◎三歩進んで二歩下がる



「名前」
「うん」
「ここの綴りが違う」
「え、どこ」

 まさかナッシュくんと二人で並んで勉強する日が来ることは驚きだ。以前の私なら、そんな発想もしないと思う。ナッシュくんの指導のもと私は学校の課題を進めて行く。ナッシュくんと和解をして数日経つが、その日々はとても穏やかでやさしいものだった。学校への送り迎えしてくれたり、一緒にご飯を食べたり、変わっていないようで私とナッシュくんの間に流れる空気は大分変わった。何よりもナッシュくんの傍に居ても、不安や恐怖がない。

「ナッシュくん課題終わったら、おやつにしよう」
「おやつ」
「疲れた」
「名前はすぐに糖分を欲しがるな」

 ナッシュくんは頬杖をついたまま、私を見下ろして静かに笑みを浮かべる。その笑顔にとくとく、と心臓が早くなって私は恥ずかしくなってノートに視線を落とした。最近、こういうことが多い。ナッシュくんは私との約束通り、私に触れないし、私に嫌なこともしない。ただ私のしたいことを一緒にして、一緒の時間を過ごしている。

「ナッシュくんは退屈じゃない?」
「どういう意味だ」
「いや、いつも私に付き合ってるから、その、つまんないかなって」
「……つまらなくはない。ただもどかしいな」
「?」

 ナッシュくんの視線を感じて顔を上げると、ナッシュくんの手のひらが目の前にあった。その手の近さにびっくりした私はイスごと身体を引いて、距離をとる。怖い、嫌悪なのか、もう一種の癖なのか、よく分からない。それでも、私の反応にナッシュくんの瞳が傷付いたように、揺らぐのが見えた。なんだか、私も泣きそうになるじゃないか。

「好きな女がいるのに、触れないのはもどかしい」
「!」
「まあ、その内飽きるぐらい触ってやる。待ってろ」
「え、待ってない」
「嘘つけ」

 う、うそじゃない。私が首を横に振って、待ってない待ってないと繰り返せば、ナッシュくんはケラケラ笑って髪をかき上げる。変な空気をナッシュくんが誤魔化してくれたのかな。視線が合わずに、ナッシュくんはマグカップに口をつける。少し長い前髪が邪魔で、ナッシュくんの顔色が分からない。

「ナッシュくん」
「……なんだよ」

 あ、やっぱり、ちょっと拗ねてる気がする。

「本当はちょっと待ってる」
「……性悪」
「え」
「本当に待ってんのは俺の方だろうが」

 ぼそり、と呟くように言ったナッシュくんの言葉に私の心はちょっとだけ、切なくなる。

「待っててくれるの?」
「なんだ、お前は俺が我慢できないサルにでも見えんのか?」
「ううん」
「余裕だ。さっさと来い」
「それ矛盾してない?」

 ナッシュくんは私の言葉に眉を顰めて、ノートを長い指先でトントンと叩いた。勉強に戻れと、言いたいらしい。ナッシュくんと言葉を交わすようになって、こうやってナッシュくんはバツが悪くなると、最もらしい理由をつけて話題を逸らすことを知った。意外な、感じ。でも、前々から機嫌が悪くなると、手が出ることもあったから、その押さえたバージョンかもしれない。私の為なのかなぁ。そもそもナッシュくんはどれくらい短気なのだろう。これから知れると、いいなぁ。



「名前」
「なぁに?」
「特に用はない」
「そうなんだ……?」

 なら、なぜ呼ぶ。私は気分転換に作っていたクッキーの生地を伸ばしている最中だ。ナッシュくんは本を読みながら、イスに座っている。ナッシュくんはどういう本を読んでいるんだろう。気になるけど、難しそう。せっかくの気分転換だし、今度にしよう。今は頭を使いたくない。クッキーの型を並べて、押して、外して、並べる。その繰り返しだ。単調な動きを繰り返しやると、落ち着く。

「名前」
「なに?」
「いや、何でもない」
「そう?」

 さっきのようにナッシュくんを見つめたまま首を傾げる私に、ナッシュくんは満足そうに笑って本へ視線を戻す。私もクッキーの型をとる作業へ戻る。なんだろう。ナッシュくんの不可解な行動はとりあえず置いておこう。クッキングシートをひいた天板に並べて、オーブンへもっていく。オーブンの中に入れて、温度と時間を設定して後は待つだけだ。作業が一段落して、私は一人で頷いていた。

「名前」
「?」

 ナッシュくんの方へ振り向くと、ナッシュくんが私を見つめている。こちらに来いという雰囲気でもないし、何が用あるようには見えない。ただ私がナッシュくんの顔を見て、目が合うと、またナッシュくんは満足そうにして、読書に戻ってしまう。さすがに三回目は気になる。私はナッシュくんの元へ近づくと、ナッシュくんはすぐに顔を上げた。どうした、って感じ。いや、どうしたはこっちだよ。

「ナッシュくん……、実は何か用ある?」
「いや、ない」
「じゃあ何で呼ぶの?」
「分からないか?」
「うん」

 ナッシュくんの言葉にすぐ頷けば、ナッシュくんはおかしそうに眉を上げて、ぱたんと本を閉じる。「即答かよ」と呆れた声に、少しだけむっとする。でも、分からないのは本当なんだからしょうがない。

「じゃあ、今度会うまでに考えとけ。俺からの宿題だ」
「えー。学校からの宿題だけで十分だよ」
「お前の頭は見掛け倒しだな」
「失礼な」
「ちゃんと脳みそ入ってんのか?」
「入ってるよ!」

(触れない分、交わうのは言葉と視線だけ。俺がどんだけ我慢してるかも知らずに、平和な顔しやがって……。いや、これが……本当なら、これが本来の名前だったんだよな)

「どうしたの?」
「いや、名前のゆるさが心配だと思っただけだ。気にするな」
「そこまで頭ゆるくないよ!」
「(そこじゃねぇよ)」



「名前」
「……」
「名前」
「……」
「名前」
「ナッシュくん今度はなに……?」

 私は手に持ったアレックスさんに頼まれたお使いリストのメモから、顔を上げる。ナッシュくんはあれから、必要以上に私の名前を呼ぶようになった。最初は特に気にならなかったけど、最近は度が過ぎてる気がする。何でもない、と悪びれなく、首を横に振るナッシュくんに私の口の端はひくっとなる。

「ナッシュくん今から私の名前しばらく呼ばないで」
「あ?どういうことだ」
「そのまんまだよ。用もないのに、呼ばれても困る。
 それに、別に名前なんか呼ばなくても分かるし」
「……本当にそう思ってんのか?」
「……う、うん」
「だったら、お前も俺の名前呼ぶなよ。それでも、いいんだな?」

 ナッシュくんは鋭い目付きで私を見下ろして、機嫌が悪そうだ。不機嫌なナッシュくんは久しぶりなので、今までの癖で怯えそうになる。それでも、今までと違う。私とナッシュくんの関係は恐怖で結ばれたものじゃない。私たちは対等だ。どちらが上でも、下でもない。負けじと私はナッシュくんを見上げて、頷いて見せた。私の態度にナッシュくんは舌打ちをして、カートをおして先に進んでしまう。私も慌てて、ナッシュくんの後を追った。



「次はマーマレードジャム……って、え」

 リストの最後の、マーマレードジャムを探しに行こうとナッシュくんに話しかけようとしたら、いない。ぽつん、と商品が入ったカードだけがあった。自分の周りを、360度を見渡しても、いない。うそ。私勝手に進んじゃったのかな。……だとしても、ナッシュくんなら追いかけて来てくれそうだし。私のこと見失いそうに、ないのに。い、いや、自意識過剰とかじゃなくて、単純にそう思う。私が迷子になっちゃったのか。ここのスーパーはナッシュくんに連れて来てもらったところだから、まだ全体を把握できてないのに。

 あまり動いちゃダメな気もするけど、心細さから勝手に私の足は歩き始めてる。ナッシュくんどこ?きょろきょろとして、居そうな気配に振り返っても、知らない人だ。

「な……」

 ナッシュくんの名前を呼ぼうとして、思わず口を噤んでしまう。さっき、あんなたこと言っちゃったし。大丈夫。見つかる。周りを見過ぎて、さっきからおじさんやお姉さんが優しい笑顔で首を傾げて、私を見つめてくる。慌てて首を横に振って、なんでもないです!と愛想笑いで誤魔化す。どうしよう、探してても姿見つからない。名前って、大切なんだ。普段何気なく呼んでたけど、呼べないとすごい不便だ。

「……な、なっしゅくん」
「どうした」
「ひっ」

 聞き慣れた声に驚いて振り向けば、マーマレードジャムのびんを片手に私を見下ろすナッシュくんが立っていた。じっと私を見つめる瞳も、ふわりと香る匂いも、少しだけ柔らかい声も、全部……怖かったのに、すごい今私ほっとしてる。

「ナッシュくん」
「大事だろ、名前」
「……まさか」

 わざと、いなくなったの?呑気にカートの中へマーマレードジャムを入れているナッシュくんの横顔を見上げると、ナッシュくんは悪びれもなく首を傾げる。そのわざとらしいほど、絵になる仕草に私は唇を尖らせた。

「ナッシュくん、そういうの良くないよ」
「そういうのって、どういうのだ?時々、お前は遠回しな言い方をする。それこそ、良くねぇだろ」
「……」

 ナッシュくんの言葉よりも、お前という呼ばれ方に私は眉を顰める。まるで、以前の私たちみたいだ。互いの名前も知らずに、恐怖でしか結ばれてなかった頃のようで、嫌だ。

「……ナッシュくん、ごめん。名前大事です」
「だから?」
「……お前呼び、やだ」

 カートに視線を落としながら、小さな声で呟いた。子どもみたいだと、自分でも思った。でも、まだナッシュくんの前で素直な心をさらけ出すのは怖い。ナッシュくんの匂いが近づいて、耳元に吐息が触れる。「名前」今までで一番優しく、呼ばれた気がする。何処にも触れられないのに、膝が崩れそうになった。胸が苦しい。目線を上げると、すぐ傍にナッシュくんがいた。これでいいのか?と言うように、ナッシュくんは目を細める。その柔い視線に、勝手に身体が動いてしまった。

 
 音もなく静かに、俺の胸板に頭を預けてきた彼女の行動に俺はらしくもなく動揺した。あんなに触れることも、触れられることも避けていた癖に。彼女の背中に腕を回したくなる。両手を握りこぶしにして、その衝動を必死に耐えた。ほんのりと一部に触れる熱に頭がおかしくなりそうだ。

 懐かしい気持ちになった。久しく、俺は何かを守るために拳を握った気がした。 



 ただただ穏やかでやさしい時間を過ごす中で、私はナッシュくんに気を許していった。そろそろ、いいかもしれない。暑い日差しも、今は気にならない。キャップを被り直すと、前髪が額に張り付いた。早く帰ってシャワーを浴びよう。そんな一人で学校から帰る途中のことだった。

「なあ、ナッシュ」

 ナッシュ?聞き覚えしかない名前が聞こえて振り向くと、ナッシュくんがいた。そして、傍にいる人達を見て、どくんと心臓が跳ねる。お姉ちゃんのお店にいた人たちだ。相変わらず柄が悪くて、怖そうな人達だった。裏道で睨み合う男の人たち……、明らかに険悪な雰囲気だ。はやく、ここから去らなきゃ、じゃないと、壊れる。今まで築いてきたナッシュくんと私たちの関係が壊れる、そんな気がする。こんなときに限って、怪我をした足が酷く痛む。動いて欲しいのに。

「!」

 生々しい音がした。人が人を殴った音だ。まともに聞いたこともない。思わず口から、悲鳴がもれる。その声に気付いたのか、ナッシュくんがこちらを向いた。少し長い前髪から、大きく開いた目が見える。

「……名前?」
「いや……!」

 気付いたら、走り出していた。こわい、あの人はこわい。

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