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【5話】

 麓の街には、いくつか公園がある。その中でも、小さいものの一際綺麗な公園があった。その公園は、彼女が通っている女子校に繋がる鏡が設置されている。公園を抜ければ、すぐに賑やかな市街へ続いていて、立地的にもかなり利便性がいい。ゆえに、それなりの人通りがあったりする。特に、その女子校に通う生徒は頻繁に通り過ぎる。

「兄さん、あともう少しだよ!」
「……無理」

 イデアは噴水まであと少しのところで、心が挫けてしまった。タブレットのときはあんまり気にならなかったけど、めっちゃナマエ氏と同じ学校の子通る!しかも、女の子!紺色のセーラー服を身に纏った女子生徒は一人だったり、友達と一緒だったり。オルト、イデアの存在どちらが気にとめるのか分からないが、チラッと一瞬だけ視線を感じる。ただそれだけ。ただそれだけでも、イデアの心労になる。せめて絡んで来ないことが救いか……。

「えせっかくここまで来たのに?」
「いや、やっぱりまだ早かったんだよ。き、今日もタブレットにする」
「でも、今から部屋に戻って……あ」
「なっ、ナマエ氏!」


「あ、イデアくんこんにちは」
「こ、こんにちは」
「今日やっとルピナちゃんのメインイベントだから、私すごい楽しみで……イデアくん?」
「え、ど、どうしたの」
「今日もテレビ通話する日?」
「な、ななんで!?」
「なんか声震えてるから、緊張してるのかなって」
「そ、そんなことないでござる。ちょ、ちょっと暖房の効きが悪くて……」
「そっかぁ。早くあったまるといいねえ」
「う、うん」

 今日ほど素直な彼女の性格に、感謝したことはない。イデアは隣から痛いほど感じる視線に、ダラダラと冷や汗をかいていた。

「兄さん……」
「うう、だって」

 イデアとオルトは、咄嗟に公園の茂みに隠れていた。数メートル先には、ダッフルコートを来てベンチに座っている彼女がいる。イデアは茂みからチラッと、彼女の方を見つめる。本当にナマエ氏って、存在してたんだ……!ゲームしてるとき猫背になってる!普段僕と話すときは姿勢綺麗なのに!

「ねえ、兄さん……やっぱり会いに行こうよ」
 
 オルトに呼ばれて、イデアはギクリッと身体を揺らして、視線を元に戻す。

「だ、だって、ここでナマエ氏僕といるの見られたら、学校で揶揄われない?NRCのヤバいオタクに絡まれてたって」
「そんなこ……」
「オルト?……ん?」

 ふたりが彼女にバレないように、コソコソと小さな声で話していた口を閉じる。いつもなら彼女がゲームの途中でイデアくんこの展開って等、話しかけてくるはず。彼女の声が不自然に途切れて、あまり聞こえて来なかった。イデアとオルトは首を傾げて、茂みから顔を出して、彼女の様子を伺う。

「やっぱ君、あのときの子でしょ?」
「……」

 あ、あの男の子……。そう呟いて、オルトは顔を顰める。彼女は不自然なほど俯いて、目の前の男の子を無視してた。

「なあ、聞こえてるのに無視すんなって」
「……」
「なに?一人でゲームしてたの?」
「!」

 男が彼女の髪に触れて、彼女の手元を覗き込む。彼女はゾワゾワと鳥肌を立てて、顔を青くした。イデアはやっぱり……と目が虚ろになりかける。

「やっぱり外なんて出ようとしなきゃ良かった……」

 僕が隠れなきゃ、ナマエ氏はアイツに絡まれなかったかもしれないし。いや、そもそも……ナマエ氏にこんな頼みごとしなきゃ、彼女はこんな怖い目に遭わなくて済んだし。

「ん?このタブレット……」
「だ、ダメ!」

 彼女は隣のイデア(タブレット)を取られそうになって、慌ててタブレットをぎゅうっと抱き込む。ずっと無視されていたのに、抵抗されたNRC生はそんな彼女に苛立ちを覚えて、無理やり彼女の腕を引っ張ろうとした。恐怖で小さくやっ、というか細い声は、ヘッドホンをしているイデアの耳によく聞こえた。


「これだから距離感バグってる陽キャは、イヤなんだよ」
「……オマエはイグニハイドのッ」

 ん?あれ、腕離れてる?タブレットを庇って、顔を背けていた彼女は、何も起こらないことに首を傾げる。ただなんかモンスターの声がするような……?背けていた顔をそっと前に戻すと、視界いっぱいの青が広がっていた。

 燃えてる髪……。長く青い髪。高い身長。この声。

「……い、デアくん?」

 彼女の小さな声に、目の前の想像よりも大きな背中ははビクリと揺れる。でも、その背中は、相変わらず彼女の前に居てくれた。

「話さなくても、分かるでしょ?この子嫌がってんの。君オクタヴィネル寮生だよね?アズール氏に報告しておかないと」
「なッ」
「自分とこの寮生が学校の評判落とすようなことしてたって知ったら、アズール氏どう思うかなぁ?ふひひ。しかも、ここの女子校のお嬢様たちはね、モストロ・ラウンジの大事なお客様なんだよ。知ってた?この子が一言“モストロ・ラウンジを経営してる同じオクタヴィネル生に乱暴された”って学校で言えば、瞬く間にモストロ・ラウンジの評判はガタ落ちでしょうな。だって、僕が女の子なら、女の子に乱暴する男が居るかもしれない場所にあるカフェになんて行きたくないし。口コミの強さはバカにできませんぞ?君はオクタヴィネル寮生としてだけじゃなく、モストロ・ラウンジの評判も落とそうとしてる。寮長であるアズール氏の不利益になることも、何重にも重ねて……君、何もお咎めなしだって思ってんの?」
「クソっ」

 彼女はイデアの煽りに、去っていく男を白い目で見ていた。女の私が一人だけのときしか、声掛けて来れないのダサいなぁ。せっかくイデアくんとゲームして楽しかったのに。彼女が顔を顰めていると、視界の隅で青い炎がゆらゆらと揺らめいた。

「ナマエさん大丈夫?」
「あ、オルトくん!」

 オルトは彼女が驚いて、すぐ笑顔を見せてくれたことに安心した。

「ふふ、久しぶり。実は今日僕も居たんだ」
「久しぶり!あ、じゃあやっぱり……」

 彼女はちらりと控えめに、目の前にある背中を見上げる。先ほどまで大きく見えた背中は、すっかり小さくなって、そろっと逃げ出そうとしていた。彼女が声をかけていいものか悩んでいると、オルトはもう!兄さん!と少し怒ったようにイデアを呼ぶ。イデアはビクッと飛び上がって、そのまま逃げようとした。逃げようとして、失敗する。

「あっ……」
「兄さん?」

 ヤバい。腰抜けた。イデアはどっと汗をかいて、血の気が引いていく感じがして、死にたくなった。

「イデアくん」
「ひッ……」
「今日は来てくれてありがとう」

  イデアの俯いた視界に、ローファーとタイツに包まれた足が映る。どうやら彼女はイデアに合わせて、しゃがんでくれているらしい。ちゃんと磨いて、大事に履いているのだろう。草臥れていても、そのローファーは綺麗だった。

「来てくれただけでも、嬉しいのに。助けてくれて、ありがとう」
「……や、えっと」

 言葉が出てこない。彼女は怖い人じゃないって分かっているのに。違う。彼女が怖いんじゃない。外が怖い。今の姿を彼女にどう思われるか怖い。イデアはオルトの心配そうな視線を感じながら、どうすればいいのだろうと途方にくれた。頭も、口も回らない。

「イデアくん、お手をどうぞ」
「あッ」

 小さな手がイデアに向かって差し出される。イデアはキョドキョドと長い前髪から、彼女を伺うように見つめる。

「よかったら、お菓子もどうぞ」
「!」
「キャンディーはイヤ?じゃあ、チョコがいい」
「そ、それ!主人公のセリフ!」

 イデアがガバッと顔を上げると、いつも画面で見ていた彼女が、変わらずイデアに向かって笑っていた。

「正解。流石イデアくん……じゃあ、今度こそお手をどうぞ」
「あ、ありがと」

 ゲームをする姿を見て、ずっと小さな手だと思っていた。でも、彼女の手は想像よりも小さくて、冷たかった。彼女は自分の手をちょこん、と触れる大きな手を優しく引っ張り上げた。自然とイデアは立ち上がることができた。

「兄さんも大丈夫?」
「う、うん、オルトもありがとう」
「私また……助けられちゃったな」
「助けるのも何も、身内のやらかしって言うか……イヤ、身内とか言いたくないけど」
「同じ学校の子がやらかすとね、複雑だよね」
「……」

 イデアはさり気なく彼女の手から、手を離そうとして、出来なかった。小さな手がイデアの手をぎゅっと、弱々しく握っているのだ。コートの袖から覗く手首はぶつぶつと鳥肌が立っていて、イデアは泣きそうな顔になる。

「い、イデアくん?どうしたの!」
「……もっと早く来れば、良かった。ごめん」
「なんでイデアくんが悪いんじゃないよ!イデアくんは悪い人から、私を助けてくれたよ!」
「でも、拙者のせい」
「悪いのは、あの男の子!イデアくんはむしろヒーローなんだから!もちろん、最初に助けてくれたオルトくんも!」
「僕も?」
「うん、ふたりとも私のヒーローだよ」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑って、そんなことを言う。イデアは思った。ナマエ氏は他人を傷付けないように、ちゃんと言葉にしてくれるし、優しく笑ってくれる。イデアは俯いて、溢れそうになる涙を隠す。彼女の小さな手を握り返して、「ナマエ氏……ありがとう」と言葉が溢れた。



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