3  運命の創造_下



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「魔法耐性とはー……」

 彼女は本を読もうとするが、内容が全く入って来ない。脳へ行くはずの血が、全て腹に行ってしまっている気がする。炭水化物の塊、パスタを消化するために。もにゃもにゃと無意味に唇を動かしている間、瞼が下がっていく。そのとき、厳しい声がした。

「僕の前で、居眠りなんていい度胸だね?」
「ヒッ、すみませんっ!」

 まだ垂れていないヨダレを拭いながら、彼女は顔を上げる。急いで開いた視界には、誰も居なかった。午後からジェイドはモストロラウンジのシフトで、留守にしている。彼女が帰る頃に、迎えに来る予定だった。私寝ぼけちゃった?彼女がゴシゴシと目元を擦って、本を持ち直した。あのジェイドのことだ。何かしらの方法で遠隔で見守っていても、不思議ではない。

「魔法耐性とは、その生物が持っている魔力に対する耐性のこと言うんだ」
「生物?」
「ああ、全ての種族を含めて、かつ魔法植物から魔獣まで。
 基本、全ての生物が魔法耐性をもっているとされている。もちろん、耐性がない場合もあるけど」

 彼女は本から、顔を上げる。今私が知りたい情報が聞こえてきた気がする。目を擦って、顔をぶんぶん振っても、その声は聞こえてきた。現実だ!彼女は貴重品と、筆記用具をもって、席を立った。

 声の出どころは、一つの本棚を挟んだ隣のテーブルだった。コッソリと本棚から顔を出して覗くと、二人の男子生徒の姿があった。ネイビー髪をもつ男の子がノートにメモをとっていて、その様子をワインレッドの髪をもつ男の子が見守っていた。彼女は一瞬同い年?と思ったが、どうやらワインレッドで小柄な男の子が先輩らしい。

「全ての生物が魔法耐性持ってるんですか?じゃあ、僕も?リドル寮長も?」
「ああ、僕も、デュースもみんな持ってるはずさ。個人差はあれどね」

 リドルと呼ばれた男の子は、パチンと指を鳴らして、お酒のボトルをテーブルに召喚させる。もちろん、本物ではなく、オモチャである。黒い手袋を嵌めた指が、コンコンとボトルを叩く。

「所謂アルコールの強さと似ているかな」
「イメージしやすいですね……うん?寮長」
「うん?」
「こないだ先生が、
 魔法耐性とは、通常ならば影響が出るほどの魔法をかけられても、魔法薬を体内に摂取しても、
 魔法士自身の心身に影響をしないことって言ってたんですけど」

 デュースは辿々しくノートに書かれた一文を読み上げる。

「僕はそんな魔法耐性があるって思えないんですけど」

 リドルはデュースの言葉に、眉を下げる。テーブルに頬杖をついて、少し呆れた声を出した。

「デュース、君その授業寝ぼけながら聞いて居ただろう」
「うっ」
「魔法耐性には、一般的な場合と、特殊な場合で意味が異なるんだよ」
「エッ」
「一般的な場合は、正しく魔法や魔法薬を使用したときに、予想通りのことしか起こらない。
 それが逆に魔法耐性が低いと、予想外のことが起こる」

 何か分かるかい?リドルは首を傾げる。デュースはどこか身体検査を思い出していた。

「副作用ですか?」
「そう、正解だ。
 さっきデュースが言った意味は、魔法耐性が高い場合だね。
 その場合は先生が言った通りさ」
「……寮長、質問してもいいですか」
「どうぞ」

 リドルは楽しそうに口角を上げた。デュースが考えて、気付いて、質問をしてくる。その成長が嬉しいのだ。デュースは教え甲斐があるな。

「魔法耐性って、すべての魔力に対して耐性があるってことですか?」
「デュース……魔力の源である要素をなんと言う?」
「魔法元素です!」
「そう、正解。その魔法元素は大きく二つに分かれることは知っているね?」
「は、はい!えっと、自然発生する魔法元素と、生物の体内で作られる魔法元素です」
「よろしい。ちゃんと基礎は押さえているようだね」
「あざっす!」

 あざっす!彼女も本棚の影から、こっそり参加していた。

「デュースが今言った通り、魔法元素は大きく二つに分かれる。
 そして、自ずと魔力の性質も、大きく二種類に分かれることになる。
 確かにデュースが言った通り、魔力自体……つまり、全魔法元素に耐性があるってこと」
「ふむふむ」
「そして、その体質のパターンが世の中で最も多いされている。つまり一般的ってことだね」
「ってことは、魔力性質によって耐性を持っている方が珍しいってことですか?」
「その通り」

 リドルはよろしい、と頷くように笑う。今度はリドルからデュースへ質問が飛んで来た。

「ちなみに、魔法耐性の反対は何か知っているかい?」
「え!」

 デュースは目を大きく開いて、キョロキョロと泳がせて、うーんと首を捻った。デュースの口から考えがそのまま漏れ出した。

「魔法耐性の反対……耐性って言うんだから、魔法が効かないってことですよね」
「シンプルに言えば、そうだね」
「その反対……あ!魔法が効くってことですか?」
「確かにハズレではないね」

 リドルは眉を下げて笑って、ノートに埋もれているデュースの教科書を指先で触れる。教科書はパラパラと自ら開いて、あるページを開いた。デュースはアッ、と声を漏らした。習った覚えがあるページだったのだ。

「ま、魔力に当てられるですか?」
「そう。魔法耐性の反対は、魔力に当てられること。
 つまり、魔力の影響を強く受けてしまう、ということだね……デュース、挽回と行こうか」
「お、オッス!」
「どうして僕はこの流れで、魔法耐性の反対とは何か、という話をしたんだと思う?」
「エッ」
「ふふ、たっぷり考えてごらん」

 再び首を捻って考え込み始めるデュースに、リドルはにこにこと楽しそうに微笑んだ。ふと視界の隅で、目の前の後輩と同じ顔をして、悩んでいる女子生徒の姿を見つける。リドルは椅子から立つと、彼女の顔を覗き込んだ。

「君は……同じく賢者の島にある学校の」
「ヒッ」

 彼女は近い距離にいるリドルに驚いて、抱えている筆記用具を落としそうになった。リドルは彼女の首に掛かっている許可書を見て、授業の一貫でNRCの図書館を利用しているのかと瞬時に理解した。ついでに、彼女が抱えている本を見て、どうして彼女が自分たちを覗き込んでいたのかも。

「君も一緒に勉強するかい?」
「え」
「魔法耐性について知りたいんだろ?」

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「ナマエさん分かりました?」
「……」

 デュースの質問に、彼女は気まずそうに首を横に振った。リドルは顔は出さずに、驚いていた。デュースと同い年だと思っていた女の子は、自分と同い年だった。魔法や魔力について詳しく勉強する科目は、教養科目の一つだから一年生の頃に済ますものだと思っていたけど。学校によって、カリキュラムも異なると聞くし。リドルが彼女の学校について考えていると、デュースと彼女は二人で復習タイムになった。

「全ての生物が魔法耐性を持っていて……個人差はあれど」
「魔力元言い……全魔法元素に耐性がある者は存在する。そして、その体質パターンが一番多い」
「それに比べて、魔力性質によって耐性を持っている方が珍しい」
「……の後に、魔法耐性の反対は?って来たよね」

 彼女の言葉に、デュースは頷いた。彼女は、はて、と首を傾げたまま止まる。魔力性質によって耐性を持っている方が珍しい?私は魔法耐性が低いから、魔力に当てられてるって思ってたけど。そもそも、魔法耐性自体が低かったら、もっと魔力に影響されても(当てられても)おかしくないはず……。

「魔力性質によって、当てられるパターンも珍しい……?」

 彼女の呟きに、デュースは目を見開いて、それだ!と大きく頷いて、リドルの方を見つめる。彼女も、期待隠さずにリドルの方を向いた。リドルは分かりやすい二人に眉を下げて、笑った。

「正解。ナマエさんの言う通り。
 魔力性質によって、魔力の影響を受けるパターンも珍しいとされている。
 ポピュラーではないアレルギーみたいなものだね」

 リドルはそう言いながら、胸元のマジカルペンを突いた。すると、体温計のような魔法道具が召喚された。よく見ると、水銀の体温計にそっくりだった。

「ふたりとも、髪を一本くれるかい?」

 ふたりは目を合わせて、首を傾げた。

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「うん、二人とも一般的な魔法耐性があるみたいだね」
「ってことは、全魔法元素に耐性があるってことですね!」
「その通り」

 デュースの言葉に、リドルは満足そうに頷いた。どうやら例の魔法道具は、魔力の性質別に、魔法耐性を調べる道具だったらしい。魔法道具の赤い部分(体温計で言う熱を測る部分)に、魔法士の身体の一部を触れさせることで、大まかな魔法耐性が分かるそうだ。

「この道具は魔法が暴発した事故現場で、使われることが多いんだ。
 魔法を使った処置をする際に、魔法耐性があるかどうか調べることは重要だからね」
「なるほど」
「ああ、そうだ。ナマエさん、これ良かったら」

 彼女はふたりの会話に、首を傾げたままだった。無意識のうちに、背中に冷や汗もかいていた。リドルにある一冊の本を手渡されて、やっと彼女は口を動いた。

「え、えっと、これは?」
「君の課題、調べてる魔力と生物の関係性について、
 分かりやすく載ってるから、おすすめだよ」
「あ、ありがとうございます……」

 彼女は無理やり口角を上げて、リドルにお礼を言った。

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著書:<魔力と生物の関係性>

 魔法とは、さまざなま超常現象を引き起こせる不思議な力のこと。万人が使える能力ではなく、使える者と使えない者が存在している。魔法を使える者を魔法士と呼ぶ。(※1)

 この著書では、『さまざなま超常現象を引き起こせる不思議な力』=魔力と表現する。
 魔力とは、魔法元素の集合体である。魔法元素とは、魔力の根源をなす、それ以上分割できない要素である。発生方法が異なることで、性質も異なることが分かっている。発生は大きく二つに分かれており、自然発生と生物発生とされている。
 ○自然発生……他の元素同様に、自然に溢れている魔法元素のこと。
  >魔法性質→火、水、木……等
 ○生物発生(種族関係なく意思を持つ者)……生物(種族関係なく意思を持つ者)の体内で生成される魔法元素のこと。
  >魔法性質→物理、特殊、精神……等
  ●魔法気質……魔法性質にさらに、魔法士の強う思いが魔力に反映されること。
 優秀な魔法士が発現させるユニーク魔法には、魔法士自身の魔法性質が深く関係すると考察されている。実際に、魔法性質が物理の場合、物理に秀でたユニーク魔法が生まれる傾向が多い。他にも

 とされる。
 魔力は、全ての生物に良くも悪くも影響を与える。対して、全ての生物は魔力に大小あれど耐性をもっている。
 通常の健康状態から大きい変化が起こることを、魔力の影響を受けていると考えられる。対して、通常の健康状態ならば、影響が出てもおかしくない魔法(また魔力)をかけられても(魔法薬を体内に摂取しても)、影響が出ない場合、高い魔法耐性を持っていると考えられる。

 魔法耐性は体質そのものであることから、治すことは原則できない。基本的に、魔法をかけられなければ(魔法薬を体内に摂取しなければ)問題はない。そのことから、防衛魔法または防衛魔法道具を使うことで、魔法(また魔力)に当てられることを防ぐことができる。
 魔法に対する耐性(魔法耐性)は、生後数ヶ月から四歳を迎える頃まで出来るとされている。対して、魔力の目覚めは個人差が大きいと言われている。つまり、魔法耐性が先天性であるものに対して、魔力の目覚めは後天的なものとなっている。

 魔力の目覚めは、第二の誕生と呼ばれる。ある国の啓蒙思想家ソルーは、まずこの世に生を受けるのが第一の誕生であり、青年期において性に目覚めていく、その発達段階のことを「第二の誕生」だと言ったことをなぞられて、そう呼ばれている。そう呼ばれる理由は、幾つか存在する。
 @強い魔力に目覚めしてしまい、心身に強い影響が出る場合
 A魔力に目覚めた影響で、体内で変化が起こり後天的に体質に変化が起こる場合
 B……

「おやおや?サボりですか?」
「……」

 ジェイドがモストロラウンジのシフトを終えて、図書館へ戻ってくると、彼女はテーブルに突っ伏していた。彼女はジェイドの声に、のろのろと顔を上げる。赤い目元に、ジェイドは表情を無くして、座っている彼女に膝をついた。

「ナマエさん、誰かに嫌な思いを?」
「……」

 彼女はふるふる、と小さく首を横に振る。ジェイドが心配そうに自分を見上げるものだから、彼女は言い淀んでしまう。ジェイドの仮説は外れている、と。私は全魔法元素に耐性があって、魔力に当てられているんじゃなかった。また振り出しに戻ってしまった。

「ナマエさんは僕が触れても、嫌ではないですか?」
「え?」
「僕がナマエさんい触れても……ナマエさんは不愉快だと感じませんか?」
「え、ええ?だ、だいじょうぶ、だけど?なんで?」
「では」

 ジェイドは力なくテーブルに置かれている彼女の手を取って、優しく握り締めた。

「じぇ、ジェイドくん!?」
「ナマエさんのサポートをする為に、僕が居るんですから。頼ってください」
「……あ」
「言ったでしょう?」

 今朝、言われた言葉だった。彼女がジェイドの顔を見ると、ジェイドは優しい目で彼女を見つめていた。

「実は……」

 彼女は先ほどの出来事をジェイドに説明した。申し訳ない顔で、彼女は気まずい気持ちで告げているのに、うんうんとうなずいていたジェイドの様子がおかしい。次第に優しい顔つきから、ジェイド特有のワクワク顔に変化していくのだ。

「なるほど、そういう事だったんですね」
「うん。じぇ」
「それは良かった。手間が省けました」

 ジェイドくんごめんね。せっかく協力してくれてるのに。振り出しに戻っちゃって。と言おうしたセリフが、ジェイドのせいで飛んだ。

「え?今なんて?」
「ふふ。終盤なので、特別に教えてあげましょう。
 ナマエさんが一般的な魔法耐性がある、と言うことは知っています」
「え?」
「よく考えて見て下さい。
 ナマエさんが惹かれた方たち、全員が同じ魔法の性質持ちだったと思いますか?」
「……そ、それは、確かに、すごい偶然が過ぎるかもしれないけど。
 え?じゃあ、私はどの魔力の性質に当てられてるの?」
「その前提が違います」
「ナマエさん、魔力気質勉強しました?」
「アッ」

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 魔力気質とは……魔法性質に、さらに魔法士の強い思いが魔力に反映されたもの。心理学で言う、個人の性格の基礎にある、遺伝的、体質的に規定されたものと考えられている感情的傾向と同じとされている。精神状態によって魔法への影響が出やすい魔法士ほど、魔力気質の付加要素が大きくなると考えられる。

 彼女は参考書から顔を上げる。ジェイドはニコニコと笑っている。

「つまり、私が惹かれやすい魔力の正体って……、
 恋してる感情が魔法気質となって付加されてる魔力ってこと?」
「そうです。
 もっとシンプルに言えば、ナマエさんは恋してる魔法士(魔力持ち)の魔力に弱いってことですね」
「……こ、細かすぎ、と言うか複雑過ぎでは?」
「だから、言ったじゃないですか」
「え?」
「ナマエさんは自分の体質が複雑なクセに、魔法の使い方が直感的なのでは?と」

 序盤だ。今日の午前中の頭くらいだ。ジェイドがそのセリフを言ったのは。彼女は眉を寄せて、ジェイドに苦情を入れた。

「だったら、最初から教えてくれたら良かったのに……」

 そしたら、私は変な勘違いをしなくて済んだのに。恨めしい顔をする彼女に、ジェイドは愉快そうに眉を寄せて笑った。ギザギザの歯が見えて、彼女はビクッと胸元に両手を引き寄せる。

「では、ナマエさんは魔法……魔力に対して、理解が浅いままでも理解できました?」
「うっ」
「納得できました?」
「……で、でも」

 ジェイドの攻撃に、彼女は急所を受けながらも、なんとか言葉を捻り出す。

「最初に崖から落とさないでって言った!」
「ダハハ」

 彼女の悲鳴に、ジェイドは図書室だと言うことを忘れて、爆笑した。

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「では、一通り理解できた所で、実践に参りましょう」
「い、イエッサー」


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 場所を移動して、彼女はNRCの植物園にいた。その中でも、ジェイドが普段使わせて貰っているという場所で、魔法の練習をすることになった。そして、植物が集まっている中でも、入り組んだところへジェイドが向かっていくので、彼女もジェイドの後ろを付いていく。時々、植物の葉っぱに目隠しをされたり、髪を食べられそうになったり、若干サバイバルのような道のりだった。

「ここがナマエさんの練習場になるところです」
「はい……うわ」
「うわ?とは?」
「な、何にもないです」
「仲良くして下さいね」
「ウ、ウッス」

 彼女は沢山のキノコたちに、修行を見守られることになってしまった。

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「では、こちらがナマエさんの修行相手になります」
「土?」

 ジェイドは作業机に、一つの植木鉢を取り出した。植木鉢には健康そうな茶色で、柔らかそうな土が入っている。ただそれだけだ。

「今回ナマエさんに覚えていく防御魔法は、
 魔力気質を取り除いて、純粋な魔力性質だけ分解する魔法になります」

 そう言ってジェイドは、植木鉢をマジカルペンで二回ほど叩いた。すると、土の中から芽が出て、チューリップが咲いた。かわいいと彼女が和んで、チューリップを覗き込んだ瞬間、彼女は顔を真っ赤に染める。勝手に目も潤んで、胸が苦しくなる。

「じぇ、ジェイドくんこれ……」
「こちらプルさんの気質付きの魔力を注ぎ込んで、育てた作った魔法植物になります。
 見た目は可愛らしいチューリップに見えますけど」
「ううっ」
「普通の植物と違って、二酸化炭素を吸って、酸素を吐き出すのではなく、
 自然にある魔力を吸って、ナマエさんが当てられやすい魔力を吐き出します」
「か、改造してる……」
「そうですね……簡単に言えば、擬似的に作った好きな人ですね。
 こちらの植物から発生している魔力に、影響を受けなくなれば、修行成功です」
「うー……」

 彼女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ジェイドは顎に手を当てて、しまったなと思った。思ったより強く魔力を凝縮させ過ぎたらしい。彼女はかなり魔力に当てられているらしく、惹かれるどころか、どこか苦しそうだ。ついに、彼女は胸を両手で押さえて、しゃがみ込んだ。

「ナマエさん大丈夫ですか」
「う、うう、くるしい」
「ナマエさんこちらを見て」
「……」

 手袋に包まれたジェイドの両手が、彼女の頬を包む。彼女は目を開こうとしても、苦しくて、涙が溢れて、それどころではない。ジェイドが親指で拭って、何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。彼女がやっと瞼を上げると、異なる色をした瞳がこちらを心配そうに見つめていた。ジェイドくんの、その顔は本当?彼女はずっとジェイドのことが分からないまま。本当っぽい表情も、どこか嘘くさくて、本当に見えない。それでも、彼女は思ってしまう。ジェイドが本当に自分のことを気にかけてくれたら、嬉しいなぁと。

「ふふ」
「おや?実は余裕でした?」
「!」

 彼女はぶるぶると、小刻みに首を横に振った。そんな彼女に、ジェイドは悪戯っぽく笑った。

「目を瞑って、ナマエさん」
「はい……ギャア」

 ブシャっと何かを掛けられた。細かいミスト状で、ミントの香りがする。彼女がそぉっと開くと、霧吹きをもっているジェイドがいた。

「こちら魔力の影響を一時的に、遮断する魔法薬を薄めたものです」
「苦しくない!」
「先ほどのように、魔法の練習自体が危うくなったら使って下さい」
「分かりました……あれ?ジェイドくん修行中、一緒に居てくれないの?」
「居ますけど、僕もやることがあるので」

 ジェイドの視線が右を向く。彼女も右を見て、ウワァと顔を顰める。どうやらジェイドはキノコを育てる片手間に、彼女の魔法の練習を見守るらしい。

「ナマエさんの当て馬体質改善も、最終段階です。頑張ってくださいね」
「……うん」
「元気がないですね?」
「いや、なんかジェイドくんの笑顔がちょっと怖くて……」
 
 彼女の言葉に、ジェイドは目を丸くしたが、すぐに笑顔に戻った。ナマエさんも、勘が鋭くなってきてますね。面白い。ニコニコと楽しそうにするジェイドに、彼女はしまったと内心焦った。ジェイドの笑顔云々と言ったが、完全に出任せ発言だった。私の当て馬体質が治ったら、ジェイドくんとも会えなくなるのかな……。それとも、ジェイドくんの恋活を今度は私が手伝ったり?

「ナマエさん?」

 キノコの世話をしようとジェイドは、魔法で実験着に着替え終わっていた。ゴーグル越しに、両目の色が異なる瞳が彼女を見下ろす。彼女はじっとジェイドを見上げて、自分の心臓がどくり、と高鳴るのが分かった。

 今みたいに、当たり前のように一緒に会って、喋って、ランチをして。それだけ、じゃない。意地悪だって、されるし。相変らずジェイドは何を考えているか分からないし。でも、……ちゃんと私の体質を改善しよう、って。ジェイドくんの目的は分からないけど、もしかしたら好奇心ゆえかもしれないけど。それでも、ジェイドくんは私が逃げてたモノと向き合うきっかけをくれた。やり方は優しくなくても、最後まで付き合ってくれようとしてる。

 私ジェイドくんのこと……。彼女はその先を考えようとして、考えられなくなってしまう。この高鳴りの答えを、そう簡単に出したくなかった。

「ジェイドくん」
「はい」
「私魔力に当てられなくなったら、ちゃんと自分の気持ち分かるようになるよね?」
「……はい、なりますよ。きっと」

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 修行○日目

「では、ナマエさん。
 母は働きに行きますが、いい子にお留守番していて下さいね」
「分かったよママ」

 彼女は泣きながら、頷いた。決して、ジェイドと離れることが辛いのではない。横にいるチューリップに泣かされているのだ。最初の頃はジェイドの雑なボケに、ツッコミをいれる余裕があったが、最近は受け流すことにしている。何せ思ったように魔法が上達しないのだ。

「ジェイドくん何がダメですか?」
「練習量が少ないです」
「え、そこ?」
「はい。この魔法は魔法自体を弾くと言ったシンプルなものでは、ありません。
 確かに少しの時間なら、全魔法性質を弾く魔法もありますが……」

 ジェイドは眉を寄せて、ニッコリと笑った。珍しく困った顔だった。

「ナマエさんの魔力では、火力が足りないので向いていないかと……」
「そんなのやってみとないと分からないよ!」
「では、この魔法なんですが……」

 彼女はジェイドから防衛魔法の教科書(NRC)を受け取って、読み込んだ。魔法自体は簡単なものだった。彼女は目に見えない魔法元素すら弾くイメージをして、詠唱をする。彼女の胸元の魔法石が輝く。その瞬間、苦しくなるほどの胸の痛みから解放された。

「ほら、うまっ……う
「ほら、言わんこっちゃないってヤツですね」

 ジェイドは彼女にシュッシュと霧吹き(中身は魔法薬)をかけながら、呆れたように笑った。彼女が魔力を弾けたのはほんの一瞬だけだった。見事な二コマ落ちだった。

「ナマエさんは魔力の火力もなく、コントロールも得意ではありません」
「わるぐち
「悪口ではありません。事実です」
「ううっ」
「ナマエさんの現実で、現状です」
「分かったから何回も言わないで
「防御魔法の中でも、今練習しているものが一番適切だと思いますよ。
 確かに魔力の中身を、分解する魔法ですから簡単なものではありませんが」
「……」
「反復練習すれば、確実に上達します。
 火力を増やす努力するより、よっぽど……ってこら、ナマエさん」

 彼女は完全にヘソを曲げてしまって、ジェイドのキノコを突いていた。彼女のお気に入りは、突くとキラキラとした胞子を振り撒くキノコだった。ジェイドにしては珍しく、害がないキノコである。

「この子たちと仲良くして下さるのは嬉しいですが、ちゃんと練習もしてください」
「……ハイ」
「最終段階には、難関が付き物です。もう一踏ん張りですよ」
「ハイ」

 彼女は萎れた花のように頷いた。

修行□日目

「アテまた泣かされてるなー大丈夫か?」
「オーララ。まるで恋する乙女のような綺麗な涙だね」

 彼女がNRCの植物園に通うようになって、すっかりNRC生と顔見知りになってしまった。なんなら、アテ・ウマコの噂はNRCにまで広がっているらしい。おまけに、ジェイドがアテ・ウマコさんですと紹介するものだから、違和感なくアテと呼ばれてしまっている。

 実験着姿で彼女に駆け寄ってきた二人の男子生徒は、サイエンス部でよく植物園に顔を出していた。今でこそ、彼女の異様な状態を二人は受け入れているが、最初はカオスだった。ジェイドが植物園に女の子を連れ込んで、泣かしていると勘違いしたトレイとルークに拘束魔法をかけられたり、彼女は誤解を解こうとしても、蹲ることしか出来ず……。因みに、ジェイドは拘束魔法をかけられても、おやおや?と笑うだけだった。

「トレイさん、ルークさん、ごんにちば」
「こんにちは、ほら涙拭かないとな」
「はい、こんにちは。アテくんは今日も修行かい?」

 彼女はトレイから貰ったハンカチで、涙を拭いながら頷いた。その間に、トレイはリューリップにバケツ(魔法加工済み)を被せて、彼女の顔を覗き込んだ。

「そろそろ休憩にしよう。どうせ朝からずっと修行してるんだろ?」
「そうだね。丁度新作の茶葉を持ってきたんだ」
「俺もタルトを作ってきた」
「あ、ありがとうございまず……」

 トレイとルークはとても彼女を甘やかしてくれた。修行が上手くいかなくて凹んでいる彼女は、すぐに二人に付いて行った。二人とも聞き上手だった。ついつい長居し過ぎてしまうほどに。

「トレイさんルークさん、うちの子を可愛がってもらうことは有難いですが……
 甘やかされるのは困ってしまいます」
「ア

 ヒョイっと抱えられて、植物園の奥に消えていく二人に、ルークとトレイは顔を見合わせた。

「ジェイドって、意外と分かり易いんだな」
「ふふ。あの鋭い視線を真っ正面から受け止めたら、一溜まりもないだろうね」

修行△日目

「き、霧吹き……ない?!」

 身体の具合が悪くなる前に、必ず霧吹きで一旦リセットすること。これはジェイドとの約束だった。どうやら今日はすでに多量に使い過ぎてしまったらしく、霧吹きの中身は空っぽだった。あ、やばい。彼女は膝から力が抜けて、胸を押さえて蹲る。

「ナマエさんは身体と精神への影響が両方出ているようですね」
「両方?」
「はい。恐らく身体へは動悸、精神へは気分の高揚と言ったところでしょうか。
 惚れ薬と似た効能ですね」

 心臓がドクドクと大きく早く打つ。身体が熱い。頭がぼーっとする。気分はぼんやりとしているのに、身体だけ熱く、苦しくなっていく。心なしか息も苦しい。彼女が荒い息遣いで蹲っていると、涙でぼやけた視界に何かが見えた。

「なんだ、こりゃ」
「……じぇ、じぇいどくん?」
「ハッ。あんな人魚と間違われるとはな……ン?お前」
「う、うっ」



「あれ……?」
「よぉ、俺の膝枕は気に入ったかよ。お嬢さん」
「え?ええ!」

 目を開けたら、カッコいいライオンのお兄さんがいた。彼女は文字通り飛び起きた。なんなら、勢い余って整備された芝生の上から通路まで転がりそうになった。芝生は丁度なだらかな坂だった。カッコいいライオンのお兄さんこと、NRC生レオナ・キングスカラーは彼女のリアクションを笑って、そのまま顔を覗き込んだ。

「お前、名前は」
「ナマエです」
「ナマエか。じゃあ、ナマエお前はあそこで何してたんだ?」
「え、えっと……」

 彼女は寝転がった状態のまま、説明した。自分の体質改善をしているのだと。レオナは最初興味深そうに聞いていたが、次第に愉快だなとニヒルな笑みを作った。

「ふぅん。その方法で改善な……」
「え、ま、間違ってます?」
「いや、間違ってはないと思うぜ?まあ、精々頑張れよ」
「あ、あの待っ……!」

 彼女が起きあがろうとして、視界を邪魔される。何かを押し付けられたらしい。手探りで顔をに押し付けられたものを確認すると、それは彼女がいつも使っている霧吹きだった。試しにワンプッシュして、匂いを嗅いでみる。ミントみたいな匂い。間違いない。中身も、一緒だ。あのライオンさん、何者……?

「ナマエさんお昼寝ですか?」
「あ、ジェイドくん」
「その霧吹きは?」
「あ、実は……」

 その日から、霧吹きがもう一つ追加されることになった。

21

 彼女は分かっていたが、凹んでいた。やっぱり、魔法の上達が中々しない。ゴールも、道のりも、分かっているのに。辿り着けない。そのもどかしさが日に日に大きくなって、彼女は焦り始めていた。だって、日に日にジェイドへの想いも募っていって、彼女はこの気持ちが恋なのか。そうでないのか。確かめることが怖くなっていた。

 そこで、彼女は思いついた。防衛魔法が使えなくても、ジェイドの魔力に当てられているか、確認する方法はある。彼女は早速ジェイドに質問してみた。今恋をしているのか。好きな人がいるのかと。キノコの世話をしていたジェイドは目を丸くして、彼女の鼻を弾いた。

「ニッ」
「僕に嫌味を言う暇があったら、少しでも防衛魔法の精度を上げてください」
「……」

 どうやらジェイドは恋をしていないらしい。彼女は鼻を押さながら、嬉しくなった。ジェイドは今恋をしていない。つまり、彼女が初めて当て馬体質から外れる条件で、人を好きになることが出来た。今までの好きという感情は、魔力に惹かれていた感覚を勘違いしていたことだった。

 彼女は安心した。初めてまともに人を好きになれて、嬉しかった。この気持ちは、ちゃんと本物だ。誰に影響されたわけでもない。私だけの気持ち。彼女は胸元の魔法石を両手で握って、頷いた。防衛魔法がうまくいって、誰の魔力にも影響をされなくなったら……、私素直になってジェイドくんに告白する!

22

「あ、ウマコちゃん」

 今日も今日とて、彼女は防衛魔法の修行中だった。ジェイドはラウンジのシフトがあると言うので、今日は一人で修行していた。やっと最近、恋植物(彼女が勝手に命名)相手に泣かされることは、無くなってきた。まだ顔を真っ赤にはさせてしまうけど。そんなとき、ぬらりと大きな影に包まれて、彼女は急いで振り返った。

「やっほー今日も魔法練習中?」
「そ、そうです」

 フロイド・リーチだ。ジェイドと双子の男の子。たしかに、フロイドはジェイドにそっくりだった。フロイドは私服で機嫌が良さそうだった。モストロ・ラウンジにお邪魔したときに、何度か喋ったことがある。何故かフロイドは彼女のことを、ウマコちゃんと呼ぶ。

「あの、フロイドさん、私アテ・ウマコじゃな……」
「ウマコちゃん、魔法緩めてだいじょうぶ?」
「えっ、う、ううー」

 彼女はフロイドに呼び名を訂正させようとして、気を抜いてしまった。防衛魔法も解けてしまった。恋植物の魔力をまともに食らった彼女は目から盛大に涙を流しててしまう。フロイドはその様子を本当に魔力に当てられるヤツがいるのかと。興味深そうに見つめて、ニヤッと笑った

「ね、ウマコちゃんさ……ジェイドのこと、お願いね」
「え?」
「ウマコちゃんにしか、ジェイドの恋の悩みは解決できないと思うし」
「……ジェイドさん好きな人いるんですか?」

 彼女の質問に、フロイドは嬉しそうにウンと相槌を打った。ぽろぽろと零れ落ちる涙に、まさか本当の涙が隠れているなんて、フロイドは気付きもしなかった。

23

 彼女は膝を抱えて、どうしよう、とぼんやりとした頭で考える。恋植物には、トレイから貰ったバケツを被せたおかげで、魔力に当てられる心配はない。だから、今頭がぼんやりしている原因は、単なる泣き過ぎだった。ジェイドくん、好きな子いたんだ……。知らなかった。だって、好きな子いないって言ってたし。嘘つき。彼女は立てた膝に、顔を埋める。強く強く目元を押し付けた。泣きたくなるほど苦しかった。この胸の痛みも、ジェイドの魔力に当てられているのだろうか。

「好きって……なに」

 こんなにも苦しいのに。ジェイドに触れられるだけで、幸せな気持ちになって、どくり、と胸が高鳴るのに。今までの高鳴りは偽物だったのか。やっと、やっと私もみんなと同じように、人を好きになれると思ったのに。

彼女は泣き続けていると、不意に葉っぱが大きく揺れる。ビクッと顔を上げると、NRCの学園長がいた。相変わらず奇抜な格好で、変わった仮面をつけていた。彼女は他校生の自分がマズイ!と思ったが、胸元の訪問許可書を手繰り寄せる。その前に、学園長の方が早かった。

「おやおや?」
「……?」
「おやおや、これはまた稀な体質ですねぇ」
「!」

 彼女は冷や汗をかいた。ジェイドとは違う、底知れぬ恐怖をもっている男だと思った。学園長はジィッと彼女の瞳を覗き込んで、目を細めた。

「さぞかし大変だったでしょう。その体質では」
「……な、治らないんですか、これ」
「原則、体質は治せるものではありませんからねぇ」
「で、でも、防衛魔法を使えば……!」
「あなたの場合、魔法云々の問題ではないですね」
「えっ……」

 今度こそ、彼女はダメだと思った。学園長はまだ何か喋っている。でも、彼女の耳には何も入って来なかった。やっぱり、私はずっと当て馬体質のままで……、私が誰かに恋をすることは出来ないんだ。

 その日、初めて彼女は修行をサボってしまった。

24

彼女は授業以外はずっと、部屋に引き籠っていた。友達のシンシアが心配して、彼女の部屋に訪ねてきた。

「ナマエちゃん、麓の街に遊びに行かない?」
「……ごめん。シンシア、気分じゃなくて」
「ナマエちゃん……」

 シンシアは彼女が引きこもるベッドに腰をかけて、彼女の頭を撫でる。彼女はシンシアの優しい手つきに泣きそうな顔になる。すでに、目元は真っ赤だった。シンシアは元々の困り眉をさらに下げて、なんとか彼女に力になれないだろうかと考える。彼女を占おうとしても、シンシアには何も見えないのだ。せめて、占えたら、何かアドバイスできるかもしれないのに。シンシアも落ち込んでいると、彼女の枕元で着信音が聞こえてきた。

「ナマエちゃん?スマホ鳴ってるけどいいの?」
「いいの……」

 彼女はシンシアの言葉に、スマホの電源を落として、布団を被り直した。
 フロイドと、学園長の言葉に心が折れてしまった彼女はジェイドとの修行をサボって、三日目だった。ジェイドから頻繁に連絡は来るが全て無視。麓の街に出ると、ジェイドと接触する恐れがある為、アルバイトもシフトをズラしていた。

 そんなとき、扉がノックされた。顔を出したのは管理人だった。どうやら彼女にお客さんが来たらしい。

「え、それってまさか……」

 管理人は微笑ましいわぁ、と頬に手を当てて平和そうに笑った。彼女は悲鳴を上げた。

25

 普段お世話になっている管理人を跳ね返すことは出来なかった。スマホのように、機械的に遮断できるわけでもなく、明日も明後日も顔を合わせる相手だ。彼女は仕方なく鏡の前へのろのろと向かった。

「ナマエさん」
「……」

 鏡の前で立っていたジェイドは制服姿だった。彼女に気が付くと、ジェイドは彼女に駆け寄ってくる。開口一番に笑顔で詰められると思っていた彼女は出鼻を挫かれてしまった。いつかのときと同じように、ジェイドは彼女の両頬を両手で包み込んで、顔を覗き込んだ。

「泣いてたんですか?」
「……えっと」
「こんなに赤くなって……擦ってはダメだと言ったのに」
「……」

 肌触りのいい手袋が気持ちよかった。ジェイドの親指が彼女の目元を優しく撫でる。彼女はジェイドの眼差しに泣きたくなった。やっぱり、私ジェイドくんが好き。でも、この気持ちは本物じゃない。彼女の目から、涙がまた溢れ出す。どんなに頑張っても防衛魔法は上手くならないし、上手くならないとジェイドへの気持ちが確かめられないのに。いや、でも、もう確かめなくてもいいんだっけ。だって、ジェイドくんには好きな人がいるんだから。

「ナマエさん何があったんですか?教えてくださらないんですか?」
「……い、言えない」
「どうして?」
「じぇ、じぇいどくんが」
「はい、僕が?」
「こ、こまる、から、いえない」
「……」
 
 彼女は首を横に振って、ジェイドから離れようとする。ジェイドは彼女の言葉に、表情を無くして、すぐに笑顔を作った。怖い笑顔だった。ジェイドがガシッと彼女の顔を両手で捕まえる。彼女は顔を青くした。な、殴られる……!?頭突き!?予想外に優しかったジェイドに騙されかけたが、本来ジェイドとの約束を破るなんて、恐ろしいことだ。

「ナマエさん、僕を見て」
「い、や」
「僕の左目を……」
「あ」
「"そんなに怖がらないんで、力になりたいんです"」
「!」
「"かじりとる歯"」

 ショック・ザ・ハート。そう聞こえた。彼女は何かされるんだ、と目を閉じようとしたが、遅かった。しっかりと、ゴールドの美しい瞳を見つめてしまった。彼女はじっとジェイドを見上げる。

「貴方はこの質問に真実で答えなくてはなりません。
 僕が困ることとは、何でしょうか?」
「……」

 彼女はきょとり、と瞬きを繰り返した。ジェイドは静かに彼女を様子を伺っているようだった。まるで、観察しているようにも見えた。彼女はじーっとジェイドに見つめ続けられて、次第に困惑した表情になる。これ以上ないくらい眉を下げて、彼女は首を傾げた。いや、実際は顔を掴まれている所為で、傾げることは出来なかった。

「今のな、なに?」
「……ふふ。やっぱり、ナマエさんは本当に面白い体質の持ち主ですね」
「……」

 その言葉は一番聞きたくなかった。彼女の瞳がじわっと潤んで、彼女は膝から崩れ落ちた。ジェイドは目を見開いて、慌てて彼女の腰を支える。彼女はジェイドの胸に縋り付いて、嗚咽を漏らした。次第に、彼女の泣き声は大きくなっていく。ジェイドは戸惑いながらも、彼女の頭や背中をぽんぽんと軽く叩いた。必死だった。彼女が自分の手の内で泣くのは平気なのに、その外で泣かれると困る。非常に困る。どうして困るのか聞かれると、分からないのだが、とにかく困るのだ。

「ナマエさん、お願いです。
 本当のことを教えてくれませんか?」

 ジェイドは自分の胸から顔を上げてくれない彼女の頭を撫でる。彼女はイヤイヤと首を横に振るばかり。ナマエさんの体質は分かっていたこと。それでも、本音を聞き出せないと言うのは思ったより、もどかしいな。気付くと、ジェイドは彼女を強く抱きしめて、彼女の旋毛に鼻先を埋めて、懇願していた。

「ナマエさん、お願いです。僕はナマエさんに幸せな恋をしてほしい……、本当にそう思っています。
 嘘ではありません」
「……」
「貴方はいつも他人の幸せばかり見ていましたね。
 お人好しで甘ちゃんなナマエさんのことですから、祝福する気持ちもウソではないのでしょう。
 それでも、素直に自分も幸せな恋がしたいと、自分の体質に抗うナマエさんは素敵でした」

 丁寧に頭を撫でる手つきと、低く心地のいい声に、彼女の心がほどけていく。彼女はもぞもぞと頭を動かして、顔を上げる。ものすごく、今ジェイドの顔が見たかった。見上げて、彼女は後悔した。穏やかな声とは裏腹に、鋭い目つきのジェイドが居たからだ。

「じぇ、ジェイドくん、今どういう感情?」
「え?ナマエさんが頑張っている姿に感動している、と言っているつもりだったんですが……」
「ひょ、表情とセリフが合ってない」
「合ってます。ナマエさん、あなたは……自分が思っているより、ずっと稀な体質だと自覚するべきだ」
「え」

 ジェイドはするり、と彼女の頬を撫でて、耳元で囁いた。

「そろそろ教えてください」
「あっ」
「僕が困ること、とは何でしょうか……?」

26

「え、居ませんよ?」
「う、うそだ!」
「本当です。神に誓って、僕は現在進行形で誰にも恋してません」
「……」

 ふたりはカフェテラスで向き合っていた。彼女の学校のカフェテラスだ。規模は決して、大きくない。それでも高い天井と、温かみを感じる自然素材を使用されていて、悪くない空間だった。ジェイドは木目が綺麗なテーブルを指先で撫でて、彼女に繰り返し告げる。現在、自分に好きな人居ない、と。

「だ、だって……フロイドくんが」
「フロイドですか?」
「ジェイドくんに好きな人いるって、言ってた」

 彼女はそう言って、また泣き出した。ジェイドは向かいのソファに座っている彼女の隣に座り直すと、さっきと同じように彼女を抱き締める。彼女はぐいぐい、とジェイドから離れようと必死である。

「じぇ、ジェイドくんさ!」
「はい?」
「前から思ってたんだけど!距離近いよね!?」

 さっきは二人きりだったからいいけど。ここには、彼女たち以外の女子生徒たちもチラホラと、カフェテラスを利用していた。いや、本来二人きりでも、ダメである。わ、私も、自分の下心で流されちゃ、甘えちゃダメ。彼女は腕を伸ばして、ジェイドから離れようとするが、ジェイドのホールドした腕はビクともしない。

「でも、ナマエさん泣いていますし……」
「わ、私が泣いても、しちゃダメです」
「僕はナマエさんのサポートする為なら、なんでもします」
「だ、ダメです。これとサポートは別です」
「どうしてですか」
「ど、どうしてっ!?」

 彼女も、ジェイドも、変な顔になった。上手く伝わらない。どうしてダメなのか。どうしてダメだと分からないのか。なんで、分かってくれないのか。なんなら彼女は自分の気持ちを白状したようなモノなのに、目の前の男は何も分かっていないように見えた。

「……ジェイドくん好きな人がいなくても、私のサポートをする為でも、
 女の子を抱き締めたり、撫でたりしちゃダメなんだよ」
「……ナマエさんは僕に触れるの嫌ではない、と以前仰っていました」
「そ、そういう問題じゃなくて……ジェイドくんにとってはサポートのつもりでも、
 私はそういう意味で受け取れないって言ってるの!」

 彼女の感情が高ぶる。胸元の魔法石が輝いて、強い魔力を放ってしまう。近くに居たジェイドは、その魔力をモロに食らって、彼女を強く抱き締めていた。

「だったら、もう泣かないでください。寂しそうな顔しないでください」
「え」
「ナマエさんに泣かれると、困るんです。すごく、とっても困ります」
「じぇ、ジェイドくん……それって」
「……」

 ジェイドは自分の口を、手のひらで隠した。なんだ、これは。まさか、僕が言わされたのか?ジェイドが思考を動かそうとして、失敗する。あれだけ離せ、と主張していた彼女がジェイドの顔を覗き込んできたのだ。ジェイドは彼女の潤んだ瞳に見つめられて、息を止めそうになる。な、なんですか、これ。顔が、熱い。

「ジェイドくん、もしかして……私のこと好き?」
「わ、分かりません……」
「じゃあ、私が他の男のと幸せな恋してもいい?」
「それは……」

 二人の本来の目的だ。ジェイドは本当の恋をするため、彼女は幸せな恋をするため。そのために、二人は協力していた。今腕にいる彼女が他の男を好きになって、他の男のために泣く。その姿を想像するだけで、ジェイドの目が据わって、口元から鋭い歯が覗いていた。その表情に恐怖を覚える彼女は、もう居なくなっていた。

27

「ハァ?ジェイド無意識だったわけ?」
「無意識というか、僕そんなこと言った覚えないんですよ」
「傍から見てたら、すぐ分かるじゃん。
 ジェイドがウマコちゃんのこと好きなんてさ」
「……」
「ウミガメくんも、ウミネコくんも……なんなら、トド先輩も知ってたけど」
「……」
「ちょっとジェイド聞いてる?」

28

 たぷ、とジェイドは静かに通話を切った。彼女は気恥ずかしそうに、ジェイドをちらちらと見上げている。ジェイドもチラリと彼女を見ると、彼女と目が合った。彼女は嬉しそうに笑う。なんて事ない笑顔だ。今まで何回だって見ている。見ている……はずなのに、無償に彼女に触れたくなる。もっと甘やしたり、困らせたりしてみたい。この気持ちが好き?恋?

「分かりました。
 僕がナマエさんのことを好きと、恋をしているとしましょう」
「か、仮説みたいな言い方」
「そうです。仮説です」
「……ジェイドくん、私のこと好きじゃないの?」
「……」

 彼女はまた泣きそうになりながら、ジェイドを見上げる。そんな彼女に、ジェイドはぶわっと変な汗をかいた。もう、これでは、彼女のユニーク魔法の暴発に巻き込まれているのか。ジェイド自身の動揺なのか。それすら、分からなくなりそうだった。

「ギャ」
「その目やめて下さい」

 ジェイドは彼女の目にお絞りを押し付ける。急な冷たさに、彼女はうう、と目を押さえた。その間に、ジェイドは調子を整える。コホン、と咳払いをして、彼女に改めて尋ねた。

「僕はナマエさんの質問に答えましたよ。
 今度はナマエさんが僕の質問に答える番です」
「ジェイドくんの質問?」
「はい。僕が困ることとは、なんですか?」
「……」

 彼女はジェイドの質問に、ハッと何かに気付いたように表情を暗くした。そうだ。もし、本当にジェイドくんが本当に私のことを好きでも、私がジェイドくんへの気持ちが本当か分からない。だって、ジェイドくんの魔力に当てられているだけ、かもしれないし。彼女はまたポロポロと涙を零した。ジェイドはもどかしい、と眉を寄せて、彼女の涙を拭う。

「なんなら、僕今現在進行形で困っているんですが?」
「……わ、私」
「はい」
「ジェイドくんのこと好きって、証明できないっ」
「は?」
「だって、仮にジェイドくんが私のこと好きになってくれても、私はジェイドくんの魔力に当てられてるだけで。本当の好きじゃないんだよ」

 彼女はピーピー泣いた。もう泣き過ぎて何に泣いているのか分からなくなりそうだった。自分の気持ちは本当かどうか分からないし。ジェイドも、好きかどうか認めてくれないし。好きな人と両思いになりたい、だけなのに。どうしって、こうも現実は厳しいのか。

「ナマエさんは、僕の魔力に当てられませんよ?」
「え?」

29

「ナマエさんの体質の本質は、相反する要素を持っている点です」
「……」

 彼女はポカン、とジェイドを見上げていた。そんな彼女に構わずに、ジェイドは説明を続けた。

「ナマエさん、復習です。
 基本的に、生物は全魔法元素に対して、ある程度の耐性をもっています。
 そして、その体質が一般的とされる。つまり多数派、ということですね」
「……」
「ここでナマエさんに質問です。反対の体質は何でしたか?」
「魔力性質によって耐性を持っている方が珍しい」
「正解です。因みに、僕の魔力性質は精神系統です。ナマエさんと同じ」
「え、私精神系統だったの!?」

 ジェイドはブレザーの内側から、一枚の紙を取り出した。それは、魔法性質の診断書だった。彼女は怪訝な表情で、ジェイドを見上げる。いつの間に、勝手に人の性質を診断したんだ……。確かに、その診断書には"精神系統"と記載されていた。

「僕たちの性質だと、ユニーク魔法が相手の精神に干渉出来るものが生まれやすくなるそうです」
「え、もしかして、ショック・ザ・ハートって」
「はい、あれは僕のユニーク魔法です。でも、ナマエさんには効きませんでした」
「……」
「念のために確認しますが、ナマエさんはあのとき防衛魔法を使っていましたか?」

 彼女は静かに首を横に振る。ジェイドは機嫌良く口角を上げた。

「では、ナマエさんのもう一つの体質は?」
「……私は精神系統の魔法性質に対してのみ、耐性を持っている?」
「そうです」

 ジェイドは満足そうに微笑んで、さっきみたいに彼女の頬を撫でる。ぞくり、とする手つきだった。

「ナマエさん、貴方は他人の魔力に当てられやすい癖に、特定の性質は弾き返してしまうんです」
「生まれつきで、相反する体質って生まれるものなの?」
「いいえ。ナマエさんの場合は、魔力が目覚めたときに、後天的に魔力に当てられやすい体質になってしまったんでしょう。魔法耐性はあくまでも生まれつき、と言われてますから」

 彼女はジェイドの難しい言葉を、なんとか噛み砕いて、理解した。どうやら、自分の体質は自分が思っているよりもずっと、ずーっと複雑なのようだ。彼女の脳内で、鴉が笑った。そっか。あのとき、学園長さんが言った稀な体質って……。魔力に当てられることじゃなくて、この矛盾している体質のことだったんだ。

「……え、じゃあ、私はジェイドくんの魔力の影響受けないってこと?」
「先ほどから、そう言ってるはずなんですが……」
「ほんとに?じゃあ、ジェイドくんのこと好きって気持ちは本物?」

 彼女がジェイドを見上げる。泣きそうな瞳だ。祈るように見つめられて、ジェイドはウソでも頷きたくなりそうだった。実際はウソではないので、頷いても何の問題もないのだが。ただジェイドは頷いたら、彼女がどんな顔をするのか。ただそれだけが気になった。

 ジェイドがこくり、と頷くと、彼女はぽろり、と涙を流した。そして、眉を下げて、力なく笑った。

「やったぁ、ジェイドくんが好きって気持ちは本物なんだ」
「……ナマエさん」
「ん?な……むぅ」

 彼女の唇に柔らかいものが触れた。視界いっぱいのターコイズブルー。耳には女子生徒たちの黄色い悲鳴。彼女は目を限界まで見開いた。

 何も、解決していない。相反する体質とこれからどう付き合っていけばいいのか。ユニーク魔法は相変らず暴発しているし、防衛魔法も使いこなせて無い。でも、まあ、いいや、と彼女は目を閉じた。だって、今はやっと手に入った幸せだけを感じていたかった。
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