じわじわと汗が滲む季節になってきた。彼女は薄いカーディガンを羽織って、図書室でぼーっとしていた。そこは、図書室の中でも、雑談も、飲食も自由な休憩スペースだった。適当にとった雑誌に視線を落として、彼女はため息をついた。一夏の恋!気になる彼を振り向かせる方法!スキンケア!ボディケア!コーディネート!と以前の彼女なら、やる気を出す言葉の並びも、今はただただ気が滅入るだけだった。

「名前あげる」
「……千源くん」
「とりあえず何か食べた方がいいよ」

 目の前に出されたのは別所母が作ったと思われるおにぎり。きっとお昼休み以外で食べる間食のひとつだろう。彼女が悪いよ、と断ろうとする前に、彼女の手に押し付けられてしまう。のろのろと視線を上げれば、別所は少し悲観的な顔をして彼女を見つめていた。その顔には心配と書いてある。

「ありがとう」
「昼神さんのこと?」
「……うん」

 珍しく別所から昼神の話題が出てきた。もしかして、千源くんに二キロ痩せたことバレてる?彼女は無意味にペタペタと手で顔を触る。別所は彼女が座っているソファに腰下ろした。別所が座っただけ、ソファが静かに沈む。背の高い幼馴染が隣に並んで、悲しくなる日が来るなんて。昼神せんぱいの面影追いすぎだよ。

「……振られたの?」

 彼女は別所の言葉に首を横に振った。

「勘違いしてた。私全然昼神せんぱいと仲良くなれてなかった」
「……」

 どうやら幼馴染は真実に自力で辿り着いてしまったらしい。別所千源は幼馴染から視線を逸らして、目の前の一点を見つめていた。表情はいつも通り冷静で、落ち着いている。だが、内心はとても焦っていた。そう言う彼女の声がとてもか細くて、今にも泣いてしまいそうな気がした。彼女とは昔から付かず離れずで、ケンカも特にした事はない。何より彼女が失恋をして元気がない場面に、遭遇するのが初めてだった。

 素直な彼女は凹んだとしても、好きなものを食べて、たっぷり寝れば、基本復活する。でも、ここ数日はずっとこの調子で、どうも元気になる兆しが見えなかった。

「……ちょっと休憩する」
「うん、そうしな」
「千源くんお膝かして」
「……うん」

 え、学校で?その言葉を、別所はなんとか飲み込んだ。確かに、まだ真夏ではないから、図書室に来る生徒はそう多くない。彼女は別所の膝に頭を預けると、小さく肩を震わせた。そんな彼女に別所はギョッとして、焦って、動揺して、やっぱりぽんぽんと彼女の肩を叩いてやった。



「ん?」

 久々に寝た気がする。彼女は目を覚そうとして、異変に気付く。硬くない?千源くんのお膝こんなにふわふわしてたっけ?彼女がもにもにと自分の頭を支えてくれている物体に、指で触れて、身体を起こす。やっぱり、千源くんじゃない!彼女が身体を起こすと、彼女の背中に大きなカーディガンが掛かっていた。視線を下に向けると、二回ほど折ったタオルが置いてあった。

「あ、起きた?」
「え?」
「おはよう名前ちゃん」

 彼女はきょろきょろと周りを見渡して、目の前の人物に目を丸くした。向かいのソファに昼神が座っていた。

「な、なんで」
「俺も本を読みに来たんだよ?」

 何当たり前のことを言ってるの。昼神が目を細めて笑う。その笑顔に、彼女は泣きそうになった。その声色も、瞳も、彼女が好きになった昼神だった。未だに、その瞳に宿る感情が意地悪なのか、呆れなのかは分からない。彼女が言葉に詰まっていると、昼神は膝の上の本を閉じる。パタン、と音に、彼女は肩を揺らして、怯えた。

「別所から頼まれたんだ」
「えっと……?」
「名前ちゃんがちゃんと食べるの見張ってて下さいって」
「……あ」

 目の前のテーブルには、別所が置いていっただろうおにぎりと、ペットボトルのお茶があった。

「ほらほら、昼休み終わっちゃうよ?」
「は、はい」

 彼女は状況を把握できないまま、昼神に言われるまま、おにぎりに手を伸ばした。黙々と、彼女がおにぎりを食べている間、昼神も何も言わずに彼女をじっと見つめていた。その瞳は初めてだった。彼女は探られるような視線から逃げるように、必死で歯を動かした。あんなにも会えて、見かけて、話せて、嬉しかったはずなのに。今は会いたくなかった。

「名前ちゃん……」
「はい」
「痩せた?」
「……ちょっと夏バテで」
「まだ初夏なのに?」
「……初夏バテです」
「ふぅん、そっか」

 こわいこわい。千源くん助けて!なんか昼神せんぱい怖いよ!とりあえずおにぎりを食べ切れば、解放される。しかし、なぜか中々食べ終わらない。千源くんママ!おにぎり大きいよ!それは当たり前である。食べ盛りの別所のために、作られたおにぎりなのだ。お茶も飲まずに、おにぎりを泣きそうな顔で頬張る姿は、まさに某映画のワンシーンのようだった。

「名前ちゃん」
「ヒィ」
「……」

 しまったぁ……!おもむろに隣へ座ってきた昼神に、彼女は思わず悲鳴をあげてしまった。笑顔で固まる昼神。やっちまったと怯える彼女。だって、まだ心の準備が!何の?と聞かれても、彼女も分からない。だって、まだこの状況すら把握できていないのだから。

「名前ちゃん……」
「す、すみま」
「泣いたの?」
「え」
「目元赤いよ?」

 じっと、ぐっと、見つめて覗き込んでくる昼神に、彼女は目を見開く。彼女が言葉に困って、視線を彷徨わせていると、昼神がさらに口を開いた。

「それ……俺のせい?」
「……ひるがみせんぱ」
「俺のせいで、泣いちゃったの?」

 何言ってるんですか。自意識過剰じゃないですか?同じ委員会の、妙に距離が近い先輩にだったら、そう言えた。白い目をして、何言ってんだコイツって。今にも手を伸ばされそうな距離で、自分の喜怒哀楽を左右する相手に、そんなことを言われて、どうしたらいいか分からない。認めればいいんだろうか。でも、認めて、どうなる?

「……」

 彼女は静かに首を横に振った。そのまま昼神から逃げるように、顔を背ける。これ以上踏み込んでほしくない。

「そっか、違うか。良かった」
「……」

 予想もしていなかった言葉に、彼女は顔を上げる。そして、思い切り眉を顰めた。

「名前ちゃんのウソツキ」

 ハメられた!昼神はゆったりと笑っていた。今までの彼女の態度が、表情が答えのようなもので、分かっていたクセに。あくまで、彼女の口から言わせたかったらしい。彼女は今まで自分に近寄って来なかった昼神に、大接近されて、脳内処理が追いつかない。しかも、こんなときでも、昼神は意地悪で、かっこいいから困る。しかも、そんな昼神がやっぱり大好きだ!と身体の中で感情が歓喜するので困る。とっても困る。

「昼神せんぱいのせいって、言ったらどうなるんですか」
「え?どうもしないけど」
「……」

 彼女の顔に、ピキリと亀裂が入る。昼神は彼女から離れると、「ただそうだなぁ」と視線を右上に上げて、穏やかに告げた。

「今の距離感がいいかもよ、とは言ってあげるかな」
「……どういう意味ですか?」
「……」

 真ん丸の瞳でそう問いかけてくる彼女に、昼神は笑顔のままだった。いつもの、腹で何を思っているか分からない笑顔。

「今よりもっと俺のこと知ったら、名前ちゃんが俺のこと嫌いになっちゃうかもって話」
「そんなっ……ならな」
「絶対ならないって言える?」
「……」

 理由は分からない。でも、彼女が言葉に詰まってしまったことは事実だった。けれど、ここで諦めたくなかった。大人しく頷きたくなかった。その理由も分からない。彼女は必死に言葉を捻り出した。

「昼神せんぱいのこと……もっと知って嫌いになっちゃうかもって話」
「うん」
「好きって気持ちが足りないってことですか?」

 真っ直ぐな目で、自分を見上げる彼女に、昼神は思わず吹き出してしまった。急に笑い出した昼神に、彼女はまた眉を顰める。こっちは真剣なのに。なぜ笑ってるのだろうか。

「人の気持ちはさぁ、こうすればこうなるって言えないと思うんだ」
「……」
「シンプルなときもあるけど、そうじゃないときもある。
 親切にされたからって、全員がその人のことを好きになるわけじゃない」

 ね、と言うように、昼神が彼女を見下ろす。名前ちゃんには難しい話かな?と思われていそうだった。彼女は昼神の言葉を頭の中で反復して、ズキズキと胸を痛めた。

 きっと昼神にそんなつもりはない。でも、彼女は自分の気持ち、昼神を好きになった気持ちを否定されたような気分だった。でも、親切にされたから?あのとき助けてもらったから?それだけで、私は昼神せんぱいのこと好きになったの?私は、私の気持ちは……。彼女がごちゃごちゃ考え込んで、自然と視線が下がっていく。彼女の膝には大きなカーディガンがあった。あ、これって……

「あぁ、そのカーディガンね、別所に返してあげてね」
「千源くんに、はい、あとで返します」
「俺のだと思った?」
「……」

 今日の昼神はとことん意地悪だった。ゆるくどこか甘えを許してくれる意地悪ではなくて、チクチクと肌を突き刺すような意地悪。彼女は知らない。昼神が実に種類の多い意地悪の持ち主だと。今日の彼女にとってはチクチクどころか、ザクザクと柔らかい心を掘り起こしてくる昼神に、顰めっ面をしっ放しだった。とても片想い相手の前でする表情ではない。

「昼神せんぱいのだったら良かったのに」
「こらこら」
「……ってます」
「うん?」

 昼神は小首をかしげる。彼女は真っ直ぐ昼神を見つめて、腹を決めた。

「やっぱり、私はもっと昼神せんぱいのこと知りたいって思います」
「へえ?」
「……もっと知っても、昼神せんぱいのこと嫌いになりたくないって思います。
 絶対って言えないけど、でも……嫌いになりたくないです」
「そっかぁ」
「はい」

 彼女の言葉を聞いても、昼神はいつもの読めない笑顔のままだった。きっと、彼女の位置は前にも後ろにも進まず、変わっていない。それでも、今日やっと昼神幸郎という男の子と向き合うことが出来た気がする。彼女はどんなに昼神にけちょんけちょんにされても、負けないぞと意気込んだ。



「別所大胆だねぇ」
「あ、昼神さんお疲れ様です」
「お疲れさま。別所のカノジョ?」
「え、名前ですよ?」
「あ、ホントだ。顔隠れてて分からなかった……なんか顔色悪いね、名前ちゃん」
「……最近調子良くないみたいで」
「へえ……」

 昼神は青白い顔で、眉を寄せたまま目を瞑っている彼女に、心が痛む。その感情は自分よりも、幼い子どもが風邪に苦しんでいるときに代わってあげたい思う保護者精神に似ていた。やっぱり、昼神にとって彼女は異性と言う対象に程遠かった。一言断って、彼女の指先に触れてみると、ゾッとするほど冷たかった。

「え、名前ちゃんマジで大丈夫?」
「名前元々冷え性なんです」

 そう言う別所は自分のカーディガンを彼女の身体にかけてやっていた。そのとき、彼女が寝苦しそうに唸った。

「うぅ……」
「名前ちゃんどんだけ苦悩な顔して寝てんの」

 ていてい、と昼神がついつい彼女の頭に触れると、彼女の眉間の皺がスッと消えていく。すぅすぅとリラックスした表情になる彼女に、昼神と別所の間で何とも言えない空気が流れた。何も言わず、別所がジッと昼神を見上げる。些か困った顔で、眉を下げて、こちらを見上げる後輩に、昼神はため息をついた。

「分かったよ、名前ちゃん見とくよ」
「ありがとうございます……!」

あとがき

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