5万打 | ナノ

かまびすしい彼女


朝の昇降口、ぞくぞくと登校する生徒を睨み付けながら腕を組んで仁王立ちしている私は、怒り心頭に発している。ふすふすと鼻の穴を膨らませて、この怒りをぶつける相手が現れるのを今か今かと待っているのだ。そして遠くの方から頭一つ出して歩く集団が現れた。誰もが道を開けるバレー部三年生。
背筋を伸ばして「おはようございます」と一礼をすれば「おはよう」と凛々しい声の牛島先輩を筆頭に「相変わらず今日もハチ公してんねー」と天童先輩に笑われて、他の先輩達も口々に挨拶をしてくれる。そして私の待ち人が分かりやすく顔を歪めた。

「賢二郎! オハヨウ!」

怒り任せに大声を出せば「うるせえ」と、刃物みたいな視線がスパッと私の声を切り裂く。

「ねえ! なんで昨日返信くれなかったの!?」
「俺は忙しいんだよ」
「寝る前とか! 一言くらいは送る暇あるでしょう!?」
「既読が見ましたよの合図だろうが」

足を止めることなく進む賢二郎は、私の彼氏だ。彼氏のくせにその役割を果たしていないことが私の怒りの原因であるのに、全く悪怯れる素振りがない。

「どー思う川西! 彼女に対して冷たくない!? そして口悪い! バレー部は彼に何を教育してるの!?」

「えぇ、俺っすか」と私と賢二郎に挟まれた川西が表情なく呟いた。

「じゃー俺に乗り換える?」
「ない。顔がタイプじゃない」
「賢二郎、オタクの彼女どういった教育してるの? 無抵抗なのに刺されたんだけど」
「よく躾られてるだろ」
「乗り換えるなら瀬見先輩がいい!」

「ハァ?」とドスの効いた声で私を睨み付ける。思わず川西の影に隠れれば「出てこい、もう一回言ってみろ」と低い声。

「乗り換えるなら! 瀬見先輩がいい!」

ぎゃんぎゃん吠える私に「お前なんか相手にされるわけないだろ」と、更に声を低くさせた。

「なら返信くらいしてよ!」
「面倒くせえ」
「彼氏なんだから我儘聞いてよ! 私のこと好きじゃないの!?」
「こんな面倒くせえ女好きでもなかったら相手にしてられるかよ」

ぐっと次の文句が喉に詰まった。

「えぇ……俺のいない時にしてくれません?」
「川西聞いた? 賢二郎、私のこと好きで好きで仕方ないって」

「言ってねぇ」と呆れた賢二郎の声なんか知らない。「良かったじゃん」と心にもないことを言う川西の声も知らない。

賢二郎は私の彼氏。私の好きな人。私のことが好きな人。私を簡単に怒らせて、簡単に宥めてしまう人。喧嘩なんて日常茶飯事。私が勝手に怒って賢二郎がそれに苛立って。周りから言わせれば痴話喧嘩。喧嘩カップル。そんな痴話喧嘩が痴話で済まされなくなった日の話。


「賢二郎! お昼食堂で待っててね! 食べないで待っててね!」
「お前いつも来るの遅いじゃん」
「だってクラス遠いんだもん」
「その足の長さじゃー随分と難儀だろうな」
「なにそれ! 身長ディスりたいんなら川西くらいデカくなってからにしてよね!」
「ハァ?」

いつもと同じ朝。いつもと同じ痴話喧嘩。それに挟まれた川西が「まあまあ」と適当な仲裁に入る。

「そういえば今日って体育館使えないんでしょ? 練習休み? 放課後デートしたい!」
「ミーティングあるし、ウエイトはある」
「なーんだ、残念」

そしてそれぞれのクラスへと別れた。「お昼待っててね」と釘を刺すのを忘れずに。賢二郎はだるそうに手をヒラヒラさせるだけで、返事はなかった。その背中にキーと声にならない声で文句をぶつけて、賢二郎が教室に入るまで見送った。


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お昼休みになり、よりによって移動教室。いつもより遠い場所から食堂へ向かえば賢二郎の姿は無かった。待っててって言ったのに! そう思いながら広い食堂内で賢二郎の姿を探せば、案外すぐに見つかった。
真っ赤な頭の天童先輩に目がいって、よくよく見るとその隣に賢二郎が座っていたからだ。そしてその傍には牛島先輩。分かるよ? 一応私を待っていたけど先輩に声をかけられて、ましてや大好きな牛島先輩なんだから断るって選択肢がないのはわかるよ? けれどムカつくものは、ムカつく。ムカムカしてなによって、賢二郎の馬鹿って睨み付けたまま立ち止まっていれば、声をかけられた。

「一人か?」

その声に振り返って見上げた先、爽やかに笑う瀬見先輩がいた。

「瀬見先輩、こんにちは」
「おー。あ、白布いるじゃん若利のとこ。一人じゃ行きにくいか?」

俺と一緒に行く? なんて優しい言葉をかけてくれる瀬見先輩。賢二郎と全然違う根っからの優しい人。賢二郎も少しは見習うべきだと思う。

「いや、いいんです」
「なんで? あいつらだって知らない仲じゃないし、誰も文句言わねえよ?」
「賢二郎が文句、言うし……」

あぁ、と言葉を濁して苦笑い。「でも本心じゃねぇだろ?」なんて言ってくれる。いやいや、それが本心なんですけどね! 絶対! 平気で連絡取るの面倒臭いって言うんだもん。まあ、私も不平不満を我慢なんてしないからお互い様なんだけども……。

「それより瀬見先輩! 二人で食べましょ? 駄目ですか?」
「え? 俺と? いやー、それこそ白布が何か言うだろ」
「いいんです。賢二郎なんか知らない」

困った顔をしながらも「じゃーそうすっか」と券売機に並ぶ瀬見先輩に続いた。他愛ない雑談をして、空いているテーブルで一緒にお昼を食べる。するとなぜか川西も来て、賢二郎の事なんか忘れちゃうくらい楽しい時間。けれどそんな時間は長く続かず、「おい」なんて背筋が凍る声が聞こえた。

「何してんだよ」
「何って、お昼食べてるの」

見れば分かるでしょと視線を向ければ、額に青筋を浮かべた賢二郎がビキビキとこめかみを震わせていた。

「白布これはだな!」
「瀬見さんは黙っててください」

先輩に対しても変わらぬ声色で威嚇し、私を見据えて何か言ってみろとこの場の空気全てを凍りつかせるようなオーラを放っている。

「賢二郎が勝手してて、なんで私が勝手しちゃいけないわけ?」

そう発した私の言葉が賢二郎の逆鱗へ触れた。憤然とした面持ちで口を閉ざし、黙って私を見据える瞳には怒りが凍りついている。そんな身動ぎ一つ許されないような静寂に包まれた空間。川西の食事の音が妙に大きく聞こえた。そんな川西に瀬見先輩が「おい」なんて言っているが、賢二郎はそれを気に止めず舌打ちをする。

「なら勝手にしろ。俺も勝手にする」

そう言い捨てて食堂から出て行った。気まずそうに、何も悪くないのに謝る瀬見先輩。「あれはマジギレだなぁ」と表情なく呟いた川西の声に、じわりと瞳が潤んだ。


‐‐‐‐‐‐‐


「ねー! カラオケ行こ!」
「なにーナマエ、彼氏と喧嘩かー?」

放課後、友達に声をかければニヤニヤと笑ってそんな事を言われた。図星をつかれてガクリと頭を下げれば「毎回毎回よくもまあ」と感心にも似た呆れ声。

「カラオケじゃなくてショッピングモール行こーよ。そこのクレープ屋の割引券そろそろ期限だからさ」
「いーね! 行こ行こ!」

友達と騒いで気を紛らわそう。瀬見先輩とお昼を食べたら賢二郎が怒るって分かっててやったわけだし。賢二郎だって私が怒るって分かってて牛島先輩たちとお昼を食べたんだろうし。お互い様じゃん。まあ、賢二郎が女子とお昼を食べたりしたら怒るなんて事じゃ済まないけれど……。だから賢二郎の方が今、めちゃくちゃ怒ってるってのは分かってるけど……。

うん、考えるのはやめよう。家に帰ってから死ぬほど後悔しよう。そう割り切って友達とショッピングモールへ向かった。クレープを片手に友達は楽しそうに「今回はなんで喧嘩したの?」と聞いてきて、事の経緯を話せば「しょーもな」って鼻で笑われた。

「ナマエさあ、よく振られないよね」
「なんでよ……」
「いや、面倒くさすぎ」

ぐっと言葉に詰まる。同性からの意見って何でこう胸に刺さるかな。

「辛辣」

ぐぬっと胸の痛みに耐えるように俯けば、テーブルに置いたスマホがパッと光り、ディスプレイに「今どこ」と賢二郎からのメッセージが入った。

「なに、白布くん?」
「うん。今どこだって」
「うわー。別れ話じゃない?」
「これで振られるんなら私はもう既に何百回と振られてると思う」
「確かに。さすが喧嘩カップル」

ケタケタと笑ってクレープにかぶりついた友達を横目に、今いる自分の場所を入力して返信すれば既読無視された。なんなのよ。要件いってよね。いつもならその気持ちをそのまま文章にして送りまくるのに、今日はそのままスマホを置いた。

「なんだって白布くん」
「知らない。既読無視」

それからぺちゃくちゃと女子トークをして、少し歩きますかと服やら雑貨やらを見て回った。賢二郎をブチギレさせた事とか、さっき来たメッセージの要件とか。気になることは頭の片隅に追いやって、必要以上にはしゃいだ。友達もそれに付き合ってくれて「あそこのお店リニューアルしたらしいよ、行こうよ」なんて言って方向転換すると、楽しい会話が不自然に途切れた。そして私の足が止まる。理由なんて一つ。前方に見慣れたシルエットが現れたからだ。嫌でも目立つ白鳥沢の制服。澄ました横顔に、中性的な顔立。動く度に揺れるさらりとした細い髪。そんな私のよく知る人物の隣にはこれまた見慣れた背の高い三白眼。そして同じ白鳥沢の制服を着た女子生徒二人。

「ちょっとナマエ、あれ……」

唇が震え、鞄の紐を握る手も震えた。賢二郎は私に気づいていない。なぜなら女子とのお喋りに夢中なようだから。なんなの? 当て付けなの? 俺も勝手にするってこういう意味? 私がここにいるって知ってて来たんでしょ? ふざけてる。おふざけが過ぎるでしょ?

「ふざけないでよね」

気づいた時には頭に血がカンカンに上っていて、止めた足を動かして歩いた。友達の制止を振り切って近付く距離。「あ」って最初に声を出したのは川西。右足のローファーの踵に指を突っ込んでぶん投げたのは私。真っ白いブレザーにポコンと間抜けな音を立ててぶつかり、地面に転がるローファーを「ア?」って低い声を出して睨み付けたのは賢二郎。

「賢二郎のバカ! 最低!」

そう叫べば「ふざけんなよ」と唸るような低い声を出して、わなわなと怒りに震えている。

「ふざけてるのはどっちよ!」

左足のローファーも手に持って賢二郎に向かって投げれば、そのローファーはいとも簡単に叩き落とされた。不格好に床に転がるローファーがなんとも滑稽で、目からは涙がぼろぼろ溢れた。

「いい加減にしろよ」
「もう知らない!」

靴下のままショッピングモールを走った。その場にいた全員が私の気狂い沙汰に興醒めしただろう。けれどそんなことはどうでもよくて。追いかけて来ない賢二郎に、今回は本当に終わりなのではないだろうか、と静かに悟ったのだった。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「川西、相談があるのですが……」

休み時間に川西のクラスの教室で、献上品のジュースと惣菜パンを差し出せば、袋の中身に視線を向けた川西が「聞こうではありませんか」とそれを受け取った。そして二人で体育館の側にある自販機横のベンチへ腰かける。「頂きます」と手を合わせた川西に、なんと切り出そうか。今日賢二郎と会った? 昨日あの後どうなった? どうしたらいいと思う? そうやってなかなか口を開けずにいる私を気づかってなのか、先に口を開いたのは川西だった。

「昨日、どうやって帰ったの」
「一番安いサンダル買って、帰った」

ふーんなんて言って興味のなさそうな声色。焼きそばパンをばくりとかじって、前を見据えている。

「ローファー届けてくれたのって川西? 朝、下駄箱に入ってたんだけど」
「いや? たぶん賢二郎。回収したの賢二郎だし」
「あ、そうなんだ……」

あの後、一緒にいた友達から連絡がきた。

「白布くん、ナマエのこと探してたらしいよ」
「え?」
「それでたまたまクラスの子と会ったから、まあ、ちょっと話してただけ? みたいな」

完全に私の勘違い。本当にただの狂態。こんな女、私だって願い下げだ。一応賢二郎に連絡はした。したけれど、当たり前のように未読無視。そりゃそうもなる。一応朝も勇気を振り絞って賢二郎を待ったが、朝練がなかったようで入れ違いになった。一度引っ込んでしまった勇気はもう出てこなくて、川西に泣き付いた次第である。

本当に、終わったと深い溜息が出た。

「つまり賢二郎と仲直りしたいが、話す機会がないと」
「まあ、そんな感じ」

献上品を食べ終わったらしい川西が、ふむふむなんていつもの調子で言うから、相談相手間違えたかなという気持ちになる。けれど他に頼れる人もいないし。そして川西は少しの沈黙を挟んで良いこと思い付いたと、わざとらしくポンと手を打ち付けた。

そして私は、川西の作戦に耳を傾けるしかなかった。


‐‐‐‐‐‐‐


夜、寮の裏手。指定の場所につけば川西が大きな欠伸をしながら待っていた。そして私の姿を見るなりコイコイと手招きをしている。

「あ、あのさ。バレたらヤバイ? よね……」

少し高い位置にある窓。川西が私の腰の辺りをつかんで持ち上る。「意外と軽いね」なんて失礼な言葉に反論する余裕はない。なぜなら今私は、男子寮に入ろうとしているのだから。

「んー、まあ。でもたまに見かけるし」
「え?」
「バレー部じゃないけど、女連れ込む先輩結構いるよ」

会話を続けながらも窓枠に手をかけ必死によじ登り、ゆっくりと床へ着地した。振り向けば「よっこらしょ」と軽い身のこなしで川西が窓から室内へ。川西曰く、門限を越えたときはここから出入りするらしい。
川西の作戦は大胆不敵かつ大雑把。賢二郎の部屋へ突撃! お部屋訪問! といった具合い。勿論最初は許否したが、川西の「あのヒステリッククソ女って言ってたよ賢二郎」の一言で心が決まった。けれどいざ男子寮に潜入して怖じ気づく私。それに構わず「はい、レッツゴー」と抑揚のない声で先陣をきって歩き出した川西に続いた。

誰でも持っていそうなパーカーを着て、目深に被ったキャップへ髪の毛を押し込んだだけの変装。たぶんバレバレ。その証拠にチラチラ視線を向けられるが、堂々としていれば声をかけられることはないと言った川西の助言通り、私にも川西にも声をかけてくる人はいなかった。

「ここ、賢二郎の部屋」

そう言っていきなり扉を開けた川西に「ちょっと待って」と出かかった声は、部屋に引っ張り込まれた事により呑み込んだ。

「外で喋るのはさすがにまずいって」
「ご、ごめん」

というか今、賢二郎の部屋にいるんじゃん。思わず身構えて、視線で賢二郎を探すが見当たらない。そんな視線に気づいた川西が「今はたぶん風呂」と呟いてずかずかと部屋の中へ。

「なんで鍵開いてるの?」
「さあ。寮にいる時はいっつも開いてるし。面倒なんじゃない?」

川西はなぜかベッドメイキングを始めた。男子寮にいること、何より賢二郎の部屋にいることに今まで経験したことのない緊張感。心臓は大暴れだし、かっかして身体は熱いし。今更だけど、本当にこの方法が正しかったのか。そんな焦燥感にかられていると、ベッドメイキングが終わったらしい川西が振り返って口を開いた。

「さあさあ布団に隠れて」
「え、なんで」
「ドッキリよ。お決まりじゃん」

いやいや、いーからいーから、その繰り返しの末、無理矢理にベッドへと寝かされて布団を被せられた。こんな時なのに賢二郎の匂いに、先程までとは違ったドキドキ。煩すぎる心臓にどうかなってしまいそうだ。真っ暗な視界の中「俺が合図するまで出てこないで」と言う川西の言葉に従い黙って息を潜めた。

それから間もなくして扉が開かれる音がした。

「うわ、なんでいんだよ太一」

賢二郎の声に思わず身体が強張る。布団を被せられているから、くぐもってはっきりとは聞こえない会話。けれど川西は飄々としていつも通り会話を続けているのが分かる。

「山形さんのアレ探してて」
「なに? 携帯?」
「いや違うくて」
「ああ、エロ本か」

エロ本という単語に思わずひっと息を呑んだ。

「今時エロ本使うやついるのかよ」
「賢二郎、それは山形さんに失礼じゃ」
「山形さんは携帯してねーからなスマホ。五色辺りじゃね? 持ってるなら。天童さんが仕込んでそう」

ギシリと沈むベッド。どうやら賢二郎がベッドに腰かけたらしい。会話の内容からして、ここから出るタイミングなんか一生訪れない気がするんだけど……。

「あぁ、言えてる。じゃー俺、五色のとこ行ってみるわ」

ごそりと人が動く気配。川西嘘でしょ? そのまま出ていく気!? 私の不安を余所にバタンと扉の閉まる音がした。一気に血の気が引く。しかし、すぐ開かれた扉。

「あ、そうそう。布団の中にプレゼント用意しておいたから」
「エロ本? だったら持って帰れ」
「もっとスゲーやつ。鍵閉めてゆっくり楽しんで」

バタリと音がして、今度こそ川西の気配が消えた。え? 何言っちゃってんの? と思った瞬間明るくなった視界。眩しさに目を開けられず手で顔を隠すように覆った。すると賢二郎の舌打ちが聞こえてベッドが軋み、賢二郎が立ち上がったのが分かる。そして扉を施錠した。

「お前さぁ、どんだけ俺を苛つかせれば気が済むんだよ」

私を見下ろすように立ち止まり「何考えてんだよ」と前髪を乱暴にかきあげた。その声色が怒りを通り越した呆れと心底疲れたといったもので、いつもみたいに言い返す気持ちにはならなかった。漸く正常に戻ったはず視界は滲んでいて、起き上がれば涙が溢れてしまいそう。それを隠したくて仰向けのまま腕で目元を隠した。

「……賢二郎、ごめん」
「あ? なにが」
「我儘言って、すぐ怒るとこ……」
「今更だろ」
「怒るって分かってて、瀬見先輩とお昼食べたこと」
「分かっててやるとか最悪だな」
「勘違いしてローファー、投げたこと」
「次やったら一生既読無視」
「今、……この場にいること」

溜息をつきながら「もういいから。泣くなよ」とベッドの縁に座り、私の目から溢れた雫を服の袖で拭った。

もういいの? あんなに怒っていたのに。毎日のように喧嘩をしているのに、初めて振られるかもって不安になったのに。賢二郎はもっと私に言いたいことは無いのだろうか。それを聞こうと口を開けば、「ア?」という低い声に言葉が遮られた。そして私の腰辺りに賢二郎の手が触れて、慌てて起き上がればパーカーのポケットから何かを引き抜く。その手には四角くてうっすら輪っかがあって……。

「へー。ヤル気満々だな」

意地の悪い顔をして口角を持ち上げた賢二郎に、身体がかっと熱くなる。

「ち、違う!」

バチンと音が鳴るほど勢いよく口を塞がれた。「騒ぐんじゃねぇ」といつもの怒った賢二郎の声になぜか安心する。

「か、川西だよ。絶対。持ち上げられた時、その辺持ってたし」

分かりやすく顔を歪めた賢二郎が「お前本当に俺を苛つかせる天才だよな、なあ?」とデコピンをするポーズでじりじりと近付く。ベッドの上で座ったまま後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかった。デコピンで賢二郎の気が済むのなら、受け入れるべきだろう。賢二郎のデコピンは経験済みだからその痛さは良く知っている。観念してぎゅーっと目を閉じて身構えた。

「へー素直じゃん。絶対騒ぐなよ」

悲鳴を上げないように予め口を押えておこうと手を口元へ動かせば、何故かその腕を賢二郎に掴まれた。そして唇に触れた賢二郎の体温と、柔らかい感触。吃驚して目を開ければ、伏し目がちの長い睫毛の下から色素の薄い綺麗な虹彩が覗いている。そうしてもう一度触れた唇。賢二郎から石鹸の香りがして、掴まれた腕も重なった唇も熱を持つ。もう少しこのままと唇を寄せれば賢二郎がすっと離れた。

「そろそろ時間だろ。この時間送れないけど大丈夫だよな」

なんで? 送ってよ! といつもなら言うところだけれど「あ、うん……」とらしくない言葉が出た。それに気づいたらしい賢二郎の眉間に皺が寄せられる。

「何気つかってるんだよ。気持ちわりい。いつもみたいに言いたい事言え。後から言われんの苛つくから。いつも通りにしてろよ」
「……送ってよ」
「この時間お前送って帰ってくるとタイミング悪すぎ。これ以上遅くなるとお前もまずいだろ」
「私は、平気」
「じゃー時間あるしコレ使うか」

そう言って先程私のポケットから現れた物をチラつかせる。顔から湯気がでるんじゃないかってくらい熱くなり、そんな私を馬鹿にしたように「冗談だよ」と笑った賢二郎。

「ただでさえよく吠えるんだから、大人しくなんかしてられないだろ」
「な! 童貞のくせに!」
「ア?」
「え、違うの……?」
「ナマエで卒業する予定。お前も俺で卒業すんだろ」

もう顔から完全に湯気が出たと思う。そんな私を嘲笑うようにふんと鼻を鳴らし「おら、早く準備しろ」と賢二郎が立ち上がって私を待つ。その言葉に急いでキャップを被り直しベッドから降りた。それを確認した賢二郎が扉の鍵に手を触れた時、まだ完全には消えていない不安をぶつけた。

「賢二郎は不満とかないの」
「ない。あればすぐ言うし。ナマエだってそうだろ。なんで怒ってるか分からない方が面倒だし、怒ってんのに怒ってないって言われる方が苛つく」

即答してくれた事に、なんでかちょっと涙が出そうになる。けれど「ああ、でも瀬見さんと仲良くされるのはクッソ腹立つ」なんて殺気だったセリフに背筋が伸びた。

「な、なんで?」
「お前のこと可愛いって言ってたからあの人」

予想外の言葉に「え」って一音が出ただけで言葉に詰まった。私の反応に賢二郎は静かに振り向いて、睨むような鋭い眼光を向ける。

「勘違いすんなよ。あの人ストライクゾーン広いだけだからな。女見る目全然ない人だからな」
「なら賢二郎だって女見る目ないじゃん」
「俺はいいんだよ」

「もう開けるぞ。喋るなよ」その言葉に頷いて、来た時同様黙って賢二郎の背中に続いた。そして「せーの」と私がジャンプしてそれを補助するように賢二郎が手を貸してくれ、無事窓から寮の外へ。川西は軽々持ち上げてくれたよと軽口を叩けば、いずれ散々抱いてやるなんて言われて。

「へ、へんたい!」
「うるせぇ。学校出たら電話」

早く行けシッシと手を振る賢二郎に手を振って、川西から教えてもらった抜け道を走り抜けてすぐに電話をかけた。

夜道を歩きながらの賢二郎と初めての長電話。いつも通りの売り言葉に買い言葉。それでも耳元で聞こえる声が、何だかくすぐったかった。今更ながら、どんなに喧嘩をしても別れるって言葉は出たことがないなと気付く。だから安心して明日からも喧嘩カップルでいよう。そして時々は私の我儘を聞いてもらうのだ。

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