雲路の果て | ナノ 33

トン、トン

閉ざされた扉が静かに音を立てたのは、西陽が部屋を差し始めた頃。
未だに仕立てを続けていた手を止めると、玄関へ向かう。
突如鳴り響く音に無意識に目を閉じた。
それが消えたのを確認してから戸に手を掛ける。
一瞬迷ったものの、ゆっくり開ければ今朝方会ったばかりの姿があった。
「…ぎ」
名前を呼ぶ前にスタスタと上がり込む姿に急いで戸を閉める。
「ど、どうしたの?」
「それはこちらの台詞だ。どうしてさっきは逃げた?」
「…逃げ、てないよ?呼ばれたから…それにまだ…片付け終わってなかったし…」
わかりやすく詰まらせる声に、相変わらず嘘が下手だというのは心の中だけで思う。
「ならば今は任務中じゃない。上がらせてもらう」
返事を待たず居間へ向かおうとする足も、その光景に動きを止めるしかなかった。
おびただしい量の反物と裁縫道具が、文字通り足の踏み場もない程に拡げられている。
「…ごめん、夢中になってたら散らかっちゃって…こっちの部屋でもいい?」
慌てて和室へ誘導する背中は先程とは違い、いつもの名前のような気もした。
「今お茶入れるね」
「良い」
若干の怒気を含めた声が伝わったように表情が困惑に変わる。
「座れ。此処に」
今度は静かながらも明らかに不機嫌な雰囲気を出し床を指差す。
有無を言わせない凄みに、恐る恐る部屋の奥へ進むとその場へ正座をした。
義勇を見上げれば、穏やかだが強い意思を感じる。
どちらが家人かわからないくらいの堂々たる佇まいに、萎縮する名前だったが、次に発せられる
「…何が、あった?」
その言葉は、とても温かいものだった。


雲路の


名前が答える前に、その口がまた動く。
「ここ数日、お前の様子がおかしいのはわかっている。何故そんなに不安そうな顔をしているのか、気になっていた」
義勇の言葉に、泳いだ目を伏せる事しか出来なかった。
何か答えなければと口唇が僅かに動いたが、それも何も発せられないまま噤んでしまう。

知られたくない

「…義勇の、か、勘違いだよ。指令が続いてたから…少し疲れてただけで…「嘘はつかなくて良い。名前らしくない」」

強い口調ながらも、優しさに満ちた声。
まるで全てを見透かしているような瞳から逃げ出してしまいたくなる。

「…私らしくないって…」
「お前の事なら良く知っている。"嘘はつかない"、"考えを言葉にする"鱗滝さんからの教えに従い今までそうやって生きてきた筈だ。今になって忘れたとは言わせない」
「………素直に…」
続く言葉を喉の奥に無理矢理戻した。

素直に生きていたから知らず知らずに周りを傷付けていたんだ。
そう、気付いてしまった。

俯いたまま動かない名前に小さく溜め息が聞こえた。
「…訊き方を変えよう」
一度、間を置いてから続ける。

「何に対して、そんなに脅えている?」

途端にその表情が強張った。


お願い
助けて…


両手をギュッと握り締めると、震える口唇からは細く絞り出された声。

「…み、耳鳴りが、するの」

そうして自分の右耳に触れる。

「しのぶさんには疲れとか…、からくるものかもって言われて、薬も貰ったんだけど…全然、良くならなくて…」
それは治まる所か確実に昨夜より鳴る頻度が増してきている。
「…き、昨日、私…」
鮮明に蘇る記憶に喉を詰まらせた。
「…、耳鳴りがして…か…カナヲさんが来てくれなかったら…殺されて、た…」
言葉として出した途端、ひとりでにカタカタと震え出す肩。

それは名前一人が命を落とすという、単純な問題ではなかった。
指揮が取れなくなれば、隊員や隠の命を脅かす事になる。
そんな事はあってはならない。
到底、許される事ではない。

もし、音が聞こえなくなった時は、すぐにでも剣士としての道は諦めなければならない。
自分の耳のせいで誰かが命を落とすような事態になれば自害しなくてはならない。
それは覚悟している。
昨夜と同じ事が起こったらそれこそ取り返しがつかないのもわかっている。
だから何度も何度も、繰り返し自分に言い聞かせた。
"しっかりしなきゃ"と。

それでも内側から徐々に支配していく音は止まない。

恐怖でたまらなくなっていた。
不安に押し潰されそうになるのが怖い。

耳鳴りがする度、考える。
藤の花の山でも、こうして耳鳴りが鳴り響いていた。
次に鳴り響いたそれが、右耳が聞く最後の音になるかも知れない。

「…ど、どうしたらいいか…わからないの…っ!耳が聞こえ、なくなったら…私っ…」

言葉を詰まらせたかと思えば、そのまま縮こまる姿がとても弱々しくて、義勇は思わず傍へ寄り添った。

何を、言えばいいのか。
何をどうすれば名前の不安が消えるのか。

こんな時、錆兎なら…
錆兎、なら…?
違う。
もう、そうじゃない。
そうじゃなくて

俺は…

答えが出る前に震える両手を包み込むように右手を添えていた。

「…傍にいる」

真っ直ぐに、その不安に満ちた瞳を見つめる。

「例え耳が聞こえなくなろうが、傍にいる。俺がずっと、名前の傍で耳代わりになる」

目を見開いたと思えば、その表情がすぐに険しいものへと変わる。
「何っ言ってるの!?駄目だよ!義勇にそんな事させられない!」
本人は必死なのだろうが、この状況で自分のために怒り出す姿に思わず頬が緩んだ。
「…やっぱり鈍いな。お前は」
微笑みを湛える優しい瞳に動きを止めたその隙を突くように頬を右手で撫でる。

「…好きだ」

それは短いながらも、酷く優しい囁き。
伝わっているか確証はなかったが続ける。
「先に言っておくが今のは演技じゃない」
それも徐々に理解をした名前の口唇がゆっくり動く。
「…わ…私…」
困惑した表情で目を泳がせた。
「…もし、かして…義勇の事も、傷付けてた…?」
震える声に眉間の皺が濃く刻まれる。
脳内を過ぎるのはあの男の姿。
「…違う、俺は…!」
言い掛けた所で
いや、そうか。
自分も大して変わらないな。
そう、瞬間的に思った。

「…俺が…、傷付けてたんだ。名前を…ずっと」

もう何年も、目を逸らし続けていた。
その真っ直ぐな瞳から。
あろう事か錆兎のせいにして、逃げ続けた。
本当は例え自分の気持ちを受け入れて貰えなくても、その隣にいれば良かったのに。
いられれば、それで良かったのに。

「好きだった。ずっと…。好きだからお前に近付くのが怖かった…。すまない」
小さく呟いて俯く義勇に目を丸くした後、何度か瞬きを繰り返す。
「…ずっと、て…いつ、から?」
「狭霧山にいた時から」
正確には自覚したのは山を降りてからだが、そこは今取り立てて問題にする事じゃない。
「そんなに…、前から…?ずっと…?」
「ずっとだ」
「…そうなんだ…」
ふふっと小さく上げた声に眉を寄せた。
「笑う所じゃないんだが…」
「ごめんなさい…。でも、嬉しくて…。話せなくなったの、何でなんだろうって寂しかったから…。そっか…。そうだったんだね…」
もう一度謝罪の言葉を口にしかけたものの、先に名前が続ける。
「あのね…、ずっと考えてたの。義勇に嫌われちゃったのかな、とか、私が弱いからなのかな、とか…だから…うれ」

言葉の途中で突然黙り込むと、一点を見つめたまま動かなくなる名前に思わず眉を寄せた。
「…どうした?」

そうだ…私…

「…ずっと考えてた…」

差し伸べてくれる温かい手も
自分を運んでくれたまだ幼かった背中も
楽しそうに大口を開けた笑顔も
泣きそうな背中が山を降りていった後
目が合う事などなくとも
掛ける声に応えもなくとも

ずっと…

「私、義勇のこと…考えてた…」

月日が経って尚
変わらず名前を呼んでくれた時も
助けてくれた時も
抱き締められた時も
「好きだ」と言われた時も
何もかもを嬉しく思っていた。

「義勇と…おんなじだ」
無意識に呟いた言葉を噛み締める。
「…私、狭霧山にいた頃からずっと…」
添えられていた温かい右手に、自分の左手を重ねる。
「…義勇が好きだったんだ…」
独り言に近い吐露に息を呑んだが次の瞬間には眉を寄せていた。
「……。もしかしてそれ…今気が付いたのか?」
「うん」
「……いくら何でも…流石に遅過ぎると思うんだが…」
呆れに近い義勇の瞳に若干口を尖らす。
「…だって…そういう気持ち良くわからなかったんだもん」
未だに自分の中で明確に説明出来る程、理解をした訳じゃない。
しかしこれだけは確実に言える。
「思ったの。義勇の傍にいたいなって義勇が傍にいてくれたらいいなって…」

闇に呑まれていきそうな恐怖に陥った時、心の奥底でずっと叫んでいた。
助けて、と。
それはただ縋れるものが欲しかったのだと思っていた。

けれど違う。

本当は"誰か"でも"何か"でもなくて
たった一人の存在を思い浮かべ続けていた。

不器用で優しい、目の前の存在を。


「…私、義勇のことが好き」

今しがた認識した自分の感情を噛み締めるように微笑う名前に、愛おしさが溢れ出るのを伝えようと接吻ける。
「……っ!」
触れた瞬間ビクッと身を引いた姿に、ゆっくり口唇を離すとその瞳を見つめた。
「…嫌か?」
鼻先がつきそうな距離で訊く義勇に、気恥ずかしさから俯いてしまいそうになったが
「…ううん。嫌じゃないよ」
照れながらも微笑んだ。
「嬉しい」
言い終わるや否や、その口唇がもう一度重なるとそのまま雪崩れ込むように畳へと倒れた。
名前が思ったよりも背中への衝撃がなかったのは、その左腕が身体を支えたためだが受けるであろう衝撃に備えて呼吸をしようと、わずかに開いた口の間から義勇の舌が侵入してきた。
逃げようと試みるが執拗に絡みついてくるそれに先に息を上げる。
「…んッ、ん…」
待って。その一言すら言う隙もなく、訴えるように義勇の左肩を叩いた。
「…は…っ」
漸くそれが離されたかと思えば、すぐに襟元を開ける右手。
首元へ落とされる接吻に身体が震える。
鳥肌が立つ感覚に耐えられず固く目を瞑った。
口唇の感触と共に義勇の髪が耳や頬を擽るように動く度、反応してしまうのに戸惑い
「…義勇!」
強い口調で名前を呼べば、その顔が上げられる。
「…ちょっ、と待って…ね…あの…」
上半身を起こそうとする名前を捕まえるように、その髪を撫でた。
「…悪い」
見つめる瞳が熱を持ち逼迫している。
それでも眉を下げ
「嫌なら止める」
発せられた切ない声に胸が詰まりそうになるのを感じ慌てて口を開いた。
「…ちが、うの…!嫌じゃないよ…」
それだけは確かな感情。
「…でも、ちょっと…」
義勇が触れる程に高まっていく自分の心に戸惑いが襲ってくる。
「…怖、い…」
落ちた沈黙でその言葉の意味に気付き更に慌てふためいて続けた。
「あ、ぎ、義勇が怖いんじゃないの!そうじゃなくて…!」
先程まで止まっていた手がまた髪を撫でた事で続く言葉を飲み込む。
「…名前が嫌がる事はしない。やめたくなったら言ってくれ」
「……。うん…?」
義勇の言っている意味を半分も理解出来なかったが、愛おしそうに見つめる瞳に捉えられ小さく頷くと落ちてきた酷く優しい接吻。
反射的に胸の前で固く握り締めようとしてしまった両手の力を抜くと、恐る恐るではあるがその広い背中へ回した。


Desire
今までの全てを受け止めて

[ 33/91 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×