眩しさを感じて目を覚ます。言い様がないだるさと痛みに襲われて、布団に再び身体を沈める。ベッドには嫌なくらい、あの人の匂いがあって、嫌悪しかないはずないのに、身体の力は抜けていくから腹立たしい。そんな自分を否定するように、私は意地でも身体を起こし、身支度を始めた。
「…」
お姉ちゃんとあの人が対峙したエントランスを抜けて、私はホテルから出た。どうして、だろう。
あの連れ込まれた部屋から離れるほど、心臓が波打って、不安になる。逃げ出したい気持ちは本当なのに、あの部屋に帰りたいって思っている。
どうして、…自分の気持ちが自分で分からない。…それとも、もう手遅れだったんだろうか。昨日から恐れていた一つの可能性に、ぞっとして、私は考えを振り払うように、ちゃんと背筋を伸ばして前を見据えようとするが、それも数歩しか保たなかった。人通りが多い道沿いで立ち止まりそうになる。足ががくがく震えて、上手く歩けない。
どうしよう。壁に寄りかかっても、立つことが維持できない。
「……名前?」
「…」
久々に呼ばれた名前に振り返ると、心配そうに私を覗き込む友達の姿があった。私の顔色を見て、只事ではないと思ったのか、すぐに私に駆け寄って、友達は私の肩を支えてくれた。
「とりあえず、ゆっくり出来るとこ行こう?歩ける?」
「う、ん」
***
「…それは…とっても、濃い一週間だね。
って、え、…それって、普通にごうか」
私の話に、友達は言い辛そうにして、口を噤んでしまった。ですよね、と私は身体を小さくする。運ばれてきたアイスティーのストローを無駄にくるくると回して、氷の音で気を紛らわしてみる。
友達は少し視線を上げて、考え込む。
「…ストックホルム症候群」
「え」
「…いや、ちょっと、それっぽくない?」
友達が遠慮がちに口にした言葉を、私は頭の中で繰り返した。
「そうなの、かな…」
「一週間ずっと一緒に居たんでしょ?」
「うん」
私は友達の言葉に、椅子から崩れ落ちそうになった。妙に冷房の効く室内の所為だろうか、あの熱い体温が恋しかった。今にも、あの部屋へ帰ろうとしそうな足を、必死で抓って、正気を保つ。違うよ、私はあの人に嫌悪感、不快感、それ以上も、それ以外の感情も持っていない。持っていたとしても、それはまやかしで、一時的なものなんだ。
授業で習ったことを思い出そうと、軽く目を瞑った。ストックホルム症候群。被害者が、犯人と長時間過ごすことで、犯人に対して過度の同情や好意等を抱くこと…だったよね。ぼんやりとしか、思い出せないが、私があの人に思っている感情はこの現象の所為だと思っていい。それしかない。私は必死で言い聞かせるように、もう一度太もも強く抓った。
「ねえ…名前」
「うん?」
「無理だったら、いいんだけど。
明日遊びに行かない?…何かした方が考えなくて、済むかなって…それとも、…」
「…?」
友達はまた酷く言い辛そうに、長く間をおいて、小さな声で言った。
「…警察行く?」
「…」
私は無言で首を横に振った。友達も眉を下げて、ごめんと謝った。分かってる。友達が私のことを思って言ってくれたことは、分かっている。それでも、警察に行く気にはなれなかった。それは泣き寝入りしたいわけじゃなくて、
もう思い出したくない、友達にだって言う事を躊躇ったのに、そんな事を赤の他人なんて言えるわけない。
このまま、忘れたかった。
「あそび…」
「うん?」
「いきたい…。私夏休みなのに、楽しい事してない」
弱弱しく言えば、友達は私を安心させるように明るく笑って、大きく頷いた。
***
「名前!」
夜も更けて、玄関の開く音に目を覚まして、部屋のドアを開ければ、仕事帰りのお姉ちゃんと鉢合わせになった。
涙ぐんで私を抱き占めるお姉ちゃんはタバコやお酒の匂いできつかったけど、それでもよかった。抱きしめ返すと、ぎゅうっと一層強く抱きしめられた。
「良かった!本当に良かった!」
「く、くるしい…」
「ごめん…嬉しくて…。アイツら、明日で帰国するらしいから!もうお店の事考えなくていいからね!本当に大丈夫だった?何にも…されてない、わけないよね?」
「えっと、…お前の身体じゃ勃たないって言われた」
「は…?え、じゃあ…?」
「観光しろって連れ回された、だけ」
アイツらは、言われずともあの人たちの事だ。咄嗟についた嘘は想像通りに怪しまれたので、落ち込んだフリをしてみる。女の魅力がないんだよ、私には…と遠い目をすると、お姉ちゃんが慌ててフォローしてきた。
「いや、でも、この場合はなかった方がいいでしょ!ちゃんと大切にしなきゃ…ね?ごめんね、起こして。ゆっくりしなよ」
「うん、ありがとう。お姉ちゃんもね」
「はいはい」
ベッドに再び潜って、私は自分の身体を抱きしめる。良かった。突っ込まれなかった。髪を下ろして、ギリギリ隠れるラインであの人に痕をつけられた。一回だけじゃない、何度も何度も繰り返しつけられた痕は日に日に濃くなって、綺麗に消えるかどうかも心配してしまう。このパジャマの下には、あの人につけられた痕でいっぱいだ。その事実に、じわじわと広がっていってしまう熱や、不安は無理やり見ないフリをした。そうするしか、ないのだ。
自分の家に帰って来て、自分の部屋で過ごす夜は久しぶりで、変な感じがする。息を吸うと、自分の部屋の匂いがした。嗅いだことなんて、ない。だって、私には馴染み過ぎて、匂いすら分からないはず。それが普通なのに…、ううん、もう一度普通にしていかなきゃいけないんだ。
私はただの、暇つぶし。何とも思ってない。私からの感情なんてどうでもいいから、あの人の機嫌がいいときは優しくされたし、苛立つことすれば、酷くされた。全て気まぐれ、何にもない。
お姉ちゃん、ごめんね…。きっと、本当のことは気付かれている気がする。でも、身内だからこそ、家族だからこそ、あんな事された、なんて言えない。はやく、はやく…忘れなくちゃ、忘れて元の生活に戻るんだ。
一人のベッドが寂しいなんて、思っちゃいけない。全てを振り切るように、私は強く目を瞑り直した。
***
友達に遊びに行こうと言われた場所はバスケの試合だった。友達に意外だと言えば、今しか見れない試合らしい上に、ルールが分からなくても見て居るだけで興奮してしまうプレイが見えるのだと、友達は既に興奮しながら伝えてくれた。スポーツ観戦は中々いいのかもしれない。
まさか、あの人がコートの中に居るなんて、私は思いもしなかった。だって…、私はナッシュさんのことを何も知らない。どこ国の出身なのかも、何をしている人なのかも、年齢も、何も知らなかった。鍛え上げられた身体に何かスポーツをしている人なのかな、とふわふわと思っていたけれど、本当になにも…、何にも知らなかった。
「…ヤバい」
「…」
私たちは人がいっぱいの道中を外れて、近くのベンチに座り込んでいた。私も友達も魂を抜けたように、惚けていた。心臓の鼓動が激しく、自分でも高揚して興奮しているのが分かる。
「ねえ…」
「うん」
「バスケ超かっこいい」
「うん」
目を閉じれば、さっきまでの試合の光景が浮かんでくるようだった。目で追えないほどに早い動きでボールを操るプレイヤーはもう同じ人間じゃなかった。あんなに早く動いて、同時に考えているんだから、すごい。器用とか、そういうレベルじゃない。
「やっぱさ、ジャバウォック…最悪だったけど、ファンが居るの分かった」
「…そうだね」
私の頭の中には、すごいプレイが繰り返し再生されるけど、…一番印象的だったのは最後だった。日本人のチームの勝利が決まった瞬間に、立ち尽くすナッシュさんの姿がずっと頭に張り付いて離れない。あんなに大きくて恐ろしかった背中が、小さく見えた気がした。でも、その後に引き締めた顔の、真剣な横顔はずっと一緒に居ても見せてくれなかったものだった。
「ちょ、名前だいじょうぶ?人多かったから、気分悪くなった?」
「…」
私は顔を覆いながら、首を横に振った。友達は心配そうに私の肩を抱いて、スマホを取り出して、タクシーを呼び出していた。もう、本当に嫌だ。
だって、ほら…こうやって肩を抱かれて、ナッシュさんの手の大きさや、体温と比べてしまう。友達の肩に凭れ掛かって、甘い香りにまた寂しさを覚える自分に嫌悪感が募った。
絶対口にしたりはしないけど、…けど、
コートでボールを意のままに扱うナッシュさんはカッコよかったし、あの背中に寄り添いたいって思ってしまった。
***
数か月経ち、大学も後期が始まった。私は前期の成績表を見て、満面の笑み浮かべる。これで、卒業に必要な単位は全部揃ったからだ。厳密に言うと、四年生でしか取れないものあるため、全部ではないけど。
「うっそ…キモイ」
「酷くない?」
「さすが名前…一回もサボったこともないもんね。
…てか、むしろ余分に取ってない?」
「うん、一応。興味ある奴は全部ね」
「…うわあ」
キャリーバックを一緒に転がす友達は舌を出して、顔を顰める。その友達の態度に私も舌を出して、空港へ急ぐ。
「まあ、いいや。
留学が終わってから考えよ」
「お気楽だなぁ」
「人生ね、そんなに難しく考えず程々の方が楽しいの。
何が起こるか分からない!だから人生なの!」
私は友達の言葉を聞き流して、はいはいと頷く。友達は拗ねた顔をして、私の肩を叩いた。
***
「…」
ヤバい。迷った。地図に目を通しても、自分が何処にいるのかすら分からない。ふと、聞き覚えのある音がして、導かれるように向かえば、一瞬眩しさに襲われて、目を背ける。
薄目を開きながら視線を向ければ、私は大きく口も目も、開きっぱなしになった。
あの一度見たら、忘れない。綺麗な金色の髪と、白い肌に刻まれた存在感がある刺青、…ナッシュさんだ。
「お?お嬢ちゃん?バスケに興味あんの?それとも迷っちゃった?」
「…!?」
見惚れていると、いきなり外国人さんに話しかけられた。にこにこと交友的な笑みだけれども、何を言っているか分からない。どうしよう、いい人かもしれないけど、ちょっと怖い。控えめに笑って後ずさっていると、背中に柔らかい感触が当たる。
「ストップストップ。
怖がってるだろう?この子ことは私に任せて、コートに戻った戻った」
「そうか?お嬢ちゃん、ごめんな!」
外国人さんは申し訳なさそうな顔をして、コートに向かって走って行く。
「…あ、えっと、えっと」
「あんた日本人か!」
「…あ、はい」
顔を上げると、これはまた綺麗な金髪のお姉さんが気前よく笑っていた。ちょっと聞いてないだけなのに、日本語を聞いた途端に涙腺が緩みそうになった。
「どうして、こんなところに?迷ったのか?」
「はい、えっと、ここに行きたくて」
「…ん?ん〜…、ここ確か」
地図を見せると、お姉さんは眉間に皺を寄せた。その表情に嫌な予感を覚えたとき、私のケータイが音を立てて、震える。お姉さんは気にするなと、言うので、お言葉に甘えて電話に出た。
「…え?いや、そんな…だって、ちょっと!」
「…どうした?」
「…ホームステイ先に断れました」
厳密に言うと違うけど、どっちにしろホームステイ受け入れてもらえなくなったことは事実だった。どうしよう。呆然と立ちすくむ私に、お姉さんはやっぱりと呟いた。顔を上げれば、お姉さんが気遣うように眉を下げる。
「ここ私の近所なんだけど。最近引っ越して、誰も住んでない所なんだよ」
「…マジですか」
「ああ。あんた高校生?」
「だ、大学生です」
「大学生!悪い悪い、可愛らしいからつい!名前は?料理出来る?」
カラカラと笑うお姉さんの雰囲気に圧倒されつつも、私は名前を名乗った。何故料理…?と首を傾げたが、一応できると頷く。お姉さんは私の名前を二回ほど繰り返して、いい名前だな!とにこっと笑う。
「よし!良かったら、うちに泊まるか?」
「…」
お姉さんの提案に私は目を丸くする。お姉さんはただただ楽しそうに笑うだけだ。
「人生ね、そんなに難しく考えず程々の方が楽しいの。
何が起こるか分からない!だから人生なの!」
確かに、その通りかもしれない。
あの一週間が異質だっただけ。元々私とナッシュさんは出会う事がなかったような、そんな関係性なんだと思う。たまたま、あのとき交わっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。
遠ざかっていく弾むボールの音を断ち切るように、私は背を向けた。そこに戸惑いはなかった。だって、あの部屋から離れて囚われている私はもう居ないのだから、私は私の人生を歩いて行かなきゃいけない。
七日目の朝に聞こえなかった、あの部屋の扉の閉まる音が聞こえた気がした。