good boy | ナノ
真新しくしたシーツの上に腰を下ろしてからスマホの画面をつける。
「…ふぅ」
無意識の内に出た溜め息は、大半が物理的な作業の疲れからくるもの。
シングルサイズとはいえ、シーツ替えは意外と体力を使う。連日となると余計にだ。
このまま冨岡先生…じゃない、義勇が此処に通うとなるとベッドについても何かしらの対策を練らなくてはならない。
それと共に、慣れたつもりでいたけれどやっぱり義勇と呼ぶには抵抗があるな。そうも考えた。
と、今はそれじゃなくて、その人物がシャワーを浴びているうちがチャンスだと視線を向ける。
検索バナーに
"ピル"
その2文字を入れて画面をタップした。
思い付いたのは、先程の騒動のお陰だと言える。
真っ先に出てきたのは緊急の方だけど、その件に関しては杞憂で終わりはした。
それでも、その力を借りるのはありかも知れないと考えている。

生徒と会話をしていると、同性同士だからかたまにその単語が出てくる事がある。
それは避妊ではなく、月経が重い子、部活、特に運動部に所属している子達は大会などの大事な日に被ってしまわぬようにそれを婦人科で処方して貰っているそうだ。
正直、それ以上の知識を持っていないので、今こうして詳細を調べてみている。

"オンライン診療"という文字を目に留めて、その先へ続けば出てきた詳細に、思っていたよりも手軽かも、という感想が先に出た。
婦人科に行くのは時間もない上に正直ハードルが高い気がして敬遠していたけれど、診察が電話1本で済むのはとても有難い。
毎月この値段なら無理なく継続も出来そうだし、スマホの契約プランも見直して少し出費が押さえられたので、その分と考えると丁度良い。
しかも日曜の今日も電話予約出来るらしい。そうしたら冨岡先生に相談して…
ダイニングの方で音がして反射的に画面を消した。
別にやましい事は何もないのにと思った所で寝室にやってきたジャージ姿に目を窄める。
「…頭も洗ったんですか?」
全体的にしっとりして重くなっている青みがかった髪に多少の驚きは出た。
てっきりその部分だけを洗い流しに行ったものだと勘違いしていたらしい。
「洗ってない。いつもの要領で頭から流してしまった」
「成程」
小さく笑ってから立ち上がる。
「じゃあドライヤー掛けてからご飯食べましょうか?」
「掛けてくれるのか?」
そういうつもりで言ったんじゃないんだけども、完全にこちらを見つめる瞳が期待に満ちている。
これはまた、無下には出来ない。まぁ、今は前と違って断る理由もないんだけど。
「良いですよ」
てっきり瞳がキラキラとしていくと、こちらも多少なりとも期待していたのだろう。
不満そうに曲がる口端の意味が察せなかった。
「…また敬語になってる」
ぽそりと呟いた言葉で、あぁそうだ、と心の中だけでこめかみを押さえる。
「…ごめん」
「……」
「…なさい」
更に強くなる不満気なオーラに、苦笑いしか出てこなくなってしまった。

非常に慣れない。全く慣れる気がしない。
意識せずとも喋れるようになるまで場数を踏むしかないのもわかっているんだけど。とにかく慣れない。

「ドライヤー、掛け、る」
片言になってしまった上にダイニングへの移動を促そうとした動作までぎこちなくなってしまった。
それでも不満そうに曲がっていた口元が耐え切れず上がっていくのを見止める。
「…可愛いな」
あぁ、ご機嫌はよろしくなったようだと安心したのも束の間
「冨岡先生にはホントに全部が可愛く見えるんですね」
思いっ切り言い放ってしまった余計でしかない一言で、一瞬で最下まで落ちる眉。
やってしまった、と今度は実際に頭を抱えた。


good boy


"冨岡先生"ではなく"義勇"。
"ですね"じゃなくて"だね"。
"しますか?"じゃなくて"する?"。
"でしょう"じゃなくて…

「…名前」
はい、じゃなくて
「うん」
答えてから我に返る。
先にエレベーターへ通させようとしている、と…義勇に気付いて急ぎ気味にそこへ乗った。
「ありがとう」
駄目だ。どうにも、その後のございますをつけたくなる。
いや、でも今のは結構自然だったんじゃないか、と自画自賛した所で閉まっていくエレベーター。
結局何だかんだ結構長い間、家で時間を潰してしまったので、ほぼ昼食に近い朝食を食べ、漸く買い出しに出られたのは良いが、チラリと窺う横顔はまた寂し気で何故という疑問しか湧いてこない。
また私は知らないうちに敬語を
「無理はしなくて良い」
抑揚はないながら、優しい声にその先を見上げた。
「俺とのデートが疎かになるのならいつも通りの名前で居てくれ。そっちの方がこちらとしても心置きなく楽しめる」
この言葉に、本当の意味で我に返った。そんな気がする。
だから、そんなに悲しそうな表情をしていたんだ。
私が、言葉遣いに注視ばかりしていたから。
「……ごめん」
意識した訳じゃないけれど、今のは自然と口から出ていた。
少しだけ、その表情が晴れた。そう見受けられる。
どうにもこう、無理をしようとしてしまうのはそれこそ"好きだから"なんだけれど、私の場合、いつも空回りしている。
もっと自然と好意を示せるような、伝えられるような、そういう可愛げがあれば良いのに。

不意に落とした視線の先、逞しい左手に瞬きを数回。
そういえば、私から繋いだ事ってあったっけ?…なかった気がする。多分。
歩き始めたらその手を掴むのは難しい。これは、今がチャンスなのでは?
出し掛けた手を一旦引っ込めてから、もう一度そっと触れる。
「…名前?」
流石、早い。指先が触れただけなのにすぐに気付かれた。
こうなったらもう開き直るしかない。意を決してその手を攫うと指を絡めた。
一瞬驚いたような気配がして
「…手を繋ぎたいと、思ったので」
そのスニーカーを見つめたまま言葉にすれば、一瞬で視界が動く。
気が付いた時には口唇が重なっていたのも、顔が離れてから知った。
「…と「駄目だ可愛すぎる。今すぐ抱きたい。もう今日は出掛けるのはやめにしないか?」」
どうやら私はまた変なスイッチを入れてしまったらしい。
「何言ってるんですか。駄目ですよ」
「家に帰れば手も繋ぎ放題だ」
「そういう事じゃなくて…」
迫っても来ているしそうも言ってはいるけれど、私から繋いだ手を握り返す力は優しくて、こういう所で赦してしまうんだよなと考えてしまう。
開いた扉に間髪入れず5のボタンを押すのは困った所だけど。
「あんまり暴走するとご飯抜きになりますよ」
「名前が居ればそれで良い」
「私じゃお腹は満たされません。良いんですか?大事な飼い主兼恋人兼飼い猫が餓死しても」
「それは駄目だ」
「でしたら買い物に行きましょうね。本当に家に何もないんですよ。…義勇が力持ちなので今日色々買い足したい、の」
閉まっていく扉にもう一往復か、と息を吐いた。
「その上目遣いは可愛すぎる」
相変わらずフィルターが凄いなって思うだけで我慢する。
此処で余計な事を言うと更に攻防が長引きそうだ。
「…わかった。そんなに見つめないでくれ。もう一度、キスだけで我慢する」
ゆっくり近付いてくる顔に、これは大人しく従うべきだと判断して目を閉じた。
「…っ…」
キスというより噛み付きに近い啄みからすぐに舌が侵入してきて反射的に逃げようとする後頭部を押さえられる。
この人、このエレベーターに監視カメラ付いてるの知ってるのかな、とふと思ったけれど、知っていた所でそんなの気にするような常人ではなかったと心中で溜め息を吐いた。
「…っ…駄目だ。我慢したくない」
口唇が離れると同時に壁際へ追いやられたと思えば、首に噛み付かれて眉を寄せる。
「…義勇待」
て、と一緒に開かれた扉の先へ視線を動かしてしまったものだから、二度目となるその驚いた顔に

「どうもこんにちは」

気が動転し過ぎて、それしか口に出来なかった。
当然、冨岡先生の動きも止まってすぐにその顔を上げる。
「…またお前か」
「ススススイマセン!ホントにスイマセン!!」
明らかに怯えている姿に、これは一度降りた方が無難だろうと足を動かそうとした。
それより早く1の数字と閉まるボタンを押す指に、止める間もなく無情に扉が閉まる。
すぐに下がっていく感覚に眉を寄せた。
「何で閉めるんですか!?」
「邪魔が入った。大人しく買い物に行く」
「だったら尚更っ」
再度壁に追いやられてから、これはとてもお怒りだと悟る。
「愛撫されている最中にも関わらず隣人へ優雅に挨拶とは、とんだ悪女だ」
「それはっ…!」
服を引っ張ると肩へ噛み付いてくる顔と足を這っていく手を止めようとしても強く吸われる感覚に息も止めた。
「…んんっ」
「もしかして見られて興奮「しません!」」
どうしてこうも勝手に勘違いで駆け抜けていくのかこの人は。
「それなら安心した。名前本人が望んでも抱かれている所を他人の目に触れさせる。こればかりは流石に出来ない。したくない」
「…見られたくない、って事ですか?」
「そうだ」
そういえば、前もそんな事を言っていた気がする。
じゃあ、多分気が付いてないのか。
「それなら尚更離れてください。付いてますよ」
「まだ着いていない。さっきのは完全に油断した」
「そうじゃなくて、防犯カメラです」
ピタリと動きを止めたのがわかりやすい。
「…何処にだ?」
「そこに」
指を差した先へ勢い良く顔を向けた後、そのまま私から離れる動きはそれはもう素早いもの。
下手したら本物の犬より俊敏なのではないかと考えながら、噛み付かれた場所へ手を当てる。
「名前は知っていたのか…?」
「…それはまぁ。大体どの物件にも付いてますし」
これでもかという位に驚いたかと思えば、下がっていく眉に苦笑いが零れた。
同時に開いた扉にも動こうとしないその左手を、今度は迷いなく掴む。
「画像は荒いですし、四六時中誰かが見ている訳でもないので大丈夫ですよ」
何故私が宥めているのかは良くわからないけど、ひとまずは落ち込んでしまった飼い犬の元気を取り戻さなくてはならない。
先程の駆け抜け具合は何処へやら。トボトボという擬音が似合う足取りに小さく笑ってしまった。
「…だからお前は嫌がらなかったんだな」
「嫌がってはいましたけどね。それはもうとても」
相変わらず脳内変換がおかしな事になってるな。
スイッチが入るとこうなるのか。
正直、5階から1階に降りるまで、此処までの攻防をするとは思わなかった。しかも恋人同士になってから。
「…もし見られていたら…名前の…声は、そうだ。音声は入ってるのか?」
「さあ?それは私にもちょっとわかりかねます」
更に下がっていく眉に、これはちょっとした心境の変化なのだろうなと思考を働かせた。

独占欲。

前からその傾向は強かったけれど、今はその方向性が徐々に変わってきている。
周りに誇示する必要性を感じなくなったという事は、その心の中が満たされてきているという事だろう。
まるで立場が逆転したみたいで、おかしな話だけども。
未だ肩を落としてブツブツ呟く姿に掴んでいた指に力を入れた。
私がもう少し素直になれば、この人の心はもっと満足するのだろうか。
ふと、そんな事が頭に過ぎったので、その場で足を止める。
「‥…どうした?」
当然それに釣られ、立ち止まるその口唇へ背伸びをして接吻た。
心境の変化があるのは、私も一緒なのだとこの瞬間、理解する。
驚いたまま固まる群青色の瞳はこちらを認識しているのか判断が難しい。

「義勇とのキスくらいなら見せつけるのも悪くない、気がするけど」

全く以て私らしくない台詞だと自覚はある。だから敢えて口にした。
思ったよりもたどたどしくなってしまったし、気恥ずかしさでそのまま走り去りたい気持ちが占めているけども。
それはもう、脱走した猫並みの勢いで。
だけど嬉々としていく表情に安心はした。
そうしてから湧き起こるは、また暴走スイッチが押されていたらどうしようという不安。
しまった。それについては何も考えてなかったし対策を講じていなかった。
繋いでいた手に入る力に警戒を強める前に、優しく引かれた事で抱き締められるのかと思いきや、肩に乗る額にドキッと心臓が跳ねる。
「…も…、する…」
僅かに何かを呟いたのはわかったけれど、その内容までは全く聞き取れず眉が寄った。
「…義勇?」
「何故そうも俺の心を掻き乱そうとする…?」
「…しているつもりはないん、だけど」
「駄目だ。これでは身が持たない」
「そんな大袈裟な」
「敬語で良い。寧ろそうしてくれ。是が非でもそう願う」
「…そんなに変ですか?」
「違う。さっきも言った。身が持たない」
「…それはどうい「可愛すぎる」」
一瞬、言われた意味を考えてしまった。否定的なものではないのはすぐにわかる、けれど。
「…それなら良いのでは?」
「良くない。今もこのまま抱きたい衝動を必死で抑えている。前の俺だったらこのまま名前を押し倒していた」
「それは…、偉いですね」
確かに比喩ではなく事実な気がする。
繋ぐ手に籠る力は強いながら温かなもので、肩に乗っている額はそれ以上動く気配もない。
これでもかと理性を働かせているのだろう。
表情は窺えなくても、その本気度は嫌という程伝わってくる。
「…わかりました。では、これからも変わらず敬語を使いますね」
正直言えば、その提案はこちらにとっても有難いものだと、そうも思う。
今もこれだけ違和感を抱えているのはそうだけど、次にそちらに慣れてしまうと職場との言葉遣いを分けるのに、また難しさが生まれるためだ。
「…いつもじゃなくて良い。たまには褒美に聞きたい」
「…敬語じゃないのがご褒美なんですか?」
本当にそういう所、変わってる。
思わず笑ってしまった事で、その頭が同じリズムで揺れた。
「笑うな」
「すみません」
謝ったものの、上がったままの口角はすぐに戻らない。
あぁ、でも何というか

「…義勇らしいなと思ったもので」

その瞬間に上げられた顔の勢いに、これはマズイと感じたのはこれまでの経験から来るもの。
繋ぐ手からは逃げられないながら、咄嗟に空いていた片手でその顔を防御した。
「…速いな」
「何となく、殺気を感じました」
「殺気じゃない。名前を求める本能だ」
「それが私にとっては殺気に感じるんですよ。特にこういう外では」
「殺気に、感じる…。特に外で…やはり痴「ホントにハウスさせますよ」」
思い切り寄ってしまった眉間もブロックしていた手を攫われたと気付いた瞬間に落とされるキスで弛んでいく。
「冗談だ」
嬉々の色を湛えた群青色の瞳に、こちらまで同じ表情をしてしまった。
見つめ合ってから我に返る。
本当にこの人と居ると自分を見失ってばかりな気がする。
「買い物行きましょうか」
「…そうだった」
「忘れてたんですね」
「名前の可愛さの前では全ての記憶が薄れる」
「それは由々しき事態ですね」
苦笑いをしながら、繋いだ手を放す事なく歩き出した。

由々しき事態といえば、あの事を相談しなければ、と思った瞬間にやっぱりやめようという答えが出る。

「ドラッグストアと百均、先にどちらへ行きます?因みに百均は義勇の髪留めが目的です」
「前者の目的は避妊具」
「そうです」
「そこで他に買う物はあるか?」
「いえ、今の所は特にないです」
強いて言うならこの人の歯ブラシをストックしておきたい位か。
「それなら先に髪留めを買いに行きたい」
「わかりました」

正直言えば、訊かずともわかりきっていた2択。
弛んでしまう頬を隠すため地面を見つめた。

私はそんな義勇だからこそ、好きになったのだろう。
今それを顕著に感じている。
だけどこの状況でそちらを選ばれていても、それはそれで"らしい"と笑っているとも思った。

だからまだ、ピルの事は言わないでおく。
正直それの効き目も副作用も私にとって未知数だからというのもあるけれど
「揃いのマグカップも買わないか?」
向けられるキラキラとした瞳を、今はただ見ていたい。
処方して貰って、落ち着いた所で折りを見て話そう。
この人の場合、多少の抑止力も必要な気もするし。
「良いですね。食器も2人分揃えたいなって今朝思ってたんです」
更に強まっていく嬉しそうな雰囲気に、隠す事なく微笑んでる自分が居た。


結局何だって赦してしまう


(学校用のも買いましょうか?欠けたままですし)
(それも揃いのものにしたい)
(それは…、まぁ良いですけど)


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