雲路の果て | ナノ 50


「お二人共、ちょっとよろしいですか?」

義勇、名前の間にしゃがむと忍び声で問うアオイに返事の代わりに耳を傾ける。
「疲れていませんか?一度休憩という形を取った方が良いと思います」
その提案が二人に対する気遣いなのが見て取れて、今以上の心配を掛けぬよう笑顔を作る。
「大丈夫です」
「俺もだ。続けて構わない」
「…ですが」
「それよりアオイさん、少しだけでも一緒にご飯、食べませんか?」
名前の言葉に、若干眉を寄せるもすぐ戻した。
「いえ、私は…仕事もありますし遠慮します。お気持ちは感謝します」
そう言って立ち上がろうとしてから、一度力を抜く。
「私が出来る事は全力で挟持しますので、何かあれば遠慮なく呼んでください。では」
そう言って颯爽と去っていく背中に名前は謝意を込めて小さく頭を下げた。


雲路の


アオイが立ち去ったのを見計らったように
「義勇さん!名前さん!」
溌剌とした声で名前を呼ばれ前を向く。
「炭治郎くん!禰豆子ちゃん!」
「この度は本当に、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
深々と畳に頭をつける兄妹に倣い、頭を下げた。
互いに顔を上げると、これでもかと姿勢を伸ばすのは炭治郎。
「…義勇さんには、本当に…何から何までお世話になりました!」
もう一度勢い良く頭を下げてから続ける。
「俺が鬼殺隊になれたのも、禰豆子が人間に戻れたのも、鬼舞辻無惨を倒せたのも、全部…、本当に全部、義勇さんのお陰です。あの時、義勇さんが俺と禰豆子の事を助けてくれたから…」
真っ直ぐ義勇を見つめる純粋な褐色の瞳に、視線を落としたものの、僅かに口の端を上げたのに気付き、名前も笑顔を深めた。
「お兄ちゃん、あの時って?」
きょとんとする禰豆子に向き合うと眉を下げる。
「まだ禰豆子には詳しく話してなかったな。最初に俺と禰豆子を見つけたのは義勇さんなんだ。俺に鱗滝さんの所に向かうよう言ってくれたのも義勇さんだったし、俺達のために切腹する覚悟で護ってくれたのも義勇さんと鱗滝さんだったんだよ」
「え?そうなの?」
目を丸くしたのは禰豆子ではなく名前。
「義勇さん…。もしかして名前さんに何も説明してないんですか?」
「…話す機会がなかった」
短い返答に眉を下げて笑うも
「…そうだったんですね!義勇さん、ありがとうございました!」
素直に頭を下げる禰豆子につられ、もう一度腰を曲げた。
「礼を言われる程の事は何もしていない。それに…」
不自然に言葉を止めた義勇を見つめる兄妹に、穏やかな笑みを浮かべると視線を落とす。
続く言葉が何だったのか、正確に思索出来るのは恐らく名前だけだろう。

"救われたのは俺だ"

義勇はそう、言いたかったのだと。

真っ直ぐで純粋な瞳が今度は自分の方へ向けられ、瞬きが多くなった。
「名前さんには何度も着物を仕立てていただいて…、鬼だった禰豆子の事も何も訊かず受け入れてくれて…それに、たくさん気に掛けて貰いました。本当にありがとうございました!」
義勇にしたのと同じようにまた頭を下げる二人に両手を振る。
「私なんて何もしてないよ!?頭上げて!?ね?」
それでも動かない二人に、無意識に両手を胸の前で握った。
「…あのね、炭治郎くんと禰豆子ちゃんに会えてよかった。ずっと、そう思ってるの。じゃなきゃ私…、あの時鬼殺隊を辞めてたと思うから」
「そうなのか?」
「え!?そうなんですか!?」
義勇の声は炭治郎の驚きに掻き消されたが、僅かに吃驚しているのを見て苦笑いが零れる。
「実はね、そうだったの」

今でこそ思う事だが、もしもあのまま、迷いが胸を占めていたら、本来の自分も見失ったまま何処か楽な道へ、それこそ雲のように流されてしまっていただろう。

「私達でも、名前さんの力になれてたんですね…」
感慨深く言う禰豆子に小さく頷くと口を開いた。
「ずっと、すごく助けてもらってるんだよ?本当に、ありがとう」
穏やかに微笑う表情に安堵してから「あ」と声を上げる。
「すみません!俺達ばかり時間取っちゃって!代わりますね!カナヲー」
張り上げた声に気付くとその瞳がこちらを向いて、意味を理解したように立ち上がった。
「では!失礼します!」
また深く下げた炭治郎達がいそいそと戻っていくのを眺めてから、対面するカナヲに視線を向ける。
「この度は、おめでとうございます」
三人で頭を下げ合ってから上げたと同時、名前が口を開く。
「カナヲちゃん、今日は本当に…「御礼も謝罪も結構です。私が望んだ事なので」」
わかりやすく落とした目に笑顔を向けた。
「泣かないで聞いてくださいね」
一度釘を刺してから続ける。
「姉さん達は、良く名前さんの話をしてました。きっと今も、その姿を眺めて喜んでいると思います」
必要な事を端的に伝えたつもりが、潤ませる瞳に眉間を寄せた。
「名前さん、泣くと化粧が落ちますよ」
途端に驚いた顔で涙を引っ込めた表情が面白くて笑ってしまわぬよう視線を逸らす。
「今の言い方、しのぶさんみたいだね…」
「意識をしました。姉さんだったら、そう言うかな、と」
「…そうだね。しのぶさんなら絶対言うと思う」
涙の代わりに笑顔を深める表情に安堵してから義勇に一礼すると立ち上がるため曲げていた膝を伸ばした。


一通り挨拶は終えただろう、と一息吐いたその矢先、物音ひとつ立てず目の前に腰を下ろす天狗の面に息を止める。
「鱗滝さん…!」
「鱗滝さんには私達がご挨拶に…!」
「いや、良い。儂が自らお前達の元へ訪れ、こうして向かい合いたかった」
膝の上でグッと握る両拳に気付き、二人の背筋が今までにない程に張る。
「二人共、立派になったな」
優しさに満ちた声色で名前の涙が溢れてしまう前に、義勇は真っ直ぐ天狗の面を見据えた。
「鱗滝さん」
三者の軒並みならぬ雰囲気を感じ取ったのか、先程までの喧騒は嘘のように静まり返っている。
「俺と名前が、此処にいられるのは全て鱗滝さんのお陰です」
先程半歩下がったままだった膝を更に後ろへずらすとこれ程にないまで頭を垂れた。

「俺達のような者を拾っていただき、鱗滝さんには感謝の念しかございません」

そうして頭を下げ続ける二人に天狗の面の下で微笑む。
顔を上げなさい、そう口に出す前に義勇は続ける。

「俺と名前、そして錆兎を、剣士として育ててくださって、ありがとうございました」

敢えて今此処でその名前を口にしたのは、双肩に乗ったままの重責を僅かでも軽くする事が出来ればという一心。
天狗の面に隠した素顔は何も言わずとも、独りで哀しみを抱えているであろうと深く理解を出来るようになったのも、鬼殺隊という組織に属し、数え切れない程の景色を見てきた故だ。

だから

どうか
どうか後悔をしないで欲しい
育手として生きた事、失くしてしまった命に対して
誰一人して恨む者などいないのだと


息を呑んだ後、静かに項垂れる天狗の面に斜め後ろから見ていた伊之助が指差す。
「オイ見ろよ!天狗のオッサン泣いてんぞ!!ギャハハッ!!おもしれェなッ!!」
「…そういうお前も泣いてるじゃん…」
「俺は泣いてねェ!!」
涙を溜める善逸の首を固める伊之助の被り物からは止めどなく涙が溢れている。
「…伊之助!」
同じく目を潤ませていた炭治郎が止めに入るのを後目に、義勇と名前が顔を上げた。

「…本当に、立派になった…」

噛み締めるように出した言葉に、耐え切れず名前の瞳から涙が零れる。
いつもの癖で目を擦ろうとする仕草に女性陣が声を上げるのに気付き、その手を掴んだのは義勇。
小さく首を横に振ると同時、カナヲが手巾を差し出す。
「どうぞ」
「……あり、がとう…」
目元をそっと拭う姿が小さく微笑んだ事で一同を安堵の空気を包んだ。

* * *

「……つか、れたぁ…」

名前が自分のベッドに力なく沈んだのは完全に陽も沈んだ後の事。
形だけの祝言とは言え、慣れぬ白無垢に身を包んだ事で完全に気疲れをしていた。
すっかり着心地が良くなってしまった入院着が有難いと考える。
「…楽しかったね…」
同じく着替えを終えた義勇が傍らに座ったのに気付き、うつ伏せの体勢のまま目を細めた。
「あぁ」
小さく聞こえた返事に先程の光景を反復する。
必然的に注目される事に若干の気恥ずかしさもあったが、こうして終えてみれば、炭治郎達の言う通り実行して良かったと思えた。
「…みんなも、楽しそうでよかった…」
笑顔を深めるとそのまま寝入ってしまいそうな声に、義勇は振り向くとその頬を撫でる。
「…くすぐったいよ…」
ふふっと小さく笑うも、上げた視線の先、その瞳が揺れていて瞬時に笑顔が消えた。
「…どうしたの?」
思わず起き上がった名前に、視線が逸らされる。
「…義勇?」
「鬼殺隊を辞めようと思っていたというのは、本当か?」
何処か一点を見つめたまま出された発問に、僅かに口唇が動いた。
「……うん」
そのまま流れた沈黙で、義勇が何を考えているのかはわからぬままだが、黙っていてはいけないと顔を上げる。
「前の話だよ!?あの時は色々あって…すごく考えちゃって…!でも炭治郎くんと禰豆子ちゃんが来てくれてね!」
口に出した事で蘇る記憶が、まるで遠い昔のように感じ、一度言葉を止めた。
「…狭霧山にいた時の事を…思い出したの。だからね、鱗滝さんの所に行ったんだ」
「結婚の報告に行ったんじゃないのか?」
「…え?何それ?」
「隊士達が噂していた。名前が育手に結婚相手を紹介すると…」
「ち、違うよ!全然違う!断ったって言ったでしょう!?」
そうして、ふと気付く。
「もしかして義勇…だからあの時私の家に来てくれたの?」
丸くさせる瞳に見つめられ、無意識に口元に力が入った。
「…炭治郎が言っていた。お前が迷っていると。だからその噂を耳にした時、名前が結婚して鬼殺隊を辞めるのではないかと…そう考えると、いても立ってもいられなくなった」
「……そう、なんだ。止めに来てくれた…の?」
「その話が本当ならば止めるつもりだった」
「ふふっ…辞めようかなとは考えてたけど、結婚しようとは思ってなかったよ?」
「本当か?」
射貫くように見つめられ、思わず目を伏せると
「……それは…ちょっと、悩んだけど…」
ポツリと出した言葉は仰いだ天井に止めざるを得なくなる。
押し倒されたと認識する前に首筋を這う口唇の感触を感じた。
「…義勇…!?」
早々にボタンを外していく左手を掴むもビクともしない。
「…ぎゆ…待っ…どうしたの?」
「どうしたのじゃない。お前がほんの少しでも他の男の元へ行こうとした事に苛立っている」
「それは!だって…!あのっ時は……」

わかってる。
わかってはいる。
過去を棚に上げて苛立つ資格などないというのは、義勇自身が一番、痛切に感じている。
それでも込み上げる想いを抑えられない。

顔を上げると、その瞳と向き合う。
僅かに脅えを孕んだ色で潤んでいた。
「…義勇だって、言ってくれなかった」
口を尖らせる表情に、拗ねている事を知る。
「…何がだ?」
「炭治郎くん達のために、命を賭けてたこと」
「…それは…」
言い淀む義勇にすぐに笑顔に戻ると小さく笑声を溢す。

「私たち、炭治郎くんに会えてよかったね」

ずっと心の中で感じていた事を口にすれば、義勇の動きが一瞬止まる。
「…そう、だな」
純粋無垢な笑顔が自然と脳裏に浮かんで口角を上げたのも束の間、ボタンを止めていく両手に目を細めた。
「何してる?」
「えっと…ボタン…」
「止めなくて良い」
「え?」
「どうせ今から脱ぐ」
「え?あ!義勇、まだ怒ってるの!?」
「もう怒ってない」
触れるだけの接吻を落とすとその瞳を覗き込む。
「純粋に名前を感じたい」
吐息混じりに囁く声に、心臓が跳ねたもののすぐに嬉しさで零れていくのは笑顔。
「…うん」
細い両腕がしっかりと義勇の背中に回され、それに応えるように左手で頬を包み込むと、どちらからともなく口唇を重ねた。


Feel
何度だって足りない

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