デート

 これはナッシュさんのことを、ナッシュくんと私が呼ぶことになるいつかの未来のお話である。

 シャネルとか、イヴサンローランとか、本当に有名なところなら、何とか読めるし、知ってるし、分かる。私は少女漫画のヒロインのような状況にちょっと付いて行けない。明らかに自分には似合わない、お店に入ることがどんなに居心地悪くて、心臓にも悪いことをナッシュくんは知らないし、分からないだろう。ここのブティックに入る前に看板を見たけど、読めなかった。シックな雰囲気に、落ち着いている店内の音楽が余計に私を追い詰める。初めて病院に来た小さな子どものように私は小さくなって、ナッシュくんの腕を強く掴んだ。

 ナッシュくんは意外そうに私を見て、片眉を軽く上げた。普段の私なら、人前でスキンシップを取るようなことは、しない。でも、こんなところで一人にされたり、置いて行かれたりしたら泣く自信ある。なのに、ナッシュくんは残酷にも私の腕からすっと腕を抜いてしまうのではないか。なんで。いじめか。こんなところで!私はナッシュくんの高そうなジャケットを掴んで不満を訴えていると、すっかり覚えてしまった想像よりも熱い手のひらが私の背中をなぞった。

「…な、なに」
「背筋を伸ばせ」
「…」
「そう。それでいい」

 ナッシュくんになぞられた所から自然と背筋が伸びて、さっきよりも視界が広がる。緊張感が身体に走るけど、嫌な感じはしなかった。でも、やっぱり、ちょっとだけ…何か、怖い。そんなよく分からない、多分ナッシュくんなら下らないと一蹴してしまう恐怖心はナッシュくんにはバレバレなのだろうか。それとも、私が分かりやすいだけだろうか。

「…ちゃんと傍にいる」
「…」

 不意に囁かれたナッシュくんの言葉に顔を上げると、ナッシュくんは密かに目尻を下げていた。
未だに私はナッシュくんからの穏やかな愛情を素直に受け止めることが、出来ない。

そして、結果的に腰を抱かれていることにも気付けないでいた。

***

 店員の綺麗なお姉さんと慣れたように話すナッシュくんの傍に居ながら、私はちょっともやもやしていた。あまりにも慣れた手つきで服を見て、お姉さんと話すから、きっとナッシュくんは他の女の子ともこうやって、このお店に来たんだろうなって。このお店の服をプレゼントしたり、選んだりしたんだろうなって。ナッシュくんの経験とか、初めてとか、そんなものを気にする必要なくて、比較してもどうしようもないのに。気になってしまう。相手の過去が、気になってしまう。

 ああ、恋愛は本当に厄介だ。あんなに知りたくなくて、嫌な人だったのに。

 私はぐるっと店内を見渡して、内心舌を出した。ここに私が着れる服も、似合う服もない気がする。マネキンさんだって、肌出し過ぎだし、背高すぎだし、意味が分からないよ。やっぱり場違いだと、ため息を飲み込んでいると身体に電撃が走った感じがした。ああ、この感覚久しぶり、かも。オシャレとか買い物とか、あんまり行かなくても分かる。あの服好きだとか、多分似合うとか、そういう感覚。
女のカン、運命の出会い。たぶんん、安っぽい言葉で言うとそんな感じ。

「…あれか」
「え、うん」

 今日のナッシュくんは耳元で囁くように話すから、困る。ナッシュくんが見る先には、私の視線と同じものがあった。綺麗なお姉さんと話してた癖に、人のコトをよく見てるな。まあ、ナッシュくんだからな。視界広そうだし。気付いてもらえて、嬉しいなんて、そんな。


「え、えええ」
「なんだよ。一人で着れねぇのか?」
「き、きれるけど…え、ええ、外に居るよね?どっか行ったりしない、よね?」
「…」

 広すぎる試着室に放り込まれ、心細くてナッシュくんの腕を掴んで、泣き言を言うとナッシュくんはまた片眉を上げた。あ、これは呆れてると言うか……、理解できないものを見る目だ。久々に嫌な予感がする。
何を考えたのか、ナッシュくんは面白そうに口角を上げた。

「え、行かないよね?」
「…さぁな」

え、うそ。

 無情にもカーテンは閉じられてしまった。

***

 身に纏っているのはシンプルなAラインのワンピース。露出も、丈も丁度私好みで、落ち着く感じ。新しいものなのに、しっくりくる。自惚れたことを言っていいなら、私のために作られたような、そんな気持ちにしてくれる。とっても素敵なワンピースだ。ただファスナーを全部上げることが出来ていないから、ちょっともどかしい。もっと、ちゃんと整えたい。あと、なんだろう。何か物足りない。鏡の中を覗き込みながら、身体を捻ってファスナーを閉めようと格闘していると、無情にもカーテンがいきなり開いた。

「…!」
「…」

 私は何回、間抜けな姿をナッシュくんに見られればいいんだろう。



「わ、わらわなくても……」
「…本当、お前…」

 試着室のイスに座らされた私の足元で、器用にリボンを結んでいくナッシュくんは肩を揺らして笑っていた。バカにするわけでなく、ただおかしそうに笑う。そして、私の手を引いて鏡の前に私を立たせた。背を伸ばす以上に、高くなる視界に変な感じがした。意外にも、立ちやすい。高いから、クッションとかがいいのだろうか。詳しいことは分からないけど。

 ナッシュくんを物差しにするようで悪いけど、いつもより顔が近い。

「こういう服は着せる奴が要るもんなんだよ」
「…あ」

 ファスナーが一番上まで、上がる。細く長い指の先が少しだけ、背中に触れて私の身体は少しだけ熱くなる。ナッシュくんの手がワンピースの全体を整えるように触れて、私の肩に手を添えた。

鏡の中を見てみろ、と言われるように私はもう一度鏡の中を覗き込んだ。

 背伸びもしてない。幼くもない。雰囲気も、サイズも、私にぴったりだった。いつもより背の高い、私にぴったりだった。私の背を高くしてくれる、素敵なヒールを選んでくれたのは誰でもない、ナッシュくんだ。いつのまに、私の好みを覚えててくれたんだろう。

 思わず鏡の中の自分に見惚れていると、ナッシュくんに後ろから強く抱き締められた。そのとき、自分が惚けていたことに気付いて、慌てて言い訳を考えてしまう。

「…え、えっと」
「ってる」
「え?」

 聞き逃してしまった、声の余韻に身体の芯が反応する。ベッドの中で、腕の中で、私をダメにする低くて甘い声。ここが何処なんて、忘れてしまいそう。後ろから香るナッシュくんのナッシュくんと香水が混じった匂いにくらくらしながら、私はねだるように私を抱き締める腕に掴んだ。

聞こえなかったから、もう一度。

「脱がすのがもったいねぇぐらい、似合ってる」

 鏡越しにナッシュくんが逸らしたいぐらいに、真っ直ぐ私を見つめて言い放った。
とどめに、耳にキスまで貰った。

 自分が望んだ熱だ。でも、その熱は想像よりもずっと、あつくてあまい。鳴り止まない心臓のどきどきを落ち着かせるように、喉元にひやっと冷たさを感じた。ナッシュくんの熱に耐え切れずに閉じてしまった、目を開ける。そこには、きらりと光るものがあった。

「…え」
「予想通りだな」

 ナッシュくんの腕の中から抜け出して、鏡にへばり付く勢いだ。微かにはしゃぎかけてる私に呆れながらも、ナッシュくんは私の髪をネックレスのチェーンに引っかからないようにしてくれた。そのおかげで、不自然なところにあったネックレスは理想な位置に留まった。

 な、なんて言えばいんだろう。嬉しいって言う感情が身体の中で、弾けているみたいだった。ちょっと恥ずかしいけど、例えるとこんな感じ。パッとしないショートケーキが、苺をのせてもらって完成したみたいな。もう足りないところなんて、ない。これが一番ってぐらい、素敵だ。あー、この気持ちを言葉に出来ない。もどかしい。自分の頭の悪さに凹んでいると、ナッシュくんに顔を覗き込まれた。

「…」
「…あ。
 こ、このネックレス…!」
「ああ」
「…わ、私に?」
「ああ?」

 間抜けなことを言ってしまった私に、ナッシュくんは青筋を浮かばせる。ああ、どうして、すぐに言葉足りなくなるんだろう!

「その、…私のこと、考えて」
「当たり前だろうが。
 お前のために選んだんだから、お前のことしか考えてねぇよ」
「…」

 顔を赤くして固まる私をナッシュくんは満足そうに、綺麗に笑って見下ろした。ナッシュくんの瞳も、声も、雰囲気も全部があまい。

「可愛いな」

 本日二度目のとどめに、私の心臓は瀕死になってしまった。難しく考えて言葉にしなくたっていい。ナッシュくんの言ってくれる、その一言だけでいい。だって、その一言が全てを表してくれるから。



「おい」

 無言で両手で顔を覆って、キャパオーバーしてしまった私にナッシュくんは痺れを切らす。ナッシュくんに思い切り抱き着いた。ナッシュくんの胸板で息を吸うと、ナッシュくんの匂いがした。どきどきして、落ち着く。顔を上げると、眉を顰めたナッシュくんが居た。ペースを乱されているときの、ナッシュくんの顔だ。

「ナッシュくん」
「だから、なんだよ」
「大好き」

 私のために選んでくれてありがとうとか、すごいぴったりで嬉しいとか、いっぱい伝えたい気持ちはある。あるよ。でも、やっぱり、最初の伝えたい気持ちはこれかなって。ナッシュくんの真似をして耳もとで囁きたいけど、それはちょっと厳しいからね。

気持ちと一緒に、ナッシュくんが拙いってバカにするキスで伝えるね。

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