雲路の果て | ナノ 62

淡く心地好い微睡みから、徐々に意識が鮮明になっていくのを感じ、名前はゆっくりと目蓋を上げた。
浴衣の襟元を視界に入れてから、すぐ傍で感じる体温にそこへ擦り寄る。
(義勇の、匂い、だ…)
心の中で呟いて、自然と笑顔が零れた。
その温かさで再度誘われる微睡みに目を閉じると同時に、後頭部を撫でる掌を感じ、瞬きを繰り返す。
「…義勇、起きたの?」
僅かに視線を上げた事でその喉が動いたのが見えた。
「…起きてた」
「おはよう。あ、お腹空いたよね?ご飯」
その後に続く言葉は、起き上がるのを遮るよう抱き寄せた左腕によって止まる。
「…もう少し、こうしていたい」
若干冴えきっていない頭で出した義勇の声色は、普段より甘いもので、名前は小さく笑うとその胸板へ顔を寄せた。
「…うん」
遠慮がちにではあるが、背に手を回してから目を閉じる。
それから数分もせず、再度眠りに落ちた。


次に名前が目を覚ました時、刻は昼を迎えようとしていた。
義勇の姿はそこにはなく、足元で眠っていた黒猫も忽然と消えている。
慌てて布団を片付けると、ひとまず居間へと向かった。
「…義勇?」
そこを覗いてみても誰の姿もない。
返ってこない返答に、僅かばかり寂寥を感じながら歩を進める。
昨夜まで、立派だと思っていた水柱邸。
そこに居るのが自分だけという感覚に苛まれると、途端に心細さが占めていく。
「…クロ〜?義勇〜?」
台所へ足を運んでから、そこに今しがた義勇が居た形跡を見つけ安堵から来る溜め息を吐いた。
鍋から漂う香ばしい匂いに、ぐぅと小さく腹の虫が鳴ったのに気付いて腹部を押さえる。
どこに行ってしまったのだろう?そう考えながら歩を進める。
中庭へと続く廊下の先、縁側に腰掛ける義勇と、傍で寛ぐ黒猫を見付け駆け寄ろうとした所で引き摺っていた裾を踏んだ。
「…あ!」
声を上げた時には既に床が近付いていて
ビタンッ!
受け身も取れずそのまま倒れる。
響いた音で顔をそちらへ向けた義勇の
「…大丈夫、か?」
唖然とした声は、床に沈んだままで聞いた。


雲路の


「干してくれたの?」

顔を強打した事ですぐには動けずにいた名前を、義勇の左手が支えた事で、自然とその縁側へ腰を下ろす。
外の欄干に並ぶ見慣れた羽織りと隊服に目を丸くした。
「まだ乾いてなかったから、外に移動しておいた」
「…ありがとう」
風に靡いていくそれらがどことなく気持ち良さそうに見える。
笑顔を深めてから視線を義勇に向けた事で、名前の目が再び丸くなった。
「…それ、自分で着たの?」
遠慮がちに出された発問に、義勇は視線を隊服に身を包んだ自分へと向ける。
「…あぁ、これか。時間を掛ければ着られる」
若干苦戦はした金色のボタンを無意識に思い出し、指先で触れた。
「…起こしてくれればよかったのに」
「良く寝入ってたから、もう少し寝かせておきたいと」
同意を求めるように黒猫の頭を撫でると目線を合わせる仕草に、名前は若干口を尖らせる。
「…みんな、どこか行っちゃったかと思った」
そう呟くと伏せられる目に、今度は義勇の表情が驚きの色を宿した。
「寂しかったのか?」
こくり、と小さく、しかし確かに縦に動く首に口の端を上げる。
「…ごめん」
名前の頭を撫でれば、同じように弛んでいく口元を指先でなぞった。
「朝食も作った。一緒に食べよう」
「…義勇、まだ食べてないの?」
「名前が起きるまで待ってた」
「…え?ごめん!お腹空いたよね!?私すごい寝ちゃっ」
狼狽していくその口唇へ接吻をひとつ。
もう何度も繰り返しているというのに、まるで初めてされたかのように動きを止めた後、瞬きを繰り返す名前に、更に頬が弛んでいく。
「準備しよう」
頷いたその表情がまたもや狼狽えに近いものになった。
「あ、でも私、着替え…」
その言葉に、自然と中庭へ視線が向かう。
先程手に触れた感触では、それが乾き切るにはまだ時間を要する。
咄嗟に義勇自身の隊服を貸与しようかと考えたが、それも名前にとって著大である事に変わりはしない。
せめて裾を踏まないよう、ワイシャツと上着だけでもと考えてからその姿を想像してしまった事を後悔した。
心の中で首を横に振ってから、何を考えているのだ自分は、と己を諫める。
「そのままで良い。居間で待っていてくれ。俺が運ぶ」
「え…でも」
「さっきのように転んでみろ。火傷じゃ済まない」
「でも…、じゃあ準備だけでも一緒に、したい」
真っ直ぐ向けられる双眸に、此処で拒否を示したとしても名前は折れないであろうと判断をし
「…わかった」
そう頷くと早々に左手を差し出した。

* * *

義勇の作った朝餉を共に食し、共に片付ける。
それは昨夜と同じように笑顔が絶えない空間。
穏やかな時が明日も続いていく。そう考えると、俄かには信じ難い気もするが、紛れもない事実だと互いの存在が告げていた。

「…もう隊服、乾いたかな?」

転んでしまわぬよう手を繋ぎながら廊下を歩いていた所で中庭へ視線を向ける名前に続き、義勇もそちらへ視線を向ける。
「多分、羽織りがまだだ」
「じゃあ隊服だけでも着ようかな」
「今日は良いんじゃないか?その恰好のままで」
「…え?でも、昨日洋服とか買いに行こうって言ってた、よね?このままじゃ外に出られないよ…?」
「買い物なら明日でも出来る。今日の分の食糧もあるから、特に外出を急ぐ必要もない」
「…うん?」
納得しているものの理解はしていない表情で頷く名前に、義勇は上がりそうになる頬に意識して力を入れた。
「名前の屋敷には明日帰ろう」
「うん」
今度は屈託ない笑顔を見せるその手を引こうとしたと同時、グッと指に込められる力で動きを止める。
「…義勇。あの、昨日は、ごめんね…?」
「謝らなくて良いと昨日も言った」
「…うん」
泣き疲れたまま眠りに就いたその瞳はまだ若干の赤みが残っていて、擦ろうとした右手に拭える指がない事に気付き、それを戻した。
何故あれ程に泣きじゃくっていたのか。
規則的な寝息を腕の中で聴きながら、義勇は思考を働かせていた。
そうして辿り着いたのは、罪悪感という三文字。
義勇が名前にその感情を抱いていたように、名前もその呵責に苦しめられていたのだとしたら?そう考えると何度も謝罪を繰り返していたのにも合点がいく。
あの言葉は言うべきではなかった。そう、悔やんでもいる。
しかし義勇がその事に対し、どれだけ謝罪をしたとしても、名前は少し困ったような、それでいて怒ったような顔で言うだろう。
「また、謝ってばっかりだよ」と。
それでは意味がない。
謝罪という言葉を口にして得られるのは自己満足だと気が付いた今、同じ事は繰り返さない。向けられた名前の気持ちは、何処にも行けなくなるからだ。
自分だけが苦しんでいるような顔をして生きてきた。何も見ようとせず、何ひとつ気付こうともせずに。
もしかしたら、名前はそうやってずっと蹲っている自分を見守っていたのではないか。

「大好き」

何度も繰り返されたその一言から伝わってくる感情を義勇は今、切に感じている。

また沈黙が落ちる事でその瞳が泣き濡れてしまう前に、そっと接吻をした。
「…っ…」
ギュッと目蓋を閉じる名前に上がっていく口角は右耳へ移動させる。

「愛してる」

吐息混じりで囁いたのは完全に故意だ。
案の定、すぐ桜色に染める頬を見止めて、くつくつと喉を鳴らす。
「…ぎゆっ!またからかって…!」
「からかってはない。本気だ。昨日伝える時機を逸して」

言い終わる前に、音もなく広げられた翼が視界に入ったと同時、右肩に止まる漆黒の存在に目を見開く。

「寛三郎…」

迷う事なく口を突いて出たその名前。
「…義勇…イマ戻ッタ…」
よぼけている声に、あぁ、変わらないなと目を細める。
「寛三郎さん、お帰りなさい…!」
名前の声に反応するとその肩へと移動した。
「…久シ振リジャ…元気カ…?」
「はいっ、とっても元気です」
「名ヲ、何ト言ッタカ…」
「名前です」
「ソウジャ…名前…」
もう何度も見たこの光景も、変わらない。
一刻もしない内にまた同じ会話を耳にする事になるだろうと予見した所で、右肩に戻ってくるとあやすように擦り付けてくる頭に、苦笑に近い笑みを溢した。

* * *

「これは?」
「必要ない」
「…これは?」
「それは持っていく」

部屋の一角、二人の短い会話が途切れる事なく続く。
黒猫が退屈そうに欠伸をしてから、隣の鴉へと視線を向ける。
そうして目を閉じている姿に倣うようにその場に丸まった。

「これは?」
名前が押し入れから出したのは小さな木箱。
それに関しては、義勇も即答が出来なかった。
「何が入ってる?」
先程箪笥から引っ張り出した服へ視線を戻し、質問で返しながら仕分け作業を再開させる。
「開けていいの?」
「構わない」
義勇の言葉を聞いてから、恐る恐る開けたその先、長方形の紙束に
「…あ、手紙だ」
目を丸くした。
冨岡義勇殿と書かれた見覚えのある筆跡で二人の師、鱗滝左近次で在るのを知る。
「義勇も鱗滝さんとずっと文通してたの?」
嬉々とした笑顔になっていく名前に
「文通という程じゃない」
一言を返してからはたと気付いた。
「それは俺が整理する。貸してくれ」
「…うん」
不思議な顔をしながら差し出す両手から木箱を受け取ると早々に蓋を閉める。
「…分けないの?」
「後でやる」
疑問に満ちた瞳が徐々に懐疑的なものへと変わっていくのが義勇にも伝わった。
「…なんか、義勇。隠してる…?」
「隠してない。差出人は鱗滝さんと炭治郎だけだ」
「炭治郎くんとも文通してたんだ?」
「文通はしていない。一方的に来ていた」
「…ふーん」
途端に尖らせる口に、何が不満なのかを訊ねるより早く
「手紙、読んでくれるなら私も出せばよかったなぁ…」
独り言に近い呟きに視線を上げる。
「誰にだ?」
「義勇に」
「…書いた、のか?」
「書こうとしたことはたくさんあるんだけど、でも上手く書けないからやめちゃった」

今でこそ笑顔で話す事が出来る、若干の苦い思い出。
手紙を認めようと何度か筆を取ったが、近況報告や取り留めのない内容ばかりで、脳裏に浮かぶのは狭霧山にいた頃。
こんなものを送り付けた所で、余計に義勇を傷付けるだけだろうと出す事なく破棄をした。
尤も上手く書けた所で、それを読んで貰えるという保障などは何処にもなかったため、結局屑籠行きには変わりはなかっただろう。

困ったような笑顔を見せる名前から視線を剥がすと、義勇は自然に木箱へと落とした。
「…同じだな」
敢えてその右耳が聞き取れない声量で呟く。

中に入った数通の文。
これだけは名前には見せられない。そう考えて息を吐いた。

先程言った言葉も嘘ではない。鱗滝と炭治郎以外の相手はおらず、隠している訳でもない。
名前が望むのならその存在の開示くらいはするだろう。内容を示す事はしないが。
もう義勇自身でさえ、文面の書き出しすら記憶が朧げなので、示せないと言った方が正しいのか。

「義勇、これは持ってく?」
作業を再開させる名前の手元を見る。背表紙を目に止めた途端、焦燥が込み上げた。
「それは…!」
「…本、かなぁ?」
おもむろにそれを表紙へと返した後、これでもかという程に瞳を見開いて、義勇は深い溜め息を吐く。
俗に言う"春画"。
名前にとっては抱き合う男女の表紙でさえ刺激的であろう。
紅潮していく頬に何か言わなければと口を開いた所で
「義勇って、変態だったんだ…」
あらぬ誤解に一気に眉を寄せた。
「違う、何故そうなった…!?」
「だって書いてあるもん」
差し出された冊子の文字にグッと息を呑む。
"変態心理"と書かれた四文字に、言い訳のしようがないとわかってはいても言葉が勝手に口を突いて出る。
「それはただの書名だ!決して俺の心理じゃない!それにそこまで変態的な内容でも…!」
益々顔を赤くしていくとついには俯く名前に、これ以上の弁解は逆効果だと口を噤んでから、これなら木箱の中で眠ったままのものが見られた方がまだ良かったかも知れない。そんな事を考えていた。


Letters
拝啓 苗字 名前様

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