5万打 | ナノ

秘密の文通


定年間近のおじいちゃん先生。優しいし、無理難題な課題を出さないから私は好き。ただ理科室の隣にある準備室という名の、おじいちゃん先生の部屋から離れたくないのか、各学年のクラスの教室へ移動したくないのか。実験もないのに授業の度にこの理科室に来るのは面倒だと思う。それと広い理科室におじいちゃん先生の覇気のない声は響かない。お経、呪文、眠りの唄にみんなは次々と船を漕ぎ始める。

今日も変わらずもにょもにょとした眠りの唄と、黒板に書かれた薄く達筆なミミズと言うよりは蛇のような文字に目を凝らす。

ああ、眠い。隠すことなく大きな欠伸をしながら辺りを見れば、必死に眠気と戦う者。諦めて机に突っ伏す者。半々といったところだ。ぼうっとする視界に映るぼやけたおじいちゃん先生のシルエットに、最近見た映画の映像が脳裏に浮かんだ。おじいちゃん先生ってあの映画のキャラクターに似てるよな。机の右上。真っ黒な天板にガリガリと落書きをする。シャーペンの黒が角度によっては反射してチラリと姿を現す私の落書き。お、結構上手く書けた。そして横に「えー、つまるところの」とおじいちゃん先生の口癖を添えて。あーぽいぽい。すっごくそれっぽい。授業終わったら友達に見せよう。そう思って消さずに、睡魔と戦いながら黒板へ視線を戻した。


一応ノートはとったものの、眠気のせいで頭はぼうっとしたまま。その頭が覚醒したのはおじいちゃん先生の嚔ではなく、終業のチャイムでもない。同じ部活に所属する友達の声だった。

「今日ミーティングやってから部活やて! はよせな!」
「嘘!? 聞いてない!」

休み時間のうちにミーティングの準備を済まさないと先輩にどやされる! 焦って勉強道具を引っ付かんで理科室を飛び出した。机の落書きのことなんかすっかり忘れて。


その落書きの事を思い出したのは二日後の授業の時。眠いなぁ、といつものようにベッタリと机に突っ伏した視線の先。少し薄くなった落書きの下に文字があった。

“悪意があるよね”

少し右上がりな文字。一気に眠気が覚めた。どこぞの誰かは知らないが、凄く驚いて興奮を覚えた。SNSのいいね! と同じ心境なのだろうか。自分の落書きを消して、新しい落書きを書いてみる。おじいちゃん先生に似たキャラクターを少し顰めっ面にして、先生の口癖第二位「ここテストに出ても知らんぞぉ」と。

二日間の間にここの教室を使ったのはどこのクラスだろうか。同じおじいちゃん先生の受持ちクラスはどこだったっけ?三年も使ってる?一年はどうだった?いろいろ考えたが、そんなことわかるはずもなく、誰でもいいやとすっかり目が覚めたことをありがたく思い、ノートをいつもよりもしっかりとした文字で埋めた。



数日後。わくわくとしながら真っ黒な天板に視線を落とせば、返事がきていた。

“いいセンスしてる。あんたの根性は悪そうだけど”

誉め言葉と皮肉がなんだか笑えた。次はどんな返事をくれるのだろうと、懲りずにまた落書きを残こす。そして次の授業の日に確認すると再び返事が。

“あんまり笑わせないでよね”

この人も笑っていたのか。私も今笑っている、というよりはニヤけている。そして私はまた落書きを新しく書いた。この落書きのやり取りは暫く続き、次第に落書きは日常会話に変わった。

“小テストあった。上出来”
“嘘でしょ。落書きばっかしてるくせに”
“ノートちゃんととってるから!”
“自慢するようなことじゃないよね”
“でもこの授業みんな寝てるよ”
“確かに”

文通みたいだ。顔も名前も知らない相手と連絡をとるなんて今の時代、当たり前のことだろうけれど、ここでしか連絡をとれない状況がドキドキする。特別なことに思えてときめく。たぶん相手は男子。それで同じ学年。会話の流れで知り得たこと。この文通相手が誰か知りたいけれど、知るのは何だか勿体ない。知ってしまったらこのドキドキが終わってしまいそうだから。それでも気になるこの文字を書く人。そんなジレンマに終わりがきた。

テストの返却があって、文通のおかげで寝ないで授業を受けたためなかなかの高得点。ただでさえクラス平均が低い教科なだけあって私はもう上機嫌。今も続いている文通の場所へ“テスト高得点!”といつもより力強く記しておく。

「次の授業でノート集めるからな。テスト悪かったやつちゃんとせえよー」

おじいちゃん先生の一言でどよめくクラスメイト。私は余裕。テスト解説を聞きながら答案用紙に落書きをするくらいに余裕である。授業が終わってからも意気揚々と鼻歌なんか歌いながら友達と教室へ戻り、次の授業の準備をしていると「なんなん気持ち悪い」と顔を歪める友達。

「テストの点数良かったの」
「嘘やん」
「嘘やなーい」
「待って、ノートちゃんとしとる?」
「してるよー?」
「マジか! ノート見せて!」

お願いします、ナマエ様! なんて言われて悪い気はしない。仕方ないなあーと机の中を漁れば、一気に血の気がひいた。

「ヤバイ、理科室に忘れた」
「はあ?」
「しかもノートにテスト挟まったまま!」
「アホだ」

ケラケラと笑う友達を無視して席を立つとちょうどチャイムが鳴った。「テストの点悪くなかったんならええやん」と他人事のように言う友達に、「ノート見せてあげない」と呟いて、頭を抱えながら項垂れた。

友達は分かっていない。テストの点数が問題なのではない。あの上機嫌に書きまくった落書きが問題なのだ。おじいちゃん先生に似せて書いたキャラクター。万が一あれがおじいちゃん先生に見られたら成績問題になりかねない。先生に見られる前に回収しなくては。

終業のチャイムと共に教室を飛び出した。もしかしたらまだ誰もあの理科室を使っていないかもしれないという、僅な希望を胸に理科室へ向かうとちょうど授業を終えたらしい生徒とすれ違う。嘘でしょ、間に合ってくれ。

「ナマエどーしたん?」

私を呼び止めたのは理科室から出てきた一組の友達。慌てて事情を説明すると、私のノートは見なかったなと少し安心できる言葉が返ってきた。どうやら見せびらかされるといった公開処刑は免れたらしい。

開かれたままの扉。理科室へ飛び込むように入ると人の気配はない。バタバタといつも座っている席へ行くも、ノートは無かった。手当たり次第に教室内を探し回るが私の探し物は見つからない。既に先生の手に渡ったか…もしくは私のクラスへ誰かが届けてくれるなんてこともあり得るはず。きっとそうだ。そうであるといい…。重い溜息を吐きながらもう一度いつもの席へ戻れば、身体が固まった。

“俺も悪くはなかった”

返事が書かれていたからだ。一組の人だったんだと思うと、急にさっきまでとは違った理由で心臓がざわめく。もしかしたら、さっきすれ違ったかも。それより何より、私のノートは文通相手が持っているかもしれない。そう考えると、心臓がばくばく暴れた。どうしよう。どうしようもできないけど、どうしよう。
煩くなった心臓を抱えながら理科室を出ると無意識に足が止まった。誰もいないと思っていた廊下の壁にもたれかかるようにして、静かにノートをめくる男子がいたから。そしてそのノートにはハッキリと私の名前が書かれている。長い手足に小さい顔。パラパラとノートをめくる指が凄く綺麗に見えた。絵になるような佇まい。そんな姿に目は釘付けになり、思わず見蕩れてしまった。身じろぎできずに黙って見据えていると、私の視線に気がついたのか伏し目がちな、切れ長の目がゆっくりとこちらを向く。

「本当にテストの点、良かったんだ」

パタリと閉じられたノート。ゆっくりと近づいて、真っ直ぐに私を見下ろす眼光が獣のようだった。

「でもさ、答案用紙にまで落書きすんのはどうかと思うよ。ミョウジナマエさん?」

はい、と差し出されたノートを受け取り、私に背を向けた彼を黙って見ていることしかできなかった。彼の名前は知っている。バレー部の角名倫太郎くんだ。ただあの文通相手が角名くんで、角名くんがこんなにも格好いい人だなんて知らなかった。

息を吸うことすら出来ないほどに緊張して、痛いくらいに胸は軋んだ。顔が熱い、身体が熱い、ノートを握った指先が熱い。なんて呆気ないんだろう。
この日私が知ったことは、秘密の文通相手の正体と、恋に落ちるときはこうも呆気ないのだということだった。


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それから私は文通の返事を書くことができなかった。角名くんが同じ場所に座っていると考えただけで心臓が爆発してしまいそうなのに、角名くんに書き綴る言葉なんて思い付かなかった。その代わりバレー部の宮くんファンに紛れて、角名くんの団扇を作りバレー部の試合を見に行くようになっていた。
バレー部の試合は何度か見たことはある。けれど角名くんだけをずっと見続けることはなかったわけで。その姿を無条件に見れることが、こんなにも胸踊ることだとは知らなかった。

「角名くん、かっこいい……」

ぼそりと呟けば友達が呆れたような顔をして「よかったね」と苦笑いを浮かべる。どうして今まで気づかなかったんだろう。スラッとした体型はモデル並だし。切れ長の目は素敵過ぎるし。あの抑揚の少ない声なんか録音したい程なのに。

試合が終わり、応援席へ挨拶するため並んだバレー部員。偶然私の直線上で足を止めた角名くん。私がいる場所は二階に設置されたギャラリーだし、応援する人で溢れているから目が合うことはないって分かっている。分かっているけれど少しでもこっちを向いてくれないかな、なんて下心で角名くんと書かれた団扇の裏側に隠していたおじいちゃん先生のキャラクターを「ありがとうございました」とバレー部全員が頭を下げた隙に、角名くんに向かって自分の顔の位置で小さく振ってみる。
まあ、気づくわけないか。と団扇を下げて体育館のフロアへ視線を向ければ角名くんは変な声を出して笑っている気がした。



「あの団扇はやめてくんない」

朝の昇降口、不意に後ろから声をかけられて身体が固まった。突然のことでなにも言えずにいる私に「聞いてる?」と横から顔を覗き込んだのは角名くんだった。

「緊張、が! 解れるかと、」
「俺試合で緊張とかしないし」

今の私の方がガッチガチである。涼しげな目でそんな私を、角名くんは小さく口角を上げて見ていた。その顔に胸がぎゅっとなって鞄の紐を握った手が汗で湿っていくのがわかる。

「次の試合まで張り替えて、おきます」
「てかあんた侑のファンだったの?」
「え? いや、」
「それとも治?」

なんでそんなことを聞くんだろう、なんで宮くんの名前が出るんだろうという疑問。緊張のせいで頭は働かないし、言葉も思うように出ない。返事のない私に痺れを切らせたのか、「まあ、いいや」と角名くんは私から視線を逸らして呟いた。それが「どうでもいいや」って言われているような声色だった。違うよ、角名くんのファンだよって言わなきゃいけないと思ったのに、声が出なかった。どんどん遠ざかる背中を、ただ見つめていることしかできなかった私の胸は、棘が刺さったみたいにちくりと痛んだ。


誤解なのになって思うだけで、それを行動に移せないでいた私。今日もおじいちゃん先生の眠気誘う授業をしっかりと覚醒した頭で受けていた。

ここの机に書けば分かってくれるだろうか。“あなたのファンです”って。そう思って右上の天板へ視線を向けると、ずっと残っていた最後に交わした文字が、テストの話をした文字が、いつのまにか消えていた。無かったみたいに、跡形もなく消えていた。私と角名くんを繋ぐものが無くなってしまったようで、それがとてつもなく胸を痛め付けて、苦しくて、悲しかった。
結局何も書けずに終業のチャイムが鳴り、席を立つクラスメイト。私は胸の痛みに耐えきれずに急いで自分の気持ちを文字にした。

“好きです”

いつもより端っこに、いつもより小さい文字で書かれたそれは、角名くんに届いてほしいような、気づかないでほしいような。そんな私の迷いがそのまま表れていた。


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この前角名くんが私のノートを持っていたことから考えて、今は一組が理科室で授業を受けているはず。そう思うとあの告白を見ただろうかってことが気になって授業もなにも手につかなかった。そして休み時間になり、私は理科室へ向かっていた。おじいちゃん先生が面倒くさがって施錠をしない扉はいとも簡単に開く。
一目散にいつも座っている席に向い、真っ黒い天板を隈無く探したが私が書いた文字は消えていた。そして返事も無かった。いや、返事がないことが返事なのだろう。胸に刺さる棘が増えたように、痛みが増す。ちくりちくりと私を刺す。

痛いな。胸が痛いな。

ひんやりとする天板を指先でなぞって、いつもみたいに椅子に座り机に突っ伏した。角名くんもこうやってたりするのかな。そう思うと涙が出そうになる。よくよく考えてみれば、角名くんとまともな会話をしたことがないな。この場所で文字を交わしただけ。それだけなのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。どうしてこんなに好きになったのだろう。

駄目だ。このままここにいたら泣いてしまう。そう思って扉に手をかけると、私が引いてもいないのに扉が開いた。驚き弾んだ肩。半歩ほど下がって見えたのは、私を見下ろす角名くんの顔だった。まさか角名くんが現れるなんて思ってもいなかったため、動揺からか話したいときは動いてくれない口が勝手に動く。

「……忘れ物、しちゃって」
「へー。あった? 忘れ物」

表情変えることなく、淡々と言葉を紡ぐ角名くんはどんな心境なのだろう。

「無かった」

消えていた。それを消したのは角名くんじゃないのって思うのに、それを言葉には出来ない。ハッキリと振られるのはやっぱり怖い。

「角名くんも……忘れ物?」
「俺は探し物」

探し物、そう言って私を見据える瞳がなんでか焦げるほどに熱く思えた。その目をずっと見ていることが出来なくて、思わず視線を逸らす。角名くんも私も口を結び、沈黙に包まれる。その沈黙を破るように鳴り響いた予鈴。それを合図に私に背を向けて歩き出した角名くんの少し後ろを私も続いた。ゆっくりと進む足取り。その速度がなんでかくすぐったくて、胸の痛みが和らいだ。目の前の背中が、チラリと覗く襟足が、跳ねた毛先が、角名くんの全部が胸に刺さった棘を溶かした。


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「テストの答案用紙見た?」

理科室から教室へ戻り、角名くんとの別れ際言われた言葉。その言葉が気になって家に帰ってから早々に引き出しを漁り、落書きだらけの答案用紙を机に広げた。そしてごちゃごちゃとした落書きに紛れて、あの少し右上がりな文字を見つけた。

“今度からはこっちに連絡して”

その文字の下にメッセージアプリのIDと思われる英数字が並んでいる。そのIDを打ち込めば角名倫太郎の文字が表示された。
その画面とにらめっこし、なんと送っていいか悩みに悩んで、おじいちゃん先生似のキャラクターのスタンプを購入して、こんばんはというスタンプとミョウジナマエですと付け足して恐る恐る送信ボタンを押す。するとすぐに既読の文字が表示され、一瞬で返事がきた。

“好きだねそれ”

少し悩んでから“そんなことないよ”と返信すると、角名くんからの返信は早かった。不思議だ。角名くんと携帯でやり取りしているのが、不思議だ。ポツポツと当たり障りない会話が続き、携帯でのやり取りに慣れてきた頃、ちゃんと告白しようって気持ちになれた。

“明日のお昼休みとか時間ある?”
“なんで”
“言いたいことあるから”
“いいよ、そういうの”

遠回しに振られてるのかな。それでも、振られるならちゃんと振られたいし、返事を聞きたい。

“理科室の見たでしょ?”
“見た”
“その返事を聞きたいです”

テンポよく続いていた会話が途切れる。困らせちゃったかな。それとも長文を打っているのかな。そんな気持ちで返信を待っていると、おじいちゃん先生似のキャラクターのスタンプでOKと返事がきた。そして立て続けに真っ黒な写真が送られてきて、再びOKのスタンプ。

なんだこれ?

よくよく見るとそれは理科室の天板。写真では確認できないが、“好きです”の文字があるように思えた。そう思うと顔に熱が集まる。え?OKって、え?
半信半疑でその画像を保存して、角名くんへ真っ黒い画像を送り返した。そうすると、角名くんからももう一度真っ黒い画像が送られてくる。

嘘みたい。

そう思うと私はベッドへと飛び込んで、枕に顔を埋め声にならない叫び声を上げていた。

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翌朝、夢じゃないよねと、角名くんとのメッセージのやり取りを確認するためメッセージアプリを開くと、角名くんのアイコン画像が真っ黒になっていた。
角名くんの方が私なんかより根性が悪いと思うのに、私の顔はみっともないほどに緩んでしまうのだった。

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