good boy | ナノ

地面へと散らばり駄目になってしまった焼きそばを回収してから、埋められていた鼻を押し返すように頭を上げた。
片付けている間だけでも堪能したためか、素直に離れた顔を見ながら、単純に沸いた疑問を投げかける。
時刻は既に17時を越えていた。
「冨岡先生、お腹空いてないんですか?」
「空いてはいる」
「何か買いに行きます?」
全長5kmの会場に並ぶ露店を視線で示す。
屋台の中には、ちらほらとオシャレなキッチンカーが混ざっており、焼きそば、たこ焼きと言った定番のものから、ケバブやトッポギ、フォーなどの多国籍料理も軒を連ねているため、夕飯にしようと思えば出来なくもない。
「良いのか?」
「良いですけど。何で驚くんですか?」
「もう帰ろうとしているかと思った」
「帰りたいですか?」
「嫌だ。帰りたくない。帰したくない。結婚しよう」
「何でいきなりそうなるんでしょうね」
「名前と帰る家が同一で在れば解決すると気付いた」
「あぁ、まぁ…確かにそれはそうですね」
そうか。冨岡先生の突拍子のない言動は、そうやって喋りながら頭が回転しているからなのか。
物凄く天才的って事なのでは?
そう思ったのも束の間
「やはり名前もそう思うか。それなら話は早い。婚姻届を出しに行こう」
何処かへ駆け抜けていくのはどういう脳の回路なのだろうと、つい真面目に考えてしまう。
「話が早すぎです。今の同意は冨岡先生の気持ちは理解出来ます、という意味であって、私も同じ気持ちだという意味じゃありません。しかも今から行っても役所は閉まってると思いますよ」
「入籍なら時間外でも受け付けている」
「そうなんですか?良くご存知ですね」
「お前に婚姻届を贈った時に調べた。休日時間関係なく受理する事が可能だと」
「それは…随分ご熱心な事で…」
「熱心にもなる。名前が突然どうしても今この時に結婚したいと懇願してきた場合、俺はどうするべきかを本気で悩んだ」
「冨岡先生が思う私ってそんなに我儘なんですね。初耳です」
「我儘じゃない。寧ろお前は抑え過ぎている。だからその反動で感情の決壊がいつ起こるか俺でさえ全く予測が出来ない」
「そりゃ予測出来ないでしょうね。そんな未来は来ないので」
「来る。近い未来、必ずお前の感情は決壊する」
真剣な眼差しを向けられて、ふざけている訳ではないのだろう、と寄せていた眉間の皺を弛めた。


good boy


「…それが推定される根拠は?」
「認めようとしていないだけで既に心当たりはある筈だ。俺が此処で口に出す事によって、更に時期が早まる可能性が高いが良いのか?」
余りにも逼迫した表情を見せるものだから、言葉に詰まってしまう。
「…やはり聞くのは恐いか」
見透かしてきそうな群青色に視線を泳がせてしまった事で、両腕に包まれる感覚を理解するのを遅れた。
その力強さよりも、正直通り過ぎて行く人々の視線が痛い。
「冨岡先「お前は今、両極で揺れている。今日などは正にその典型だ。2度、全く別の起因で決壊を起こしかけた」

意味がわからない。そう言って軽くあしらってしまいたいのに、何となく、わかってしまったのが悔しい。
いや、何となくじゃない。
そうだ、認めたくない。

「俺が居ればそれも抑えられるが、問題は物理的にいつも傍に居られない事だ」

認めてはいけない。

「このままでは確実に決壊は避けられない。上手く俺に向かえば良いが、その保証も現状では難しい」
酷く優しく頭を撫でる大きな手に、息を止めた。
「だが、1つだけ決壊を避ける方法がある」
突然の提言に訝しむも、本人には見えていないため、伝わっていないだろう。
「何ですか?その方法って」
「簡単な事だ。俺に飼われれば良い」
「真面目に訊いた私が馬鹿でした」
「俺はふざけていない。本気で発案している」
「いや、そちらが真面目におっしゃってるのはわかるんですよ。常識内の返答を期待をした私が馬鹿だったって話です。強靱な狂人と違って自分が動物とか思い込めないんでホントに」
「思い込む必要はない。名前はそのままで十分猫だ」
「そうですよね。思い込んでるのは冨岡先生ですから私には必要ないです」
いい加減その腕から抜け出そうと胸元を押し返すも案の定ビクともしない。
「離れていただけませんか?」
「離れない。お前が俺の飼い猫になるというまでは解放しない」
「そんな事しても絶対首を縦には振りませんよ」
「何故そこまで頑なに嫌がる。飼われるだけだ」
「それに託けて巧妙な策を練ってくるのが明らかだからです」
ただでさえ飼い犬と認めただけで散々暴走してくれてるものだから手に余っているというのに、それを更に私が飼い猫になるなんてなった日には劣勢どころの騒ぎじゃない。
「俺は何もしない」
突然優しい声色になったかと思えば、撫で続けていた手を止める。
まるで護るように包み込む両腕で胸板にすっぽり収まるしかなくなった。
「そのまま目を閉じて聴け」
「え?嫌です。この状況で五感の1つを遮断するのは「良いから」」
…今心底呆れた声出したな。この人に呆れられるとかちょっと心外なんだけど。
頭に乗せられた顎の存在で、こちらの顔は一切見えていない事を知って、口を開いた。
「…閉じました」
「嘘だな」
「嘘じゃないですよ。冨岡先生ホント疑り深くなりましたよね」
「今お前が本当に閉じていたらそんな流暢に喋っている筈がない。視覚を失くしながらの攻防はリスクが高過ぎると心得ているからだ」
それは、確かにそうだ、と納得した所で黙る事にする。
間を置いたにも関わらず
「まだ閉じていない」
確信めいた一言に眉を寄せた。
何でわかるのか。出し掛けた疑問は喉で止める。
この人は、何を判断材料にしているのだろう。
単純に気になって、暫くそのままじっとしてみる事にした。
下手に思考を巡らせて読まれるのを避けるため、ただただ無になったこの空間で、トクトクと響く規則正しい音がすぐ傍で聴こえているのに気付く。
息をする度に鼻腔を抜けていく香りに、押し返そうと添えたままになっていた両手に力が入りそうになった。
一切のアクションを起こそうとしない冨岡先生は、まだ私が目を開けているという確実に知る何かを得ている。
迷ったものの、一度完全に閉じてみる事にした。
一呼吸置く前に
「名前が俺に飼い犬としての立場を許したのと同義だ」
話し出したタイミングで、完璧に読まれているものだと確信して目を開けようとしたのも
「開けるな。そのまま聴け」
完璧に先回りされてしまい、ひとまずその通りにする。

「俺が名前を飼うのも、物理じゃなく精神論だ」

それだけで何が言いたいかがわかる辺り、だいぶ冨岡先生に感化されているんだろうな。
「猫は犬と違い、飼い主の干渉を嫌う。気が向いた時に擦り寄って満足すれば去っていく。しかしその気ままさが許されるのが猫の魅力で最大の特権だ」
目を瞑っているせいか、耳に入ってくるその声が、どことなく心地良く感じた。
「お前はその特権を遺憾なく活用すれば良い。俺は365日24時間いつでも受け入れる。それこそ時間外窓口のようにだ」
…何言ってんだろうな、この人。冗談なのか上手い事言ったつもりなのか。正直良くわからない。
「懐いて来いとは言わない。犬のように芸もしつけも順位付けも必要ないし俺から強要もしない。だが、抑えらぬ情動を受け入れる場所があるという事実だけを認めろ。それが、俺がお前を飼うという意味だ」
認めたら、どうなるのだろうというのを心の中で思っただけなのに
「そうすれば不必要な感情の決壊は免れる」
まるで疑問に答えるように出された台詞に、目蓋を動かしてしまった。
「まだ開けて良いと言っていない」
「…胸板に目でも付いてるんですか?正確過ぎて恐いんですけど」
「情報を得るのが視覚だけとは限らない。俺は全ての感覚機能を駆使し名前の行動を読んでいる」
「感覚機能って…聴覚とか嗅覚とかそういう、いわゆる五感ですよね?」
「そうだ。特に体性感覚は顕著にお前の全てを伝えてくる。目を瞑ってみろ」
「……」
迷ったものの、指示通りにまた目蓋を動かす。
また冨岡先生の香りが鼻を抜けていった。
「視覚情報を遮断するとお前の意識は聴覚と嗅覚へ集中する。今この状況では俺の声と匂いしか認識する事が出来ないため、必然的に安心から肩の力が抜けた。俺はそれを体性感覚で汲み取っている」
…なんとまぁ、的確で道理的な察知の仕方だ、と関心してしまった。
「閉じたままで良い」
また先回りする冨岡先生に、肩の力が入っていた事に気付く。
「まだ聞いていない」
「何をですか…?」
「俺に飼われるという返事だ」
「一択しかないんですね…」
「当たり前だ」
参った。
そう思う。
というか此処最近、そればかり思っているような気がする。
この人に参らない時がない。
察知能力は明らかに私の方が劣っているけれど、今この場では容易に悟る事が出来る。
頷くまで何があっても絶対に離れないであろう、と。
未だ回される腕から並々ならぬ執念を感じる。
まぁでも、精神的に、というのなら、それはそれで良いのか?と思ってしまうのが悔しい気がした。
「…本当に何も強要しませんか?」
「しない」
即答する辺りが怪しい。
「鳴き声も求めてきません?」
口に出してから、そうだ。それがあった、と気付いた。
「……。求めない」
「絶対今間がありましたよね?迷いましたよね?」
目を開けながら、重めな溜め息を吐く。
「迷った訳じゃない。その恰好で名前がニャーと鳴くのを想像しただけだ」
「想像しないで欲しいんですけど…」
「脳が勝手に動くため俺の意思では止められない。……最高に欲情が滾ってきた」
バッと身体を離すと噛み付いてこようとする顔をブロックする。
ヤバイ。力加減が本気のものに近い。
「鎮まっていただけませんか?」
「無理だ。俺に美味そうな餌を与えたお前が悪い」
「わかりました。これからポチは一切飯抜きにしますね」
「ポチと呼ぶな」
「ポチで十分ですよこんな暴走犬。それ以上近付いたら河原に棄て置いて帰ります」
「嫌だ」
「でしたら鎮まってください」
「嫌だ」
必死に壁を作っていた両手が簡単に下ろされ、覗き込んでくる群青色に息を止めた。
「俺に飼われるというのなら鎮まろう」
「またそれですか。しつこいで…」
キスをしてくる訳ではないのに、これ程にない顔の近さと圧から逃げようにもその瞳孔に捕まったみたいに目が離せない。

「俺に飼われると言え」
「…言い、ません」

沈黙を保ったまま続く睨み合いに、止めたままだった呼吸を再開させようと空気を小さく吸った。

「俺は名前を飼う」

反論しようにもこの距離で吐き出すのを躊躇うせいで言葉が出てこない。

「喩えすぐに抱き締められない場所に居ようが、心の中には俺が居る。お前が還る場所は俺だけだ」

抗おうとしても力が入らない。

「わかったな?」

有無を言わさない強い口調にこちらの意思とは関係ない力で圧され、ゆっくり頷いてしまっていた。

その動きを視界に入れた事で、今まで一切停止していた目蓋が動いた後、温かさを宿していく。
「…それで良い」
小さく笑うような吐息の温かさを口唇で感じた。
大人しく解放された身体に、この人は何処から何処までが策なのかと訝しげに見てしまうと同時に、ぐぅ、と小さく鳴った胃につい頬が弛む。
「何か買いに行きます?」
「疲れてないのか?」
また急に紳士っぽくなる冨岡先生に一瞬返事を考えるのが遅れてしまった。
「…大丈夫です」
嬉々としていく瞳も伏された事でいつもの表情に戻る。
「いや、やはり今日は帰るとしよう」
「やけに慎ましいですね。どうしたんですか?」
「下着専門店の営業時間に間に合わなくなる」
その言葉に驚いたのは数秒
「行くつもりなのだろう?」
全てを見透かした瞳に
「帰りに寄ってみようとは考えていました」
素直に答えれば、その眉が若干険しいものへと変わった。
「今何時だ?」
「18時を迎える辺りですね」
「その恰好ではすぐにでも此処を出ないと間に合わなくなる」
スッと立ち上がると荷物を抱える姿につられてビニールシートを畳む。
小さくしたそれを攫っていき、鞄の中へほぼ無理矢理押し込めると、すぐに私の右手を引いた。
「…お前を飼うという目的に囚われ過ぎた」
ボソッと呟く横顔も、それが私のためだというのが窺えて苦笑いを溢した。
「間に合わないのならそれはそれで仕方ないので大丈夫ですよ」
「そうしたら明日お前は俺を欺き1人で行こうとするだろう?それは駄目だ」
「欺こうとは思ってないです」
「思っている。今日此処に来る事を言わなかったのもそうだ」
多少なりとも不満はあるのだろう。
私の歩幅に合わせながら手に籠もる力でそれを知る。
だけどそれで逆に疑問が沸いた。
「そういえば、冨岡先生はどうして今日此処に来たんですか?」
トラウマ、とまではいかないまでも、この人にとっては苦い記憶が蘇る場所。
見た所、蔦子さんと話をするまで、それを引き摺っていたように思う。
では何故今年に限って此処に来たのか。
疑問に満ちた目をそちらに向ければ、圧巻の景色を眺める横顔は柔らかくて、それでいて儚げで、綺麗だ、と自然とその言葉が沸いた。

「この景色を、名前に観せるためだ」

春風に靡く青みがかった髪を飾るように落ちた花弁を見つめる。

「お前の忙しさでは、足を止めて桜を眺める暇もないだろう。写真でもせめて癒しになれば良いと、思った」

また、私のためだ。

きっとこの人の事だから、過去を思い出して、更に傷付いた筈だろうに。
本当に、自己犠牲の強さには感服する。

「じゃあ、尚の事良かったです」

こちらへ向いた動作で、髪に乗っていた花弁が地面へ舞っていく。

「こうして一緒に観られて」

驚きの色に溢れた群青が、次に起こすのは暴走であろうと身構えるも、フッと小さく息を吐いて微笑むその表情はどこか大人びた色気を醸し出していて、心臓が急速に高鳴っていくのを感じた。


それは春のせいじゃない


(来年も共に観たい)
(来年は冨岡先生"着桜"役ですよ)
(そうか。着物デートが出来るな)


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