good boy | ナノ
持参したビニールシートの上、並んで腰を下ろすとただただ河川敷に広がる薄紅と黄色を眺める。
視界に入る光景も、気温の体感も異なっているのに、自然と波の音を思い出した。
「…綺麗ですね」
「名前の方が綺麗だ」
「もう夕方なのに今日はあったかいですね」
「名前の方が温かい。確かめるために触って良いか?」
「そういえばお腹空きましたね。私さっきの焼きそば食べますけど、冨岡先生も何か買ってきては?」
「名前を食べたい。頭のてっぺんから爪先に至るまでの全てを貪り尽くしたい。250万で買おう」
袋からパックを出しながら、春だなぁと考えた。
あぁ、そうだ。250万と言えば…
「班長から聞きましたよ。"伝説の弟"の詳細」
押し黙った横顔へ顔を向ける。
「別に隠そうとする必要はなかったのでは?」
この人が狂人なのも空気を読めないのも既に熟知しているし、その事件を起こしたが故に実家から遠のいたという理由もまた裏付けられた。
正直、納得する事しかない。
「姉に口止めされていた。特に俺が好きになった相手には絶対に言うなと」
「…あぁ、そういう事ですか」
その言葉にも納得する事しかない。
恐らく蔦子さんは、心配したのだろう。
冨岡先生の恋人になるであろう方に、シスターコンプレックスだと思われるのを。
その上、切れると手が付けられなくなるとあらば、受け入れる人間は皆無だ。
「それにまだ名前に出逢う前の話だとは言え、妬くだろう?余計な不安を与えたくなかった」
「妬くって、私が蔦子さんにですか?」
「そうだ」
「…有り得なさ過ぎてちょっと、笑っちゃうんですけど…」
我慢しようと思ってるのに肩が小刻みに震えてしまう。
ホント、この人たまに大真面目な顔で面白い事を言ってくれる。
細めた目で見られて、無理矢理発作を止めると咳払いをした。
「すみません。冨岡先生は先生なりに私の事を考えてくださったんですね。失礼しました」
「安心しろ。俺は名前が一番好きで最重要な存在だ」
「いや、別に一番じゃなくて良いんですけどね。出来れば順位を下げていただいた方がこちらとしては助かります色々と」
「下がる事はない」
「…まぁ、でしょうね」
春だなぁ、と流れていく川のせせらぎを聴きながら焼きそばを啜る。
「本当に嫉妬しないのか?無理しなくて良い」
また強くなってくる圧に、咀嚼もそこそこに喉へ押し込んだ。
「しませんよ。何ですか?そんなに嫉妬して欲しいんですか?」
「あぁ。して欲しい」
一切の迷いがないな、この人。
「俺は恐らくお前の弟に会ったら妬かずにはいられない。俺が知らない頃の名前を知っているからだ。それはお前を好きだという感情に伴い湧出する故切り離せるものではないし、隠す必要もない」
絶好調の右横の
「だから俺にもその嫉妬を向けて欲しい。紛れもなくそれはお前が俺に好意を抱いているという証拠にもなる。お前が望むなら一切を棄て去っても構わない」
その言葉には溜め息が出る。
「また選択基準を見誤ってますよ」
「棄て去るとは断言していない。それ位の覚悟があるというのを示している」
未だ続く言葉を半分聞き流しながら一口焼きそばを食べた。


good boy


…まぁ、でもそうか。
好意から生まれるものは、綺麗なものばかりじゃないんだよな。
寧ろドロドロした世間一般では余り良しとされない感情の方が多いように思う。
それすらも受け入れる所か向けて欲しいと切望するこの人はやっぱり凄い、としか言えない。

そういえば…

「行くのはいつが良い?」

突然の発問に眉が寄ってしまった。
「何処にですか?」
「だから温泉だ。聞いてなかったのか?」
かち合った群青色の瞳に、更に眉間の皺が増える。
「すみません、全く聞いてませんでした。何ですか?温泉って」
「コレだ」
そうしてジャージのチャックを下ろすと背中から出てきた目録。
何でいつも背中に入れてるのか。その疑問は聞かない事にして口を開いた。
「それ蔦子さんが戴いたものですよね?」
「皆仕事があるため持って帰っても仕方がない。名前と一緒に行けと渡された」
蔦子さん…。
もしかして蔦子さんまで外堀を埋めにかかって…いや、それはない、筈。そう願いたい。
「それ1泊2日ですよね?私も無理ですよ。まず連休が取れません」
「春休み中の2日位なら行けるだろう?」
「無理ですって。年度の切り替えなんで休日というものが皆無です。何なら家に帰っても仕事してますよ」
「なら春休みじゃなくて良い。いつなら連休が取れる?」
「最短でお盆休みですかね?いや、連休取れても行きませんけど」
下がっていく眉に視線を逸らした。
「何故だ」
「何故ってそんな罠に掛かりに行ったら確実に死しかないからですよ」
冨岡先生と温泉旅館で1泊なんて殺してくださいと言ってるようなものだ。
「それは蔦子さんにお返ししてください。いくら何でもそこまでは出来ませんし、線引きは大事です」
此処で下手に希望を持たせても残酷だろうときっぱり拒否をする事にする。
悲しそうな表情で背中へしまわれていく目録に胸が痛まない訳じゃない。
「姉に返したら、ガッカリするだろう」
「そしたら金券として何処かで買い取って貰えば良いかと」
「どうだった?と感想を問われたらどうすれば良い?姉に嘘は吐けない」
「………」
めちゃくちゃ同情を引こうとしてるな。確実に。
「適当に話合わせれば良いんじゃないですか?」
「適当に合わせるというのがまず俺には無理だ」
「…ですよね」
ん?そしたらこの場合、どうすれば良い?
「名前からの報告なら、姉は何の疑いもなく信じるだろう」
これは…
「それが狙いですか…」
確実な既成事実を作りに来た。
流石、強靱な狂人。転んでもただでは起きない。
「…わかりました。今度お会いした時にそれとなく言っ「姉のLINEを教える。連絡してくれないか」」
…これも狙いか。仕方がない。こればかりは回避しようがない。
「わかりました。でも私に教えても良いか、ご本人に了承は貰ってくださいね」
「わかった」
言うや否やポケットからスマホを取り出すとタップしていく横顔は何処となくウキウキしていて、まぁ落ち込んでいないなら良いか、と箸を動かそうとする手を止めた。

「妬み嫉みというより、素直に羨ましいですよ。冨岡先生と蔦子さん」

視線が向けられたのに気付いたけれど、風で靡く桜をただ眺める。
「姉想いの弟と、弟想いの姉。互いが互いを想っている関係性が良いなぁ、と思います」
「お前の弟とはそうではないのか?」
「前も言いましたけど、ホントに生意気なんですよ。多分あっちは私の事口うるさい小姑みたいに思ってるでしょうね」
決していがみ合ってる訳ではないけれど、冨岡姉弟のような関係とはまた違う。
「…そうか」
スマホをポケットにしまったのを横目で捉えつつ、焼きそばを食べようとした所で

「わかった。俺が名前の弟になろう」

良くわかんない提案で盛大に噎せてしまった。
「ゲホッ…!ゴホッ!」
「大丈夫か?」
「……だいっじょうぶ…ごほっ!じゃないです…ケホッ」
危ない。もう少しで気管に焼きそばが入り込む所だった。
「水だ」
「…ありがとうっ…ございます…」
小さく息を吐いてから、それを一口飲む。
まだ収まらない咳を繰り返してから今度は大きく息を吐いた。
「食べてる時に変な冗談言うのやめてもらえますか…?」
「冗談じゃない。本気だ。姉想いの弟が欲しいなら俺がなろう」
「…いや、ならなくて良いです。ホントに。ただでさえカオスな呼称をこれ以上増やさないでください。冨岡先生のお姉さんは蔦子さんただ1人ですよ」
「名前が姉というのも悪くない」
「その場合、結婚出来なくなりますけどそれで良いんですね?」
「それは駄目だ」
こういう時はホントに反応が早い。
「わかった。弟のような犬という事で手を打とう」
「何かもう良くわかんないです。ホントに最終的な目標が全く見えません」
「名前が望むのなら何にでもなる」
「何かどっかの歌の歌詞にありそうですね」
「世界中の全てを敵に回しても俺は名前の味方だ」
「世界中が敵になるって余程の事ですよ」
「比喩表現だ。常にそれ位の覚悟を持っている」
「そういえば犬も結婚は出来ないのでは?」
「人間としての戸籍はある。問題ない。…いや、そうか、最悪の場合養子縁組という手もあるか…」
何処からか聞こえてくるウグイスの鳴き声に、春だなぁと感じる。
暫くブツブツ言っていたかと思えば、突然黙り込んだ冨岡先生の横顔は何処か寂寥を帯びていて、視線を前へ戻すとその原因を考えた。
いや、巡らせなくても一応、何となくはわかってるんだけども。

「幼かったご自分は、今もお嫌いですか?」

沈黙の中、ザァッと音を立てた桜吹雪に目を細めた。
わかりやすく吃驚している群青の瞳を一瞥して口元を上げる。

「敢えてまた疑問符で投げ掛けてきたか」
「そうしないと、また選択基準を間違えようとするので」
「やはり、お前は俺の事を誰より理解している」
「…まぁ、そうかも知れませんね」
何というかそこら辺はもう否定出来ない所まで来てる気がする。
事実だけを見れば、確かに私はこの人に理解を示せる部分は少なくない。
「認めるのか?珍しいな」
「飼い主なんで」
そう返しながら、この言葉は結構便利だな、と考えた。
また落ちた沈黙の中、何処か遠くを見つめる瞳は、きっと昔を思い出しているのかも知れない。
見解を述べるべきかそっとしておくべきか一瞬迷ったけれども、とりあえず手の内にある焼きそばを食べる事にした。
先程少し胃に入れた事によって、思い出すように揺り動かされた空腹を、これ以上は耐えられない。
冷めてるにも関わらず旨味を感じるそれは、焼き立てならもっと美味しいのだろう、と流れていく花弁を見ながら考えた。

「姉は、昔から人当たりも器量も良い。俺はいつも姉に護られていた」

突然話し出した冨岡先生へ耳だけを傾ける。
「唯一俺が勝るものがあるとすれば"力"だけだと7年前、それをこの河川で初めて使った。結果ただ姉の立場を更に悪化させただけだった」
7年前って事は13とか14とかそれ位か、と逆算して班長やあの子の言葉を納得した。
「それまで漠然としてしか感じていなかった生き辛さというものを、あの時明確に自覚したように思う。そこから他人との接触を一切断つようになった。此処にも一度も訪れた事はない」
言葉の意味を噛み締めながら、いつかの事を思い出す。
きっとだから、今みたいに海を眺めた時、冨岡先生は言ったんだ。

「幼かった自分を許したい、と」

あれは確かに、私へ掛けられたものだったけれど、同時に自分にも向けられていた。

伏し目がちな瞳を目端で見ながら焼きそばを啜る。
もしかしてこちらの言葉を待っているのかと思いながら、若干頬張り過ぎたそれを咀嚼した。
「…何も言わないんだな」
もしかしなくても、こちらの反応を待っていたらしい。
割り箸を持った手でちょっと待ってくださいという意味で掌を見せると、ほぼ無理矢理水で流し込んだ。
「俺の話より焼きそばが大事か」
「すみません、朝からほぼ何も口にしてなくて、胃が限界を訴えるものですから」
若干冷めた瞳が私を捉えたかと思えば、ふい、と逸らされて、あぁ、これは完全にふて腐れたな、と続く言葉を考える。

恐らくこの7年前の桜祭りは冨岡先生にとって、人生のターニングポイントだった。
昔は純粋に綺麗だと思っていたこの景色も、苦い記憶として歪んでしまったのだろう。

それでも、今は…

「初めて私と一緒に観る景色はいかがですか?」

すぐにこの質問の意図に気付くだろうと一切を省いた疑問詞は、すぐにその頭が理解をしたようで、驚きのものから嬉々へと変わっていく。

「こんなにも綺麗なものだったのか、と、正直驚いている」

素直に感想を述べると、前を向く表情はとても柔らかいもので、何処か昔の幼さを垣間見た気がした。
「それは良かったです」
その一言を返して、箸を口へ運ぶ。

今の冨岡先生に、それ以上の言葉なんて必要ない。
きっと、本人が一番良く、わかっているから。
どう足掻いても生き辛さからは、もう逃げられない。
自分が自分で居る限り、解放される事は皆無だ。
それならば許してあげた方が、認めてあげた方が、まだマシなのではないか、と。
だけど、許してあげられない。認めてあげられない。

独りでは、どんなに輪郭を撫でたって虚しさしか生まないから。

そうか。
だからこそ、言葉にしなくてはいけないのだと蔦子さんが言っていた。

持っていた割り箸を、一度パックの中に差し込むと空いた右手で青みがかった髪を撫でる。
「…珍しいな」
そう言いながら気持ち良さそうに目を閉じる姿は完全に犬だ。

何を紡ごうか、また悩む。
瞬時に脳内で湧き上がるものから選ぶのが難しい。

「…名前が居る限り、俺は俺で居られる」

まるで噛み締めるように呟くその無防備な姿に、何故か、そう何故か胸を掻き毟られて、速まる鼓動を認識するより前に、口唇を重ねていた。
触れてから離れようとした所で掴まれた左手首に、持っていた焼きそばが地面に落ちるのを力を失くしてしまった指で知る。
「…ん…っ」
冨岡先生の左手が後頭部を支えるように包み込んで、強引に絡んでくる舌に目を瞑った。
唯一空いていた右手で抵抗しようとその顎を押し返す。
「…っちょっと、許可してませんよ」
「最初にキスしてきたのはお前だ」
「それは…飼い主としてのご褒美です」
「それならもっとくれ」
「駄目です。ご褒美は足りないくらいで丁度良いんですよ。あげすぎると次に繋がらないんで」
衝動的とは言え、こんな野外で、しかもまさか自分からするとは思わなかった。
速くなっている鼓動を誤魔化すように小さく息を吐く。
冨岡先生の背後をヒラヒラと飛んでいく白い蝶々を視界に入れて、あぁ、そうだ。この温かさのせいだ。そんな事を考えた。


全てはのせい


(まさか私まで気が狂れるとは…)
(次の褒美は何だ?)
(暫くはお預けです)


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