「はい、じゃあカウントからいくよ〜?ワンツースリーフォー!」 手拍子と共に、少し張り上げた声を聴きながら、録画ボタンを押したスマホを両手で固定する。 軽やかなステップを刻む後ろでは、子供達が懸命に動きを真似ていく。 それは粗削りでお世辞にも上手いと言えないものだが、振りを終えると「オッケー!」と満面な笑みで拍手を送る。 そこで録画停止ボタンを押した。 「ありがとう」 その言葉を聴きながら、防音の扉を開けて決して広いとは言い難い受付へと戻る。 これまたこじんまりとした待合室に次のクラスの生徒が待機しているのと、提出されたカードを確認してパソコンへと出席の印を入力した。 「それでは、今日はこれでおしまいです、挨拶しましょう!」 その号令と共に人数分の「ありがとうございました」を聴いたあとだ。 「名前先生〜、踊って踊って?」 その声に釣られスタジオを覗けば、壁一面に設置された鏡越しにその姿が見える。 「え〜?もうロッククラス始まっちゃうから」 「まだ先生来てないよ〜」 「ちょっとでいいから〜観たい〜」 そう言っては服を引っ張る子供達に、困ったように笑う名前はどこか嬉しそうだ。 「じゃあちょっとだけね?」 優しい口調でそう言ったあと、スマホから連動させた機器で音楽を流しては踊る姿を、誰よりも俺が真剣に観ていた気がする。 音楽が途切れたと同時に、開けられた外へ続く扉。 「おはよ〜」 目深く被った帽子は、もはや見慣れたものだ。 待機していた生徒達に、突然緊張感が走ったのも通常通り。 「おはようございます!」 一斉に下げられた頭は綺麗に揃っていた。 「ほらぁ、靴紐解けてる」 それでもいの一番に差した指に、ますます空気は冷える。 「それでスタジオ入るつもりならすぐにでも帰ってもらうけど?」 「すみません!」 急いでそれを直し始めた生徒は中学生か。 確か先週、体験に来て入会したばかりだったと記憶している。 「おはようございます」 目を窄めたまました挨拶は、その目を同じく窄めさせた。 「何か言いたげって顔だね〜」 「いえ、別に」 入ったばかりで右も左もわからない子供にすら厳しいのは、この講師の常套手段だとわかったのは、ここに勤め始めてからだ。 名前が元々所属していたスタジオ本校。 人員が足りないからとこうして受付のバイトを打診されたのは、名前が正式に講師として契約したと同時期だった。 「合間の小遣い稼ぎになるし、何なら毎週彼女のレッスンを間近で観られるよ」 そんな悪魔の囁きとも言える誘い文句に正直二つ返事で乗ったのは、誘ってきた人物がその男だったからという理由も大きい。 しかし何を考え、クラス編成に合わせ分校から本校へ、しかも名前のレッスンの次の時間にしたのかは、飄々とした様子からは今も窺えない。 ただ可能性があるとすれば──… 「愛しの名前との時間、邪魔されたくなかった?」 距離を詰めたかと思えば、耳打ちをしてくるその道化が目的か。 「あ、先生だ〜」 それでも、俺が反応するより早く群がってくる子供ひとり一人に笑顔を向けては頭を撫でる姿は、どうにも憎めないでいる。 「お疲れ〜、今日も頑張ったな〜!」 しかし思うに、この男は異性に"だけ"は優しい気がすると、これも最近気が付いた。 その証拠に、 「はい、お前ら〜、グズグズしてないでスタジオ入れ〜!3秒以内な!」 ほとんどが同性である生徒には掌を返したように厳しい。 慌ただしく入れ替わり、スタジオへ続く扉が閉められた。 「名前、先生さよーならー」 いそいそと靴を履いては、ガラス戸を押す子供達。 「お母さん達、迎え来てる?」 「来てるー。そこに車あるよ」 「ほんとだ。じゃあ気を付けてね?また来週」 「はーい」 ハイタッチをしてから閉められた扉越し、車に乗り込んでいく姿をきちんと見送る背中はまさに"講師"だ。 一瞬にして静まり返った空間の中、俺と名前だけが残された。 「動画、送っておく」 忘れないうちに手にしたスマホに、水分を補給していた名前が慌ててペットボトルの蓋を閉めるのを目端で見る。 「あ、うん。ありがとっ」 これも、いつもの流れだ。 記録した動画は、LINEを通じ生徒達と組んだグループへと送られる。 名前の場合は、まだ小学生という幼さから保護者がメンバーとなるが、その大半がすでに他のクラスに属している生徒ということから顔見知りが多い。 加えて受付として働いているから信頼はすでに得られているため、そこまで大きな負担はないと、この前言っていた。 「早速転送しとくね〜」 そう言って操作するスマホと、椅子に座る姿を目端で捉えながら、途中で止まっていた出欠の入力をする。 その間に、 「お疲れ様。帰るね」 いつもの言葉と扉が開く音を耳にするだろうと思っていたが、そのまま足をぶらぶらと動かしては反対方向を見る名前の真意が読めない。 「帰らないのか?」 思わず出した質問には、すぐにむすっとした表情を向けられる。 「帰ってほしい?」 「いや、そういうわけじゃない。……明日もリハだと言っていたから」 それは、この間受かったオーディションだ。 いよいよ大詰めだというのは、名前本人から聞いている。 そういえば、あの男はその現場を終えたら正式に名前を講師にすると言っていたが、それを早めた理由も何だったのか、未だに答えを得ていない。 ついでに言えば、先程よりぶんぶんと大きく振る両足もだ。 良くなったからと言っても、無理はすべきじゃない。 そう考えていたところで 「ロッククラス終わったら義勇くんも仕事終わりでしょ?」 含みを持たせた口調に、勝手に脈拍は上がっていく。 「…あぁ」 これは、多分、もしかしたら… 「だから、私も終わったら帰る」 そう言ってスマホに触れる心境は、やはり良くわからなかった。 ただひとつ、 「怒ってるのか?」 その事実を除いては。 「怒っては、ないよ。ただね」 大きく振っていた足がピタリと止んだ。 FUN for FAN? 「最近、私より先生と仲良いなって、ちょっと、思って」 不満そうに出された言葉に、思わず扉の向こうを見る。 「別に……、仲良くはない。あっちが面白がって突っかかってくるだけだ」 「そうかな?義勇くんも楽しそうだよ?」 ぎくり。そんな音がするはずないのにそんな表現を思い出したのは、そこに関して自覚が湧いていたためか。 今まで認めないようにしていたが、俺が一目であの男の踊りに惚れたのは、もはや誤魔化しようのない事実だ。 その証拠に、いつも誰もいなくなるこの時間は、マジックミラー越しにその指導内容を眺めていたりもする。 その姿はカッコイイ。その一言に尽きた。 理由まで訊ねずとも名前のクラスの次に講習をするとなれば、ここでの仕事を受けないという選択肢はなかった。 だけど、それは── 「……。俺の知らない"世界"だからだ」 瞬きをするその瞳も、俺の知らないものをたくさん見ているのだろう。 「こうして受付をするだけでも、今まで知らなかったことがたくさんある」 例えばスタジオの制度や、暗黙のルール、意外と代表からくる連絡事項が多いこと。 それは一部にしか過ぎないが、どこか名前が観てきたものとどこかで重なっている。そんな気がして、嬉しいと感じた。 勿論、それが交わることがないというのは、わかっていても。 「……義勇くん」 「何だ?」 気付けばまたプラプラと振る足の動きが再開していた。 「大学って、私は行っちゃいけないのかな?」 質問の意図と答えに辿り着くまで少し時間はかかったものの、比較的すぐに返答できたと思う。 「うちは基本的に見学自由だ。部外者が授業を受けていても誰も何も言わない」 「そうなの?じゃあ今度行きたいっ」 一瞬にして機嫌が良くなったように見えたのは気のせいか。 軽い足取りで立ち上がって受付のカウンターに身を乗り出す姿に、パソコンへ向けていた顔を動かした。 「いい?」 「別に、構わないが…そこまで面白いものは」 口唇に触れた人差し指にドキッと心臓が脈打つと同時、 「もうっ。義勇くんってそういうところ相変わらず鈍いよね」 さきほどのように尖らせた口を見る。 「私も義勇くんしか知らない"世界"が観たいのっ」 甘い声でそう言われて、平静でいられる男はいないだろう。 気が付けばその手を引いては、口付けをしていた。 自然と伸びた掌が胸の膨らみへ触れたが、 「…義勇、くんっ」 動揺している呼び掛けで止まる。 「……悪い」 「ううん…」 若干気まずい空気が漂うのは、未だにそれ以上のことをしたことがない。その事実からくるものだ。 あれから幾度となく2人きりになる時はあっても、先には進むのがどうにも難しいものとなっている。 本来なら男である俺が先導すべきなのはわかってはいるが、正直避妊具を購入する。そこからがすでに難関だったりしている。 「…今日、一緒に帰る?」 赤らめた頬を隠すように髪を触りながら言う名前が、勇気を出しているというのはさすがに伝わってくるので、二つ返事で答えた。 「…その時に、買わない?」 「……。そうだな」 思わず俺まで紅潮しそうな顔を、パソコンに向けることで誤魔化す。 何なら、ニヤけてしまいそうな口元も。 思い出すのは、あの発表会から数日後だ。 「だって義勇くん、全然その気になってくれないからっ」 機械越しに聴いた拗ねた声が蘇っては、頬は更に弛んでいく。 「会う度くっついても全然何にも反応ないし」 だから業を煮やして、購入した下着の画像まで送ったのだと白状され、その時俺達がどこまですれ違っていたのかをようやく知った。 名前は名前で、俺は俺で、どうにかその瞳に映りたいと、必死になっていたという事実は、互いに互いを想う気持ちをますます加速させたのかもしれない。 今は知らない"世界"を否定するのではなく、丸ごと受け入れたいと考えている。 「義勇く〜ん、ビデオ撮って〜」 間延びした声と共に開けられた扉。 「って名前まだいたのか」 驚いたような表情はすぐに嘲笑いに近いものへと変わった。 「ちょっとここスタジオなんでね〜、そういうイチャイチャするのやってないんですよ〜」 ふざけた物言いに焦る名前を後目に、俺はと言えばまた呆れた顔をする。 「してません」 「うっそだ〜」 「ビデオ撮るんですよね」 「ほら〜、誤魔化してる〜」 差してくる両人差し指は無視してスタジオ内に入れば、大人しくついてくる講師の顔つきが真面目なものになると知っている。 「最初からな?音なしと音あり、どっちも撮るから」 俺が返事をするより早く、生徒の揃った声が響いた。 「じゃ、今日はこれで終わり。お疲れ〜」 一通り撮り終えたあと、ヒラヒラと手を振る姿にその場にいる全員がざわめく。 それもそのはずだ。 「…先生、あと、10分残ってますけど……」 しどろもどろになりながらも指摘する生徒の言う通り、まだ既定の時間を迎えていない。 「今日は特別に〜」 名前が待つ向こう側へ続く扉を開ける動作に、何か嫌な予感がした。 「先生になりたて、名前ちゃんが授業してくれます〜」 さきほどよりざわついた生徒達に構わず、その手を引く講師にわけもわからないのは本人も同じ。 「え、え!?」 むしろ一番動揺している。 「大丈夫大丈夫。ガールズの基本教えてくれればいいから」 「でもここってロッククラス…!」 「オレ、しなやかな動きって苦手なんだよね〜。じゃあよろしく〜」 今度は何故か俺の背中を押しつつ退室していく。 バタンッと閉められた扉に観念したのか、懸命に指導を始める姿をマジックミラー越しに観た。 「しなやかな動きが苦手とか、よく言えますね」 「事実だよ?オレがアイツらくらいの時はもっと踊れなかった」 その瞳に嘘がないというのは伝わったが、おかげで返答には困った。 「…何か意図があるんですか?」 代わりにずっと気になっていたことを口にする。 「何が?」 「全てです」 名前に一目置いていることは言動から見て取れた。 だが、俺の存在にまで気を配る必要性が感じられない。だから不思議だと思う。 「前に言った通りだよ?」 敢えて煙に巻こうとしているのか。。確かめようと向けた視線も、返ってくる真剣さにまた戸惑いを覚えた。 スッと戻した双眸が次に観るのは、名前だ。 「オレ達ダンサーと、義勇くん。キミが観る"世界"は違う。感受するものは、それこそ大幅に異なるんだ。だから」 その後に続く意味をきっと、今の今まで勘違いをしていた。 「それは間違いなく、名前の強味だ」 俺までその視線を追ったのは、何故かはかわらない。 驚きもしたし、多少なりとも喜びを感じていた。 「少なくとも1年前にキミがあの子を見つけてから、その表現力は格段に飛躍している。正直オレが名前のダンスに目を止めたのは、その才が開花した後だった。義勇くん、キミは多分」 こちらに向いた瞳が、どこか彼女に似たものに感じたのは、そういうことなのだろうか。 「"観る力"が強いんだ。誰よりも。遥かに」 観る、ちから──…。 「それを誇りに思っていい。もしかしたら名前はキミに見つけてもらわなければそのまま埋もれていたかもしれない」 少しでも、彼女の"世界"の手助けになっていたのだろうか? でもそれは、俺では到底気が付けないことだった。 素直に言いかけた礼は、 「オレのパフォーマンスに惚れたのにもね」 片目を瞑るその姿で飲み込むことにする。 やはりこの男は捉えどころがない。 「あれ?照れちゃった〜?」 その言葉も聞かなかったことにする。 「義勇くん、お待たせっ」 開いた扉から見た笑顔は満足している様子で、何故名前に講師としての時間を与えたのか、少しわかった気がした。 同時にこの講師に教えを乞えば、プロとしての道筋が見える。 その意味も、理解した。 この男は"観る力"が強いんだ。それこそ、俺などと比べものにならないほどに。 「は〜い、じゃあ挨拶までしてきて?名前センセッ」 背中を押しては無理矢理踵を返させる姿が、不快に感じないのはそのせいなのだと思う。 「……あ、じゃあ、挨拶を、しましょう!」 明らかに戸惑っている名前に笑っているのは、何とも言いようがないが。 「これからもキミが支えるんだよ?」 わざと耳打ちしてくるその声は、意外と心地好いものだ。 しかし同時にポケットに入ってくる何かには、眉を顰める。 「オレからのプレゼント。使ってね」 それだけ言って離れていく姿を止める術はないまま、おもむろに手を入れて中身を確かめた瞬間、身の毛がよだった俺を、鼻で笑う余裕さに目で訴えるしかないのが悔しい。 それでもありがたいと、ほんの一瞬思ってしまった自分を呪った。 「お疲れ様でした」 完全に施錠をしたスタジオの扉の前、名前が頭を下げる。 「お疲れ様〜」 ヒラヒラと手を振る姿に見送られながら着く帰路は、俺の中でどこかぎこちないものになった。 どうにも右ポケットの中身が気になって、普段は入れない手はそれを握ったままだ。 「何か、ちょっと寒いね。汗掻いたからかな」 そう言って右手に絡ませてこようとする左手には、緊張が走る。 この上なくわかりやすいと感じたのは、今まで名前が考えてきたことを知悉しているからだ。 それでも手を外に出すことができず固まっている。 「…手、繋いじゃだめ?」 上目遣いにとうとう観念して、右手を差し出した。 「えへへっ」 途端に嬉しそうに絡ませてくる指は、愛おしいと感じる。 笑顔もそこそこに、覗き込んでくる瞳には目を合わせたくないと思った。 「…何か、緊張してる?」 訝し気な質問に、誤魔化せる自信がない。 「…緊張はしてない」 辛うじて答えられた一言に、そこから暫くは互いに無言のまま歩いた。 「…あ」 名前が小さく声を上げたのは、コンビニの前を通りかかったと同時。 「…買って、く?」 小さく首を傾げる姿に、また勝手に脈が上がった。 「…いや、いい」 それでもそれを制したのは他でもない。 「…もう、ここにある」 無理矢理押し込められた箱を恐る恐る出せば、さっきの俺と同じような反応をするものだから、笑いたくなる気持ちは多少なりとも理解した。 「え…?え!?」 「あの男が寄こした」 「……。もうっ、先生絶対からかってる…!」 先を歩き出そうとした踏み出した足を止めようと、今度は俺から指を絡める。 「家、行っていいか?」 このタイミングで訊いたのは故意だ。 「……。うん」 赤らめた顔が頷くのを、どこか余裕ありげに見たのは、それこそあの男から賜ったものかもしれない。 「……。義勇くん」 「ん?」 ギュッと握られる手で、更に体温が近くに感じる。 「…優しく、してね……?」 覚悟を決めたような、それでいてまだ戸惑いを見せる名前に、それを約束できるか自信はないながら、 「……あぁ」 かっこつけた声色を意識するだけで、精一杯だった。 君と僕が生きている世界 [mokuji] [しおりを挟む] ← |