雲路の果て | ナノ 61

この三ヶ月、蝶屋敷で療養していたためか。
若干の窮屈さを感じる水柱邸の浴場は狭いが故、音も良く反響するのだろうかと考えた所で、義勇の脳が自然と先程聴いた嬌声を蘇らせる。
しかし、今はそればかりではないと、勝手に淫靡な思考に走ってしまいそうになるのを理性で諫め、静かに目を閉じた。
そうする事で、風呂椅子に腰掛けた目線に来る手拭い越しの膨らみから意識を逸らそうという目論見もある。
それと共に、優しく地肌を揉み解していく名前の両指が、単純に心地好い。そうも考えていた。

「流すよ〜?」
「…あぁ」

短く答えながら一度開いた目蓋は、湯を掬う音を聞いてまた閉じられる。
自ら提案しておいて、これはまた我慢との戦いだというのを思い知った所でゆっくり掛けられる湯の温かさを感じる。
「もう一回ね」
そう言って再度桶を動かす名前は真剣そのもので、今此処で義勇が色欲を抑えているなど露ほども気が付いていない上に、想像すら出来ないだろう。
今まで恋愛というものに触れてこず、教えられてもこなかったせいか、その点についての疎さが未だ抜けていない。
先程ですら名前本人にとっては突然の情事で、何故義勇が荒々しくなったのかも全く理解をしていない。
だからといってそれを一字一句懇切に説明出来る話術も技量もこちらは持ち合わせていないため、事そのものにおいての意識はこれからも平行線を辿るのだろう。
そう、冷静に考えていた。
だからこそ、今この場においては色情を抑えておきたい。

「はい、出来たよ!」
目を開けた先には、いつもと全く変わる事のない無邪気な笑顔。
「痒い所とかない?気持ち悪いとか」
「大丈夫だ。助かった」
今の名前は"髪を洗う"。考えているのはその一点のみ。
浴場に入る直前こそ紅潮していた頬も、大判の手拭いを巻いた時には、覚悟を決めた表情へと変化していた。
「どういたしまして」
桶を置くと、丁寧に髪を絞っていく両手からは嬉しさが伝わってくる。
この状況でまた情事へ発展させるのは、その恥じらいを耐えてまで義勇の介助に徹する決意を無下にする行為な上、左腕一本ではどうあってもその身体への負担が大きくなる。
だから、耐えなければならない。
そうは言っても生殖機能というものを精神論で抑えるというのは、これもまた難しいのだと実感している。
「…義勇?」
腰に巻いた手拭い越しにでもわかる陰茎を心配そうに見つめる視線に居た堪れなさを感じ、目を逸らした。
「気にしないで良い」
「……あ、うん。背中洗うね」
笑顔を向けるとすぐさま後ろへ回る姿を視覚で捉えなくなった事で、自然と出た安堵の溜め息は、肩甲骨辺りに触れる布の感触で止まる。
僅かに前へと動いてしまった身体に名前が若干眉を曲げた。
「…ごめん、大丈夫…?」
反射的な動きから傷が痛むのではないかと勘違いをしたのだろう。
その推測はすぐに理解出来たため、否定の意味で首を振る。
「大丈夫だ。続けてくれ」
「うん」
ゆっくり滑っていく手拭いに、先程と同じように目を閉じながら考えた。
こうして背中を流して貰うのは初めてだ、と。
身体に深く刻まれた、恐らく生涯消える事のない無数の傷痕を撫でていく優しさに、色欲ではなく、安穏を感じている。
「痛くない?」
「全然平気だ。もっと強くても構わない」
「こう?」
若干の力は入ったもののやはり遠慮がちなその手が名前らしいと目を開けてから、弛む頬に自然ともう一度目蓋を下ろした。


雲路の


「気持ちよかったぁ」
手拭いで髪を拭きながら、明るい口調でそう言う名前の後ろに続くのは義勇。
「一緒にお風呂入るのも楽しいね」
振り向いた朗らかな笑顔に、何とも言えない表情をしそうになるのを堪え
「そうだな」
肯定の一言だけを返した。
共に湯船に浸かる際、物理的に縮んだ距離で再度膨らんだ色欲も、平静を装い凌ぎ続けた。
結果として、名前は義勇の葛藤を知る事なく、その無邪気な感想を抱くに至っている。
決して恨めしい訳ではないが、少しばかりその身に触れる程度の悪戯くらいはしても、罰は当たらなかったのではないかと心中で思った。
それでも
「…義勇の浴衣、おっきいなぁ。引きずっちゃう…」
明らかに丈の合っていない衣服に悪戦苦闘しながら歩く姿を見られたのは役得とすべきなのだろう。
「来る前に浴衣も調達してくれば良かったな」
「そうだね。明日買いに行こっか?」
「その前に名前の隊服が乾けば、の話だが」
「あ、そうだった…!」
弾かれたように顔を上げた後、熱が上がっていく顔を両手で覆う名前に、義勇は声を抑えて笑うとその横を通り過ぎた。
すぐに後ろから付いてくるのを気配で感じ口を開く。
「名前に頼みがあるんだが」
「なぁに?」
パタパタと小走りで近付いてくる足音で、あぁそうか、と足を止めた。
これでは声が聴こえづらいと隣に並ぶと意識して口を動かす。
「俺に服を仕立ててくれないか?」
「服、を?」
丸くなる瞳を目端で捉えながら足元に視線を落とした。
「鬼殺隊が解散となった今、隊服を着続ける理由もないだろう?隻腕でも着脱に支障がないような衣服に替えたい」
「それって、洋服ってことだよね?着物とかじゃなくて」
「機能性を考えたらそうなる」
「私、洋服の仕立ては、多分できないと思う…」
困り顔で両手を振る名前に、義勇は瞬きを多くすると僅かに首を傾げる。
「和服と洋服は違うのか?」
「全っ然違うよ!一回頼まれて直そうとしたことあるけど、それもすごく難しくて…」
名前が消沈するのも無理はない。
仕立て屋として名が知れた頃、前田まさおの被害に遭った癸の隊士から内密の採寸直しを依頼された事があった。
しかし全く手に負えなかった事を思い出しているうちに着いた寝室。
静かに襖を開ける後に続けば、足元に纏わりつく黒猫に立ち止まると
「…待ってたのか?」
優しい口調で抱き上げる左手を眺めた。
「あ、布団敷くね」
「俺も「義勇はクロと待ってて」」
言葉を遮った事で、その場に腰掛ける姿に笑顔を深めると押し入れへ手を掛けようとした所で迷う。
「布団は一番左だ」
言われた通りに引いた先、畳まれている布団一式を見止めて振り返った。
「…ありがとう」
笑顔を返してからそれを両手で抱え、畳へと置く。
「あ、でも隊服だったから難しかったのかなぁ…?型紙があったら練習できるかも」
独り言のように呟いた声は義勇の瞳孔を僅かに揺らした。
「隊服を作り直そうとしたのか?」
「うん、あのね、前田さんから寸法が違う隊服が届いたって困ってた子がいたから…でも、できなかったんだけど…」
「…男じゃなかったか」
小さく呟いた義勇の声は、布団を敷き始める耳に全く届いていない。
膝で寛ぐ黒猫の頭を撫でながら、ある事に気付く。
「名前は、大丈夫だったんだな」
若干声を張り上げた後、向けられる不思議な顔に言葉を続けた。
「隊服だ」
義勇が前田まさおの悪行を耳に入れたのは、鬼殺隊に入ってだいぶ時間が経ってからだ。
その時も先程と全く同じ事を思い浮かべた。
「…あ、うん。最初は違うのを渡されたんだけど…」
「着たのか?」
「ううん!その時ちょうど鎹鴉も派遣された時でね、私が困ってた所を助けてくれたの」
「…あの鴉、か」
小さく息を吐いたのは他でもない。安堵によるもの。
確かにあの鴉の性格では、きっぱりと拒絶出来ない名前の代わりに大声で喚きそうだと納得をしている。

「…あれ?」
押し入れを覗く名前の疑問に満ちた声に気付き、義勇は黒猫から視線をそちらへと戻した。
「どうした?」
「布団、一組しかないの?」
瞬きを繰り返して見つめてくる瞳に、同じように瞬きを返す。
「それしか置いてない。一組じゃ足りないか?」
「…ううん。義勇が狭くなかったらいいんだけど」
「構わない」
即答に近い言葉を出してから、これもまた忍耐との勝負になるのではないかという懸念が義勇の頭を過ぎった。
「じゃあ、寝よっか」
そんな事も露知らず、真っ直ぐに向けられる穏やかな笑顔に刹那的と言えど色欲が湧き上がったのも後悔が募っている。
「…そうだな。クロ、行くぞ」
既に目を閉じているしなやかな身体を抱え、灯りを消した。
「…わ、真っ暗…」
手探りで互いにひとつの布団へと入る。
義勇が手を放した所で自然と足元へ移動していく小さな四つ足を布団の上から感じた。
「…クロ、おやすみなさい」
「にゃー」
まるで返事をするように鳴いた後、隅の方で丸まる黒猫は名前の視界には入らないものの、笑顔を向けてから同じく天井を見つめる右側へ視線を動かす。
「そうだ、義勇」
「うん?」
「さっきの話なんだけどね、洋服の…」
「名前が出来ないというなら無理にとは言わない。気にしないでくれ」
「…あの、少し練習してみて、いいかな?」
返事の代わりに向けられる顔を、布が擦れる音と気配で知った。
「仕立ててくれるのか?」
「うん。すぐにはできないし、上手くいくかもわからないけど…頑張ってみる」
「そうか」
返されるのは一言であっても、そこに嬉々とした感情と温かみを感じる。
名前はそう考えながら、頬を弛めた所で
「じゃあ当面の服を買いに行こう。手本があった方が名前も習いやすい」
気遣いに満ちた言葉で、更に笑顔が深まった。
「うん」
返事をしてから、疑問が沸く。
「…あ、でも、羽織りは?着ないの?」
身体ごとそちらへ向けながら出したその発問に言葉が返ってくるまでに、僅かに落ちた静寂。
「…あれは、しまっておこうと思う」
「…そっか。そうだね。大事だもん」
「それもあるが…」
言葉を濁す義勇に視線を向けるが、未だ包む暗闇に目が慣れるまでにはまだ時間が掛かる。
近くに居てもぼんやりとしてしか視界に入らない影に眉を下げそうになった所で

「もう、自分を縛りつける必要がないと気が付いた」

見開いた瞳が勝手に潤っていくのを感じた。


思えばいつから、そんな風に見えていたのだろう。

錆兎が居なくなってから?
鬼殺隊の隊士として狭霧山を降りていった時から?
或いは姿を見る度に、一切の感情を見せなくなっていくのを感じた時から?

その羽織りが風に靡く度、胸が痛んだ。

そこからずっと、動く事が出来ないのであろうと。

「…仕立ててくれた鱗滝さんには、申し訳ないと」
思わず言葉を止めていた。
顫動している身体と、小さく嗚咽を洩らす名前にこれ程までになく眉根を寄せる。
「…どうした?」
身を起こしながらその肩に触れれば、か細い声がして聴き取るために耳を近付けた。

「…ほん、はね…っわ、わた…がっ…仕立、…たの…っ」

途切れ途切れになっている言葉を理解した瞬間、義勇の記憶が呼び起こされる。
あの時は悲しみに暮れる以外、何も出来なかった。
何かに対して、誰かに関して、深く考察する余裕などある訳もない。
今考えたら違和感でしかない鱗滝の態度も、今名前に告げられた事実で心付く事が余りにも多く存在している。

「……ごめんね…っごめ…ぎゆうっ!」

追考していた事で止まってしまっていた身体は、謝罪を繰り返す声によって動き出す。
「…どうして名前が謝る…!?」
「…だって…!私がっ…!」
それ以上は言葉として、口を突いて出てこなかった。

思えばいつから、後悔していたのだろう。

あの羽織りを仕立てた事に。

最初はただ、亡くした命に対しての愛惜なのだと、そう考えていた。
けれどそれは、年数を重ねれば重ねる程に義勇自身を縛り付ける枷として圧し掛かっていく。
同時に自分の存在も、義勇にとっては枷でしかないのだと、いつからか思うようになっていた。

羽織りを仕立てなければ、義勇が常に悔恨の念に襲われる事はなかったかも知れない。
自分が鬼殺隊に居なければ、義勇が過去に囚われ続ける事もなかったかも知れない。

だからこそ、名前の手では修繕不可能となった羽織りを見た時、悲しみよりも安堵が勝った。

これでもう、縛られ続けられなくて済む。

そう、考えてしまった。

それでも意識が混濁している義勇の傍、羽織りを修繕しながら懸命に声を掛け続ける禰豆子に、目を覚ました時、完璧に仕立てられた羽織りを潤んだ瞳で見つめる義勇に、その考えが浅はかで愚かなものだったのだと、思い知らされた。

「…ごめ…っひっぅ…!ごめ、なさっ…」
ただその言葉を繰り返す名前の思考が、義勇に正確に伝わる筈もない。
それでも大きくしゃくり上げ続ける姿はいつもより小さく、そして儚く感じるのは確かだった。
「…わかった。わかったから、もう泣かないでくれ。…頼む」
顔を覆っている両手を外そうとしても力を入れ、抵抗を見せる名前に考えを巡らせてから左耳へと接吻を落とす。
「…っ…!…うっ…ひっ、く…」
肩を震わせたのも束の間、鳴り止まない嗚咽に耳輪から耳垂に掛け啄んでから耳穴へ窄めた舌を這わせた。
「…っや、あッ…」
途端に力が抜けていく名前の両手を退けてからその口唇を義勇は自分の口で塞ぐ。
深く舌を絡ませてから、促拍している呼吸が落ち着いた所でゆっくりそれを放した。
「…泣き止んだな」
涙の跡を拭う動きに名前の両目は驚きに満ちている。
「…見える、の?」
「良く見える」
「すご、い、義勇…。私やっと…義勇のこと、見えて、きたところ、なのに…」
荒くなった息を整えながら感嘆の色を宿す瞳は、昔と変わらない。
そんな事を自然と思った。

「これでも、元・水柱だからな」

敢えて口角を上げた義勇に、名前が細めた瞳にはこれ程までにない嬉々を湛えている。
「笑ってるの、はっきり見えた…」
右手でその輪郭へ触れた。
「私…義勇の笑顔、すごく好き。大好き…」
言葉にした事で流れていく涙。
「…また泣いてる」
零れ落ちる雫を指の背で拭っていく左手を掌で包むと縋るように頬へ当てる。

「大好き。義勇。…大好き」

感じる体温に目を閉じた後、僅かに開いた先、穏やかに微笑む姿に、また涙が溢れていくのを感じた。


Tear
哀しいからじゃない

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