5万打 | ナノ

猪目結びになるまで


階段に足を向けると、上の方から言い争いと呼ぶには穏やかな口論が聞こえてきた。

「まあまあ、岩ちゃん」

そんな声の主は我校王子さま、及川くん。そしてその穏やかな声に「うるせぇ」とがなるのは私と同じクラスの岩泉くん。よく目にするやり取りに仲良しだなと思いながら階段を進む。すると踊り場で口論の主たちが立ち止まっていた。それを避けるように左へ足を運べば「クソ川!」というこれまた聞きなれたフレーズと共にドンという音。ゆっくりと及川くんの体が傾くのが見えた。スローモーションに見えるなんて、初めての経験。こういうときって本当にそう見えるんだなと考える余裕まであって、アドレナリンってやつは凄い。

斜め前方で傾く及川くんの背中に思わず腕が伸びた。そして右手で及川くんの右肩を抱くように支える。トンと想像より軽い衝撃。どうやら及川くんは持ち前の運動神経で自ら手すりに掴まり、落ちるなんて心配は無用だったようだ。広い及川くんの肩幅を、長くもない私の腕で支えるためにかなり密着してしまった。そのせいで近づいた顔。初めて間近で見た及川くんは、噂以上に整った顔をしていた。大きく開かれた目を縁取る長い睫毛。光が差し、ブラウンの虹彩は透けるように輝いている。そんな瞳が私をじっと見つめていた。そして瞬きすらせず動きのない及川くん。

「あの、大丈夫?」

そう声をかければ急に重みを増した右腕。及川くんが手すりから手を放すのが見えて、思わず左腕に持っていた教科書やらペンケースやらを放り出して両手で背中を支えた。

「え!? ちょっと! 大丈夫!?」

いや、重い! 無理! と思ったときに急に軽くなった腕。岩泉くんが「何やってんだよ」と怒鳴りながら及川くんを引っ張りあげた。及川くんは直立不動で竹のように真っ直ぐなままに地に足をつける。

「悪い、大丈夫か?」

申し訳無さそうに私の教科書を拾おうと屈む岩泉くんに続いて、「大丈夫」と答えながら散らばったノートにペンケースを拾った。

「おい! ボケっとしてねぇでお前も謝れや! ボゲ!」

及川くんは固まったまま返事はない。その佇まいは人形、もくは時が止まったかのようであった。

「あの、本当に大丈夫?」
「……名前」
「え?」
「名前は!?」

急に動き出したかと思えば、がっと距離を詰めてきて私の肩を揺さぶるように掴んだ。あまりに力が強くて顔が歪む。そんな及川くんの突拍子のない行動に逸早く反応した岩泉くんが「おい!」と痛いくらいに掴まれた肩から及川くんの手を引き剥がしてくれた。

「ねえ! 名前!」

イケメンの凄みのある顔というのは、凡人の私からしたら有無を言えない威圧感がある。だからそれに抗えずに「ミョウジナマエ……」と消えそうな声で口にすれば、及川くんはゆっくりと口角をあげて目を細めた。綺麗に笑顔を作って、完璧な笑顔で私の名前を口にする。「ナマエね」って。及川くんの口から自分の名前を呼ばれるなんて思ってもみなかったし、いきなり呼び捨てですかという不快感にも似た違和感が身体をざわめかさる。ぶるりと身震いをするような感覚に思わず後ずさって、逃げるように階段をかけ上った。


それから及川くんは「やっほーミョウジさん」と私に一言二言声をかけてから岩泉くんへと話しかけに行くようになった。その行動にクラス中の女子がざわめき何事かと質問攻めされたが、なんと言えばいいのやら。

「いや、よくわからない……」
「嘘ー! いいなあ!」

できることなら変わって欲しい。確かに及川くんは目の覚めるような綺麗な顔をしていて、凄いなイケメンだなと人並みには思うが、その及川くんが凡人の私に話しかけるなんて異様な光景に騒ぎ立てる周りの空気が肩身を狭くする。一言で言えばしんどい。


「ミョウジさん元気ー?」

今日も例のごとくニッコリと笑顔を張り付けて私の前で立ち止まり、ひらりと手を挙げた。

「美人は三日で飽きるってよくできた言葉だよね」

あめ息をついて嫌味を言ったつもりでも、及川くんには全然効かない。彼は無敵なのだ。

「格好いいねとかイケメンとかはよく言われるけど、美人って言われたのは初めてかも」

そう言って感心した声色を出す。そんな反応をされて、もう嫌味をいう気力すら湧き上がらない。清々しいほどの揺るがない自信。ポジティブって怖いものだと初めて知った。

「さいですか……。それより及川くんさ」
「お! なになに?」
「やめてくれない?」

なにを? と私の言わんとすることに予想はついていないらしい。

「用も無いのに話しかけるの」
「そう思ってたの!? 酷いなぁ、それに用ならあるよ?」
「そうなの?」
「仲良くなりたいなーって」
「は?」
「ミョウジさんと仲良くなりたくて」

ね? いいでしょ? と顔を綻ばせる。その笑った顔が、いつものファンサービスをするような笑顔ではなくて、心臓が小さく音を立てて跳ねた気がした。勘違いをしてしまうから、本当にやめてほしい。

「よくない」

そう拒否をしても及川くんに効果はない。「えぇ」と口では言うものの、余裕ある表情が癪であった。


‐‐‐‐‐‐‐‐


月曜日の放課後、昇降口で女子の群れが目にはいった。その中心には勿論及川くん。ここで声をかけられたら面倒だ。バレ無いようにと人波に紛れて目の前を通過するも、それもむなしく。

「やっほーナマエちゃん」

姿がバレただけではない。名前まで呼んじゃって。本当馬鹿じゃないの? ほら、女子の視線が怖すぎる。そんなことはお構い無しな及川くん。先週までは普通に苗字で呼ばれていたはずなのに、気づけば親しげに名前を呼んで、うんざりするような胸焼けをしそうな笑顔をむけてくる。
それを無視して下駄箱へ手をかければ「何で無視するのさー!」と不満を露にする。私の方が不満だらけなのに。

「なんで名前で呼ぶの」
「ん?及 川さんとナマエちゃんの仲じゃん?」
「どんな仲……」

距離の詰めかたが実に雑である。その綺麗な顔で笑っておけばいいと思っているに違いない。そんな及川くんは「一緒に帰りたくて待ってたんだけど!」と、誰も頼んでいないことを口にする。

「帰らない」
「ほんと? じゃーどっか行こうか!」

そういうことじゃない! と怒鳴り付けたいのに、嬉しそうにぱっと表情を明るくされたら何も言えなくなってしまった。何を言ってもこのポジティブ男には通用しないのだろうな。いい加減学んだ。諦めに近い妥協をして、黙って駐輪場へ自転車を取りに向かえば、さも当然のように私の後に続く及川くん。

「自転車通学なんだ」
「そう」
「二人乗りでもする?」
「しない。するわけないじゃん」


仕方なく自転車を押して歩く私の隣を及川くんはヘラヘラと笑っていた。岩泉くんの話だとか、バレー部の話。なんでもない日常的な話。そんな話を楽しそうに話す姿が少し新鮮であった。

「それでねー岩ちゃんがね、って! ナマエちゃん? 俺の話きいてた?」
「いや、あんまり」
「酷いなぁ!」
「そのナマエちゃんってのやめてよ。そんなキャラじゃないし」
「そう?……ならナマエ」

違う! 苗字で呼べって意味だと及川くんの顔を見れば、口を結んで少しだけ真面目な顔をしているものだから、急に名前を呼ばれたことが恥ずかしくなった。そんな私をからかうように、あははと声を出して笑う。こっちはペースを乱されてまくりなのに、相変わらずの余裕に腹が立つ。そんな自分の顔を見られたくなくて、俯き視線を落としたのに。そんな私の行動の意味を分かっていながら、わざと顔を覗き込む及川くんは性格が悪い。

「照れてる?」
「は!? 照れてない!」

自棄糞になって顔を上げれば悪戯っぽく笑った顔があった。そんな見たこともない顔をされれば不覚にもときめいてしまう、…かもしれない。それが何でか悔しくて、交わった視線を逸らさずに睨み付けて崩れてしまいそうな表情筋を誤魔化した。すると先に視線を外したのは及川くんで。

「あーそっか。うん。照れてるのは俺……です、ね」

口元を片手で押えながら顔を背けて、柔らかそうな髪の毛から覗く耳が赤く染まっている。イケメンでモテモテのくせに。元カノだってたくさんいるくせに。女には慣れているくせに。そんな反応をされれば嫌でも赤くなる顔。抑えきれない熱。二人して黙って視線すら送れずにもじもじとして、私が押す自転車のカラカラと鳴る車輪の音に耳を傾けながら暫く歩き続けることしかできなかった。


そうやって町中まで歩くと、チラチラと集まる視線。次第にヒソヒソと声が聞こえてきて、気づけば知らない他校生に囲まれていた。

「青城の及川さんですよね」

きゃっきゃ可愛らしい声で群がり、女子高生たちは私を弾き出して及川くんを囲む。きっと日常的なことなんだろう。見慣れたヘラつく笑顔で「バレーの試合見てくれてるの?」なんて満更でもない顔。その顔になんでかムカムカして。待っている自分が馬鹿みたいで、惨めになった。だから何も言わずに自転車にまたがって、そのまま地面を蹴った。ジージーと錆び付いたチェーンの音がやけに大きく聞こえる気がする。その音に隠れるように苛立ちを声にした。

「ばーかばーか」

及川くんのばーか。それよりも何よりも、私のばーか。景色と一緒に流れた声は、誰にも届くことは無かった。


‐‐‐‐‐‐‐‐


「ちょっと! なんで昨日勝手に帰ったのさ!」

お昼休みになった途端に教室に現れて、私の行動を責める及川くんはやはり馬鹿であると思う。そんなに私に執着しなくても、可愛いくて思い通りに行動をしてくれる女子は山ほどいるだろうに。

「一緒にどっかには行ったじゃん」
「は? なにそれ」
「なんで私が待っていなきゃいけないわけ?」

自分でも引くほど可愛げがなくて、嫌なことを言っているなと思う。いつもニコニコ無敵な笑顔をする及川くんですら顔を歪ませた。

「お前、本気で言ってる?」
「付き合ってるわけでもないのに、そういうことを私に求めないでよね」

言い返す言葉が無いのか、及川くんは口を閉じた。けれど私の目の前から立ち去る気はないらしい。そんな及川くんを置いて私は食堂へ向かい、友達とお昼を食べた。その最中も及川くんは話しかけては来ないものの、常に私の視界に入り込み怒っていますとアピールをしている。心底煩わしい。

「ね、ナマエ。及川くんずっとこっち見てるんだけど……」
「気のせいじゃない?」

苦笑いを浮かべる友達を無視してお昼をかきこみ「先に戻るね」と食堂を後にした。視界の端に映り込んだ及川くんが慌てて席を立った気がしたが知らない。いい加減私に付きまとうのに飽きてしまえばいい。一時的な感情で振り回さないで欲しい。本気でもないくせに。

足早に廊下を進み階段を上る。ドスンと音がしそうなくらい力任せに階段を踏みつけて、一段、また一段と足を振り下ろした。こうやってむしゃくしゃする気持ちも踏みつけることが出来ればいいのに。そしたらぺらっぺらにして、紙飛行機でも折って窓から飛ばしてやるのに。海まで飛ばしてやるんだと、また一歩踏み出した足が地につかずに浮いた。不意に背中を引かれ持ち上げた足がふわりと宙に浮き、地を踏み損ねて後ろへ傾く。

あっ、て思ったときには視線が天井を向いていて落ちるって思った。スローモーション。二度目の経験。アドレナリンのおかけで手すりを掴まなきゃって事までは考えられた。けれどいくらアドレナリンが出ても、反射神経はついていけないんだなと実感した。伸ばしかけた手が行き場を失い、重力に従ってどんどん傾く身体。ああ、駄目だ。そう思ったのと同時に身体の動きが止まった。トンという衝撃に、背中と肩を抱かれる感覚。

はたと交わった視線の先には及川くんの顔があった。しっかりと私を支えて、作り物みたいな綺麗な顔が私を覗き込んでいる。ドクドクと命の危機に騒いだ心臓が、そのまま及川くんの体温と力強い抱擁のせいで鳴り止む術を失った。

初めて私を見下ろす及川くんの顔を見て、息が止まるりそうになる。欠点なんかひとつもない綺麗な顔。涼しげで、それでも情熱的な瞳が私を射抜く。触れられている場所が焦げそうなくらいに熱くて、向けられた視線が息苦しいほどに胸を縛り付けた。

ああ、確かに。これはまずい。

「……これはトキメクね」
「でしょ?」
「わざと背中、引っ張ったでしょ」
「でも落ちてくるとは思わなかった」
「本当に?」

余裕そうな顔が、鼻につくはずの顔が、今はどうしようもないくらいに心臓を痛め付ける。

「落ちなかったけど、落ちたんじゃない?」
「は?」
「俺に。俺に落ちたんじゃない?」

薄ら寒いセリフ。そんなセリフなのに、吊り橋効果ってやつにイケメン要素が加わればきっと無敵なんだろう。こんなに付きまとわれて、感情を乱されて、嫌だって拒否をしていたくせに一端に嫉妬までしちゃって。遊ばれてるだけだって強がって逃げていたのに、捕まってしまった。

「……そうかもね」
「え、」

そう言ってぱっと離れた手。嘘でしょって思ったときには及川くんの胸へ背中からダイブしていた。ぶつかった後頭部。及川くんを軸に辛うじて支えられている背中。及川くんの心音がダイレクトに身体に響く。私より煩い心臓。それに吃驚して慌てて身体を離して振り返れば、及川くんは私が階段で受け止めた時と同じ顔をしていた。

「変な顔」

そして階段をかけ上がる。「ちょ! はあ!?」なんて声が聞こえた。余裕のない慌てた声が可笑しくて思わず笑い声が漏れる。前言撤回。捕まるものか。捕まってたまるか。告白されてないのに、私が告白なんかしてやるもんか。


互いを結ぶ糸は既に絡まっている。その糸はもうほどく必要はないのかもしれない。だからそれを手繰り寄せて、ハートのマークにでもなるようにゆっくりと結び目を増やすのも悪くないと思う。愛を囁くにはそれからでも遅くはない。

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