short | ナノ





口にしてしまったことは二度となかったことにならないし、終わらせてしまったことを例え同じように始めてみたって、それは全く違うものだ。

恋人という関係から離れたことで訪れた穏やかな時間は、一時期的なもの。

わかってはいてもそのまま身を委ねたくなる自分が嫌で、ただ物件を探すことだけに熱中した。
それでも時間は圧倒的に足りないので、食堂でも賃貸情報とにらめっこするようになった私に、ひとまず婚約者と仲直りをしたという後輩はご機嫌でそれを覗き込んでくる。

「苗字さん、ついに新居探しですか〜?」
「ついにって何?」
「結婚とか」
「ないよ」

苦笑いしかできない。
多分私には一生縁のない話かもしれない。そう最近、顕著に感じてる。
これから新しく誰かと付き合うなんて、正直想像もできないし。

「苗字って実家暮らしだろ?家出るの?」

係長に訊ねられて、そういえばそういうことになってるな、と思い出した。

「ひとりで暮らしてみようかなって思ってます」

嘘ではないけれど核心にも触れない言い方で逃げて、スマホをそそくさとしまう。
見慣れたスーツ姿が食堂に入ってきたことに気付いたからだ。
これみよがしにそんな情報を見ていると知られたら、さすがにあまりいい気はしないだろう。そう思って。

「今からひとり暮らしするんですか〜?え?結婚は〜?」
「しないってば」
「だって彼氏は〜?」
「もういないから」
「…え、えぇ!?別れちゃったんですか〜!?」

全く悪気はないながら、食堂中に響き渡る叫びに頭が痛くなりそうになる。

「そう、別れたの」

だけど、もう関係ないか。
誰も知らないから、必要以上に気遣われる必要もないし。
その点では隠しておいたままで良かったのかも知れない。

一瞥する群青色には気が付いたけれど、目を合わせることなく食事を再開した。


未来をしよう


「だ〜か〜ら〜、呑み行きましょうって〜苗字さんの話めちゃくちゃ聞きたい〜」

帰ろうとする私の腕にしがみつく両腕は細い割に馬鹿力で、どうにか前に進もうにも全く足が動かない。
さっきからずっとこうだ。

「だ〜か〜ら〜、行かないって言ってんでしょ。ためになる話なんてどこにも何もないよ」

余りのしつこさに雑になる返答をおっさん達が微笑ましく見てるけど、これは仲良くなったとかそういうんじゃないと言いたい。

「だって苗字さんもキャバ嬢に寝取られたんでしょ!?私と一緒じゃないですか〜!」
「寝取られてないし!別れたのはそれが全部ってわけじゃ…」

ようやく力が弛んだと思えば、今度はうるうるさせる目に言葉を詰まらせてしまった。

「私は寝取られたんですよ!?可哀想だと思いませんか!?」
「…うん、そうだね。いや、取られてはないでしょ?彼、反省して再構築してるんだから」
「そうですけど!でもこの間も!」

コンコンコン。

扉を叩く音に続いて開いた扉。
その先に見た群青色に心臓が痛いほど動いた。

「失礼します」
「どうした?冨岡くん」
「資料をお借りしたくて」
「おー、どうぞどうぞ」

棚に向かう背中で、今日は残業であることを初めて知る。
わざわざ相手のことを把握する必要もないという事実に、少しだけ寂しくなった。

「聞いてます!?苗字さん!まだ連絡取ってるんですよ!?急に連絡途絶えたら可哀想だからって!」

腕をがっしり掴んだまま止まらない愚痴に、このままだと余計なことまで言われかねないと口を挟む。

「わかったわかった。あとで聞くから。行くよ」
「え!?いいんですか〜?やったぁ!」

腕を離すどころかさらにしがみついてくるものだから、仕方なくそのまま歩き出した。

「どこ行きます〜?キャバ嬢んとこ乗り込みますか〜?」
「やめてよ絶対やだ。私を巻き込まないで」

遠回しな言い方で関係ないことを示したけど、咄嗟のことだったから、その背中にどう伝わってるかはわからない。

でも、どう伝わってても、もう迎えた終わりは覆らないんだと思い知って、どこか諦めに似たものを抱いた気がする。


結局勢いのまま入った居酒屋で、彼女は勢いのまま呑んで、勢いのまま早々に酔い潰れた。

「もう帰るよ?」
「まら帰りたくないれ〜す」

閉じてしまいそうになってる目を無理矢理開けて、ジョッキを傾ける姿はなんというか、こんな時だけどちょっと親近感を抱いてる。

同時に、いいな、と思っていた自分をちょっと恥ずかしくもなった。

ずっと幸せで、順調に生きてる人間なんているはずないのに。

「送ってくから」
「いやら〜。かえりたくな〜い」

そうは言いながら、机に突っ伏して閉じた目には涙が浮かんでる。

「なんであんな女なんかに負けなくちゃならないのぉ…」

きっと、一生懸命頑張ってるんだろうな。

好きだから怒って、好きだから許して、だけど納得はいかない。それでもどうにか折り合いをつけようとしてる。

「別れちゃえば?」

無責任だけど、アルコールがほどよく回った頭でそう言い放っていた。
半分眠りに就いているのか反応はないのをいいことに続ける。

「大事にされてないって思うのに一緒にいる必要ないと思うよ」

それは何となく、私自身が感じていたこと。

一緒にいればいるほど、孤独を感じるようになった。

結局のところ、それが辛かったんだろうな。

それは義勇が悪いとか、そういうんじゃなくて、きっと私の問題。

「もっと大事にしてくれる人は他にもいるよ」

その言葉は、私じゃなくて彼女に向けてのもの。

きっとこうやって素直に笑って泣いて怒って、その姿を放っておけないと思える男なんてたくさんいる。

あぁ、だから"いいな"って思うんだ。

私とは正反対だから。


心の奥底を何となく推察してる間に寝てしまった姿に苦笑いをしつつ、傾けたジョッキ越しに見えるスマホは着信を告げている。

それは私のではないのでこのまま見て見ぬフリをしようとしたのに、名前のあとに続く"旦那"の文字に電話を取っていた。


「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえいえ」
「それでは失礼します」

よそ行きの笑顔で抱えられる彼女が乗った車に手を振って、見えなくなってから下げる。

電話に出た見知らぬ人物に驚いていたその人に、彼女が酔い潰れた事実を伝えれば、すぐに飛んできた。
ひとまず彼女が無事に帰れる。それは安心した。

そして、やっぱり、いいな、と思った。

本気で心配してる表情とか、迷惑をかけたからと全額払おうとする姿勢とか、それは全て"あの子のため"。

だから、やっぱり"いいな"って思う。

愛されてるじゃん。少なくとも、"大事に"はされてる。

それが伝わるから辛くても、やり直す道を選んだんだろう。

別れちゃえば?なんて、軽い気持ちで言ってしまったことに更なる自己嫌悪だ。


最近、自分を嫌いだと思うことばかりな気がする。


「ただいま」は口にせず開けた扉。

リビングのテーブルに置かれた何枚かの紙に目を止めた。
同時に開いた扉の音に、そちらを見る。

「遅かったな」

ちょっと見開いてる目に返すのは「うん」。それだけ。

「これどうしたの?」

代わりに指差したそれに、同じく視線が落ちた。

「良さそうな物件をコピーしておいた」
「そう、ありがとう」

笑顔を作っては、虚しくなる。

早く出て行ってほしい。まるで、そう言われてるみたいで。

わかってる。帰ってきても賃貸情報ばかり見てる私への、義勇なりの気遣いなんだって。

涙で滲みそうなのをどうにか誤魔化して、

「あ、これすごいいいかも。こんなの良く見つけたね」

口にした紛れもない本音も、

「名前ならそれを選ぶと思った」

多分、他意はない台詞さえ、どうしてだろう。

今はもう、虚しさしか感じなかった。

* * *

"明日、内見してくるね"

同じ建物内にいながらLINEを送って、目の前の日替わり定食を何も考えず堪能する。

「苗字さん、もう物件探さないんですか?」

朝から二日酔いで、と報告したその顔色がちょっと良くなったところで、またこちらを気にするのも他意はないんだろう。

「ちょっと目星がついたから見に行こうと思って」
「どこですか?私も見に行きたいっ」
「いや、いいよ来なくて…」
「なんで〜?」

きょるんとした瞳に見つめられて、何となく悟る。
もしかしなくてもこの子に懐かれてることに。

今まで共通点がなかったのに、キャバ嬢の件をこちらがついポロッと口にしてしまってから多分そう。

「何かそうしてると姉妹みたいだな」

無責任なおっさんの一言にこちらが睨んでも効果はない。

「ほんとですかぁ?」
「ほんとほんと、なぁ?」
「あー、確かに。キビキビ姉ちゃんとほんわか妹って感じな」
「嬉しい〜!私お姉ちゃん欲しかったんですよぉ!」

勝手に盛り上がるのをとりあえず無視して、咀嚼を続けたものの、

「どっちもキャバ嬢に負けたしな〜」

なんて笑えない冗談を言うものだから、更なる睨みを利かせてしまっていた。
私と違っててっきり涙目になっているのではないかと動かした視線の先には、勝ち誇った笑い顔がある。

「負けてないですよ〜!私っ」

自信を取り戻したのかと思えばそうじゃない。

「捨ててやりましたから」

ふふん、と鼻高々に笑う表情には今までにない余裕があった。

「え!?別れたの!?」

当然周りのおっさんが驚く中、意識しなくても義勇の姿を見つけてしまって目を一度伏せる。

「別れてやりましたっ!」

だけどその清々しすぎる報告には顔を上げた。

「え?ほんとに?」
「はい!」
「だって昨日迎えに来てもらったよ?」
「それなんですよね〜。酔っててちょっとしか覚えてないんですけど」

記憶を辿るように動いた目線と、箸を持った手。

「吐きそうって言ってるのにエッチしてこようとするんで、何か急に醒めちゃいました」

あはっ、という笑いつきでされた報告に固まるのは、声が届いた範囲全てだ。

「え?それだけ?」

つい突っ込んでしまうおっさんの気持ちはわからなくもない。
だってあれだけ…

「苗字さんに言われたんですよね。"大事にされてるって思えないなら"って」
「…覚えてたの?っていうか聞こえてたんだ?」
「聞こえてたし覚えてますよぉ。その通りだなって酔ってたのにすごい思ったんです私」

でも、それはこちらの話であって貴女は大事にされてたのでは?というのは声が届くであろう義勇の背中の手前、口には出せない。

「苗字さんもそう思ったから別れたんですよね」

にっこりと微笑む姿にズキッと心が痛む音がしたのは、悪意のなさとかそんなものじゃない。

自問自答してしまっている心に、気が付いてしまったからだった。


ねえなんで
始まりを忘れちゃうのだろう
伝えよう 伝えるべき人に伝えよう
「ごめんね」
今さらでも ちゃんと言わなくちゃ
「さようなら」
今さらできない 好きな人



SUPER BEAVER
"ふがいない夜こそ"より抄出



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