わかった気でいた。義勇のこと。 全てを理解するのは無理でも、大体の好みとか行動とか考え方とか、そういうのならきっと誰より知ってると思ってた。 無意識で人を怒らせてしまったり、傷付けてしまう時もあるけれど、そこに悪意はない。 故意に人を貶めたり、存在を否定するようなことは絶対に言わない。 それが私の知ってる義勇で、好きなところだった。 だからこそ私を"なかったこと"にされたのを謝罪だけで終わってしまった時、その義勇はもうどこにもいない気がして、そしたらもう、何を考えてるのかさえわからなくなって、怖くなった。 今も、怖い。 結局私が逃げたことで、再度話し合いを設けることはなくなった。 義勇は、中途半端にでも一度終わったことをわざわざ蒸し返しはしない。 今までの経験則からくる予想は皮肉にも当たってて、ますますわからなくなった。 弁解する必要がないほど、そのままの意味だということなのか。 それを訊くのも、怖くなった。 特にお互い喋ることもなく、朝食を食べる雰囲気が重苦しいのも嫌で、 「ちょっと出掛けてくる」 そう言った私に、義勇は頷くだけ。 昨日みたいにどこに行くか訊かないんだ。寂しくもなったし、どうでもいいってことなのかと感じてしまって、悲しくもなった。 別に行きたいところもなくて、フラフラ時間を潰しては思う。 こういう時こそ、仕事していたいって。 余計なことを余計な方向に考えなくていいように。少しでも今の現状が忘れられるように。 現実逃避だってわかっていても、そう思わずにはいられない。 思えば私が読書するのも、そうだ。 有り得ない世界に、私ではない誰かが存在する。 それが最高に面白くて、熱中するんだ。 そこに、現実がないから。 意味もなく歩き回って悶々とするよりは、あの本を片手にカフェでも入れば良かった。 そしたらまだ有意義だったかもしれない。 「いらっしゃい」 耳慣れた声を聞いて、顔を上げる。 これまた見慣れた書店名にドキッとした。 無意識で足を運ぶなんて、相当ここが好きらしい。 「……こんにちは」 声を掛けられたからには素通りするわけにはいかないと理由付けて、中に入ろうとして疑問が沸いた。 あれ?今、いらっしゃいって誰が…? 聞こえてきた方を確認しようと横を見る。 パタパタとはたきを動かすおじいさんの姿に、声が出ないほど驚いた。 痴呆が進んでからは、もうずっとレジ台の椅子から動いてるところを見たことなかったから、目の錯覚かとさえ思ったけれど、 「久しぶりだねえ」 ちゃんと視線を合わせてからそう言われて、幻じゃないという確信を得る。 「お久しぶり、です」 覚えててくれた。 喜びと驚きでニヤけそうになる口は何とか堪えて、癒しの空間へと足を踏み入れた。 * * * さっきまで沈んでた自分はどこへやら。 「あ、これ、読んだことあります!面白かった!」 心からの笑顔が出るのは、ただ本を読み耽って浸っているだけじゃなくて、 「これもあるのかあ。じゃあこっちはどう?」 ここ数年、まともに会話することもなかったおじいさんと、久々に深い話を出来たからだ。 図々しくも椅子までお借りして、薦められる書物についてああだこうだと語り合う。 私の"癒し"は、本に浸ることだけじゃなくて、こうして似ている他人と意思の疎通を出来る空間があることだったって気が付いた。 だからここ最近は、足が遠のいていたのだろう。 それができないことを寂しくなるから。 「おじいちゃーん?誰か来てるの?」 障子の引き戸が開かれて、女の人と目が合った。 「……あ、こんにちは」 咄嗟に挨拶はしたけど、怪しまれたら説明するのが難しい。 「…こんにちは」 すでにちょっと嫌な顔されてるし。 「本のお嬢さんだよ」 おじいさんの言葉で不審そうに見ていた目がパッと変わった。 「ああ!本の虫さん!?あらやだ初めて見た!いつも父がお世話になってますー」 「あ、いえ。こちらこそ」 疑問点はいくつもあるけど、とにかく頭は下げる。 「最近来てなくて寂しいって言ってたんですよー」 そう言ってくれることには、素直に嬉しくなった。 未来の話をしよう あっという間に感じた4時間。 あれから、娘さんと軽々しくいうには失礼なくらい私より歳上の女性だけど、その人と、おじいさんと、色んな話をさせていただいた。 最近薬を変えたからか、たまにこうして記憶が鮮明に戻ってくる時があるとか、おじいさんが私のことをどんな風に娘さんに話してたのかとか。 あとは、やっぱり本の話。 こんなにも自分のことを話したのは正直すごく久しぶりで、帰りたくないって思うほど楽しかった。 でも楽しい時間ほどほんとにあっという間で、現実には戻らなきゃいけない。 私が帰らないと義勇は夕飯食べられないし、夕飯を作るには買い物もしなきゃならない。 まるで夢から醒めたみたいで少し憂鬱だったけど、 「また来てね」 そう言ってくれたから頑張ろうって思えて、朝から抱えてたモヤモヤも少しは晴れた。 やっぱりちゃんともう一回、話をしよう。 そういう風に思えたのは、紛れもなくあの書店に足を運んだおかげだった。 今度は逃げない。義勇がどんな気持ちであれ、ちゃんと受け止めて私も返そう。 それで結果がダメだったとしても、前に進めるようなものにしたい。 「調子がいいのは今だけで、明日になったらまた忘れちゃうのよ」 帰り際、そう呟いた横顔は、とても悲しそうだった。 それでもおじいさん本人には微塵もそんな素振りは見せないで気丈に振る舞う姿に、私が泣きそうになってしまった。 きっと不安だろうに、寂しいだろうに、もう治ることのない病の進行を最後まで見届ける。 そんなことを出来るのが、陳腐な言葉になるけど、すごいと思った。 それと同時に、私の悩みなんて小さなもので、今からでもどうとでも変えることが出来るんだと気付かされた。 だから、努力をしよう。 「またね」と言ってくれたふたつの笑顔に、今度は最初から心からの笑顔で会えるように。 「ただいま〜」 明るめな口調を心掛けて、玄関を開ける。 朝みたいな雰囲気を醸し出してたら最初から前向きに話なんかできないし、義勇もさらに口を噤むから、そこも努力だ。 かといって、下手に笑顔でいるのは違うから、ちょっとだけ表情は硬くした。 ちょうど自室から出てきた義勇に声を掛けようとした瞬間、出掛ける支度を済ませているのに気付いて喉を止める。 「出掛けてくる」 「え?今から?」 訊いてるのに、何も返ってこないまま通り過ぎていくのに慌てて振り向いた。 「夕飯は!?」 「食べてくる」 どこで?誰と? そこまで口が動いてくれなかったのは、遮るように閉められた扉もそうだけど、その背中が冷たく見えたからかもしれない。 「……。いって、らっしゃい」 気の抜けた声を出すけど当たり前に届くはずなんてなくて、まるで一方通行みたいだな、なんて思ったら切なさが込み上げていた。 * * * 誰もいないリビングで、冷え切った料理を眺める。 念のため作ったそれはいつもより気合いを入れたんだけど、このままラップが取られるころには生ゴミ行きになりそう。 時間を確認して、何度目かの溜め息が出た。 あと10分もしないうちに変わってしまう日付に、自分の肩を抱く。 帰りを待ち焦がれたのは、それこそ一緒に住み始めた時以来だ。 何時になっても起きて待ってる私に義勇は呆れたような、でも優しい瞳で、 「名前が倒れたらどうする」 そう言ってベッドまで運んでくれたのも、もうまるで遠い昔。 こんな時間まで何してるの?何かあったの? 今日はちゃんと、逃げないで、怒らないで話そうって思ったのに。 それとももう、嫌になっちゃった? 私のこと。 マイナスなこと、考えたくないから考えないようにしてるのに、思い返せば全部そう。繋がってしまう。 私の存在をなかったことにしたくてあの発言が出て、傷付けたこと"には"謝罪をした。 でも元に戻れるほど、もう気持ちはそこにないから、私が帰ってくると同時に出掛けて、今も帰ってこない。 そう考えると、辻褄が合ってしまう。 ガチャッ。 待ちに待っていた音を聞いても、立ち上がることはできなかった。 明日からまたお互いに仕事だから、私はもうとっくに寝てるって期待して帰ってきたんだったら? ここにいるべきじゃない。 それでも少し話したい。少しでも、義勇の今の気持ちを知りたい。 また逃げ出したくなる気持ちをグッと堪えて、ただそこに座り続けた。 「……起きてたのか」 少し驚いたような声を聞いて、辛うじて「うん」と答えた声は自分でもか細いと思う。 「飯、作ったのか?」 「うん」 「食べてくると言っただろう?」 「……。そうだね」 俯いたままどうにも上げられない頭は、 「風呂、入ってくる」 珍しくされる報告で更に動けなくなって、スマホと財布をテーブルに置く手だけを辛うじて見た。 パタン、と静かに閉まる扉にも、暫く動けないまま滲みそうになる視界をなんとか耐えるので精一杯。 義勇から、知らない香水の匂いがした。 間違いなく、女モノの甘ったるい匂い。 どこに行ってきたの?なにをしてきたの? 沸き上がった疑心は止まることを知らなくて、いけないとわかっていても残していったスマホを手に取った。 だけどすぐに諦めたのは、それを開くことは難しいとわかり切っていたから。 今まで黙って見たことなんてなかったし、そもそも疑ったりしたことがなかったから、お互いのパスコードすら把握してない。 何のヒントもないままここで闇雲に打ったって、ロックがかかるだけで開けるとは思えない。 代わりに財布を手にした。 もう自分が冷静じゃないのはわかってる。だけど"何もない"。 縋ってでもいいからその安心が欲しかった。 私のことを"いない存在"としたがるのはもういいから、しょうがないから、せめてまだ一緒にいる間だけは、他の女のことなんか考えないでほしい。 そう願って開けた先にあった、ひとつの名刺は何もかもを崩すには充分すぎるものだった。 キラキラした文字で書かれた店と、その人物の名前であろう文字。 それよりなにより、全面に印刷された顔写真には、言いようのない嫌悪感が沸き上がった。 メイクも髪も完璧に決めたその子がキャバ嬢だってことは一目でわかる。 念のため店名も調べてみたけど、駅前のキャバクラで間違いない。 だから女モノの香水の匂いがしたんだ。 少なくとも個人的に女と出掛けてたわけじゃない。 納得したはいいけど、今度は虚しくもなった。 私と話し合うより、キャバ嬢に会いに行く方が大事で、楽しかった? ろくに会話もない家よりか、仕事とはいえ聞き上手で盛り上がるお店の方が居心地もいいか。 ううん、違う。それは私の想像でしかない。 悲観的になっていくのをどうにか抑えて、再び扉が開くのをただ待った。 信じ続けるしかないじゃないか 愛し続けるしかないじゃないか わかってるって 自分が一番可愛いなんて 誰だってそうだ じゃあ 共に笑うにはさ SUPER BEAVER "人として"より抄出 [mokuji] [しおりを挟む] ← ×
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