雲路の果て | ナノ 15





雲路の



「もしも錆兎が生きていたなら、そう思わない日はなかった」
そうして目を伏せる。
「名前には、とても辛い想いをさせたのも自覚している」
「…どうして今、そんな事言うの?」
悲しそうな瞳は無意識に見ないようにした。
「……。お前は錆兎の事が好きだっただろう?」
一呼吸置いてから続ける。
「俺が奪ったから、名前から錆兎を…。俺が帰って来た時、お前はずっと泣くのを我慢していた。どう、顔を合わせていいのか、どう、話をすればいいのか…わからなかった」
言い終わらない内に、堪え切れない涙が両目から溢れ、隠すように義勇へ背を向けた。
「…っ…!」
小さく嗚咽を漏らす名前に
「…錆兎を死なせてしまった事をずっと、謝りたかった…」
そうして頭を下げる。
「すまない」

漂う沈黙の中、小さな泣き声が響く。
「…泣かな、った…っのは」
しゃくり上げた後、続ける。
「…っ泣かなかったのは私より義勇の方が…辛くて、苦しいって…思ったからで…!」
小さく肩を揺らしながら言葉を出した。
「さ、錆兎っ…の事は大好きだったよ!?それは義勇も同じでしょう!?ど、どうしてっわ、私から奪ったと思ったの!?奪われたのは義勇も同じなのに!!」
震える声で懸命に伝えようと整えきれていない呼吸を何とか続ける。
「ずっと、ず、ずっと言いたかった!錆兎がか、帰ってこれなかったのは義勇のせいじゃないんだよって!義勇のせいじゃない!!私は…!義勇が生きててくれて嬉しかった!!…だからっ…そ」

全てを言い終える前に、包まれた背中。
自分の目の前に回された逞しい両腕に、一瞬、息を止める。
義勇が背後に居ると気付いたのは随分後だった。

何が起きたのか把握出来ず、何度も瞬きをするが、義勇はそこから微動だにしない。
「…ど、どうしたの?義勇大丈夫!?具合悪いの!?」
驚いたようにその腕を軽く掴む名前に思わず眉を寄せる。
「……。違う」
自分の感情が一ミリも伝わっていない事に若干腹が立ち、左手で名前の髪をかき上げると右耳へ接吻を落とした。
「っ!!」
途端にビクッと身体が震える。
逃げようとする上半身は義勇の右手でガッチリと抑えられた。
「何…!?」
首元を伝う口唇にまた身体が震える。
「…義勇!?待っ…!やめて!」
「そんなに暴れるな」
「…だって!くすぐったい…!」
更に抜け出そうと足をジタバタさせるが、びくともしない。
「ちょっと!一旦離して…!ね!?」
わかりやすく動揺している姿に、右腕を緩めればすぐに義勇から距離を取るため後ずさりをしながら向かい合う。

「………っ」

逃げ腰の姿勢のまま固まる名前。
先程激しく動いたせいで、白く細い両脚が艶かしくはだけていた。

瞬間的に、これ以上此処に居てはいけない。
理性がまた、そう告げた。

それでも、自分の意思に関係なく求めるように身体が動く。

あんなにも遠ざけ続けていた存在がこんなに近くに居る。
それだけで、抑え続けている感情が溢れそうだった。

そっと髪を撫でる右手に怯えたように、小さく身を縮こませるその表情ですら愛おしい。
ゆっくりと頬を伝って顎へ触れた。

「…名前」

名前を呼べば、恐る恐る上げた潤んだ瞳を見つめる。

徐々に義勇の顔が近付いた、その時―

「指令!シレイ!!柱ヘノ応援要請!!冨岡義勇!!至急!!援護二向カイナサイ!!」

鎹鴉の声に、動きを止めた。
それは義勇の鴉ではない。大声が出せない寛三郎の代わりに鳴いたのだろう。

「………」

名前から離れ、おもむろに立ち上がるその背中に声を掛けた。
「義勇…?」
「…羽織、貰っていくぞ」
「…うん」
玄関へ向かう後姿についていく。
「気をつけてね!」
「…あぁ」

静かに閉められた戸に、立ち尽くしたままだったが、無意識に両手を合わせ、目を閉じた。


どうか…
どうか、無事に帰ってきますように、と。



* * *



「なぁ、炭治郎」
「何だ?善逸」

炭治郎の傷も落ち着き、善逸が一足先に任務に向かい始めた頃だ。
まだベッドに横になる事が多い炭治郎の横で椅子に座りながら饅頭をむさぼり話を始めた。

「名前さんって、天然だよな」
「……そうか?俺にはよくわからないけど、善逸がそう言うならそうなのかも知れないな」
「いや、まぁそりゃそうだよな。お前もだいぶ天然だもんな。わかる筈ないか…」
何度も瞬きする炭治郎は放っておいて続ける。
「この間名前さんの管轄へ応援に行ってきたんだよ俺。応援って言ってもやったのはただの後片付けなんだけどさ」

その時、善逸は剣士として、そして甲(きのえ)の隊士としての実力を初めて見た。
「…名前さんってほんっとに凄いんですね!!」
そうしてさり気なく両手を握れば
「そんな事ないよ…。善逸くんも来てたんだね。元気そうでよかった」
笑顔で返され幸せな気分に浸った瞬間、突き刺さるような殺意の音に背筋が凍ったのを今でも覚えている。
その主が水柱・冨岡義勇だというのはすぐにわかった。
遠くから、しかもこちらには一切視線を合わせる事をせず、明らかに禍々しい音を放つそれは、善逸だけにではなく、名前に下心を持って近付いていく隊員全てが対象だった。

「もうすっごい怖かったんだよぉぉ。しかも名前さん本人は気付いてないっていうもうすっごい地獄絵図」
「…へぇ〜そんなに凄いのか」
全くピンと来てない炭治郎に善逸は小さく溜め息を吐く。

「名前さんって綺麗だろ?しかも優しい上に、全く悪意がないんだ」
「悪意?」
「向けられてる好意に気付いてないからニコニコして何でも受け入れちゃうんだよ。無防備というか鈍いというか…」

例えば、胡蝶しのぶは常に笑顔を絶やさない(ようにしている)
その点に関してしのぶと名前は似ているかも知れない。
しかし、しのぶはそこの感覚は鋭く、自分がどの立ち位置に居て、どのように振る舞えば、どういう結果が出るかを良くわかっている。

しかし名前は、全くわかっていない。

下心満載の善逸に何度手を握られても、彼女から聞こえる音は何一つ変わらなかった。
そもそも『好意』というものがどういう事なのかわかっていないのではないかと、心配になる程に。

「でも名前さん。隊士からの結婚の申し込みは断ったと言ってたぞ?」
「それは相手がはっきり伝えてきたからだろ?そうじゃない相手には無防備なんだよ。まぁそこが男としては狙いやすいってのもあるんだけどさぁ…だから見てて心配になるというか…」
「……。善逸に心配されるとなると…相当だな…」
「何その言い方。俺の事なんだと思ってんの?何でそんな哀れみに似た顔で見てくんの?」
「………」
「…とにかくさぁ、あれじゃ水柱は大変だよなぁって…俺もうあの二人がいる任務行きたくないよぉぉ炭治郎ぉぉ」
「……?何で冨岡さんが大変なんだ?」
真っ直ぐ、屈託のない目を向けられ、
「話す相手完全に間違えたわァァァァ!」
善逸の絶叫が木霊した。


Subtle
男女の機微は難しい

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