貴方しか知らない私

こうきしん

 女の子はすごい。いや、女の子つーか、名字さんすごい。クラスで、ヤオモモとこそこそと話しては、小さく笑い合っていたり、真剣な顔で意見を交換していたり。いつもの、名字さんだ。俺の知ってる彼女で、昨日知った彼女はここに居ない。もしかして、昨日の出来事は夢だったのだろうか。俺の願望が作り出した夢とか…それは恥ずかし過ぎる。いや、でも、覚えている。

 彼女の色っぽい息遣いとか、キスに夢中になると身体を押し付けて来て…積極的っぽい感じがしたり、彼女の柔らかさとか、匂いも、…覚えてる。これが夢なら、リアル過ぎる。俺の想像力たくまし過ぎだろ。一人で机に額を押し付けて唸っていると、軽く頭に衝撃が感じた。なんだ、また上鳴かと思って顔を上げる。

「切島どうしたの?元気ない感じ?」
「芦戸…いや、べつに」
「ふぅーん…」

 芦戸が目を細めて、俺をじっと見て来た。芦戸はこう見えて色々と鋭い奴だから、バレるとめんどくさい。悪い奴ではない。でも、それはバレていい理由にならない。どうする…、とそんな軽く追い詰められていると、唐突に聞き慣れた悲鳴が教室に響く。俺と芦戸は目を丸くして、悲鳴の先に視線を向けた。

 そこには、耳郎のイヤホンジャックがぶっ刺さった峰田が倒れていた。ある意味、いつもの光景だ。

「まーた峰田何かやったな」
「次から次へと…エネルギッシュな奴だな」
「ねー…ん?でも…ヤオモモじゃなくて、名前に絡んだっぽい?…めっちゃヤオモモ警戒してんじゃん」
「…」

 芦戸の言葉に再び俺は視線を向ける。芦戸の言った通り、まるで爆豪のように目尻を吊り上げて怒っているヤオモモが居た。ヤオモモの腕の中では、彼女が困ったように笑っていて、…何があったのか、めっちゃ気になる。

「…ねえ」
「な、なんだよ?」
「やっぱ、名前と何かあった?」
「…」

 なんで、ピンポイントに名字さんって分かんだよ!

***

 私は背中に当たる柔らかい感触にドキマギしながら、まあまあと眉を下げてしまう。百ちゃんは鼻息荒く怒っていて、ちょっと落ち着かせるのが大変かもしれない。峰田くんからイヤホンジャックを抜いて、響香ちゃんも私に駆け寄ってくれた。

「名前だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。…大袈裟だなぁ」
「大袈裟ではありません!峰田さんの先ほどの発言はとても失礼ですもの!」

 ぎゅ、ぎゅっと百ちゃんに抱き締められて、私はちゃんと眉を下げて曖昧に笑った顔を保ったまま、さっきの峰田くんの発言を思い出した。

「…名字」
「?」

 真剣な面持ちで峰田くんに声を掛けられて、私は百ちゃんと一緒に見ていた本から視線を外す。きっと、どうでもいいことだろうな。…失礼かもしれないけど。百ちゃんは目を鋭く細めて、峰田くんを警戒しているようだった。百ちゃんは峰田くんに何度も騙された経験があるからだ。

「俺はな、思うんだよ…」
「?」
「一見、お前みたいな無害そうな顔した奴が一番スケベなんだ!
 そう、名字は大人しそうに見えて実はめっちゃエ」

 続きは聞けなかった。響香ちゃんと百ちゃんの連携はすごい。気付いたら、私は耳栓をしていて、峰田くんは倒れていた。

 …でも、まあ、案外…峰田くんの言うことは外れてない。スケベなわけではないけれど、一人の人間としてそれなりの欲と言うものは持っているし、その欲の解消の仕方も知っている。ただ…その欲を堂々と晒すか、晒さないかの違いだ。…だとしても、峰田くんと同類にはされたくないな。思わず顔をしかめると、むぎゅう、と百ちゃんに抱き締められた。…何か勘違いされた気がする。百ちゃんに気遣うように顔を覗き込まれて、私の心臓はどくん、と音を立ててしまう。これは恋愛的なトキメキではなく、性的なトキメキだ。たぶん。顔の造形が美しい人に、そんな顔をされて、近付かれたら、誰でもなっちゃうと思う。

 私はそっと逃げ出すように視線を逸らす。これ以上は心臓が持たない。逃げた視線の先に、三奈ちゃんと切島くんが楽しそうにじゃれ合っている。淡い胸の痛みも、苛立ちも、全て正体も原因も分かっている。分かっていても、どうにもならない。じっと、それはもう、じっと切島くんを見つめる。

気付け。

気付いて。

気付いて、ください。
 
 なんで、私の個性はテレパス系じゃないんだろう。最近は、不満の矛先まで捻じ曲がってしまっている。

「…!」
「…」

 あ、こっち見た。でも、瞬時に逸らされて、また三奈ちゃんと話し始める。傍にいる三奈ちゃんも気付かないほど、本当に一瞬だった。…もしかして、私は昨日しくじったかもしれない…。



 ふわふわ。もう身体も、心もふわふわしていて、夢の中に居る気分だった。自分がどんな風になっているのか、は分からない。でも、居心地は良くて、怖くもない。この分からなくて、誰かに委ねて、好きにされることが良かった。気持ちが良かった。それこそ、今の私にとって、一番の幸せだった。

「ん…」

 キスをしているときに漏れる低い声はいつもの彼と全然違う。普段の、元気なハキハキとした男の子ではなくて、本当に男の人だ。もっと、と甘えるように彼の首に回した腕でぐいっと引き寄せる。すると、私の我が儘を聞いてくれたのか。彼は私の腰を抱き直して、深く深く口付けをくれた。ときどき、唇に軽く噛まれた。あのギザギザとした歯は痛いかな、なんて思ってたけど、そんなに痛くない。むしろ甘噛みされるの、好きかもしれない。

「あ…」

 腰が砕ける、なんて初めて味わう。足に力が入らなくなって、ずるずると落ちそうになる。その妙な浮遊感覚が怖くて、私は彼にぎゅう、と捕まった。本能だろうか。ぐいっと、私の足の間に彼の足が入って、腰に回っていた逞しい腕もちょっと痛いぐらい私を抱き締めてくれて、そのおかげで落ちないで済んだ。…でも、すごく心臓がどきどきして苦しい。少し離れても、すぐに彼は追って来て、私の唇を塞ぐ。逃げたりなんかしない、のに。

「…んっ」
「…名字…あー、して」

 何度も何度も唇の感触を覚えてしまうようなキスをした後、んべ、と舌を出した彼にならうように、私も舌を出した。次の瞬間、ぞくぞくと鳥肌が立って、思わず私は強く目を瞑った。舌と舌がぴったりと重なる。舌の上の細かな突起を一つ一つを自分で感じてしまうほど、生々しくダイレクトに私と切島くんの舌が触れ合っている。いや…そんな生ぬるくない。絡み合って、交わっているんだ。その濃く絡み合う舌の動きは、ここからの先までを嫌でも想像してしまう。

 ごく、と動いた喉の動きは私のものか、切島くんのものかは分からなかった。



 結局、あの後…お約束みたいに誰かの足音がして、風船が弾けるようにムードも雰囲気も弾けて流れて、うやむやになってしまった。私は不満をぶつけるように、リップクリームを唇に塗りたくる。ちゃんと、身体は覚えているのに。咄嗟に振り向くと、切島くんと目が合った。またすぐに逸らされた。…でも、私は心の中で細く笑んだ。

「切島ー?耳赤いけど、どうした?」
「な、なんでもねぇよ」

***

 夜になって、やることがおわって、もう寝るだけの状態で俺はスマホを弄っていた。イヤホンを耳に付けて、音量を調節しているとき、聞き慣れない鳴き声がしてベッドから身体を起こした。鼻にかかった鳴き声、がりがりとベランダの窓を何がか引っ掻いている。…なんだ?カーテンを開けて、窓の外を見ると、まるい目が二つ。一瞬びびって、肩を揺らすが、部屋の明かりが漏れて、その正体のシルエットが現れた。

「…なんだ、お前迷い込んだのか?」

 ぽてぽてと、危なげな足つきな子犬が一匹、俺の前に居る。人に慣れているのか、俺の部屋に遠慮なく入って来た。恐らく柴犬の赤ちゃんだ。可愛い…じゃねぇ。なんで、こんなとこに…口田の奴か?いや、アイツはウサギだったよな。考え込んでいる間に、子犬は俺の許可もなくベッドの中に潜り込む。こら、待て。お前足拭いてねぇだろ。ウェットティッシュが確か…、どこだっけ。ごそごそ、と音を立てるベッドに背を向けて、俺は急いで棚の上に置いたはずのウェットティッシュを探す。

「おっ、あった…」

なっ、なんでーっ!

 俺の叫び声は響かなかった。口を、手のひらに塞がれてしまったからだ。俺のベッドの上で、照れたように笑う名字さんが髪を個性で手のひらに変化させ、咄嗟に俺の口を塞いだようだ。彼女は本物の手で、人差し指を自分の口元へもっていき、しーっとジェスチャーをする。俺はほとんど条件反射で、こくこくと頷く。すると、彼女の髪の変化は解け、元の姿へと戻って行く。

「…な、なんで…ここに」
「えっと…、…切島くんに…会いたかったから」
「…で、でも」
「教室じゃ、だめだから…」
「…名字」

 彼女は目尻を赤くして、少し泣きそうな声でそう言った。理性では、分かっている。本当はよろしくない、ことだと…言われなくたって、分かってる。男として、中途半端も良くないんだ、と。でも、何でも白黒つけられない。そんな簡単に白黒つけられたら、誰も苦労しない。俺は…俺のベッドの上で、萎れた花のように小さくなる彼女を見たくなくて、ベッドに膝を乗せて彼女へと近づいた。十分にあった健全な距離を自分でゼロにしてしまった。ギシギシ、とベッドが二人分の体重を音を立てて、支える。

「…昨日の、…夢じゃねぇよな?」
「…夢じゃない、よ」

 昨日みたいに、彼女を腕の中に捕まえて俺は問いかける。その声は情けないことに、震えて掠れていた。彼女と居ると、個性を使っていないのに、すぐ喉が硬化してしまう。俺の腕の中で、彼女は顔を真っ赤にしながら、でも嬉しそうに恥ずかしそうに小さく笑って応えてくれた。

「はぁ〜…良かった」

 俺は力いっぱい彼女を抱き締めて、思わず本音が漏れた。

「…?
 切島くんは夢だと思ったの?」
「いや〜だって…教室で、めっちゃいつも通りだったじゃん、名字」
「…切島くんも、普通だったよ。三奈ちゃんと楽しそうに」
「そう見えたかぁ?…芦戸には勘付かれて、大変だった」
「そ、そうなんだ…」

 彼女の顔が微妙なことになって、俺は首を傾げる。教室で見るような困った笑顔を浮かべながらも、若干唇が尖っていた。…尖っている唇はずりぃ、よな。

「…!」
「…ん…昨日の続きしても、いいか?」
「うん…」

 男らしくない。昨日の続き、なんて曖昧な言葉が誤魔化して、彼女の唇を奪う。でも、何か彼女はひたすら真っ直ぐに求めても、逃げられそうで…彼女だからなのか、俺の狩猟本能みたいなものが目覚めてしまったのか。

「…はぁ…ん、ん…」

 甘い吐息が俺の唇に当たって、もうバカになる。彼女を目の前にすると、色々考えられなくなる。

 まぁ…また、今度でいいか。難しいことは…。
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