僕が知らないあの子

こうきしん

 俺の箸から唐揚げが落ちた。その唐揚げは無事、皿の上に着地したので犠牲になることはなかった。けれども、どきっと音を立てた俺の心臓には痛みを残していて、無事ではなかった。俺の心臓に痛みを与えた彼女は気恥ずかしそうに、素麺をすする。彼女の発言の所為で、ちゅるちゅると何とも、無防備でかわいらしい音を立てる唇から、俺はバカみたいに目を離せなくなってしまう。



 トレイを両手にもって、困った顔できょろきょろとして居れば、友達を探しているのか、席を探してるのか、大体見当はつく。声を掛ければ、予想通り彼女は席が見つからなくて、困っていたらしい。俺と相席するか?と誘ってみれば、彼女は戸惑った顔をして口を噤んだ。俺と彼女はクラスメイトのはずなんだが、彼女は人見知りなのかクラスメイトになって数カ月を経っても、あまり話をした記憶がなかった。少し間を置いて、彼女は覚悟を決めたように頷いて、小さな声でお願いしますと言って俺に頭を下げた。

そんなに畏まらなくても。彼女は俺の前に座って、周りを確認すると拍子抜けしたような顔をした。ああ、爆豪たちと一緒に食べているのか、と思ったのか。彼女の性格からすれば、爆豪みたいな奴は恐怖の対象でしかなさそうだ。

「切島くん、ありがとう」
「大したことじゃねぇよ。クラスメイトだろ、俺たち」
「う、うん」

 彼女は控えめに笑って、頷く。そして、手を合わせた。ああ、やっぱり、彼女はイメージ通り礼儀正しい子なんだ、と思った。俺も彼女も飯を食いながら、ぽつぽつとゆっくり話した。
彼女は意外にも、言葉を予想よりも多く返してくれた。分からない話題でも、関心を持って聞こうとしてくれる姿勢はとても話す身としても嬉しい。ついつい、話し過ぎてしまうくらいに。

そんなとき、ぽつり、と彼女が言ったのだ。

「切島くんって歯ギザギザしてるよね」
「ん?ああ、そうだな」

俺は最後の唐揚げを食べようと箸で挟む。彼女は大分リラックスしているようで、声を掛けたときよりも頬が緩んでいる。そして、気も緩んでいたのだと、思う。彼女の言葉に、だから歯ブラシの消費がやばくて…と口を開こうとした。そのとき。

「キスしたら、痛そうだよね。ほら、舌に当たったら」
「え」
「え?…あ、…」

 俺たち、二人の空気が固まる。いや、凍った。ガジゴジに。彼女の頬が赤く染まっていき、俺は首辺りから熱くなって、二人の視線が合っては彷徨い、合っては彷徨いを数度繰り返した。俺の唐揚げが落ちる音で、俺たちは我に返る。彼女が先に視線を逸らして、素麺を箸で掬う。二度、三度と失敗して、やっと素麺を掬う。おかしい。お茶を飲んでも、喉がカラカラになる。まるで、喉が硬化してしまって、水分が吸い込まないようになったみたいだ。そんなはずないのに。

ちらっと、彼女を伺う。嫌でも目に付く、濡れた彼女の唇。やわらかく、うるおっていそうな、そんなくちびる。

「いてっ」
「…あ」
「なーに、エロい顔してんだよ切島!
 てか、名字さんとお昼一緒?珍しくね?この組み合わせ」

 人懐っこくでも、面白そうに調子に乗った笑みを浮かべる上鳴は俺たち二人を見ながら、俺の隣へ座る。急に感じた衝撃は、上鳴のチョップだったらしい。俺は頭を摩りながら、上鳴を軽くどつく。口では軽口を叩く俺だが、正直助かった。ありがとう、上鳴。そんな上鳴に続くように、瀬呂、爆豪もテーブルへつく。
彼女の隣には瀬呂が座って、爆豪もまた俺の隣へ。

「名字さん一人?」
「…百ちゃん、今日調べものあるって…図書館に」
「あ〜ヤオモモと仲いいもんね」
「う、うん」

 瀬呂と上鳴に話しかけられると、またリラックスする前の彼女の表情に戻る。彼女は大人数の男子が得意ではない、のかもしれない。うんうん、と相槌を打ちながらも、食べるスピードがさっきよりも早い。もはや、無理やり口に詰め込んでいる。そして、何とか食べ切ると誰よりも早く立って、ぺこぺこと頭を下げて、片付けに行ってしまった。

「ああ〜、悪い。切島、邪魔しちまったな」
「そんなんじゃねぇって。席空いてなかったから、誘っただけで」
「ホントかぁ?お前マジでエロい顔して、名字さんのこと見てたぞ?」
「…」

興味無さげな爆豪以外は俺をからかうように、にやにやと見つめてくる。俺はちげぇ、と言いながらも、頭の中では彼女の唇がどうしても、ちらついてしまう。

「今エロいこと考えただろ!」
「だから、ちげぇ!名字さんに迷惑なるから、絶対目の前で言うなよ!」

調子に乗る上鳴に少し強めに言えば、上鳴はわーってるってと眉を下げる。どうだか。お前は悪い奴じゃねぇけど、口が滑りやすい。

「だって、名字さんだろ?他の女子とはちげぇーもん。そんな軽く扱えないって」

名字さん。そう、名字さん、なんだよな。俺たちのクラスにしては珍しく、控えめで大人しめの女の子。遠慮がないわけでも、目立つわけでもない、普通の子だ。きっと、俺たちにはクラスメイトとお昼を食べる。

そんな普通の、ただの日常でも、名字さんにとっては非日常だったかもしれない。

***

「百ちゃん」
「名前見て下さい!ずっと読みたかった本が見つかりましたの!」
「あ、本当だ。良かったねえ」
「ええ、これでまた色々と幅が広がりますわ!」

 風呂から上がって、共同スペースを通り掛かったときに、声がしたので足を向けてみる。そこには、彼女とヤオモモが居て、楽しそうに本について話すヤオモモの髪を梳きながら、
彼女は優しい顔をして頷いていた。その、あの名字さんがする、この柔らかい表情はずるいと、思う。

「あ、切島だー!風呂あがりー?」
「お?おー。お前らは?」
「ウチらは今からお風呂ー…あ、名前ー!」

 芦戸と耳朗に声を掛けられたと思ったら、彼女を見つけるなり猛突進。夜になっても、元気な奴だ。俺は眠いのに。彼女はびく、と肩を揺らしながらも、二人に気付くとほっとしたように笑みをつくる。

 きっと俺には向けないだろう、柔らかい笑顔を。芦戸は身を乗り出して、遠慮なく彼女の唇へ触れて、楽しそうに笑う。俺は、その光景に目が嫌でも釘付けになる。彼女は顔を赤くしながら、困ったように眉を下げて首を傾げた。

「ね、名前ちゃん最近くちびる、ぷるぷるだよね!?リップ何使ってんの?教えて!」
「ウチも知りたい。絶対前より、違うよね」

迫ってくる二人に圧倒される彼女を庇うようにヤオモモは彼女を後ろから抱きしめて、自慢気な顔をつくる。なぜ。ヤオモモが自慢気に。

「ふふ、それは私がプレゼントしたパックのおかげですわ。ね、名前」
「うん。百ちゃん、ありがとう」
「いえ、…あ、そうだ。まだ、部屋に幾つか余ってますから、お二人もよかったら」
「いいの!?頂戴!」
「え、いいの…?高い奴とかじゃないの?」
「どうせ貰い物の余りですし。お風呂上りが効果的ですから、私取りに行ってきますね」
「じゃあ、お風呂入ってこよ!」
「そうだね、そうしよ」

きょろきょろと、忙しそうに回っていた彼女の目が、芦戸と耳朗が風呂場へ向かって、ヤオモモが部屋に戻って、やっと落ち着いた。ふう、と一息ついて、ふいに俺と彼女の目が合った。合って、しまった。また、俺の心臓が、どきっと痛んだ。

***

「えっと、あの…」

 やばい。この状態はやばい。いや、やばい状態にしたのは俺だけど。俺と、壁に挟まれた彼女の目はまた忙しそうに、きょろきょろどころではなく、ぐるぐると回っている。



「…」
「…」

 彼女は俺から視線を逸らすと、共同ペースのキッチンへと向かう。俺は彼女を追って、何か作んの?となるべく自然に話しかけた。…自然な、はず。彼女は目を大きくしながら、ほっとみるくと小さく呟いた。そっか。…そっか、じゃない。会話が終わった。気まずい空気のままだ。やっぱり、部屋に帰るかと思ったとき、彼女の声がした。小さい、聞き逃しそうな、小さな声。

「飲む?」
「え?」
「…切島くんも、飲む?…嫌いじゃなかったら、ホットミルク」
「…の、飲む!」
「うん、じゃあ作るね」

 彼女が笑う。控えめに、でも柔らかく、笑う。あの、ずるい笑顔で俺に向けて笑った。それがダメだった。もう、なんかダメだった。あの柔らかい唇が、伸びで弧を描く瞬間に沸いた欲を冷静に処理できるほど、俺はまだ大人じゃない。くぐもった声がもれた。俺か、彼女か、どちらからもれたのかは分からない。やわらかい。でも、想像したやわらかいの、種類と違う。肌のような、柔らかさではなくて、独特の、くちびるの感触。もっと、もっと味わいてぇ。そんな気持ちを彼女に押し付けるように、俺は彼女の身体を押して、壁に彼女の背中が当たる。

 唇を離して、もう一度。彼女の手が控えめに俺の胸辺りのシャツを掴む。それに応えるように、彼女の腰を支えた。柔らかい唇の隙間から感じる吐息を舌に乗せるように、俺は彼女の唇の隙間を突く。彼女がびくっと肩を揺らすが、唇をゆっくりと開けるので、俺は遠慮なく彼女の唇の中へ舌を入り込ませる。唇の中は、温かくてぬるぬるしていた。唇の奥で、小さく落ち着かない舌を見つけて、我慢できずに絡ませるように触れてみる。

 彼女は身体も、舌もびくびくと怯えるので、俺は逃がさないように強く抱きしめた。薄目を開いてみると、彼女はぎゅうっと目を瞑って、苦し気に眉を寄せていた。いわゆる、悩まし気な表情ってやつで。ベタだろうが、何だろうが、その表情がエロいことには変わりはなくて、俺は彼女の舌を捕まえて、少しずつ俺の口の中へと。と言うか、もう彼女の小さな口を俺が食べているような状態になっていて、時々俺の歯に彼女の舌や唇が当たっていた。ちょっとだけ厚い下唇に、歯が沈む瞬間とか、彼女の舌が逃げようとして俺の歯先に当たって、びくっとなる瞬間が、もうやばい。

「ん…んん」
「…はあ、…名字」
「んう…きり、しまくん」

 息が苦しくなって、彼女の唇から離れる。互いにべたべたに汚れた唇はどっちの唾液だ、なんて分からないぐらいに交わってしまっていた。あ、やばい。マジで。俺は彼女の柔らかい身体を堪能するように、ぎゅううう、と力を込めて抱きしめる。彼女も、俺の首に回して、ぎゅうと捕まって来た。思い切り。あー、やばい。これはやばい。もう、彼女と離れたくないって、くらい。やばい。



「…えっと」
「…」
「…」
「どう、だった?いてぇ?」

 余韻もそこそこに、彼女が空気を変えようと俺の腕の中で遠慮がちにもぞもぞと動き始めた。俺はそんな彼女を追い詰めるように、顔を覗き込んで問いかける。彼女の目元も、頬も赤くなる。恥ずかしそうに逸らされた目に色付く熱に気付かないほど、俺も彼女も鈍感じゃない。彼女の手が、柔らかい指先が俺の唇に触れる。

「…どきどきして、分からなかった」
「…」
「…分からなかった、から…もう、いっかい」

 ちらり、と彼女が俺を見上げる。控えめな癖に、エロい。きっと彼女にとって、今日一日は非日常のオンパレードに違いない。

「ん、目瞑って」
「ん」

 まあ、それは俺にも言えることなんだけど。…クラスメイトのあの子に、こんな一面があるだなんて知らなかった。難しいことは後でいい。取り敢えず、今は目の前の彼女を味わいたいから。
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