good boy | ナノ
「遅かったな〜。ナニしてたんだよ?」

何故か冨岡先生の椅子に我が物顔で座っている宇髄先生は、私達を見るなり口角を上げた。
明らかに何かを期待しているニュアンスに眉を寄せる。
此処で何かしら返答するのは絶対に得策でないと沈黙を貫く事にしたのに
「互いの溢れ出る気持ちを身体で確かめ合っていた」
ホントにとんでもない事を言ってのけてくれるものだから眉間の皺が増える所じゃない。
「冨岡先生!?溢れ出してもいませんし確かめ合ってもいませんからね?」
間髪入れず否定しても、その表情は全く変わらない。
「大丈夫だ。居ない」
それどころか冷静にそう言いながら向けられる視線の先を私も目で追う。
宇髄先生の右隣は空っぽになっていて、疑問を口にする前に
「煉獄の授業についてったぜ?何か迷ってるみたいだったが、お前戻ってこないし伝えといてくれってよ」
その言葉に納得した。
「そうですか」

大丈夫だろうか。
彼女には極力、煉獄先生に近付かないようにという助言をしていた。
虚像を作った基因であるその存在との接触は、本来の自分へ戻る弊害としかならないからだ。
しかし恐らく煉獄先生が気を遣い、彼女に声を掛けたのだろう。
私が居ない事で断れなかったのも想像に難くない。
止められたメトロノームを眺めながら、連れ戻しに行くべきか考える。

「で?気持ちを身体で確かめ合ってたっつーのはどういう事だよ?」
またニヤニヤしだす宇髄先生に口を開いた所で
「正式に飼い犬兼飼い主兼彼氏になった」
また良くわからない呼称を言い出したなと目を細めた。
「おぉ!?冨岡ァお前!!ついにヤッたな〜!!」
勢い良く立ち上がり肩を引き寄せるとわしゃわしゃとその青みがかった髪を撫でる。
宇髄先生、喜んでるのは良いんだけど、いや、良くはないんだけど、そのニュアンスは語弊が起きてそうな気がしなくもない。
「…まだヤッてはいない」
そこを律儀に返さなくて良いんですよ、と思ったものの口に出すのはやめた。
それこそ飛び火で大ダメージを食らう恐れがある。
勝手に盛り上がってる宇髄先生と舞い上がっている冨岡先生をこのまま置いていくのも得策とは言えないが、此処に居ても沈静化を図れる訳でもない。
「すみません、不死川先生。彼女の様子を見に行ってきますので、後の事はお願いします」
黙々と業務をこなしているその背中から「無理だっつの」と発せられた一言は聞かなかった事にして職員室を後にした。


good boy


時折すれ違う生徒達と短い会話を交わしながら、少し早足で廊下を進む。
真っ直ぐに向かったのは保健室。
先程中等部に向かっていた途中、鉢合わせた煉獄先生から"体調を崩した生徒を彼女が保健室に運んだ"と報告を受けたためだ。
私に1秒も早くそれを伝えるため出された声量は廊下の隅から隅まで余すことなくしっかり届いて、煉獄先生の凄さを目の当たりにしただけじゃなく、内耳に残る耳鳴りによって文字通り痛感していた。

無意識にそれを押さえながら、閉め切られた扉で立ち止まる。
室内の様子は窺えないため、早々にノックをしようと手を上げようとした所でそれを止めた。

微かに聞こえた、すすり泣き。

それが誰のものかまでは把握出来なくとも、此処で足を踏み入れるべきではないというのは判断出来た。
「…げ、元気だしなよ〜。その内いつも通りになるって〜だってさそれまで優しかったんでしょ〜?しかも1年だけなんだし〜」
廊下まで良く通る声で、また彼女が自分を"演じている"のも知る。
それでも困惑しながら生徒を励ましている声色に、それが一概に悪いものとは言えないともう一度扉を叩こうとした手を完全に下ろした。
「ね!珠世先生もそう思いますよね!」
その名前の後「えぇ」と頷いた声がした気がする。
掻き消すように
「どうだかな」
若干低い声が響いたため完全には聞き取れなかった。
「今まで抑えていたものが溢れたというなら元の母親に戻るのは無理だ」
「…っ!…うぇ!…グスッ!」
「ちょっと〜!女の子が泣いてんのに畳み掛けるとかほんっとサイテー!」
「俺は事実を述べただけだ。嫌なら出ていけ。此処は「愈史郎?」」
すぐに名前を呼んで制止する珠世先生の後
「はい!すみません!珠世先生!」
響く声に、何処か既視感を覚えながら、その場を去ろうと一歩後ろへ引く。

トンッ

背中にぶつかった何かに振り返れば青いジャージが見えて、顔を上げた。
「入らないのか?」
見下ろす群青色の瞳は多分、この状況を的確に把握してる。
「…珠世先生がいらっしゃるので大丈夫だと判断しました」
「そうか」
「冨岡先生はどうして此処に?」
「煉獄に聞いた」
「そうですか」
勘が鋭い愈史郎くんに気が付かれない内に退散しようと足を動かした。
後ろからついて来る足音を耳に入れながら階段を上がっていく。
「あの生徒はPTA会長の娘だ」
「やっぱりそうでしたか」
「話を聞かなくて良かったのか?」
「私が今入っていっても恐らく口を噤むでしょう。聞き役とするならば彼女の方が適任です。それに煮詰め切れていなかった部分についてのヒントも貰えました」
「どうするつもりだ?」
明らかに訝しんでる声に、また自虐を心配してるのだろうなと思いながら階段を上り終えた先で立ち止まった。

「冨岡先生は、人生の分岐点に差し掛かった時、何を基準に選んで来ましたか?」

そう訊ねてから、あぁでもこの人も元から強靱な狂人の精神でもなかったかと続ける。
「或いは、何を基準に選びたいと思いますか?」
「…俺がそうしたいと望んだ方だ」
「ですよね。私もそうしてきましたし、そうで在りたいと思っています」

勿論それが何もかも正しくて、後悔しなかったかと言えば必ずしもそうではないんだけども。

「実際に行動するか否かは別として、基準だけで言えば誰もが同じだと思っています。だから彼女も会長も、正しく在ろうとしている。想いそのもの自体は真っ直ぐで、求められた自分の"役"を一生懸命演じているんです」

自分は上手く立ち振る舞えている。
選んだ道は間違っていない。
心の何処かでそう思いたい。
だけど上手くいかない現実との間で歪みが生じていく。
歪みを埋めようと更に、自分を何か違うものに見立てる。

「理想と現実の違いを自覚させる。それが明日の狙いです。その上で本来の自分に戻っていただきます」
「小型犬はともかく、会長に対しお前がそこまでする義務も義理もない筈だ」
若干苛立っているのが声から伝わってきて、誤魔化そうと動かしかけた足を止めた。

この分岐点においては、素直にならなきゃいけない。
そんな気がする。

「冨岡先生が言っていた、彼女達が悪意を向ける事で自尊心を保つ、その意味もわかりました。怖いんですよね。本当の意味での平等と公平って。とても残酷なんです」
「お前は敢えてそうしていた。他人を遠ざけ、自分を傷付ける事で「赦されたかったんでしょうね」」

何かが起きる度に理由を付けて、言い訳を探して、他人の事も、自分の事も、理屈で図っては理解していたような気でいた。

「私も彼女達と一緒です。いつの間にか冨岡先生を介して、自尊心を保ってる自分が居ました。それを彼女に見抜かれたのが、恥ずかしかったんでしょうね」

だから同僚という線を引いて、飼い犬という区分に逃げた。
好きになりたくない。
そう言い聞かせてる時点で手遅れになっている証拠だというのもわかっていたのに。

「飼い主という立ち位置なら、いつ離れていっても傷付く事はない。そう考えていました。結局私も、平等と公平で居続けられる理想の自分を演じて、冨岡先生と向き合おうとしていなかったんですよ」

背中に感じる温もりと首元を包む腕に、その匂いに、安堵してる心中をもう誤魔化しようがない。
言葉というのは不思議なもので、口に出すと急速に自覚してしまう。

此処が学校だとか、生徒に目撃されるとか、その懸念より、嬉しさの方が勝ってしまっている。

それ程に私はこの人の事が、どうしようもなく好きなのだ、と。

「俺がお前から離れる事はない。傷付ける事もない。俺にとって名前が全てだ」
「全くブレませんね」
「当たり前だ」
「…そういえば冨岡先生。全てと言えば前にした賭け、覚えてます?」
「…お前を手に入れられるかどうか、か?」
「そうです。あれって曖昧なまま終わったと思うんですけど、まだ有効だったりします?」
「有効だ。そして俺の勝ちでもある。約束通り名前の全てを貰おう」
強まる両腕に反射的に肩が動いた。
「それなんですけど、条件追加しませんか?」
「今更何を言う。お前らしくもない。まさか怖気づいたのか?」
「失礼ですね。素直に負けは認めますし、条件を変更するのではなく、追加を提案してるんですよ」
「…内容によっては受け入れよう」
「ありがとうございます」
軽く息を吐いて、その両腕へ手を添える。
考えてしまえば言葉が出てこなくなるから、思考は止めた。

「私の全てをあげるので、冨岡先生の全部をください」

そんなのは、無理だというはわかってる。
わかってるから、敢えて口にするんだ。

それ位に、想っているんだという事を。

こちらの意図はすぐに伝わったらしい。
小さく笑う気配がした。

「…当たり前だ」

力強く抱き締められる心地良さに閉じてしまいそうになる目を、眉を寄せる事で開き直す。
「何なら今からでも俺の全部を差し出しても良い」
胸を揉んでくる左手に、更に眉間の皺を増やしながら制止する。
「今は無理です」
「…急に冷静になるな」
「すみません。やっぱりおいそれと自分の立場と責任は放棄出来ないもので」
「そういう名前が好きだ。わかった。今はやめておこう」
「ありがとうございます」
弛んだ腕に離れるのかと思いきや、耳を挟む口唇に完全な油断からビクッと身体が跳ねた。
「いつが良い?今日の夜か?帰ってからシャワーも浴びたいだろう。名前の部屋に俺が訪ねるか、それとも名前が来るか…どうする?それによってどの下着を着けるか、お前の気分も変わってくるだろう」
「…冨岡先生。細かいシチュエーションで盛り上がってる所悪いんですけど」
「夜まで待ち切れないか?それならシャワーを浴びず「いえ、その逆です」」
途端に張り詰めていく空気を肌で感じる。
「その全部貰う、というか付き合うのは来月まで待って貰えませんか?」」
動きを止めたかと思えばグッと絞まる首に「ぐぇ」と声が出てしまった。
「何故だ…!?」
「すみません…、力を弛めていただけると助かります…」
「無理だ。漸くお前の全てが手に入ると俺の身体中が歓喜しているというのに…無理だ…。まだ待てをしろ…?無理だ。1週間以上も抑え…無理だ」
「…無理そうなのは言語力の低下と鬼気迫る腕力でとても良くわかりました。すみません、そうですよね。じゃあせめて明日の研究授業を終えるまで待っていただけませんか?」
「何故だ?理由次第では此処でお前を抱く」
「それはとても困ります。どうにか納得していただけるよう努力するためにもう少し力を加減してくれませんか?脳の空気濃度が薄くなってきた気がするので、このままだと納得していただける前に私の意識が飛びます」
「それは俺にとっても困る。絞首は癖になると聞いた。最初からアブノーマルで攻めると俺のでは満足で「ほぼほぼ手遅れですが一応止めておきますね」」
若干力が抜けた腕にふっと短い息を吐く。
「せめて彼女の授業は、教務主任兼教育係として見届けたいんです」
「…どういう意味だ?」
低くなるトーンも不機嫌になった訳ではないのは窺えるので、そのまま続ける。
「冨岡先生と恋人同士になるという事は、私の中で保っていた均衡が崩れる事に繋がります。そうなると平等で公平という立場では居られなくなるんですよ」

だから、怖かった。
この人を受け入れるという選択肢は、今まで築いてきた自分を捨てるという意味を持つから。

「彼女は、その平等と公平さ故の評価を求めています。私は最後まで見届け、冷静に応えなくてはなりません。でないと、彼女の努力が報われないんです」
「…それが教務主任兼教育係の立場という訳か」
「そうです。ご理解いただけましたか?」
「…わかった」
完全に納得をした訳ではないのだろうが、離れた両腕に行き場のなくなった添え手を下ろした。
「それなら記念日も変わってくるな。11ヶ月と17日目になるのか」
「記念日自体は変える必要はないんじゃないですか?あくまで私の気持ちの持ちようという話ですし」
振り返った先、見上げた群青色の瞳が細くなったのに気付いて目を逸らす。
「そういう、事…をした日を記念日にしたいと言うなら話は別ですけど」
上擦ってしまった声を誤魔化そうと咳払いをした。
そのまま暫くしても全く返ってこない反応に視線を戻せば、その瞳が今度は見開いていて思わず瞬きが多くなる。
「…どうしたんですか?」
「……。可愛い。何故だ?」
「何故と言われましても…冨岡先生が常に分厚いフィルターを掛けていらっしゃるからでは?」
「違う。常々可愛いと思ってはいるが、今日ほど…。いや、俺を受け入れた名前がこれ程可愛いとは…想像していなかった…。駄目だ。これは…」
「大丈夫ですか?」
「近付くな」
後退する冨岡先生に眉を寄せる。
「近付いてはいませんし、立場が逆になってますよ」
「その可愛さを見せつけられては明日まで持ちそうにない。1m以内に近付かないでくれ」
「まさか冨岡先生にそんな事を言われる日が来ると思いませんでした。しかも恋人になったその日に」
「…恋…っ」
言葉に詰まった後、狼狽えていく表情に小さく噴き出してしまった。


此処に来ての形勢逆転


(わかりました。ご要望通り一切近付きませんね)
(それも駄目だ。…いや、抑えるためには致し方…しかしそうなると…)
(ホントに大丈夫ですか…?)


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