(3)



「ギャー!」
「ふなぁ!」
「アハハ」

 今日も今日とて、賑やかなNRC。
ジェイド・リーチは中庭のベンチで、ニコニコと微笑んでいた。楽しそうに監督生とグリムで遊ぶ片割れを見守っていたとき、ジェイドはある違和感を覚えて、顎に手を添える。

 フロイドに抱き上げられ、グルグル回されている後輩たちは虫の息。その様子をオロオロと心配そうに見えて、ウロチョロしている小さな頭がひとつ。オンボロ寮の平寮生であり、NRCのもう一人の女子生徒。ジェイドは自ら巻き込まれに行く弱々しい後輩をじーっと見守っていた。彼女はあまり印象がないので、どういった行動とるのか少し興味があった。

「あ、あの……」
「あっ!一緒にグルグルしたい?」
「えっ、ちが」
「そうだ!ぐるぐるって、特別に一人で回してあげる
 小エビちゃんとアザラシちゃんは……まあ、いいや。ここ置いとこ」

 フロイドは小エビとグリムを適当に下ろすと、彼女を捕まえる。彼女は逃げる隙もなく、回れ右をされて、顔を青くした。フロイド先輩に背後とられた。彼女の脇の下から、フロイドの手が潜り込んできて、そのまま固定されてしまう。彼女はまるでハンガーのように、フロイドの曲げられた肘に引っかかっていた。ぷらん、と足が浮く。まさか、このまま回る気じゃ……。

「はい。グルグル
「ぎゃー!」

 フロイドは楽しそうにコーヒーカップのように、ぐるぐる回る。回るったら、回る。三半規管が存在しないのか?と疑いたくなるほど、にこにこと笑って、余裕で回る。彼女は高速で変わる景色に、早々に目を回し、酔を起こし、死にそうになっていた。

「名前ちゃん……」
「フロイド!テメェ子分で遊ぶんじゃ……うっぷ」
「グリム急に起き上がったら、うっ」

 オンボロ寮は一匹を除いて、どの寮よりも協調性に溢れている。小エビは寮生の危機に立ち上がるが、グラっとバランスを崩して地に平伏してしまう。協調性はないが子分思いの親分も立ち上がったが、すっかり目も回って、三半規管もやられている親分は前足で口を押さえて蹲った。

「小エビちゃんアザラシちゃん地面と仲良ししてんの?それ面白い?」
「……クッ、強さが欲しい」
「ふなぁ

 完全にダウンした親分を腕に抱き上げて、小エビはううーと悔しそうにフロイドを睨んだ。もちろん、ノリである。フロイドはノリのいい小エビに気を良くして、目を細めた。

「大事な寮生返してほしい?小エビちゃん」
「当たり前です!フロイド先輩なんかにオンボロ寮を好きにさせませんよ!」

 小エビは勇敢に立ち向かっていくが、秒でフロイドに捕まった。フロイドはグリムを抱えている小エビとダウンしている彼女を抱えなおして、ニヤッと笑った。小エビは泣いた。

「はぁい!ここらはスピードアップしまぁす!」
「ぎゃあああ」
「……」
「……」

 小エビは元気に悲鳴をあげるが、グリムと彼女はダウンしているので、ぬいぐるみのようにされるがままだった。



「フロイド」
「なぁに、ジェイド」

 ジェイドはフロイドと一緒に次の授業へ向かいながら、先ほど抱いた違和感を口にした。面白かったと肩を回しているフロイドは、こてんと首を傾げてジェイドを見る。

「フロイドは名前さんにあだ名をつけたりしないんですか?」
「……名前?」

 フロイドは初めて聞く単語に遭遇したよ顔をする。

「監督生さんじゃない方の女の子ですよ」
「いや、それは分かってるって」

 一応、オンボロ寮のふたりの名前は知っている。でも、あくまでそれは情報として、ただそれだけ。フロイドはジェイドの質問に、首を捻った。

「オレあだ名つけてなかったっけ?」
「はい。僕の記憶が正しければ、フロイドの口から彼女のあだ名を聞いたことはないですね」
「ん……」

 ぽやぽやと思い浮かぶ小さな女の子。特にこれと言った言葉も、何も思い付かなかった。彼女の特徴と言えば、小エビと同じ制服を身に纏っているくらいだろうか。(女子生徒ふたり組は主にスカートを着用している。スラックスのときもあるが、気分らしい。)

「別に嫌いという訳でもないのでしょう?」
「え?まあ。てか、嫌いって思うほど知らねーもん」
「ああ、確かにそうですね」

 それからのフロイドはジェイドの何気ない質問をうーんと考えていたが、答えは何も出なかった。

7 

「……」

 何となく真面目に課題をやる気分だった。図書室で課題の参考図書を探していると、通路から本棚をひとつひとつ覗いているとき、見つけた。見つけても、以前なら足を止めなかっただろう。昼間、ジェイドに「フロイドは名前さんにあだ名をつけたりしないんですか?」なんて訊かれたからだろうか。フロイドは彼女を見つけて、つい足を止めてしまった。

 彼女はフロイドに気付かず、えっちらおっちらと踏み台を運んでいた。恐らく必要な本が手の届かない高さにあったのだろう。フロイドはちまちま歩く姿を見つめて、声をかけようとするが言葉が出てこない。いつもなら深く考えずに、親しみのある海の生き物の名前が出てくるはずなのに。なぜか、出てこない。

 あ、このままじゃ行っちゃう。別に行ってもいいはずなのに。フロイドは意味もなく焦る。焦ると視界が狭くなる。別に呼び名なんて関係なく、「ねえ」とか「おい」とか言ってしまえば良かったのに。フロイドは呼び名……呼び名………と考えて、つい彼女の周りにつられてしまった。

「名前!」
「え」

 踏み台を持ったまま彼女が振り返る。彼女とフロイドの目が合う。その瞬間、フロイドは何とも言えない気持ちになった。名前を呼んだだけなのに、彼女がとても驚いた顔をするから。彼女は自分の名前を呼んだ相手がフロイドだったことに、とても驚いて嬉しくなった。だから普段だったら間違いなく逃げるくせに、彼女はフロイドの元へ駆け寄って行ってしまう。ニコニコと笑って自分を見上げてくる彼女に、フロイドは眉を寄せた。

「なんで?」
「え?」
「なんでそんな嬉しそうにしてんの?」
「え、フロイド先輩私のこと名前って呼びませんでした?」
「呼んだけど」
「だからです」
「名前呼ばれると嬉しいの?」
「嬉しいです」

 彼女は大きく頷いて、言い切った。

「なんで?」
「え……」

 彼女の笑顔が固まって、彼女は腕の中の踏み台に視線を向ける。

「……私あんまり名前呼ばれないから」
「そう?小エビちゃんとか、名前ちゃんってよく呼んでるじゃん」
「……そ、うですね」

 歯切れが悪くなった彼女に、フロイドは先ほどとは違う意味で眉を寄せた。フロイドは彼女の腕から踏み台を取り上げて、そのままポイっと放る。そして、彼女の脇に両手を差し込んで、抱き上げた。自分の視線の高さまで持ち上げて、やっと彼女と目が合った。

「あ、あの……フロイド先輩」
「なんで小エビちゃんの名前出したら、変な顔したの」
「……私はあの子のオマケだから」
「小エビちゃんがそう言ったの?」

 彼女はブンブン!と大きく首を横に振る。だろうな、とフロイドは思う。小エビちゃんはおもしれーけど、お人好しで優しい女の子だし。彼女が顔を暗くしている訳は、彼女が勝手に覚えている劣等感の所為だろう。そのとき、ふとフロイドは思い出す。

「フロイドは名前さんにあだ名をつけたりしないんですか?」
「……名前?」
「監督生さんじゃない方の女の子ですよ」
「いや、それは分かってるって」

 『監督生さんじゃない方』その言葉が彼女を表す言葉だ。NRCでは、それで事足りる。だから、本当に気が知れた友達以外は彼女のことを名前と呼ばない。そもそも、名前という名前自体を知らないかもしれない。というかフロイドも例外なく今日彼女の名前をちゃんと認識した。

「……じゃあ、オレがいっぱい呼んであげよっか」
「?」
「名前って」
「あ」
「名前っていっぱい呼んであげる」

 なんでこんなことを言っているのか分からない。強いて言うなら、そんな気分だったとか。怯えていない彼女が新鮮だったから、ちょっと興味を惹かれたとか。なんてことない。些細な感情だった。

 フロイドがにこぉと彼女に笑いかけると、彼女は目を溢れそうなほど見開いた。そして、やったぁーと赤ん坊のように笑った。今度はフロイドが目を見開く番だった。彼女は目を潤ませて、ニコニコと器用に頬を緩めた。

 あ、ジェイド。この子にあだ名付けんの無理だわ。だって、オレ知らねーもん。海にこんな柔らかくて弱っちい生き物はいなかった。

「名前」
「はい」
「名前
「ふふ。なんですか、フロイドせんぱい」

 ふわふわと彼女が笑う。これ以上なく幸せそうに、呑気に、平和に。フロイドの心臓がキュッと収縮した。これ以上ないほど小さくなって、フロイドは彼女をヨイショとちゃんと抱きかかえる。彼女はわわ、と声を出して、フロイドの肩に掴まった。

「あ、あのフロイド先輩?」
「名前……ちゃんと大きくなるんだよ」
「え?えっと、はいがんばります?」

 フロイドは陸でしか遭遇しない小さないのち(根っからの温室育ち)に、強い欲求を覚えた。後に、その欲求は庇護欲を教えられるのだが、何も知らないフロイドはただただ小さな命をフワッと抱き締めた。

8
「ふわぁ……あ」

 朝、登校中にメインストリートで、フロイドは小さな頭たちを見つけた。殆ど条件反射で、口が動いていた。

「名前」

 一つの小さな頭が振り返る。彼女はフロイドを見つけると、嬉しそうに「はい!」と返事をした。フロイドの耳にはワン!と聞こえた気がしたが、特に気にせずこっちに駆け寄ってくる彼女をしゃがみ込んで、迎える体勢をつくってやる。彼女はそのまま立っていればいいのに、なぜかフロイドの真似をしてしゃがみ込む。これではフロイドが視点を彼女に近づけた意味がなくなる。はあ、とため息をひとつ。彼女は首を傾げる。フロイドは何でもないと首を振って、彼女を抱き上げる。彼女は抵抗なく抱き上げられて、フロイドの肩に手を乗せた。

「名前おはよぉ」
「おはようございます。フロイド先輩」

 フロイドと一緒に登校していたアズールは、オンボロ寮とオクタヴィネル寮が集合をかける。彼女とフロイド以外は素早く集まって、コソコソと状況把握に大忙しだった。

「何ですかアレ。うちで新しく飼った覚えないんですけど」
「アズール先輩!名前ちゃんを愛玩動物みたいに言わないでください!」
「……」
「……」

 どストレートな監督生の言葉に、アズールとジェイドは口を噤む。あ、愛玩動物……。男二人はチラッとフロイドへ視線を向けた。フロイドは彼女が一生懸命喋る言葉に頷いて、そっかぁと適当に相槌を打っていた。ジェイドは眉を寄せて、口を開く。

「いや、あれは後輩を可愛がっているのでは?」
「……後輩可愛がるのに、一々抱き上げます?」
「でも、監督生さん……あなたもよくフロイドに抱き上げられているでしょう」

 アズールの指摘に、監督生はた、確かにと頷いた。フロイドのスキンシップの多さや、距離感の近さは今に始まったことではない。アズールはメガネのブリッジを押し上げて、一言。

「まあ、経過観察でいいでしょう」
「……そんな健康診断の結果みたいに」
「監督生さん例えツッコミ上手いですね」
「え、えへへ」

 ジェイドの褒め言葉に満座でもない顔をする子分に、グリムは呆れた顔をした。

あとがき

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