〇彼女の時間

「名前の料理は本当にうまいな!お嫁さんにしたいくらいだ!」

私はアレックスさんの言葉にえへへ、とだらしなく頬を緩めた。前途多難と思われた留学も、アレックスさんのおかげでとても楽しく穏やかな日々を過ごせている。アレックスさん…、ストリートコートで途方に暮れていた私を拾ってくれたお姉さん。アレックスさんの家に泊まらせてもらう代わりに、料理や家事をすることで手を打ってもらった。

にゅっとアレックスさんの腕が伸びて来て、ぎゅうと強く抱き締められる。

「んー!」
「やだ、アレックスさんくすぐったい」
「こらこら、逃げるな」

頬に当たる、優しい感触。最初こそ、驚いたものの、私はすっかりアレックスさんのスキンシップを受け入れていた。少しずつ消えていく肌の痕のように、新しいものに触れて、受け入れいていきたい。いっぱい受け入れて、忘れたいものを覚えている隙なんてなくなるように。

***

基本的に、私の生活はアレックスさんを見送った後に、自分も仕度をして、語学の勉強のために学校へ向かう。
未だに、英語は全然で、きっとあの人が聞いたらまた怒るだろう。…私は洗い物の手を止めて、頭を軽く振った。

本当に、ふと思い出してしまう。早く、この思い出す癖をなくしたい。留学することはあの人に出会う前から決めていた事だから、曲げたくなかったし、外国と言う要素だけであの人を思い出してしまうことは十分覚悟したはずなのに、思い出すとどうしても気分が沈む。

「…お弁当作らなきゃ、あと洗濯」

学校から出される課題だって、ある。こんなことで悩んで居られない。やらなきゃいけないことに集中しよう。
きっと、その内忘れる。大丈夫。その証拠に、今日までちゃんとやってこれたんだから。

決心を固くするように、私は大きく頷いた。この仕草は思考を切り替えたいときの癖にすっかりなってしまっていた。

***

あるときから、アレックスさんの口からクソガキが登場するようになった。何でもバスケのセンスも、才能も、実力もあるのに、性根が腐っているような青年らしい。私はアレックスさんの話を聞きながら、そんな人に関わって大丈夫なのかと何度も心配を口にしてしていた。その度に、アレックスさんは頼もしい笑みを浮かべて、私の頭をぐりぐり撫でた。

「私は強いからな、だいじょうぶだ!」
「…う、うん〜、でも」
「この美味い煮物は何だ?」
「ああ、それは」

…また話をはぐらかされた。そんなことに気付きながらも、私は知らないふりをしていた。きっとアレックスさんが関わることを止めないのは、アレックスさんなりに思うところがあるからだと、思う。私もそんなアレックスさんに拾われた身だから、何も言えない。

「…」
「…」
「…名前、ありがとな」
「そ、そんな…」

ぐりぐりと頭を撫でられて、優しい眼差しに見つめられて、照れてしまう。知り合いは友達しか居ない。いや、一人居るだけでも、十分だろうけど。それでも、何処か心細く感じるこの土地で、アレックスさんから惜しみない優しさが身に沁みめて、泣きそうになる。

私もアレックスさんみたいな、素敵な女性になりたいな。



そんな私なりの、でも大切な小さな目標もできて、穏やかな日々を送っていたのに、…あの人はやっぱり、悪魔だ。私はアレックスさんの温かくて安心する腕の中で、初めて身体を震わせた。だって、この匂いは…嫌でも、覚えている。この匂いを纏っている人は…あの人しかいない。

やだ、いやなのに。唇から、勝手に零れてしまう、あの人の名前。初めて、口にした名前。全然馴染みなんか、なくて変な感じがした。なのに、ナッシュさんは動揺したように目を見開いて、私の腕を引っ張った。変わってない。強引で、自分の都合しか見ていなくて、最低な人。不愉快でしかない、この大人の匂い。最初はきついって思っていたのに、どこか甘さを感じるようになったのはいつだっただろう。

視界いっぱいのナッシュさん。この金色の髪から香る匂いは、最初に鼻に感じるつん、とした匂いと違うとか。唇って、人それぞれ感触が違うんだなとか。アレックスさんに、唇を奪われていた私はそんな的外れなことを考えていた。だって、そうでもしないと、思い出してしまう。この人の、…ナッシュさんの腕の中に居たくない。安心なんて、しない。心がざわざわして、落ち着かない。怖い…怖いのに、この恋しさや寂しさをを埋められるような、感覚はなんだろう。なんで、そんな感覚を覚えてしまうの?

ナッシュさんに対する戸惑いと、恐怖が一気に私の中を駆け巡った。本当に、私を見下ろす、この人はナッシュさんなんだろうか。アレックスさんの背中に隠れながら、私は最後の悪足掻きでもするように、ナッシュさんを見上げる。ああ、そう言えば…ナッシュさんから、あの部屋から逃げようとお姉ちゃんが手を引っ張って、頼もしい背中に甘えているときも、ナッシュさんは私の前に現れたっけ。

「…日本の奴らと親善試合をしたときに、観光案内をしてくれたんだ。
 また会えて嬉しいぜ?なあ、名前」

そう。あのときも、こんな風に、ナッシュさんは意地悪く笑っていた。恐怖や戸惑いだけじゃない。
ナッシュさんに対しての、気持ちは…やっぱり、私…私っ、この人、きらい!

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