑ましいという表現の方が的確です」 マウスを動かしながらそう答えた。 good boy 徐々に、ではあるけれど、冨岡先生の変化は周りにも伝わり始めているらしい。 私が赴任した頃のピリピリとした雰囲気は最近では目に見えて穏やかなものになってきて、先程の光景のように冨岡先生と関わろうとする生徒が増えた。 その度に困惑している冨岡先生と、それがわかっていながらもわざとグイグイ絡んでいく生徒達を見ているのは心が和むものがある。 「冨岡先生もだいぶ変わりましたね。最初は手負いの獣みたいでしたけど」 「名前が俺を拾ったからだ」 「拾ってはないです。勝手についてきてるだけで飼ってもないです」 「頑なだな」 「当たり前ですよ。認めたら骨の一つも残らず食い殺されそうじゃないですか」 「食い尽くしはするかも知れないが殺したりはしない。お前が居なくなるのは困る」 「またそういう…」 「それに変わったのは俺だけじゃない」 その一言に、思わず冨岡先生へ顔を向けた。 視線が合う事はないが、その横顔を見る。 「気が付いてないのか?」 「…何をですか?」 「わからないなら良い」 「何ですかそれ。そう言われると余計気になるのが人間のサガってものですよ」 だんまりを決め込む姿がこれ以上話す気がないと伝えている。 此処で深追いしてもロクな事にならなさそうな予感がするので大人しく退却する事にした。 また画面に視線を戻したものの、伝え忘れていた事を思い出してまたそちらへ顔を向ける。 「冨岡先生、あとで…」 一度言葉を切ったのは、いつが良いかと一瞬考えたからだ。 「…昼食の時なんですが少しお時間とってもらっても良いですか?」 「…今この場じゃダメなのか」 「出来れば余り人目につかない所が良いです」 不思議そうに見てくる群青の瞳が何か言いたげだったが 「…わかった」 一言だけで了承した事で 「お願いします」 と視線を外した。 * * * チャイムが鳴って暫くしても無人のままの右横に大きめな溜め息をひとつ。 さっきわかったって言ったくせに、と心の中で呟いた。 考察するに恐らく、先程私が人目につきたくないと言った事から昼食時の定位置に向かったのだろうが、せめて一言断りくらい入れてくれても罰は当たらないだろうに。 何も言わないものだから、検討はついていても、本当に其処に居る確証はない。 これでもしその場に居なかったらとんだ無駄足だが、自分から言ってしまった以上、向かわないという選択肢は選べない。 いや、選んでもいいんだけども、このまま放っておいて昼食を食べる選択肢もあるにはあるのだけど、放置してまた噛みつかれるのはごめんだ。 いつかと同じように持参した弁当は鞄の中にしまったまま、筆箱だけを抱え職員室を後にした。 西校舎の裏側、余り陽が差さない階段の踊り場、座り込んでいる見慣れた背中を視界に入れる。 「遅い」 気配に気付いたのかこちらを向く事なくそう言うとパンを頬張った。 「…そう言うなら此処に居るって言っといてくれませんか?」 「名前ならわかると思った」 「いや、私エスパーじゃないんで冨岡先生の考えが全て読める訳じゃないですよ」 「…読めないのか…」 振り向いた表情に溜め息をひとつ。 「何でそこで驚くんですか…」 「俺の考えてる事は全て熟知しているのかと思っていた」 「そんな事が出来るのならとっくのとうに冨岡先生から逃げ切ってると思います」 「だが、俺が此処に居るのがわかったという事はやはり察知しているのは間違いない」 「…聞いてないなこの人」 「…用件は何だ?」 一人の世界に入ってたかと思えば突然核心に触れられ一瞬反応が遅れた。 筆箱を開けてから右手を差し出す。 「改めてこれ、お返しします」 「もう、気付かれたのか…」 驚いた表情に比例してこちらの眉間には皺が増えていく。 「あの後すぐに気付きましたよ。どういうつもりなんですか?」 「名前に持っていて欲しいが故に忍ばせておいた」 「理由を聞いても全然、これっぽっちも行動の意味がわからないんですけど…」 「俺のものになると決めた時に持っていればすぐに使えるだろう?」 「冨岡先生の頭の中ってどうなってるんですか?恐怖しか感じないんですけど此処までくると」 「常に名前の事を考えている。名前に触れたい。名前を抱き締めたい。名前の匂いを嗅ぎたい。名前にキスしたい。名前の耳も首も舐めたい。名前の胸に触れ「わかりましたわかりましたわかりました!!良くわかりました!!ありがとうございますお疲れ様です!」」 本当に何て事を淡々と言い出すんだ。 「…まだ半分も言ってない」 「いいですもう!ほんとにもう十分なんで!それ以上言わなくて良いです。聞いた私が間違ってました」 「俺の思考を読んでいるから言葉は不要か」 「………」 完膚無きまでに、打ち負かされた気がする。 元々ヤバイのは熟知していたけれども、輪をかけてヤバさが増していっている。 もしかして突き飛ばした時に思い切り頭をぶつけたのが原因だろうか。 「そうか、だから鍵を忍ばせたのもすぐ気付かれたのか。いや、でもそれならあの時マットに隠した時は…」 ブツブツと言いながらパンを食べる姿に言い知れぬ恐怖を感じて、もうこのまま職員室へ戻ろうかと思った所で眉を寄せる。 「マットに隠したってどういう事です?」 思い切り怪訝な顔をする私と目が合うと、明らかにその表情がたじろいでいた。 「…何でも、ない」 まるで悪戯が飼い主にバレた犬みたいな狼狽えように記憶を巡らす。 そう。だからずっと違和感があったんだ。 キッチンマットの下から見つけたこの鍵。 焦って見逃していたものだとばかり思っていたが、焦っていたからこそ、何度もマットの下は確認した。 曖昧ではあるがその後冨岡先生がマットに近付き、その下に手を入れているのを視界に入れた、気がする。 という事は… 「…わざとだったって事ですよね?嘘吐いたって事ですよね?」 止まない頭痛の中、必死に探した挙句鍵屋まで呼んだのは全て冨岡先生に仕組まれてたという事実に沸々と湧き出す怒りを感じ取ったのか、徐々に眉が下がっていく。 「最初から嘘を吐いた訳じゃない。鍵がなかったのは本当だ」 観念したように白状する姿に、ひとまず次の言葉を黙って待った。 「玄関の…、名前の靴の中に入っている鍵を見付けたが、余りにも必死に探す姿に言い出せなかった」 「そこは言うべきでしょう。それこそ何のために探してたのか意味がなくなってしまうじゃないですか」 「…俺の事を考えてくれていると思うと言い出したくなかった」 「考えてたのは冨岡先生の事じゃなくて鍵の事です」 「だからマットの下に隠した」 「そこに繋がっていくのが理解できないのは私の想像力の欠如ですか?」 「俺が家に入れなければ、名前は絶対に放っておけず一緒に居るという確信があったからだ」 「…随分と…、知恵をつけましたね」 って違う。素直に感心してる場合じゃない。 しかし此処まで言われると不思議なもので怒る気力も沸かない。 ただ本当にやる事が犬のそれと似ていると思ってしまった。 未だ眉を下げる表情に溜め息を吐く。 正直、鍵を見付け返しに行った時点でその表情の変化に突き詰めて考えれば事実を導きだせた筈。 あの時、違和感を抱えながらも深く思考を働かせなかった私も私だ。 「…過ぎた事はもういいです」 若干驚いている瞳に眉を寄せるともう一度右手を差し出す。 「経緯はどうあれ、今の私はこれをお返しするのが目的なので受け取ってください」 「………」 黙ってそれを受け取るのを確認して右手を離した。 「余計なお世話だとわかってますが、そのまま鍵を持ち歩いてるといつかまた失くしますよ。せめて何か…」 あぁ、そうだ、と思い出す。 「ラバストつけたらどうです?」 「…らばすと?」 「今朝あの子達から冨岡先生に似てるって貰ったやつですよ」 「…これの事か」 そう言うとポケットの中から取り出したのは相変わらず冨岡先生そっくりのキャラクター。 「それつければ、少しは鍵の在処もわかりやすくなるんじゃないですか?」 返事こそないが、食べかけのパンを袋の中にしまうと傍らに置いてから、ストラップを通そうとする手が止まる。 「…入らない」 「あぁ、それ結構力入れないと通らないんですよ」 「名前がつけてくれ。俺だと壊しそうだ」 「冨岡先生、そういう所凄い不器用ですよね」 苦笑いをしながらそれを受け取るとその場にしゃがむ。 鍵へストラップを通し、その大きい頭を入れようと多少強引ながら押し込む。 またパンを頬張り始めているのは音だけで聞いた。 なかなか通らないそれに、苦戦するもその難関の頭さえ通ってしまえばスルッと通っていく。 「…出来まし…」 顔を上げたと同時、目の前に迫る顔に気付いた時には口唇が重なっていた。 瞬きをするのすら忘れた私に、離れたばかりの口唇が笑っている。 「…何っ、するんですか!」 「何ってキスだ」 「だからそういう説明じゃなくて!誰が良いって言いました?しかも凄いパンくずついたんですけど!?きたなっ!食べてる途中にしてこないでください!」 口に感じる細かい異物感を取ろうと指ではたく。 「食べてない時なら良いのか」 「人としてせめて、っていう話ですよ。ほんと冨岡先生ってそういう所」 犬みたい、という言葉が繋げられなかったのはまたその口唇が噛みついてきたからだ。 「…っ!」 すんでの所で思い切りその顎を押し返した。 今度はグギッと更に酷い音がしたが構っていられない。 「いい…、加減にしないとほんっっとに怒りますよ」 「…悪かった」 天井を仰ぎながらも発せられる言葉に眉間の皺は消えないがその手を離す。 「用件は以上なので戻ります」 立ち上がる私の腕を掴むその顔がまた寂しげで思ったよりも大きめな溜め息が出た。 「…何なんですか。今日の冨岡先生おかしいですよ?いや、おかしくない時がないですけど」 何と言えば適切な表現になるのだろうか…。 珍しく浮足立っていて感情の起伏が激しいというか…はしゃぎ過ぎた挙句、度を超えて飼い主に怒られる犬のよう。 「…何か良い事でもあったんですか?」 ふと沸いた疑問も嬉々としだす瞳で口に出した事を後悔した。 「…やはり「考えてる事はさっぱりわかりませんがそんな気がしただけです」」 先に釘を刺せば、一瞬出し掛けた言葉をグッと飲み込むようにした後、口を開く。 「…名前が、楽しそうだからだ」 「はい?」 予想もしていなかった答えに理解するのにだいぶ時間が掛かった。 「此処に来た時のお前は何処か翳があった。その原因があの男のせいだというのはわかったが」 「…いや、別に全部が全部あの人のせいではないですよ。赴任したばかりで仕事にも慣れてなかったですし、教師も生徒もぶっ飛んだ人が多かったので疲れてただけです」 「元凶はあの男だ」 向けられる強い眼力が完全にあの人を目の敵にしてる。 次回からの勉強会は冨岡先生も宇髄先生、煉獄先生と同じく待機組に入って貰おうと頭の隅で考えた。 しかしそれも 「だが、最近の名前は、良く笑うようになった」 発せられた一言で徐々に眉間へと皺が集まっていく。 「自覚がないならそのままで良いと思ったが、それを見ていると「駄目じゃないですか」」 無意識の内に呟いていた。 しかしそれも冨岡先生の困惑していく表情に硬く噤む。 「何が駄目なんだ」 「何でもないです」 「そんな筈はない。明らかにさっきと表情が違う」 絶対に知るまで離さないと未だ腕を掴む指が伝えていた。 「…知って私に嫌われる道と、知らないまま私に嫌われない道ならどちらを選びます?」 途端に瞳孔を開く冨岡先生に、心の中だけで卑怯な質問ですみません、と詫びを入れる。 本当に残酷な選択肢を与えたと思う。 悲しい表情を見たくなくて、目を伏せたのにすぐに顔を上げたのは 「全てを知って尚、名前を手に入れる道を選ぶ」 はっきりとそう言いのけたから。 ゆっくりと手を離すも決意に満ちた瞳に何故か逸らす事が出来なかった。 与えられた選択肢は要らない (その時機でないなら今は耐えるだけだ) (諦める道はないんですか?) (そんなものは最初からない) [ 17/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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