5万打 | ナノ

恋だって死ぬ


好きになったら負け。惚れた弱み。それを思い知った恋だった。

「好きです」
「僕は好きじゃないです」

追いかけて、追いかけて追いかけて。

「好きです」
「どーも」
「付き合ってください」
「遠慮しまーす」

四度目の告白を最後に、「好きです」と伝えることをやめた。それから失恋を受け入れ始めたとき、月島くんが初めて私を呼んだ日のことは今でも鮮明に思い出せる。

「ちょっと、散々振り回しておいて調子狂うんですけど」

そう言って静かに言葉を口にした。全てが寝静まったような静寂の中で。夜空で輝く惑星のような虹彩を眼鏡の奥から鋭く光らせて。私の息の根を音もなく止めた。

「責任とってよね」

そう言われて始まった恋人という関係。息が出来ないほどに歓喜して。「死ぬほど嬉しい」と泣いた私に「大袈裟デショ」と彼は笑った。その日の出来事は鮮明に思い出せる。けれども、彼がどんな声のトーンで、どんな色の声をしていたかを最近思い出せずにいる。


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年下の彼氏である月島蛍くんと最後に連絡をとったのはいつだったか。私が高校を卒業してからは、めっきり会うことがなくなった。もともと頻繁に連絡を取り合っていたわけではないが、履歴に残るメッセージのやり取りは約一ヶ月ほど前の日付が表示されている。

“会いたい”
“大学生って暇なんですね”

それを最後に連絡するのをやめたら、一切音沙汰無く月日だけが流れてしまった。いや、流れたのは月日だけではない。

「人が死にゆくときに失う五感の順番は、触覚、視力、嗅覚、味覚、最後に聴覚を失うのです」

そう言っていたのは高校の時の教師だった気がする。私は月島くんに触れたことがない。忘れる触覚を知らない。彼の笑った顔はどんなだっけ。隣に並んで香った匂いはどんなだっけ。月島くんとのキスの味だって知らない。彼は私をどんな声で呼んでいたんだっけ。知らないことばかりで嫌になる。わずかなものも忘れてしまっている。

月日と一緒に記憶までもが流れてしまった。そして聴覚を刺激する声を忘れた私の恋は死に向かっているのかもしれない。


私は今日。死にゆく恋の墓場を探しに、月島くんに会いに行く。


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月島くんと出会ったのは、朝の通学電車でのことだった。いつもと変わらない朝。毎日同じ時間、同じ車両に乗る私。周りもそんな人ばかりで顔を嫌でも覚えてしまう。そんな代わり映えしない外の景色と、電車内の風景に見慣れない人。薄い色素の容姿を際立たせる黒の学ラン。大きなヘッドフォンが目立つ眼鏡をかけた長身の男子。

きっと烏野高校だ。

皆携帯を片手に俯く中、顔を上げて真っ直ぐに窓の外を見つめる立姿が私の目を引いた。本を読むふりをしてそんな彼を盗み見る。まるでこの人だけ別の世界にいるみたいだな、ちょっとカッコイイな。そんな気持ちを誰にも悟られぬよう本に視線を戻した。

そうやって時々現れる彼を探すのが毎朝の楽しみになった。言葉を交わしたことのない彼を見つけては胸を弾ませて、ただ見つめることしか出来ないのに、確実に想いは募っていった。

そんな見つめるだけの日常に変化が訪れた。いつものように、久々に現れた彼を盗み見ていた日のこと。烏野高校の最寄駅に着いた時、私は降りるであろう彼の足元を見つめこっそり見送る。ゆっくりと進む大きな足。彼が電車を降りる瞬間、足元に何かが落ちた。アレは財布?定期入れ?正体はわからないが私はとっさにそれを拾い上げ必死で背中を追った。

何かが変わりそうな、何かが起きそうなそんな予感。ドキドキと胸が騒いだ。

目立つ容姿から彼を見つけるのは容易であったが、歩くのが早く想像より遠くを歩く背中。その背中に向かって朝の空気を切り裂くように叫んだ。こっちを向いて、私に視線を向けてって、叫んだ。

「あの! 落としましたよ!」

何度か声をかけたが、気づく気配がない。きっとヘッドフォンで音楽を聞いているのだろう。そのことに腹立たしさは感じなかった。それを勝る高揚感。私の胸はいまだかつてないほど弾んで踊っている。一目惚れなのだろうか。ただ、彼の声が聞いてみたい。どんな人なのだろうという期待感が支配していた。

走ればすぐに近づいた背中。精一杯伸ばした腕で彼の学ランを引いた。すると彼はすぐに振り向き、眼鏡の奥から色素の薄い綺麗な虹彩が私を捉える。ぱちりと開かれた大きな目。驚いた顔を見せるがヘッドフォンを外し、すぐにその顔は歪み怪訝な表情へ変わる。

「なにか」

抑揚のない話し方。私に向ける眼差しが訝しげで、温度の感じられない視線が少し怖い。

「あの、これ。落としましたよ」
「僕のものじゃないですけど」

そう言って私に背を向けてさっさと歩き出してしまった。勘違いした上に、カッコイイなと思った彼は怖くって愛想の無い人だった。それでも、もう二度と話しかけることができないんじゃないかと思うと、気づけば背中に向かって告白をしていた。

「好きです!」
「は?」
「貴方が好きです」
「……初対面でそういうことを言うのは、ちょっとどうかと思いますよ」

綺麗な顔をぎしりと歪めて、奇妙なものを見るような視線が彼の内面を表していたように思う。



衝動的に告白をしてしまって、落ち込んだり悩んだりはしたが、これ以上怖いものはないなと開き直った。そして二度目の告白は偶然書店で会ったとき。

本棚に向かって手を伸ばし、視界に入った白い指先に思わず手を引っ込めた。そうしてその白い指先から腕、肩から顔へと視線を動かせば、眼鏡の奥から私を見下ろす瞳。冷たくも綺麗な虹彩に、全身がびりびりと痺れた。

「あ、」

あの彼だ。私と目が合うと表情変えることなく背を向けて、その後ろ姿と首にかけたヘッドフォンがまさにあのときの彼だと主張していた。急いで小説をレジへ持っていき、真っ黒い背中を追いかける。

「あの!」

ヘッドフォンは耳についていないはずなのに、振り返るどころか立ち止まる様子もない。そんな彼に駆け寄ってもう一度「あの!」と顔を覗きこんで声をかけた。

「……なんですか」

心底呆れたような声色にさっと血の気が引いて、足がすくんだ。

「この本……読んだら貸しま、しょうか……」
「人が読んだ本読みたいくないんで。特に面識のない人の」
「私、ミョウジナマエです」

だから?そう言われているような彼の眼差しに胸が軋んだ。

「ご丁寧にドーモ。結構なのでさようなら」

首にかけられたヘッドフォンをつけて、私との会話を遮断した。けれどこんなところで会うなんて、伝えなければ勿体無い。強く背中を引いて、交わった視線に怖じ気づきながらも震える声で伝えた。

「好きです」

彼はゆっくりとヘッドフォンを外しながら、顔をしかめる。

「僕は好きじゃないです」

これはきっと無意味な告白。それでも距離の縮めかたなんか分からない。漫画みたいに上手くなんかできない。だからまた彼に会ったなら伝えようと思った。



三度目の再会は駅最寄にある図書館でのこと。テスト期間に図書館を利用し、せっかくだから本を借りようと本棚の壁をゆっくり見ていると、不意に長身眼鏡の彼と視線がぶつかった。偶然、奇跡、運命ではないのだろうかと思えた。

「面識のない人が読んだ本は読まないんじゃなかったんですか」

彼は私から視線を逸らし、本の背表紙を眺めながら「よくもまあ…」と呟いた。よくもまあなんだろう。よくもまあ性懲りもなく声をかけてこれますね、といったところだろうか。

「好きだから、声をかけたくなります」
「話したこともないのに?」
「それでも好きです」
「どーも」
「付き合ってください」
「遠慮しまーす」

私を見下ろす視線に、初めて温度を感じた。少しだけ楽しそうに笑った顔は、私を馬鹿にしていたのかもしれない。それでも初めて見た笑った顔に、私の心臓は煩いくらいに弾んだ。



四度目は苦い記憶。電車が大幅に遅れたある日のこと。その遅れのせいで電車内はぎゅうぎゅうに混んでいた。普段は座れなくても吊革に掴まって立っているぶんには問題のない混雑具合いなのに、その日は違った。テレビで見るような大都会の混雑っぷり。自分の肩や腕に感じる他人の存在。私は都会では生きていけないなと感じた。

人口密度の多さに電車内は蒸し暑くて、不快感が増すばかり。それにも関わらず人は増す一方。息苦しくて、視界がぐわりと歪む。溺れる。人に溺れて死ぬわけないってわかっているのに、立っているのが酷く辛かった。人に押されて傾いた身体。それに抗えずに背中から崩れ落ちた。

「ちょっと」

急に強い力で引かれた腕。その力にされるがまま、身体は引かれた方向に倒れるようにもたれかかってしまった。

「ちゃんと立ってくださいよ」

私の肩を支えたのは、長身眼鏡の彼だった。もしや幻覚だろうかなんて考えてしまうほど、私の思考は正常には動いていなくて、へらりと笑って頷くことしかできなかった。私の顔を見て眉をしかめた彼は私を突き放すこと無く黙って肩を支え、電車が停まると「降りるよ」とそのまま電車を降りた。

そして降りたことのない駅のホームにあるベンチに座らされて、彼はミネラルウォーターを私に差し出した。そのペットボトルを受け取るが手に力が入らず、そのままボトリと地面に滑り落ちる。一度弾んで、ころころとペットボトルが転がるその光景がやけにリアルで、目の前の彼は幻覚なんかじゃないんだって漸く気がついた。

「……すみま、せん」

しゃがみこんでペットボトルを拾い、そのまま私を見据える彼との目線が、初めて同じ位置で交わった。眼鏡の奥から向けられる眼光。綺麗な顔、綺麗な瞳、睫毛の先まで綺麗だと思った。

「好きです」

大きく目を見開き、そして溜息をひとつ。

「ねえ、今それ言うの? 状況わかってるの?」
「迷惑をかけてごめんなさい」
「うん。凄い迷惑」
「ありがとう」
「本当に迷惑」
「好きです」
「馬鹿じゃないの。僕のこと何も知らないデショ」
「それでも、好きです」
「それが一番迷惑なんですけど」

ペットボトルを私に押し付けて、彼は反対側のホームへと歩き出した。その彼を追いかけられなかったのは、足に力が入らなかったから。それが体調のせいだったのか、心が折れたからなのかは分からない。ただ程なくして現れた駅員さんに声をかけられて、彼は優しい人だと涙が出た。

それから時々電車で彼を見かけても、声をかけることができなかった。



五度目、最後の出来事。彼の通う烏野高校でのことだった。友達の彼氏が烏野だということで、半強制的につれられた烏野高校の文化祭。

「長身眼鏡に会えるといいね」
「いや、いいよ。散々振られたし」
「正直引くけどねー。ナマエの行動力に」
「自覚しております」
「でも友達としては応援したいじゃん」

そう言って笑った友達は、彼氏と合流して早々に「長身眼鏡のイケメン知ってる?」なんて口にした。

「え? 名前は? 学年とか部活とか」

名前すら知らないのに随分と無謀な行動をしていたなと、苦笑い。そりゃ迷惑だと言われても仕方ないだろう。

あいつかな?それともあいつかな?と親切に思考を巡らせてくれた友達の彼氏に「もういいの」と伝えて、純粋に文化祭を楽しんだ。そして人が行き交う校内の廊下で、頭ひとつ出してこちらへ向かって歩く彼が視界に入った。

「ね、ね、あの人。長身眼鏡のイケメンじゃん? 違う?」
「あぁ、一年のバレー部だよ。名前なんだったかな。確か……月島。そう、月島だ。俺のクラスにバレー部の主将がいてさ。間違いないよ」

月島っていうんだ。月島くん。まさか2つも年下だなんて思わなかった。一年のバレー部で、月島くん。初めて知ったことを噛み締めるように彼を見つめると、不意に交わった視線。そのせいで私の足は思わず止まりそうになる。けれどすぐに視線は逸らされた。そうだよね。普通に考えて、ストーカーみたいな私の行動は不快でしかないだろう。

「ナマエ、あの人じゃないの?」
「……違うよ」
「そっか。残念」

そのまま友達との会話を続けながら、彼、月島くんとすれ違った。どくどく心臓が脈打ったが、それも今日で終わりだといい。目頭が熱くなって涙が溢れそう。そう思ったときに、急に後ろから腕を引かれた。

「ミョウジさん久しぶりですね」

驚いて振り返れば、私の腕を掴み貼り付けたような笑顔で月島くんが私を見下ろしていた。

「今時間いいですか」
「え、」

答える暇無く引かれた腕。そしてずんずんと廊下を進み、どんどん人気のない場所へ移動する。そうしてたどりついたのは、文化祭では使われていない空き教室だった。カーテンが締め切られていて、薄暗い空間。さらに扉を閉められて、室内はいっそうに暗さを増した。

「ちょっと、散々振り回しておいて調子狂うんですけど」

不機嫌な声色。言葉の真意がわからず謝ることができなかった。

「さっきの人は?」
「友達と、その彼氏です」
「ふーん」
「あの、何か用、かな?」
「は? わかるデショ」

わかるでしょ? わからないよ。口を開けずに、黙って彼を見据えていると、徐々に暗闇に目が慣れて彼の姿がぼんやりと浮かび上がった。その姿は薄暗い闇に浮かぶ一番星。夜空で輝く惑星のようだった。

「今日は言わないんですか」
「え?」
「僕のこと好きなんじゃないの」
「……迷惑になるから、言わない」
「なにそれ? 今更デショ」

鼻から抜けた息の根が笑っているようだった。

「嫌いなんですよね」

告白しなくても振られるのかと悲しくなった。虚しくなった。

「自分を乱されるのが。ねえ、責任とってくれませんか」
「え、」
「責任とってよね」

わかるデショ?と眼鏡を押し上げて、長い指の隙間から覗いた熱い視線。私は涙を流しながら頷いた。何度も何度も頷いた。

「死ぬほど嬉しい」
「大袈裟デショ」

それからカーテンを開けて、二人で少しの会話をした。

「名前、教えてください」
「月島けい」
「けいの字は?」
「……ほたるって書いて蛍」
「月島蛍くん」

素敵な名前だ。輝く彼にぴったりの名前だ。

「月島くんは一年なんだね」
「そっちは三年なんですね。てっきり中学生かと思いましたよ」

その言葉にムッとするが、これが月島くんの通常運転なんだろう。意地悪く笑った顔にときめいてしまう。

「今日、待っていたら一緒に帰れますか」
「部活あるし待たないでくださーい」
「……それも待っていたら?」
「僕電車通学じゃないんで」
「え?」
「兄のところに泊まった時だけ電車使ってただけなんで」

そうだったんだ。そしてぽつぽつと続いた会話が、月島くんの携帯が鳴ったことによって終わりを告げた。

「そろそろ行くんで」
「あ、うん」
「気を付けて帰ってください」


そうやって私と月島くんは恋人になった。


-----


懐かしいな。久々に訪れた烏野高校を目の前に、月島くんとの思い出が蘇った。ちゃんと思い出せる私の恋。けれどこの恋は今日、最期を迎えるのだ。


まだ彼は部活であろう。校門の前で彼が出てくるのを、太陽が沈む様を眺めながら待った。そしてすっかり日が沈みきったところで、男子生徒数名が姿を現す。その中に見つけた月島くんの姿。やっぱり彼は私の一等星。一番輝いて見える。

「あ」

そう声を出したのは、唯一月島くん以外に面識のある山口くんだった。私が小さく手を振ると山口くんは慌てた様子で頭を下げて、月島くんに視線を向ける。

「山口の知りあい!? 誰?」

私と山口くんのやり取りを見た周りの人たちが騒ぎ出して、漸く月島くんと目があった。心底嫌そうな顔をして「知らない」という言葉が私を突き刺す。その一言は恋を殺すには充分すぎるくらいで、胸が痛くて苦しくて壊れていく。私の恋はここで眠りにつくのだ。さようなら。さようなら。

「月島くん、さようなら」

私は来た道を全力で走った。さようなら。さようなら。始まった場所が墓場になった。分かりやすくていいじゃない。花なんか添えてやらない。静かに静かに眠って私を楽にして。私の一番星に願うのはそれだけだ。


空回るように動かした足。普段走ったりしないせいで、足がもつれてみっともなくべたりと地面に手をついた。滑稽、無様。そんな私を嘲笑うように後ろから声が降ってきた。

「なにしてんの」

忘れかけていた声を聞いて、全身が粟立った。悔しい。私の恋を殺しておいて、悔しい。

「部活で疲れてるのに走らせないでよ」

そう話す声が少し弾んでいて、ゆっくりと振り返れば月島くんが肩を弾ませて私を見下ろしていた。

「いい加減立ったらどうですか」

手についた砂利が私の掌に細かい傷をつくっていて、じくりとした痛みが私の胸の痛みのように思えてなかなか立ち上がれない。そんな私の腕をつかんで月島くんが無理矢理に引っ張りあげた。

「さっきのなに。さようならって」
「私は知らない人なんでしょう」
「僕があの場で彼女ですなんて言うわけないデショ」

私の掌を覗きながら「今更じゃないの」なんて言う月島くんは冷たい人だ。こんなときですら、冷たい。死にゆく私の恋より冷たい。口を開けば涙が溢れそうで何も言えなかった。


「送る」

私を問いただすこと無く、無言で先を歩く背中。きっと今後月島くんを思い出すことがあるなら、この背中を思い出すのだろう。最後まで背中ばかりだ。まっすぐに夜空へ伸びる背中。その背中を見つめながら駅までの道のりを進んだ。

声を忘れて、顔を忘れて、想い出を忘れれば楽になれるのだろうか。それらを忘れても、私はこの背中を忘れることはないのだろう。


駅についても月島くんの足取りは止まらなかった。改札を抜けて階段へ進み、駅のホームまで歩く。無言のまま私の隣に並んで、電車が来るのを待った。周りの音がやけに煩く聞こえ、隣に立つ月島くんとの距離が、隣にいると思えないほどに遠かった。沈黙が重くのしかかり、重い重い空気。その空気に抗うこと無く、ぽつりと呟かれた言葉は簡単に私の耳に届いた。

「僕と別れたいの」

私を見下ろす冷たい眼差しに、俯くことしかできなかった。それが頷いたように見えたのか、月島くんが「そう」と呟くとホームにアナウンスが流れる。甲高い音と共に電車が目の前に現れて、錆び付いた音を立てながら停車した。電車の入口が開くのと同時。月島くんが電車の風圧に揺られた私の髪の毛を撫でて聞いたことのないような声色を出した。

「僕は別れたくないですけどね」

優しく囁くような、悲しげに呟くような。風にとけて消えてしまいそうな、私の胸をせつなくさせる声。それに驚いて見上げた先には、月島くんの真剣な横顔があった。

「それじゃあ、気を付けて」

降車した人々に紛れ込んで、私を置いて背を向けて歩き出した月島くん。私は動けずに暫くその場に立ちすくみ、電車を見送った。

駄目だ。私の恋は死んでなんかない。

考えるより早く改札へ向かって走りだした。階段を駆け上がろうと視線を上げると、視界の端に自販機の影で佇むあの輝く髪色を捉えた。数歩進んで立ち止まり、ゆっくりと振り返る。そこにいたのはやっぱり月島くんだった。

「月島くん」
「……なに」
「なにしてるの」
「そっちこそ電車はどうしたのさ」

いつもと同じ口調なのに、ばつが悪そうな顔をしている。長い指を絡め自身の前で結び、視線はその手元を見ているようで、伏せられた睫毛が少しだけ震えているような気がした。

「好きです」

五度目の告白。一瞬だけ空気が凍ったように張りつめた。研ぎ澄まされたような雰囲気の中、月島くんの呼吸の音がして、彼は眼鏡を押し上げ表情を隠しながら「そう」とだけ呟く。

「月島くんは?」
「別れたくないって言いましたよね僕」
「うん。それでも言ってよ」
「そういうの求めないで欲しいんですけど」
「言ってくれなきゃ死ぬ」

私の恋が死ぬよ。

「……脅しなわけ」

交わった視線。睨み付けるように彼を見据えれば、溜息に似た舌打ちをして私に歩み寄る。そして私の耳元に顔を寄せて「むかつく」と囁いた。その言葉に身体がかっと熱くなって、月島くんを更に睨んでやろうと顔を離せば不意に唇に柔らかい熱が触れた。

「好きでもない相手を走って追いかけたり、送ったり。僕がそんなことするわけないデショ」

わかってよ。そういって握られた手。すっぽりと包まれ、月島くんのかさついた指先がくすぐったい。彼の手の温度、感触がじわりと私に滲み込む。

「これ以上僕を振り回さないで欲しいんですけど」
「振り回してないよ」

握った私の手をゆっくりと持ち上げて、そっと月島くんの左胸に当てられた。彼の内側から私の手を押し上げるように弾む鼓動に、私の心臓も速度を増す。

「これでもそんなこと言えるの」

もっとその心臓に近付きたくて、もっとそれを五感で感じたくて、月島くんの心臓に耳を当てるようにして抱きついた。そんな私を抱き締めてくれることはなかったけれど、いつものように「ちょっと」と言いつつも、黙って私が離れるのを待っていてくれる彼のことがやっぱり好き。

死にかけた恋は、彼の指先の触覚、輝いて見える存在、顔を埋めて香った匂い、唇で触れた味、私の心を動かす声。なにより彼の鼓動を感じて、一命を取り留めた。
恋だって死ぬ。けれど死ぬにはまだ早い。私の恋の寿命はきっと、まだまだ先にある。

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