◎つまるところ

 私はノイローゼになりそうだった。原因は言うまでもなく、ナッシュさんだ。精神疲労の原因は今日も、遠慮なくアレックスさん宅に現れ、我が物顔で飯っと私に言ってくる。少しでも隙を作ると、迫ってくるから困る。それこそ、料理をしているときなんて、隙しかない。

「…」
「…今日は何だ?」
「…普通に聞いて欲しいんですけど…」

 確かに、小さな子どもが両親の背中に抱き着いて、ご飯なにー?って尋ねてくるのとか、かわいいと思う。

 でも、ナッシュさんは子どもじゃないし、正直今一番近寄って欲しくない人だし。私の手元を後ろから覗き込むようにして、抱きしめてくるから、嫌でも私の頭に、ナッシュさんの顎が触れて、匂いが鼻をつく。あ、シャワー浴びた後なのかな。何かいつもより、匂いきつくないかも。…いやいや、だから…、思わずナッシュさんのことを考えてしまったが、危ない。つい、手元が狂いそうになる。一つ文句を言ってやろうとナッシュさんを見上げれば、ナッシュさんはじっと私を見ていた。むしろ、私がナッシュさんの方を見上げることを待っていたような…そんな目に、私の心臓はどくん、と大きい音を立てて、苦しくなる。

「名前」
「…や、…離れて」
「やだ」
「…」

 こ、この野郎。身体を捻って逃げようとしても、動揺している私の様子が楽しいのか、お腹に回された手に余計に力が込められてしまう。また飽きたのか、私の頭に顎を乗せて来た。重い。首が、肩が、凝る。包丁握ってるし、どうしようと追い詰められていると、ほぼ一種のパターンのようにアレックスさんが現れる。アレックスさんはナッシュさんの行動に呆れて、ため息をつく。アレックスさんにため息をつかれても、ナッシュさんは動じない。

「ナッシュ、料理中は我慢しろ。名前が怪我してもいいのか」
「…」

 そんなこと言っても、どうせ退いたりしてくれない。危ないのも事実だから、私はそっとまな板の上に、包丁を置く。その瞬間、耳元…と言うか、こめかみ、あたりに…柔らかい感触が、…え、なに。唖然としていると、これで我慢してやると聞こえて、呆気なく困っていた熱は離れていった。そして、私の頭に、大きな手が一度だけ乗って、またこれも呆気なく離れていく。

「おい」
「…はい」
「傷作んなよ」
「…」

 俺が引いてやったんだからな、ばかりの発言に私は目を丸くしながらも、一応頷いておく。なんだ、それ。傷つくなって、私の身体は私のモノだし、言われなくたって。なんだ、それ。こめかみ、辺りが熱い。まるで、初めて紙で指を切ってしまったときのような、痛くて、熱い。あの、独特の感じ。

 ……だいたい、傷つくなって。簡単に治ってくれない、傷をひとに作ったのはそっちじゃん……。

***

 もう、限界だった。朝起きて学校へ行こうとすれば、送っていくと車に乗ったナッシュさんに出迎えられ、いい!いい!と意地でも逃げようとしたいのに、足を痛めているからそれも願わず。帰りも現れるし、朝、昼、…と現れない!と気分よく一日と終えれるとテーブルに料理を並べていれば、なって欲しくない来客音を私の耳は拾ってしまう。誰かさんの所為で物音に敏感になった気がする。

「…」
「よぉ」
「…お疲れさまです」

 日に日に私がげっそりしていくのは目に見えているはずなのに、何故現れる。ナッシュさんの真意が全く分からなかった。……分かりたくなかった。
 
***

 我慢の限界だったのはあっちも同じだったらしい。私の態度が気に食わないナッシュさんはアレックスさんがいない間に、家に押し掛けて来て、バルコニーで涼んでいた私に迫ってきた。押してダメなら、引いてみろ、とかそういうのしないのかな。ナッシュさん駆け引き得意そうなのに。ひたすらガンガン押されて、もう私は逃げる隙間が無かった。だから、口が滑った。

「だって、そんなの…口説いてる、みたいで…女抱きたいなら、そういうところ」

 大きく鈍い音に、私は口を止めて、固まってしまう。私が凭れ掛かっていたバルコニーの柵に、ナッシュさんが私を閉じ込めるように両手をついたのだ。なにこれ、デジャブ。まって、これ、逃げれない。どうしよう、やばい。追い詰められた。しゃ、しゃがんで…でも、右足に思い切り体重かけたら、絶対痛い。困惑している間に、ナッシュさんの両手が私の腰を抱いて来た。

「…!」

 私は呆然として、ナッシュさんを見上げる。ナッシュさんは怒りを無理やり抑えた顔で笑って、私を見下ろした。なんと、惨い…。普段の私だったら、どうってことない高さだけど、足首を怪我している私にとって、この高さは拷問だ。

「これで逃げれねぇだろ」
「…なん、で」
「お前が逃げるからだ」
「……る」
「あ?」
「逃げるに決まってる!あんな事されて、もう二度と思い出したくない、ことされて…そんな人から、口説かれて…どうすればいいの。誰でもいいなら、放って置いてほしい。逃げるなって、…」

 まるで、私ではないとダメみたいな言い方じゃないか。そんなわけないのに。もし、そうだったとしたら…?本当に、私ではいけない理由が、気持ちが、ナッシュさんにあったら、私はどうするつもりなんだろう。考えるだけ無駄だよ、ってもう一人の自分が言う。傷付くだけだよ、って。この人に、隙なんて見せちゃいけない。入れ込まれたら、いけない。自分の身は自分で守らなきゃ、いけない。私は、もう、子どもじゃない。

「名前が欲しいから、逃げんなって言ってんだよ」
「…嘘だ。意味分かんない…私じゃなくてもいい、絶対」

 少し、動揺した。でも、条件反射でもう答えが、言葉が出て来た。ナッシュさんはまた眉を顰めて、酷く苛立ちを感じているようだった。でも、ナッシュさんも分かっていると、思う。頭が良いなら、尚更私に迫っても、逆効果ってこと。

「じゃあ、呼び方変えろ…他人行儀みたいだろ」
「他人ですし」
「その敬語も」
「距離置きたいから」

 引き下がらないナッシュさんに私はもうどうすればいいか、分からなかった。私にとって、一番ナッシュさんがしてくれて嬉しい事はもう二度と関わらないこと。それ以外はない。そう言うのに、ナッシュさんはそれじゃダメって言う。もう、いつまで経っても平行線だ。まるで言い分聞いてくれない、子どもみたいだ。途方に暮れそうになる。本当に、この人はプライドが高い。…ナッシュさんはプライドが高い、私は自分でも何思ってるんだろうって、思う。でも、どうせ…この均衡はいつか、崩れるかもしれない。私が何かしても、しなくても、…目の前の、この人なら無理やり壊してくる。なら、いっそのこと、自分で壊してしまってもいいじゃないか。

「…ださい」
「あ?」
「誠意を見せて下さい」
「せいい?」

 聞き慣れない言葉なのか、ナッシュさんは微かに首を傾げる。私は頷きながら、震えを誤魔化すように手をぎゅう、と握りしめる。震えようが、今は怯えてる場合じゃない。

「あ、謝ってください。私にしたこと。頭を下げて、謝ってください。…そしたら、敬語はやめます。呼び方も変えます」

 やけくそだった。もう私に握られている弱味はないはず、だ。ここで殴られても怒鳴られてもいい。痛い思いも怖いも思いも、もうしてきた。今更だ。私はナッシュさんを見上げる。絶対に目を逸らせない。ナッシュさんの目をが大きく開かれて、ぐっと眉間に皺が寄った。でも、一瞬だった。迷う素振りもなく、私が瞬きをしたらナッシュさんと目が合わなかった。その代わりに綺麗な金髪が見えた。

「…え?」
「悪かった」

 なに、してるの。こんなの、違う。自分で言ったことなのに、私は目の前の現実が受け入れることが出来なかった。ううん、理解することができなかった。私の動揺も、困惑も、戸惑いも、全部見向きしないで、ナッシュさんは頭を下げたままだ。悪かった…って言う、謝罪の言葉よりも、頭を下げる行為をしている人は本当に…本当にナッシュさんなのだろうか?悪い夢を見てるだけ、なんじゃないのか。

「…ナッシュさんじゃない」
「は?」
「ナッシュさんは頭下げたりしない…すごく嫌な人なの。最低な人なの!」
「……」

 自分でも何を言っているのか、分からなかった。でも、止まらない。だって、ナッシュさんが頭を下げるなんて、謝ってくるなんて、思わなかった。絶対しない人だって、確信があった。やっと、この人から解放されるって思ったのに。こんなの、……本当みたい、じゃないか。それは…嫌だ。また、痛い思いを、怖い思いをするよりも、もっと嫌だ。 

「…ちがう…、私に酷いことして…これからも、また酷いことしてくる…また傷付けられる」
「……しないって誓ったら、いいのか」
「する、絶対する」
「…」
「また怒鳴ったりする、変なことしてくる、勝手に身体触ったりする…から、やだ」
「……分かった」

 何が、分かった……なの。勝手に出てくる涙も、震える声も、全部全部苦しい。息が乱れそうになる。頭も痛い。鋭い頭痛の、あの、独特の感じがしてきた。もう、嫌だ。

 ナッシュさんが顔を上げる。じっと私を見上げた。ぐちゃぐちゃの気持ちをそのままに押し出したような、顔をしている私を見て、ナッシュさんは顔を歪めた。

「名前の嫌がることは、全部しない。もし……もしだぞ。絶対ないことだ。
 もし、名前の嫌がることをして名前を傷付けたら、もう二度と名前には近付かない。次はない」
「……う、そ」
「嘘じゃねぇよ」
「……じゃあ、傷付けて」
「ああ?」
「そしたら、二度近付ないんでしょ」
「……しねぇよ。言ったろ、名前が欲しいって」

***

 ずっと泣いていた。今まで誰にも言えない、気持ちを爆発させるみたいに泣いていた。ときどき、思わずナッシュさんの胸板辺りを殴ってしまった。それでも、ナッシュさんはただただ私を見つめていた。私に触れずに、私に言葉も掛けずに、一緒に傍に居た。泣き終わった頃には、酷い眠気に誘われた。赤ちゃんでもないのに。でも、泣くことは体力が居るのだ。

「…もう平気か」
「…うん」
「よし、戻るか」
「う、うん」

 ナッシュさんの落ち着いている声に、逆に落ち着かない。まるで、ジェットコースターのようなやり取りをしたのに、今はすっかり静かな空間だった。ナッシュさんの言葉に頷いていると、ナッシュさんが部屋へ戻ろうとする。当たり前だ。外に居るのだから…、そう、当たり前…のはず。悠々と歩いていく背の高い…後ろ姿に、どこか違和感を持ちながらも、私も帰ろうとした。……帰れない。

 捻挫した私にとってはちょっとした高さが命取りなのだ。い、いっしゅん…痛いことを我慢すればいい…いい、だけ。葛藤しながらも、なかなか覚悟が決まらない。そもそも、ナッシュさんがこんなところに持ち上げるから…!

 原因の後姿を睨みつけると、ナッシュさんはすぐに振り返った。

「どうした、戻るんだろ」
「……ナッシュさんの所為で戻れない」
「ああ、そうだったな…」

 ナッシュさんは長い足で数歩で戻って来た。不本意ながら、ナッシュさんに抱き上げられることは何度もある。近づく肩に思い切り掴んでやろうか、と思ったが、思うだけで終わる。肩に掴まろうとしたら、変な距離が開いた。突然ナッシュさんがわざとらしく、両手を上げる。おまけに、おっと…なんて、普段なら絶対聞けない、おどけた声付きだ。

「な、なに…」
「いや、俺は名前に触れちゃいけないんだろ?」
「……」
「下ろしてやりたいのは山々だが……名前に嫌な思いさせたくねぇからな…。
 まあ、名前が触れていい、言うなら話は別だけどな?」
「…!」

 引っかかっていた、違和感の正体にやっと気付いた。ナッシュさんが素直過ぎたのだ。何度も言うけど、ナッシュさんは頭が良い。考えなしに頭を下げるなんて、真似するはずなかったんだ。ナッシュさんのことを拒否したばかりなのに、ナッシュさんの手を借りることになるなんて…、ナッシュさんは最初からこうなるって分かっていたのか。騙されたって、嫌な気持ちになると思った。でも、嫌な気持ちと言うより、悔しいとか、そんな感じの気持ちしか、湧いてこなかった。

「ん?」
「…仕方なく…、仕方なく、ナッシュさんの手を借りるだけ……」
「だから?」
「おろして…」
「名前に」
「触ってもいいから!不可抗力!」

 恥ずかしくて、悔しくて、意地になって噛みつくように言えば、ナッシュさんはバカにして笑うと思った。口元はいつもみたいに感じ悪く上がっている。でも、少し、本当に少しだけ安堵したような顔を見せた。私の気のせいかもしれない。

「ちゃんと掴まれよ」
「うん」
「あと、さんやめろ」
「…ナッシュくん」
「くんもいら」
「ナッシュくん」

 私はわざとらしく嫌な顔を作って、ナッシュくんを見上げた。すると、ナッシュくんは何か言いたげ顔をしても、口を噤む。私の嫌がることは、しないって言ったのはナッシュくんの方なんだから。

***

「なんだよ」
「……何か嬉しそうだなって思って」
「そりゃあ好きな女が自分の腕の中に居て、悪い気はしないだろ」
「……」

 何言ってんだ、お前みたいな顔をして、ナッシュくんは言い放った。ナッシュくんの言葉に思わず、私はナッシュくんの肩に顔を埋める。

「どうした?俺に自分から触れるなんて?ん?」

 ナッシュくんは楽しそうに私の名前を呼ぶ。意地悪な声色だけど、今までと全然違うように聞こえる。私を困らせて、何が楽しいんだろうって最初の頃は本気で思ってた。執着される意味も分からなくて、ただただ嫌悪しかなくて、拒絶しか出来なかった。でも、今は違う。私を腕に抱いて、意地悪なことを言いながらも、機嫌が良さそうな横顔を見ながら胸が熱くなった。

 本当なのかな、って。信じて、いいのかなって。この温もりを素直に感じても、いいのかなって。

「名前?」

 ずっと我慢してた。
ナッシュくんの言葉に恥ずかしくて、ナッシュくんの肩に顔を埋めれば、ナッシュくんは楽しそうに私の名前を呼んだ。ナッシュくんの気分が良いときは楽しい声も聞いたし、優しく触れられることだってあった。でも、もうこの腕の中に私を傷付けるものはなかった。ううん、ないって信じたい。その差は私にとっては大きかった。

「…ん、…う…うう」
「お、おい…泣いてんのか?急にどうした、名前」

 やっと嘘を付けずに、誰かの傍で素直になれると思った。そう思った途端に、緊張の糸が切れて、また涙が止まらなくなった。おかしな話だ。植え付けられた恐怖も、熱もナッシュくんの所為なのに、それから解放してくれるのもまたナッシュくん、だなんて。

 前触れなく涙を流し始めた私にナッシュくんはらしくもなく、たじろいでいた。その様子はとってもおかしかった。変なの。なんだか、ナッシュくんから一本取れたような気分だった。そうだ。これからいっぱい、たくさん、私のことで頭を悩ませて困ればいい。私は散々ナッシュくんの所為で頭を抱えて来たんだ。こんな些細な復讐なら、神様だって許してくれる。好きな女が自分の腕の中にいるのに、泣いている不甲斐なさに悔しがればいい。

「おい、……名前」

 何が原因で泣いているか分からないのが、悔しいらしいナッシュくんはしばらく私の名前を呼んでいた。ちゃんと約束を守ってくれるらしい。寝落ちするまで聞こえていたナッシュくんの声にほんの少しだけ、誠実かもしれないと思った私は大分感覚が麻痺している。そして、ナッシュくんらしくない困った声まで聞こえてしまった。寝惚けてたのかな。

「……どうすれば泣き止むんだよ、なぁ……名前」

 本人は絶対嫌がるだろうし、言えないけど、ナッシュくんの弱気な顔が好きだと思ったのは、私だけの秘密だ。この先もずっと感覚が麻痺をしたまま、この腕の中に居たいと思ったのは、いつかナッシュくんに言ってもいいかもしれない。

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