5万打 | ナノ

禁煙の仕方


キュルキュルと異質な音を立てて回る換気扇。社内が全面禁煙になり、オフィスにコーヒーメーカーが導入されて、会議なんかで飲むお茶もいつのまにかペットボトル飲料に変わった。そうなると自然と給湯室を使う人は激減。それを良いことにひょんなきっかけで、こっそりと給湯室で煙草を吸うようになっていた私。

体よく仕事を押し付けられて、静まり返った夜の社内。給湯室の換気扇の下で煙草に火を付け、携帯片手に白い煙を吐き出していたときだった。不意に音を立てて開かれた扉。同時に「うわ」と驚いたような声が聞こえて、私は息を呑むのが精一杯。煙草を隠すだとか上手い言い訳だとかを考える隙もなく、扉を開けた人物を凝視することしかできなかった。

「びびったぁ」

そう言って前髪をかき上げたのは、女性社員からも男性社員からも注目の的。業績優秀、容姿端麗な営業部の黒尾鉄朗だった。ゆっくりと近付きながら私の指に挟まれた煙草をじっと見据える視線に、指先が震えそうになる。まるで叱られる前の子供のように身構えてしまった。

「社内全面禁煙になったからここで吸ってんの?」
「あ……、はい。すみません……」

黒尾さんは「そうかそうか」と頷きながら胸ポケットへ手を忍ばせた。

「なら俺も共犯」

そう言って悪戯っぽく笑った顔に、確かにこれは女性社員が騒ぐのが分かると一人頷いてしまった。自然な動作で私の隣に並び、カチリと火をつけて息を吐く。自分とは違った匂いが鼻を掠めて、白い煙がするすると換気扇へ吸い込まれていった。
大きくない換気扇のせいで近い距離。換気扇の異質な音が妙に大きく聞こえ、私より高い位置から感じられる黒尾さん息遣いに緊張していた。それがなんでかいたたまれなくて、早くこの場を立ち去ろうと肺を膨らませ、換気扇へ向かって顔を上げるとばちりとぶつかってしまった視線。吸った息が喉につっかえったように変な音が鳴ったが、黒尾さんは黙って私を見下ろしたまま表情に変化はない。

「ミョウジさん? であってる?」

まさか自分の名を呼ばれるとは思わなかったため、あまりに驚いて返事をすることができなかった。そんな私の様子を見て「あれ? 違った? おかしいな」と長い指で顎を撫でる黒尾さんに慌てて「はい、ミョウジです」と肯定した。

「やっぱり。よくうちに書類持ってきてくれるでしょ?」

ただの雑用で営業部へ何度か訪れた私の顔と名前まで覚えているのか。仕事のできる人は違うな。名刺交換したら一度で顔と名前を覚えられるような人なんだろう。
それから黒尾さんは気さくにいろいろな話をしてくれた。煙草は既に吸い終わっていたが立ち去るタイミングを失った私は、黒尾さんに相槌を打ちつつ残りの仕事量と終電の心配をしていた。


「つか俺、話しすぎたな」

そう言って自身の腕時計へ視線を落とす黒尾さん。袖から覗いた時計が彼の品格を物語っているようで、こんな人とここで時間を過ごしたことがあまりに非日常的なことに思えた。

「まだ仕事が残っているので」

それじゃあと小さく頭を下げて給湯室を後にした。



噂ばかり耳にしていた黒尾さんは噂以上な人だったなと思いながらも大急ぎで仕事を片付け、荷物を引っ付かんで小走りに会社を出る。すると車のクラクションを鳴らされた。肩が跳ね上がり、車を確認するとゆっくりと下がった窓ガラス。

「送るよ」

そう言ってゆるりと口角を上げる黒尾さんに、心臓が煩くなったのは生理現象といっても過言ではないと思う。誰だってこんなことをされれば普通じゃいられない。

「ありがとうございます。でもまだ終電あるんで」
「うん、でも俺のせいで時間とらせたっしょ?」

ほら、早くと促されここで断るのも失礼だよなと思い「すみません」と後部座席の扉に手をかけると「あー、こっちこっち」となぜか助手席を指差す黒尾さん。不審に思いながらもその言葉に従って助手席の扉を開けば後部座席には荷物が積まれていて、そこでこの車が営業用の社用車であることに気がついた。

「散らかっててごめんね」
「いえ、……車いいんですか?」
「明日朝イチで直行するからさ」

「そのついでだから気にしないで」その言葉を鵜呑みにしていいのかは分からないが、そういうことにしておかないと善意を履き違えてしまいそうで深く考えることはやめた。

「道どっち?」

私のナビを聞きながら黒尾さんはバンドルをきる。黒尾さんには少し窮屈そうな車内。肘おきに置かれた長い腕。初めて間近で見る横顔が綺麗だと思った。

「なんか俺の顔についてる?」

笑ったように抜けた息の音が妙に艶美であった。

「不思議で」
「フシギ?」
「黒尾さんとこうしているのが」
「あぁ。確かに。てか俺らってさ、何気に同期だよね」

確かに黒尾さんと私は同期だ。配属先が分かる前の研修期間の時に、何度か顔を合わせたことがある。背の高い彼は目立ったし、二枚目の顔に女性人は分かりやすく浮き足立っていたためよく覚えている。ただ研修のグループは違ったし、会話をした記憶はない。それに配属部署が違えば関わりなんて無に等しいし、同期とは名ばかりの共通点にしか過ぎない。

「もしかして知らなかった?」
「知ってましたよ」
「そのわりには反応薄いな」

何が可笑しいのか喉を鳴らすように笑って「せっかく同期なんだから仲良くしませんか」なんて口にする。

「とりあえず敬語辞めようぜ。俺だけ馴れ馴れしいやつみたいじゃん」

事実馴れ馴れしい。そう思ったことが顔に出ていたのか、視線をこちらに向けた黒尾さんが「おい、なんつー顔してんの」と笑うものだから、私もつられて笑ってしまった。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐


送ってもらったあの日から、「仲良くしませんか」の言葉通りに黒尾さんとはすれ違えば挨拶をされた。残業をして給湯室で煙草をふかしていると時々現れては雑談をした。

「今度飯いかね?」

さらりとそんな誘いを口にして、それにすっと頷ける程には仲良くなった。
調度良い距離感が居心地がよくて、自分の気持ちだとか相手の気持ちだとか深く考えはしなかった。大人になればなるほど、こういったところで鈍感なフリをしてやり過ごすことが多くなったと思う。恋って凄く体力を使う。頭も身体も精神も磨り減る。年を取れば取るほど、臆病になって億劫になって後回しにしたくなる。


残業中、休憩がてら一服しようかと携帯を手に取れば、黒尾さんからメッセージが届いていた。

“今から戻るんだけどまだ会社いる?”
“いるよ”
“ロールケーキ食いたい?”
“食べたい!”
“なら30分後に給湯室”
“了解”

あと30分頑張るかと背骨をボキボキと伸ばして、デスクに座り直した。区切りのいいところで切り上げて給湯室の扉を開けば、黒尾さんは既にそこにいた。

「お疲れ」

にっと笑った黒尾さんに「お疲れ様」という言葉がハッキリと口からでなかった。

「ここの給湯室使ってる人いるんですね」

そう言って長い睫毛を瞬かせて、私を見据える女性社員がいたからだ。受付の子だ。可愛いって有名だから知っている。

「黒尾さん早く食べましょうよ」
「いやいや、君が仕切らないでくれますか?」

黒尾さんの肩に触れる綺麗な爪に、歪んでしまいそうになる顔に力を込めた。「よかったらどうぞ」と本当は自分と黒尾さん用に用意したコーヒーを差し出せば受付の子は「ありがとうございます」とペコペコ頭を下げて笑った。その顔が、花が咲いたように可愛らしかった。

三人でロールケーキをつついて、受付の子が黒尾さんの紙袋を見てたかって来たのだと、冗談混じり話す二人。二人を見ているとケーキのクリームがぼってりと私の胸を焼いた。そんなことを感じる自分に耐えられなくて、「ご馳走さまでした。仕事がまだあるので」と申し訳ないが自分の分だけの片付けを済ませて早々にその場を去った。

気づきたくなかった、知らないふりをしていたかった傲った感情と一緒に、目についたゴミ箱へ中身の入った煙草を投げ入れた。


‐‐‐‐‐‐‐


辞めよう辞めようとと思っていた煙草。そもそも給湯室で喫煙するなんて間違っているわけだし。ただ、辞めるきっかけを欲していただけ。パソコンのキーボードを叩きながら、本日何個目か分からない錠菓を奥歯で噛み砕いた。


「ミョウジさん、悪いんだけどこの書類届けてもらえない?」

封筒に書かれた営業部の文字に思わず眉間に力が入る。

「忙しかった?」
「いえ、大丈夫です」

私情で仕事を選ぶのはよくない。それに営業のオフィスは事務の人がいるだけで、大抵の人は客先の元へ行っているはず。
その予想通り営業部のオフィスはがらりとしていた。事務の人に書類を手渡し、そそくさと自分の部署へ戻る途中。ひゅっと吸い込んだ息が細くなった。

「さすがに勘弁してくださいよ」
「いやいや、そんなこと言いながら余裕でしょ? 黒尾くん怖いわー」

反応するな。前だけ向け。そう思って真っ直ぐに歩けば、すれ違う間際いつものように「おー」と軽い挨拶をされて、私もいつものように小さく会釈をした。
やっぱり格好いいなと重いため息を吐きながらエレベーターを待っていると、トンと肩を叩かれた。

「昼もう食った?」

私を覗き込むこの男は何を考えているのだろうか。勘違いをする。現に私は勘違いをしていたのだからやめてほしい。誰にでも優しい男は嫌いだ。

「食べた」
「え、はえーな」

驚いたように目を大きくさせてたこの人は、どうして私に構うのだろう。そんな苛立ちを腹にしまいこんでエレベーターへ滑り込んだ。


‐‐‐‐‐‐‐


禁煙してから一週間。少しの残業を終えて会社を出ると、会社の目の前にあるコンビニの灰皿で煙草をふかす黒尾さんが私に手招きをしていた。

「残業お疲れ」

まるで私を待っていたような口ぶり。

「……お疲れ様」
「飯いかね?」
「どうして」
「どうしてと来たか」

クツクツと喉を鳴らして「話したいことあるから」と、真剣味を帯びた瞳に映る自分がゆらりと揺れたような気がした。

奢ると言われて断る理由も思い浮かばず、黙って黒尾さんに続き、着いたのは個室の上品な和食屋。適当な料理と酒を体内に取り込んで、共通の同期の話をした。そのとき私が感じたのは、営業ってのはやっぱり口が上手いなと思っただけだった。


「ねえ、どうして私に構うの?」

「話したいこと」をなかなか口にしないことに痺れを切らし、煙草に火を付けたばかりの黒尾さんへなんの前触れもなく言葉にした。黒尾さんは煙草を片手に一瞬動きが止まる。

「ねえ、どうして?」

長い指に挟まれた煙草をそっと摘み、そのままするりと抜き取った。そしてフィルターを自分の口へ差し込みすっと肺を膨らませ、一週間ぶりの味を味わった。

「迷惑だった?」

今度は私の動きが止まった。いつもの余裕な笑みがない。真面目な顔をして黙って私に向けられた眼光畏縮しながらも、「迷惑ではない」と伝えると「それは良かった」と口角を持ち上げて私の指から煙草抜き取り、薄い唇でゆっくりと挟む。その動作が、私を見据える視線が妙に色っぽくて思わず息を呑んだ。

「言いたいことって?」
「え? あぁ、そりゃー口実」
「……口実」
「そ、口実。同期だから仲良くしようって言ったじゃん」

そうして短くなった煙草を自身の口から抜き取り、フィルター部分を私の方へ向けて「吸う?」と笑った。切れ長な目を更に細めて、ニヤリと笑った。

「禁煙中、だから……」
「おやおや」

そう言って煙草を揉み消し、私の唇と同じ色がついたフィルターに視線を落として「コレは貴女の痕ですよね」と口にはしないが目が言っていた。

「うし、俺も禁煙しようかね」
「え、なんで?」
「禁煙してんのに喫煙者がいたらイライラするだろ?」
「は?」
「だからまた飯誘っていい?」


‐‐‐‐‐‐‐‐


その言葉の通りに黒尾さんは何度か私を食事に誘ってきた。そして会社の外では彼を「黒尾」と呼び捨てにするほどに親しくなっていた。そうやって距離が近付けば近付くほど、自分の気持ちに鈍感ではいられなくなる。彼の行動に一喜一憂して、連絡がない会えない日には彼を想わずにはいられなくなっていた。
そうやって彼をひっそりと想い、出張が続いたらしい黒尾から久々に連絡が来た。

“出張の土産余ったやつだけどいる?”

その連絡に分かりやすく高揚して、すぐに返信を済ませて退勤後に給湯室で落ち合えば、「久しぶり」と鼓膜を揺らした声にぞくりと身体が痺れた。声を聞いただけで内臓がぎゅうぎゅういって、姿を見ただけで身体が熱くなる。想い人は私を敏感にさせる。

「久しぶり」


黒尾のお土産と私が用意したコーヒーを片手に、他愛ない会話をする。お土産が無くなり、コーヒーを飲み終えるとなんとなくここにいる理由がなくなって物悲しい。禁煙してからというもの、ここに来る理由が一つなくなってしまったのが少しの後悔を私に残した。

「……煙草吸いてえ」
「吸えば?」
「そしたら俺のこと根性なしって言うんだろ」
「言うだろうね」

急に始めた禁煙生活。煙草は吸いたいし、ここに来る理由にもなるため正直、何度となく喫煙を再開させようかと思った。けれど禁煙は次第に私と黒尾の根競べとなっていて、容易に喫煙の選択はできなかった。なんでか破ってはいけない約束ごとに思えて、それを破る気にはなれなかった。

「なんかさ、口が寂しいわけよ」
「それは分かる」
「だろ?」
「これ、結構いいよ」

いつも禁煙を手助けしてくれている錠菓の入ったケースを見せれば「一個ちょうだい」と大きな手が差し出された。しかし先程最後の一つを食べたことを思い出す。

「ごめん、空だ」
「えー。今すげーその口になってたのに」
「ごめんて」
「あー、口が寂しい」

寂しい寂しいと薄い唇が何度も動く。その「寂しい」って言葉が、つい最近まで自分自身の中にあった感情のせいか、胸が鈍く痛んだ。
口が寂しい。黒尾と会うのに理由を探さなければいけないのが、寂しい。寂しいと簡単に口にできないのが寂しい。

「私も、寂しい」

空のケースを見つめながら呟くと、不意に知らない香りが鼻を掠めた。耳元でいつもより低い声で聞こえた「なにが」という言葉に、その香りの正体を知る。
耳元にはきっと黒尾の薄い唇があって、手を伸ばせばあの大きな手に届く。もしその手を握ったのなら、彼は握り返してくれるだろうか。

「なにが寂しいの」

もう一度言われた言葉に引き寄せられるようにして、ゆっくりと黒尾の方を向けば息がかかるような距離で交わった瞳。黒々とした虹彩が私を捉えて、呑み込む。

「寂しい。口が、寂しい」
「俺も寂しい」

どうして欲しい? そう言われているような気がした。きっとわかっているくせに、寂しさを埋めようとしないのは優しさなのかただ意地が悪いのか。それとも私を試しているのだろうか。

これから私と彼は、煙草を吸う代わりに互いの唇を吸う。寂しい口を互いの体温で埋める。根競べはおしまい。
そっと触れた唇は煙草なんかより心地がよくて、私の口内をゆっくりと侵略した。その行為は煙草なんかよりもじわりじわりと全身を満たすのだった。

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