〇
 もっとうっとりするものだと思っていた。想像よりも、他人の唇の感触、体温は生々しくて、彼女は無意識のうちに息を止めていた。鼻息かかったら、どうしよう。彼女が息を止めて、苦しくなって、ぷるぷる震えている間に、やっとイデアの唇が離れて行った。そぉっと目を開くと、イエローアンバーの瞳がこちらを見つめていた。八の字になった眉なった情けないはずなのに、その顔を見ていると、すごく胸が締め付けられてしまう。
「ナマエ氏」
「は、はい」
「僕初めては大事にする派なんだ」
「え……?」
 キョトン、とする彼女の頬を、イデアは愛おしそうに撫でて、彼女の横髪を耳にかける。
「今から君は僕の恋人……僕交際するなら、真剣交際しかする気ないから」
「あ、あの、イデアくん……」
「これからもよろしくね、ナマエ氏」
「……」
 待って、え?も、もしかして、私軽率なことしちゃった……? 
 一
「で、付き合うことになって……」
「へーおめでとう」
「アミィちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。惚気聞かされてる」
「だから、そういうのじゃないって言ってるじゃん」
 ナマエは寮の自室で、ルームメイトに脈拍を測って貰っていた。ルームメイトのアミィは、膨れる彼女のことも気にしないで、淡々と検診を進めていく。ベッドで座っている彼女に対して、アミィは椅子に座っていた。学習机に乗せられた血圧計にそっくりの魔法道具を手にとる。
「ナマエ机に腕乗せて」
「……はい」
「手のひら上に向けて」
「うん」
 彼女は腕に腕帯を巻かれて、大人しくアミィの言う通りにする。日々手際が良くなっていくアミィを見て、眉を下げた。アミィなら本当に魔法医術士になれるだろうなぁ。頭も良いし、実践魔法も上手いし。将来に向かって確実に進んでいく友達を見ていると、気が滅入る。友達としては嬉しいし、応援したいけど。私は何してるんだろって思っちゃうんだよね。
「ねえ、アミィ聞いてる?」
「聞いてるってば。……話聞いてる限り、両思いじゃん。付き合い(仮)もいらなくない?」
「で、でも、イデアくん仲良くなれた女の子が私なだけで、これから他の子とも仲良くなったら気付いちゃうじゃん」
「気付くって? 何に?」
「……」
 アミィの質問に、彼女は自分でも何に? と疑問に思った。今までイデアと過ごして、分かった。イデアはきっと身近に女の子がいなかったから、たまたま仲良くなった私がイデアくんと付き合うことになっただけ。しかも、同じもの好きだったし、私にも慣れてきたし、みたいなノリなだけで。本当は別に私でなくても、良くて。気付いちゃうって言い方。まるで、気付いたら、ダメみたいじゃん。
「私はいいと思うけどね」
「え?」
「イデアさんと付き合うの。ナマエ毎日楽しそうだったよ」
 アミィは魔法道具の画面を見て、よしっと頷いた。「今日の数値も問題なし」とパリパリと腕帯が外されていく。タブレットに彼女の今日の情報を打ち込んで、送信のボタンを押して、アミィは彼女の方を見る。彼女は顔を真っ赤にして、両手で自分の顔を包んでいた。
「自覚するの遅いんだってナマエは」
「だ、だって、男の子と友達になるのも初めてだったから距離感分からなくて……」
「まあ、そこはあるかもしれないね」
「……しかも、イデアくんガチっぽいし」
「あーなんか愛が重たい感じするよね」
 カチャカチャと魔法道具を片付けて、アミィは椅子から立とうとして転びそうになる。彼女がアミィのパーカーの裾を引っ張ったからだ。アミィがナマエ〜と低い声で呼べば、気が小さい彼女はすぐにごめん〜と弱々しく謝る。彼女は手を離すと、自分の左手首を服の上から撫でた。
「イデアくんが真剣なら、私も言わないといけないでしょう?」
「病気のこと?」
「……うん」
「病気のことで、イデアくんにどう思われるのか怖いのね」
 彼女はまたこくり、と頷いた。項垂れる彼女に、アミィはため息を一つ零して、彼女の頭を撫でてやる。
「イデアくんも大分色んな事情抱えてるっぽいし、そこはお互い様じゃない?」
「……そうかなぁ」
「これから二人で過ごして、考えて行けば?」
「アミィ〜!」
「くっ付かないで! ナマエは平均体温熱いんだから!」
「う〜」
 二
「はぁ」
「どうしたのナマエ」
「……イデアくんにしばらく会えないって言われた」
「急展開過ぎてない?ヤケ食い付き合うよ?」
「優しい!優しいけど、振られる前提やめて!」
「アハハ」
 三
 イデアからしばらく会えないと言われて、彼女は分かりやすく落ち込んでいた。苦し紛れにマジどきを進めているが、無意識にルピナちゃんのアルバムコーナーを開いてしまっていた。ダメだ。私完全にルピナちゃんにイデアくんの面影重ねてる。
「これナマエ宛の荷物だって」
「え、私?」
 そんなある日、彼女が校舎から寮の自室へ帰ると、机の上に小さな箱が置いてあった。先に帰宅していたアミィが寮母さんから受け取って、部屋に持って来てくれたらしい。送り主はイデア・シュラウドと書かれていた。早速彼女が箱の青いリボンを解いて、中身を見てみるとどこか見覚えのあるカギが一つ入っていた。チェーンを付けられたカギを見つめて、なんだろう? と首を傾げていると、ポケットの中のスマホがぶるぶる震える。誰かからメッセージでも来たのかな? と彼女はスマホを確認すると、メッセージの送り主はイデアだった。 
『荷物届いた?』
『届いてた! このカギなぁに?』
『今日待ち合わせの時間に、そのカギ使ってみて』
『このカギ使うって?』
『どこの部屋でもいいから、そのカギを使って開けてみて』
 彼女はどういうことだろう? と首を傾げたが、とりあえずイデアの言う通りにしてみようと返事を送る。 
『分かった!』
『フヒヒ、今日楽しみにしてるね』 
 彼女はスマホをしまって、いつもイデアと出会う時に持っていくショルダーバッグを肩にかける。アミィはいつもの調子で気をつけてね、と声をかけてくれた。彼女は行ってきまーす、と自室から寮の廊下へ出る。ここまではいつも通り。彼女はイデアから貰ったカギを、寮の自室の鍵穴に差し込んでみる。どう見ても鍵穴に入りそうにないのに、カギは違和感なく入っていく。彼女はドキドキしながら、カギを回す。カチリ、と何かが開く音ではなく、組み合わさるような音がした。 
 恐る恐るいつもと見た目は変わらない寮の扉を開けてみる。開けて、彼女は「え?」と固まった。一度だけ見たことがある目の前にあった。この青を基調とした部屋は、確か……
「ナマエ氏!」
「い、イデアくん?!」
 部屋の中にはイデアが居て、彼女は思い出した。あ、これタブレットでテレビ通話したときに映ってたイデアくんの部屋だ。イデアは嬉しそうに彼女に近寄ってきて、ぐいぐいと彼女の腕を引っ張って、彼女を自分の部屋へ招き入れる。彼女は慌ててローファーを脱いで、イデアの部屋へお邪魔した。イデアくんがすごく嬉しそうで、私も嬉しいんだけど。これは一体どういうこと? イデアは戸惑う彼女を、部屋の比較的綺麗にしたところへ案内する。
「えっと、これって」
「こないだナマエ氏の話聞いて、思い付いたんだ」
「いであく」
「あ、ここ座って。このクッション好きに使っていいよ」
「あ、ありがとう」
 って、そうじゃなくて。こないだの話って? てか、イデアくんなんか顔色悪くない? てかクマ酷くない? と首を捻る彼女に、イデアは冷蔵庫からペットボトルを出して渡してくれる。彼女の好きなミルクティーだ。イデアはエナジードリンクをいつものように飲もうとして、彼女に止められる。
「ままま、待って」
「どうしたの? ナマエ氏」
「イデアくん最後に寝たのいつ?」
「……いつだったけ。ナマエ氏の話聞いて、すぐ開発しようとって思って……あれ?」
「待って!? あれから五日は経ってるよね!?」
「え、そんなに経つっけ」
「も、もしかして、このカギ作ってたから、会えなかったの?」
「う、うん、早くナマエ氏とこうやって会えるようにしたかったから」
 イデアはポポポと毛先と頬を薄ら赤く染めて、恥ずかしそうに言う。か、かわいい〜と彼女はきゅぅんとトキめいて、口元を押さえるが正気に戻る。イデアくんが作ってくれたこのカギって、私が昔アニメで見てたアイテムのことだよね。 
 ◇
「い、いいでくん、マジどきの続きしない?」
「ん、今は君のことの方が気になるから」
「エッ」
「ね、ナマエ氏って昔好きだったアニメとか、ゲームある?」
 聞いてるだけで、ドキドキする程の甘い声。彼女はバクバクうるさい心臓を押さえるので、やっと。イデアは「ナマエ氏? 聞いてる?」と、彼女の耳を固い指先で撫でた。彼女は先ほどから色んなところをイデアに撫でられて、爆発してしまいそうだった。 
 彼女と関係性を持てた安堵で、イデアは頭のネジが数本ほどぶっ飛んでしまった。自分の筋力だけは怪しいので、魔法を使って彼女を自分の膝へと運んで、ぎゅうと後ろから彼女を抱き込んだ。ある意味ハイな状態のイデアは、今までの我慢から解放されて、自分の好きなことを何も気にせずにしてしまう。
 ナマエ氏やっぱり、僕より手小さい。ハンドクリームは無臭のやつかな、ちょっと薬品っぽい匂いがする。あ、気付かなかったけど、ナマエ氏石鹸の香りのコロン? 香水? つけてる? イデアは彼女の髪に、首筋に鼻先を埋めて、彼女の手をフニフニとふれる。もっとナマエ氏のことが知りたいし、触りたい。
「え、えっと? アニメ?」
 ただただ穏やかに自分に触れるイデアの変わり身に、付いていけない彼女は茹で蛸状態だった。マジどきでも、イデアくんの気逸らせなかったし。彼女はぐるぐると目を回すのを我慢して、ひとつのアニメタイトルを口から絞り出した。イデアはふにふにと彼女の耳たぶを触れていた指を止めて、タブレットを引き寄せる。タブレット画面には、懐かしいアニメの公式サイトが表示されていた。
「あ、これ、拙者も知ってる。十二の悪癖をもってる王女がなんか旅する話だったよね」
「ザックリ言うとそう」
「ナマエ氏なんでこのアニメが好きだったの?」
「うーん、ストーリーとか、オープニングの歌とかも好きだったんだけど。特に好きっていうか、憧れてるものがあって」
「憧れてるもの?」
「えーっと、タブレット触ってもいい?」
「もちろん」
「……あ、これこれ」
「王女の不思議なアイテム? なんでもマイルームキー?」
「そう! このカギを使うと、どんな部屋も元の自分部屋と同じ内装になるんだって! 全人類の憧れだと思う!」
「そういえば、どこかの森でも野宿しないで、王女自分の部屋で寝泊まりしてたっけ」
「たぶん、小屋かなんかがある回かな? ドアの鍵穴があれば良かった気がする……」
「ふーん……」
 イデアは懐かしいなぁと可愛く笑う彼女とじっと静かに見つめていた。 
 ◇
「拙者ナマエ氏の話聞いて、これはいいなーと思いまして作ってみたんですが……予想以上にいい出来」
 フヒヒ、とイデアは得意気に笑う。眠不足の顔で笑うものだから、イデアの笑顔はいつも以上に怖さが増していた。彼女はウオッと変な声が出そうになる。イデアはこないだと違い、少し距離を空けて彼女の隣へ座っていた。彼女は理解はしたが、状況には付いていけていなかった。い、イデアくんは魔導工学得意とは聞いてたけど……聞いてたけどっ! こんな別空間繋げるアイテム、学生が作れるものなの!? てか、五日で!? 移動用の鏡並みの効果あるってことだよね? そりゃ、徹夜にもなるよ……彼女はプレゼントと称して贈られたカギを見つめて、半ば放心していた。イデアはそんな彼女の肩をちょんちょんと控えめに突く。
「きょ、今日は何する? マジどきの続きする? それとも、別のゲームで」
「ね、寝るよ!?」
 彼女はいっぱいイデアに言いたいことも、突っ込みたいこともある。でも、取り急ぎイデアに必要かつして欲しいことは、寝ることだった。彼女は気持ちが先走り過ぎて、普段よりも大きな声が出た。
「ね、ねる!?」
 イデアは彼女のまさかの言葉に目を見開いた。イデアのオウム返しに、彼女はこくんと頷く。
「そ、そうだよ……イデアくんすごい顔色悪いよ。早くベッドへ入って」
「え? ええ? やだ、せっかくナマエ氏に会えたのに、寝るなんてもったいない!」
「で、でも」
 彼女はそう言いながら、「せっかく会えたのに」というイデアの言葉に、ついつい絆されそうになる。でも、睡眠不足は身体に悪いし。未だにヤダヤダとごねるイデアに、彼女はうーんと首を捻って、思いついた。
「じゃ、じゃあ、添い寝ならどう?」
「……そ、添い寝!?」
「うん、一緒に寝るの。添い寝って、恋人っぽいし! ルピナちゃんルートでもあったよね!」
「た、た確かに、恋人っぽいし、ルピナちゃんルートでもあったけど……拙者たちにはま、まだ早いのでは……?」
 イデアは頬を赤らめて、そんなこと言う。彼女はキョトン、として、いつかのイデアのようにただの事実を口にする。
「え、私たちもうキスしたのに?」
「そ、そそ、それはっ、なんて言うかっ」
 ボボボ、とイデアが燃え上がる。いや、イデアの髪が燃え上がる。イデアは両手を握って、自分の胸元に引き寄せる。もじもじと身体を揺らしながら、ボソボソと弁解をした。
「あ、あれは勢いっていうか、いや、気持ちは真剣そのものなんだけど。そもそも、僕みたいな陰キャなオタクがスマートにき、きキスとか、できないし」
「あぁ」
「ナマエ氏!? その納得した感じの相槌辛いんだが!?」
 イデアくん自分で言ったのに。そう思っても、彼女はごめんね、とイデアの腕を撫でる。イデアは彼女からの数日ぶりのスキンシップに、ビクっと小さくなる。さっきはイデアくん自分から、私の腕引っ張ったのに! どうやら恋をした天才は情緒が秒で変わってしまうらしい。
「だいじょうぶ!変なことも、怖いこともしないから!」
「そ、それナマエ氏が言うの……?」
「え、イデアくん……するの?」
「ま、まだしない!」
「え」
「あ」
 彼女は納得した。まさに発言して、失ってる。文字通り、イデアは失言していた。魂を失って呆然とするイデアの背中をぐいぐいと押して、彼女はイデアをベッドへ運ぶ。チャンスだ。今のうちに。あ、布団捲るの忘れた。
 ◇
 彼女はなんとか魔法を駆使して、放心状態のイデアを布団の中へ運ぶことに成功した。ヨイショ、と彼女も布団の中にお邪魔した頃、イデアはやっと戻ってきた。そして、ビタっと壁にくっ付いた。
「ナマエ氏落ちない?だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ。だから、そんな壁と一体化しようとしないで」
「せ、制服シワにならない?拙者のジャージでいいなら、貸すけど」
「いいの!?」
「う、うん、てかベッドに、匂いとか平気?やじゃない?」
「匂い?……」
 そうだ。確かに、他人のベッドだから、当たり前だが他人の匂いがする。この部屋の匂いも。彼女はイデアの部屋に来る日を迎えることなんて、想像していなかった。改めて、彼女はキョロキョロとイデアの部屋を見渡す。イデアの部屋は色んな匂いが混ざっていた。工具や、本の匂い。あと、エナジードリンク。
「ナマエ氏?」
 急に静かになる彼女に、イデアは少し不安になる。彼女は掛け布団に掴むと、そこに顔を埋めた。イデアは悲鳴を上げた。
「ギャアアア」
「あ、イデアくんの匂いだ」
「や、や、だめ、ナマエ氏それは」
「ベッドの匂い気にならないよ。むしろ、この匂い好きみたい」
 冷や汗を流して、焦っているイデアに、彼女はほわっと笑った。安心する匂いだ、これ。彼女の言葉に、彼女の笑みに、イデアは息を止めてベッドに崩れ落ちた。
「ヒエ」
 ◇
「さ、さっきは変なこと言ってごめんね」
「う、ウウウン、ぼ、僕別に嫌じゃなかった、よ」
「ほんと?」
「う、うん」
 ふたりはベッドに転がって、見つめ合っていた。イデアくんと、視線が同じ高さなの新鮮かも。イデアは相変らず壁にピタッと背中をくっ付けていた。イデアくん離れたり近付いたり忙しそう。彼女はイデアがどうして距離をとるのか分からないほど、愚かではない。きっと彼女のことを思ってだったり、自分が落ち着くための距離だろうと分かる。分かるけれども、好きな男の子と同じベッドにいるのに。この距離は寂しい。なんなら、オルトが間に入って、三人で寝れそうな距離感だ。彼女はちょっと知恵を働かせてみた。ここまで来れば、イデアにお願いごとをするときにどんな言い回しをすればいいか分かる。
「イデアくん手繋ぐ?」
「へっ!?添い寝の上に、手繋ぐ!?」
 イデアはモジモジして、布団を胸もとに手繰り寄せる。
「せっかくならルピナちゃんルートを忠実にするのも良くない?」
「た、たしかに!」
 嬉しそうにするイデアに、彼女は布団から手を出してみる。イデアは胸もとでギュッと握っていた手をそろそろと出した。彼女は大きな手に触れて、そのままするり、と指を絡ませた。イデアは指の隙間を撫でられる感覚に、頭が真っ白になりそうになる。やば。いや、拙者に初手で手を出す度胸はありませんが!?(キスはまた別の話)あ、ありませんが……同じベッドで、一部でも身体が触れ合ってるって、もうっ、もうそれは実質……!
「ふふ、恋人繋ぎ」
「……」
 拙者、今日が命日か?初めて出来たカノジョが一緒のベッドに寝て、手繋いで笑いかけてくれるなんて。しかも、可愛い顔で可愛いセリフ付き。イデアは顔も髪も真っ赤にして、こくこくと意味もなく頷くことしか出来なかった。彼女はイデアの仕草に、きっと嫌ではないと言いたいのだろうと判断して、そのまま手を繋ぎ続けた。

 イデアの心拍数がやっと落ち着いてきた頃、イデアはポソっと口を開いた。
「ナマエ氏、手あったかいね」
「あ、ごめん。暑いかも」
 彼女は気まずそうに、イデアの手のひらか離れようとして、ギュッと掴まれる。
「拙者、冷え性だから丁度いいよナマエ氏こそ、拙者の手冷たくない?」
「……私も、丁度いいよ」
「そっか」
「うん」
 これから寝るから、静かな雰囲気は当たり前かもしれない。イデアの静かで穏やかな一面を見ると、今度は彼女の心が落ち着かなくなる。普段イデアはどちらかと言うと、守ってあげないと! と思わせるところがあるのに。穏やかで落ち着いているところ見ると、逆にこっちがイデアに甘えたくなってしまう。これが兄属性というやつだろうか。
「……イデアくん」
「どうしたの」
「イデアくんのこと抱き締めてもいい?」
「え、どうやって?」
 眠気に襲われたイデアからは、ポヤポヤと不思議な言葉が返ってきた。彼女も眠かったので、器用に繋いだ手はそのままにして、ぎゅうっとイデアの頭を抱き込んだ。彼女はイデアの髪に顔を埋めて、ぐりぐりと顔を押し付ける。くすぐったい。とイデアが身を捩る。あ、そう言えば、マジどきでもお姉ちゃん属性の子いたなぁ。イデアくんはお姉ちゃ属性好きなのかな……。彼女はイデアのゆらゆらと揺れる髪を見ているうちに、瞼が下がっていった。
 イデアは頭上で、すうすぅと聞こえてくる穏やかな寝息に複雑な気持ちだった。拙者、男として意識されてない……? いや、でも警戒されるよりはマシか。イデアも、彼女の胸に顔を埋めたまま、トクトクと鼓動を聞いているうちに、微睡に沈んでいった。不思議と久々に眠るのが怖くなかった。

 ふたりが穏やかに寝ているのを邪魔したのは、けたましい着信音だった。音に敏感なイデアはビクと起き上がって、周りをキョロキョロ見る。その横で、彼女がのっそりと起きて、枕元に置いていたスマホに耳を当てる。
「もしもし?」
「もしもし? ナマエ? 今どこ?」
「イデア、くんと一緒にいる」
「もうすぐ門限だけど、どうする? 上手く言っておこうか?」
「あ……お願いしてもいい?」
「おっけ〜。あんまり遅くなっちゃだめだよ」
「うん」
 彼女はアミィの言葉にうんうんと頷いて、ぽふっとベッドに倒れ込む。再び眠ろうとする彼女の肩をイデアは軽くゆする。
「ナマエ氏! ナマエ氏!」
「……アミィ、あとごふぅん」
「だ、誰よ、その女! って奴?!」
「アミィはルームメイトぉ」
「あ、そうなんだ。じゃなくて、ナマエ氏起きてってば」
「むり。すごく眠い」
「もう」
 仕方ないなぁイデアはそんな風に笑って、彼女の頭を撫でる。ナマエ氏、寝起き悪いタイプなんだ。イデアは寝不足の自分よりも、眠りを貪ろうとする彼女の姿に違和感を覚えた。い、いや気にし過ぎでしょ。でも、嫌な胸騒ぎがおさまらず、むしろ大きくなる。イデアは無意識のうちに、服を捲って、彼女の手首に触れていた。
「……これって」
 ◇
「ご、ごめんね。私の方が寝ちゃった」
「ううん。ナマエ氏の寝顔可愛かったし」
「え、やだ。私変な顔じゃなかった!?」
「……」
「なんか言ってイデアくん!」
「フヒヒ、冗談だよ」
「もう」
 彼女はあれから宣言通り、五分後に目を覚ました。イデアはずっと彼女の頭を撫でていたようだった。彼女が身体を起こすと、前回のときと同じようにイデアの膝の上へ引き寄せられる。イデアは彼女の首に、どこでもマイルームキーをかけて、笑った。
「このカギがあれば、離れても今日みたいに会えますぞ
「離れる?」
「ナマエ氏の学校のカリキュラムも、四年生になったら外部へ研修に行くでしょ? 拙者も本当は行きたくないでござるが、こればかりは学生の義務ゆえ」
「……」
 彼女は言葉に詰まった。イデアくんはどこに研修に行くの? と聞け馬いいだけ。私はまだ決まってなくて、と笑えばいいだけ。それだけなのに、口が動かない。イデアは悲しそうに眉を下げて、口をつぐむ彼女に戸惑った。も、もしかして、僕とナマエ氏まだ将来の話をする仲ではなかった!? 拙者だけ勘違いして恥ずかしい。死にたい。
「え、えっと」
 ああ、ダメだな。今イデアくんのこと困らせてる。わかっているのに言い出せない。
「い、言いづらいことは言わなくても、いいよ? 進路って人それぞれだし」
 誰か! 誰か! 助けて! いつもフォローされる側だったからフォローの仕方が話からない。うっ。余計に辛くなってきた。イデアが自己嫌悪に陥っていると、イデアの胸にポスッと彼女がもたれかかって来た。
「ナマエ氏!?」
「言いたくないんじゃ、ないの」
「……」
 イデアはぎこちなく彼女の背中を撫でる。いつも彼女が自分を撫でて、落ち着かせようしてくれるので、真似してみたのだ。
「私ね、病気だから、賢者の島に来たんだ」
「……」
 彼女の言葉に、イデアはごくっと喉を鳴らした。ああ、やっぱり、彼女の手首についてた魔法道具は、治療用のモノだったんだ。
「……誰かを好きになったり考えられないって言ったでしょ」
「そ、それって、病気が理由?」
 イデアの質問に、彼女は小さく頷いた。イデアは彼女をぎゅう、と震える腕で抱き締める。聞きたいことが山ほどある。どんな病気なの? 治る見込みはあるの? 命に関わるの? イデアにかかれば、魔法道具を調べれば、そんなことすぐに分かる。でも、病気なんて将来以上の、いや同じぐらいのプライベートの内容。勝手に暴くわけには行かなかった。何より、勝手に暴いて彼女に嫌われることが怖かった。
「ごめんなさい。付き合う前にちゃんと言わなきゃいけなかったのに」
 彼女は震えて濡れていた。イデアは自分にしがみついている彼女の頭をわしゃわしゃとわざと乱雑になでた。
「おあいこだよ、僕も君に言えなてないことある」
「イデアくん」
「一つだけ確認させて」
「うん」
「ナマエ氏の病気は、昨日の今日で急に悪化したりしない? 大丈夫?」
「あ、それは大丈夫。進行はなるべく遅らせてるから」
「そっか」
「うん」
 イデアは彼女の言葉に悟った。ナマエ氏の病気は治らない病気なのか。だから、進行をなるべく遅らせて、その場の対処対処で治療していると言ったところだろうか。
「……イデアくん別れたくならない?」
「そんなことでならないよ」
「そ、そんなこと!?」
「ナマエ氏がもし言ってもいい日が来たら、教えて」
「えっ」
「拙者がなんとかするよ」
「!」
「せ、拙者天才ですしおすし」
 不確かなこと嫌いって言った癖に。彼女を抱きしめる腕が震えてる癖に。それでも、強がって笑うイデアを見て、彼女は心を決めた。私、ちゃんとイデアくんと向き合おう。どんなことになっても、イデアくんを好きになったこと後悔しないように。ギュッと縋るように抱き着いて、「イデアくんありがとう」と泣きそうになる彼女を、イデアはただただ強く抱き締めた。



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