ふたりの知らないこと

こうきしん

 いつだったか、誰から聞いたのか、覚えていない。でも、聞いた内容は覚えている。女の子はね、身体を許しても、唇は許したくないんだって。こんなの、誰に聞いたんだろう。当時の私は思い切り顔を顰めて、理解できないと思ったとおもう。だって、好きな人でもない人に身体も唇も、どっちも許したくない。それなりの仲でない限り、触れられることだって抵抗があるのに。でも、今の私はちょっと分かるかもしれない。今でも好きな人以外にどっちも許したくはないけど、唇って、もっと大切って言うか、なんだろ。

「…ん」
「…名字」

 切島くんの部屋に忍び込むことにも慣れてしまった。私のために、マグカップまで用意してもらっている。赤くて、炎のマークがついた。切島くんらしい、暑苦しいマグカップ。切島くんに課題を教えていて、終わって、何とも言えない空気になって、私たちは互いに探り合っていた。たぶん、二人ともしたいことも、同じで分かっているのに。言い出せない。ムードって、流れって、なんだっけ。いつも成り行きだから、分からない。切島くんに名前を呼ばれて顔を上げたら、熱のこもった目で見つめられて、気付いたら目を閉じていた。

 唇と、唇が重なる瞬間って結構好き。満たされる感じがして、いい。切島くんと触れ合っていること自体が好きだから、余計に気持ちも身体も満たされる感じがする。唇を啄むようにされて、ちょっと乱暴に唇を割って入ってくる舌も好き。切島くんは普段明るくて、戦うときは力強い。戦っている姿を見ていると、必要以上に傷付けないようにしていて、でも全力な所は変わらない。そんなどんなときも、優しさが混じっている切島くんが自分の欲望のままにちょっと乱暴になる感じが好き。勝手に特別なのかな、なんて思っちゃうけど。

 たぶん、切島くんは底抜けに明るいわけじゃない。人並みに、立ち止まって考えたり、迷ったりする。でも、そう言う所を他人に見せる人じゃない。私が見たことない、だけかもしれないけど。体育祭のとき、冷静に爆豪くんの試合を見ている横顔をみて思った。切島くんは勢いや流れに弱い所もある気がするけど、冷静に今の自分を見つめることが出来る人なんだって。

 元気で明るいクラスメイトの男の子。それだけじゃない、切島くんを知ってしまった。夢を真剣に追いかける姿を見てしまった。クラスメイトの男の子に埋もれていた男の子は、誰でもない切島くんになった。憧れと興味が入り混じった、この気持ちはこれからどうなっていくんだろう。

 引き寄せられた熱い腕の中では、いつも思考をどろどろに溶かされてしまう。

「……名字」
「?」
「首に掴まれるか」
「う、うん?」

 乱れた息を整えながら、私は切島くんの首に腕を回す。いきなり変な浮遊感に驚いて、声を上げそうになった。

「悪い。大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶだよ…」

 え、え…え?き、切島くんのベッドの上は初めて、じゃないけど。こんな雰囲気でわざわざ移動したこと、ない。困惑か、戸惑いか、自分でも分からず、固まってしまう。切島くんは私の後頭部に手を優しく添えると、小鳥が啄むようなやさしいキスをくれた。そっと目を開く。

 目の前には顔を真っ赤にしながらも、男の人の目をして切島くんは私を押し倒した。

***

 大人しくて優しいだけじゃない、名字を知ってしまった。不満があると笑顔が微妙になるところ、唇を尖らせる癖があるところ……熱っぽい瞳は何度も何度も見たくなるくらい、クセになるほど色っぽいところ。俺に押し倒されて彼女は困ったように眉を下げるが、でも好奇心と誘うような瞳が俺を見上げる。その瞳に誘われるままに、瞼に口を近づけた。したいから、した…だけ。若干キザみたいなことをして恥ずかしくなった。恥ずかしさを誤魔化すように、彼女にキスを一つ。

 色気がないかもしれねぇけど、やっぱ頭で考えるより身体で覚えた方が早いと思う。彼女の下唇を甘噛みすると、彼女は唇をそっと開けるから舌を差し入れると小さな舌が遠慮がちに絡んでくる。どうすれば、彼女がどういう反応するのかと分かるのがいい。この満たされる感覚を上鳴辺りだったら、支配欲じゃねぇの?なんて言ってからかってきそうだ。彼女に触れていると、普段は人に見せたくない、自分でも逸らしてる汚い欲が出てくるから、困る。彼女の口の中を好きにするのが、好き…つーか、単純に興奮する。上顎のところを舌先でつついて、押し当てて動かすと、彼女の唇から高い声がもれる。

 それこそ、教室では絶対聞けないような、声だ。

「…ん、あっ…」

 あーやばい。口の中のヤラシイ音でさえヤバいのに、彼女の甘くて高い声は俺を惑わすようで、やばい。薄っすらと、ゆっくりと、彼女に気付かれないように俺は目を開く。予想通り彼女は目を強く瞑って、眉を寄せていた。キスしているとき、絶対目瞑ってんだよな。なんか、かわいい。もうかわいいって思ったら、余計にかわいいって見えてくる。

 聞き慣れない。カリカリ、と独特の音がして俺は内心首を傾げる。どうやら彼女の丸まったつま先の爪がシーツを引っ掻いている音っぽい。彼女の両腕が俺の首に回ってキスに夢中になると、彼女は無意識のうちに足をすり合わせたり、もぞもぞと動かすのだ。そう言えば、初めてキスした日に彼女の足の間に足を入れたときも、彼女の柔らかい太ももに挟まれて興奮した覚えがある。今日は彼女を押し倒している。
 つまり、俺の足の間に彼女の両足があるから、もどかしそうに動いている足が俺の内ももに当たったり、俺の、その…イイところに当たったりして、こまる。

「…名字」
「…」

 彼女の口から舌を抜こうとすると、彼女の舌が絡まって来て、可愛らしい音を立てて吸い付かれる。ああ、だから…!嬉しさと、苛立ちと、もどかしさと、訳の分からないぐらい熱くなってしまう欲をぶつけるように、彼女の舌に歯を立てる。彼女の肩が小さく跳ねて、またシーツを引っ掻く音が部屋に響いた。彼女の舌が麻痺をするように、震えて力が抜けていく。その隙に、俺は彼女の口内から舌を抜いた。ああ、この、唾液が貯まって舌先が重い感じ、ほんと彼女とキスしてんだって実感する。そんな彼女の名前を読めば、彼女は真っ赤な顔のまま視線を逸らす。

「…触りてぇんだけど」
「?」

 彼女は蕩けた顔をして首傾げた。俺を見上げる彼女の目も、とろんとしていて、俺の欲を刺激してくる。彼女の目線に応えて俺は分かりやすいぐらいに、彼女の胸元を見つめた。言葉にするのも、試しに軽く触れるのも、どうかと思って。こんな遠回し、男らしくねぇけど。彼女も俺の視線を追って、そして俺の言いたいことを理解した瞬間、彼女も分かりやすいぐらい、いっとう顔を赤くして目を大きく見開いた。

「え、ええ…」
「……やっぱ、嫌か?」
「え、…え、嫌とか、そういうんじゃなくて…」 

 彼女は肘で支えるようして、軽く身を起こす。彼女の視線がぐるぐると泳いで、その内目を回してしまうのではないかと心配しそうになる。俺は彼女の様子を見て、頷いた。空調が効いているはずなのに、暑い。脱いでも、寒くなかった。いきなりTシャツを脱ぎだした俺に彼女はまた目を大きく見開いて、俺から思い切り視線を逸らす。俺は彼女の手を取って、自分の胸板に押し付けた。彼女は肘で支えていたから、バランスを崩して俺に押し倒される形に戻った。

 彼女は目を白黒とさせて、頭の上にはてなマークをいっぱい思い浮かべて、俺を見上げた。実際はちらちらと伺うように見上げられた。

「き、きりしまくん…?」
「いや、やっぱ、俺からしねぇとダメだろ」
「…う、うん?え、わ、私も脱ぐの?」
「…俺が脱いでも、恥ずかしいか?」
「…う、うう」

彼女は唸りながら目をぎゅうと瞑って、小さく小さく口を開いた。


(そんな…二人一緒なら、恥ずかしくないとかじゃなくて……切島くんの、こういうフェアな?
 ところ好きだけど…だけど)
(…名字だけ脱がすのは良くねぇと思って、俺も脱いんだんだけど…失敗だったか?
 てか目合わせてくれねぇ…)

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