5万打 | ナノ

さようなら
いい後輩くん


放課後でもないのに静まり返った廊下。通り過ぎる教室は眠っているかのように人の気配も温度も感じられない。人のいない空間というのはいつもより空気が肌寒く感じられる。
木兎さんのせいで何度も通った3年1組に立ち入れば、室内にも関わらずコートを着てマフラーに顔を埋めるミョウジさんが身じろぎせずに、静かに座っていた。一人取り残されたように佇むその姿は、幻影のように危うく儚さを感じる。

「ミョウジさん」

消えゆきそうな彼女に不安を覚えつつも声をかければ、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。そして赤く染まった頬と鼻先をマフラーの下から覗かせて顔を綻ばせる。「京治くん遅いよ」そう言って笑うミョウジさんは、もうすぐこの学校から卒業する。


すでに進路が決まっているミョウジさんは時間をもて余しているようで、自由登校にも関わらず頻繁に学校に来ては俺の前に姿を現した。

「暇なんですね」
「酷いなあ」

これでもいろいろあるのよ? と疲労を見せるため息が白く色づいているような気がした。

「寒くないんですか?」
「寒い! めちゃくちゃ寒い!」
「別の場所で待っていたら良いのに」
「えー、ロマンが足りない」
「なにがロマンだ。風邪引いたら元も子もないでしょう」

手を握ろうと彼女の腕を手繰り寄せれば、そこにはしっかりと暖かそうな手袋がはめ込まれていた。この人にロマンを語る資格はないな。「いいでしょ?」と見当違いな答えに脱力する。自慢気に手袋を見せびらかして気が済んだのか、ぽいぽいと自身の手袋を外して俺の手を温かい熱が包んだ。

「京治くんのために温めておいた。セッターって手が命なんでしょ?」

大事にしなきゃと俺の手を強目に握る。体育会系という言葉が適切だとは思わないが、言葉の節々に馬鹿が垣間見えるミョウジさん。あの木兎さんと対等に言い争いをしてしまうくらいだ。そんな彼女を可愛いと思ってしまうのは惚れた弱味なのだろう。

「京治くんこそ寒くない?」
「寒いですね」
「情けないなあ、男のくせに」
「なんですかその性差別」

仕方ないなとマフラーを外して、俺の首にぐるぐると巻き付け始めた。鼻を掠める冬に咲く花のような、冷たい香り。そんなミョウジさんの香りに、気を抜けば涙が出てしまいそうな感覚。眉間に力を込めて「ありがとうございます」と伝え前を見据えれば、顔を埋めていたマフラーを失いハッキリと見えるミョウジさんの顔。白い肌に赤みがさしていて、伏し目がちな睫毛が濡れているように見えた。

「今更だけどさ」

俺の首もとへ視線を向けたまま、ミョウジさんの形の良い唇が歪んだ。

「付き合ったばかりなのにすぐ卒業かーって思ったら、京治くんに刻み込んでおかないといけないと思って。誰もいない教室で密会。ドキドキしない? 記憶に残るでしょ?」

この密会というよりどちらかと言えば、悪戯っぽく笑うミョウジさんの顔にどくりと脈打つ心臓。充分貴女は俺を支配しているというのに、それをわかっていないのはたちが悪い。

「ならキスでもしておきますか」
「は?」
「その方が記憶に残ると思うんですけど」

ゆっくりと距離を詰めると、みるみる赤みを増す顔。巻かれたマフラーを緩めながら彼女の手を捕まえて引き寄せれば、何度か視線を泳がせて観念したように瞳を閉じた。その顔に自分の口角が上がる。

誰もいない教室。静寂の中、貴女のマフラーを巻いた俺の、冷たい手に握られながらキスをしたことを忘れないで欲しい。俺を刻み込んで欲しい。匂いも温度も全部。その全部で卒業してゆく貴女を縛り付けてしまいたい。


‐‐‐‐‐‐‐‐


なんの前触れもなく鳴った携帯。この人は本当に暇なんだなと、呆れつつも無視をするという選択肢はない。

「はい」
「もしもし? 今大丈夫?」
「少しなら」
「少し?」
「今テスト期間なんで勉強してました」
「そっか、テスト期間なんだ」

まだ一応在学中であるのに「テストか」と呟くミョウジさんは、過去を懐かしむような声色であった。

「なら部活は休みだよね」

しんみりと浸っているのかと思えば、電話越しでもわかりやすく声のトーンをひとつ上げた。鼻唄が聞こえてきそうな程に弾んだリズムで楽しそうに言葉を並べる。

「テスト期間なんだから寄り道しないで帰った方がいいよ。学校で居残りなんかしないでさ。それに誰かと一緒に勉強するのもさ、ほら、捗らないじゃない?」

面白いように考えていることがわかるが、あえて知らないふりをする俺は性格が悪いのかもしれない。

「だから放課後はまっすぐ家に帰った方がいいと思うよ」

明日、学校まで会いに来る気だな。自分の顔が相手に見えないのを幸いとばかりに、ほくそ笑む。それを悟られないように注意しながら「そうします」と返事をした。


次の日、案の定ミョウジさんは学校へ姿を現した。テストを終えて各々答え合わせをするような会話でざわめく教室内で、それを遮るように「赤葦!」と窓際の席のクラスメイトが声を大きくし手招きをしている。

「ミョウジ先輩が校門にいるぞ!」
「あぁ、知ってる」

どれどれと窓際へ群がるクラスメイトを横目に外へと視線を向けると、男女問わず後輩に囲まれているミョウジさんの姿があった。陸上部の人だろうか。その姿を見て口を閉じた俺をいいことに、周りの会話は好き勝手続く。

「いーよなーミョウジ先輩」
「マジで羨ましい」
「陸上部の花が赤葦と付き合うなんてな。思ってもみなかったわ」

正直特別にモテるという印象は無かったミョウジさん。しかし彼女と付き合ってから、ミョウジさんの所属していた陸上部の中では人気があったことを知った。
確かに綺麗な顔立ちをしていると思う。けれどそれは彼氏としての贔屓目で見ているわけで。だから陸上部の主に後輩。つまり俺の同級生の中では話題の人物であるなんて想像もしていなかった。

「先輩の足とか眼福だったよな」
「わかる。あれはエロい」
「いーなー赤葦。独り占めかよ」
「なあーこれからドコ行ってナニするんだよ」

尽きない興味関心、膨らむ妄想。好色な目つきで窓の外を見下ろす不愉快なクラスメイトの顔に苛立ちを覚え、次第にそれは静かに胸のうちを燃やすような怒りとなった。

「そりゃすることなんてさあ、」

卑猥になる会話に視線を向け席をたつと、クラスメイトが言いかけた言葉を呑み口を結んだ。正しい判断であると思う。自分の中には憤怒の念がぐつぐつと煮えていて、それが眼光に表れていたのだろう。それを感じ取ったらしい面々は謝罪の言葉を溢した。人の彼女でそういった想像をされるのは誰しも腹が立って当然だ。

じりじりとした焼け焦げるような嫉妬心を抱えたまま校舎を出ると、「京治くん偶然」と救いようのない冗談を口にしたミョウジさん。なにがどうなったら偶然になるんだ。嘘が下手なくせに息を吐くように虚言を吐き出した。本当は会いにくるのを知って待ちわびていたし、気分だって高揚していた。それなのに教室での一連の会話が俺にその感情を忘れさせる。

「友達と会っててさ。なんとなく寄っちゃった」

そう言って笑った顔に自分の腹の内を言えるわけは無く、それでも腹に溜まった熱が収まるわけでもない。だらといってそれを態度に出てしまうほど理性は失ってはいない。今回も俺はいつものように騙されたふりをする。

「それは凄い偶然ですね」
「私時間あるからさ、赤葦家までデートしようよ」

俺を家まで送る気でいるらしい。後輩からどういう目で見られていたか微塵も想像していなくて、知る術をもたないこの人は能天気に俺の隣を歩く。無知であるのはそれ自体が罪であると責め立てたい衝動にかられる。ミョウジさんは悪くないなんて百も承知なのに、醜い嫉妬心が俺をどうしようもない男にさせる。

「学校に来て待ち伏せるの、やめてもらえますか」
「えー、偶然会っちゃったんだから仕方ないじゃん?」

完全なる八つ当たりにミョウジさんは何食わぬ顔で返事をした。そういえばそういう設定だった。「周りが騒ぐんで」と前に視線を向けたまま溢せば、ミョウジさんは「ふーん」と抑揚の少ない音を出した。

「意外。そういうの気にするんだ」

貴女を好色な目で見られるのが耐えられない。誰かの頭の中に住みつくのすら許せない。そんな俺の本心を知らないミョウジさんの感心したような一言が、俺を子供扱いしているように思えてしまって更にどす黒い感情が渦巻いた。

「騒がれるこっちの身にもなってください」

わざわざ会いに来てくれた人に言うべきことではないと分かりながら、そんな言葉を吐いてしまう。木兎さんとは言い争い怒って憎まれ口を叩くくせに、俺にはそれを言ったことがない。なんでそんなことを言うんだって、そんなこと言わないでって泣きついて、俺に対する執着を見せてくれた方が気が晴れるのに、彼女は泣きも怒りもせずに穏やかなままだった。

「嫌なら気を付けるよ。偶然でも会わないように。まあー来週には卒業するし、いらない心配だと思うけどね」

そしてあっけからんと笑ったミョウジさんの言葉に胸を刺される。どうせなら詰って欲しいのに、それを言わないことが更に俺を刺し貫いた。

卒業する。そんなことはわかっていた。わかっていたはずなのに、どうしてこんな言葉しか伝えられないのだろうか。バシャリと水をかぶったように頭が冷えて熱が消えた。胸の内側にわずかにこびりついた残灰が消えてはくれなくて、自分の顔が歪んだ。顔をしかめたくなる己の醜態を責められないことが、文句一つ言わないで俺を救ってはくれないミョウジさんが、彼女の寛大な優しさが酷く残酷である。

「京治くんどこの駅だっけ」

電車に揺られながら路線図を眺める横顔は涼しげな大人な顔。その瞳が俺を捉え「テストやばかった?」なんて何もわかっていない彼女を、時々どうしようもなくわからせてやりたくなる。同じ痛みを共有させて、それが癒えるまでいつまでも俺は彼女に膝をついて謝ったっていい。

ミョウジさんはいつもと変わらず、俺の顔色を伺う様子もなく口を動かし、俺の家の前までついてきた。そして「ここが俺の家です」と伝えればあっさりと「それじゃ、勉強頑張ってね」と来た道を引き返えそうとする。この人は本当に、俺を家まで送り届けるためだけに時間を割いて会いに来てくれたのだ、と思えば喜ぶべきなんだろうけれど、欲のなさにうんざりもする。俺ばかりが乱されて嫌になる。

「待ってください」
「なに?」
「時間あったら、寄って行きませんか」
「勉強は? それに私、勉強教えられないと思うんだけど」
「それは期待していません」
「正直だね……。生意気! でも今日はやめとく」

引き留めても意思は変わらないらしく「ばいばい」と平気で背を向けてひらりと宙に浮いた手。その余裕が俺を苛立たさせる。ミョウジさんの手を掴んで無理矢理に力の加減なんかせず引けば、勢いよく振り返り驚いた顔をして俺を見上げた。

「自分で言ったんだろもうすぐ卒業だって。どうして簡単に背を向けるんだ」

自分の声が震えていて、俺自身の余裕のなさを露呈する。

「卒業はするけど、別れるわけじゃないし。実家から通うし、会おうと思えばいつでも会えるよ。それに勉強の邪魔したいわけじゃないから」

そんな正論が聞きたいんじゃない。ミョウジさんを握った手の力が強まる。その触れあっている手に視線を落として、ミョウジさんは「そっか」と呟いた。

「そっかぁ。京治くんが寂しいって言うならお邪魔して行こうかな」
「言ってません」
「顔が言ってるよ」

敵わない、敵わない人。きっと今後もこの人には敵わないのだろう。普段は年の差なんか感じないのに、どうしてこういう時だけ自分が幼く思えてしまうのだろう。

「少しお邪魔していってもいい?」
「そうして下さい」


-------


親の不在、静まり返った家に俺とミョウジさんの足音が妙に響いた。その慣れない空気感に嫌でも緊張する。俺の部屋に案内すると「私の部屋より綺麗だ」なんて緊張感のないセリフ。緊張している俺が馬鹿みたいだ。

「どんだけ散らかってるんですか」
「足の踏み場は、ある」

物珍しそうに辺りを見回しながら、クッションの上へと腰を下ろす。俺の部屋にミョウジさんがいる。その違和感漂う光景が、脈を早めた。

「勉強する?」
「ミョウジさんが帰ったらします」
「そっか」

ベッドへ背中を預けて溜息に似た深い呼吸音。この人は何を考えているのだろう。そんなことを思案していると「座らないの」と、俺に向けられた視線がいつも通りで何度目かわからない苛立ちに呑み込まれる。

「座りますよ」

わざと互いの体温を感じられるほどの距離に座り、ミョウジさんの様子を伺うが、俯いて髪の毛で隠れた表情。それを覗きたくて細い髪の毛へ指先を伸ばした。

「寒く無いですか」

小さな耳へ髪をかければ、白い耳が真っ赤に染まっていた。そしてびくりと身体を震わせて、俺の手を避けるように遠ざかる。

「緊張しているんですか?」
「そ、そりゃね!?」

うわずった声。揺れる瞳が俺を煽っているようにしか見えない。逃げるミョウジさんの手に指を絡めて、ゆっくりと距離を詰めると身体を強張らせて顔を背けられた。

「ミョウジさん」
「なに?」
「こっち向いて下さいよ」
「ちょっとタイム、」

待ってやるものか。

「ナマエさん」

跳ね上がった肩。ゆっくりと交わる瞳が熱を帯びている。結ばれた唇が色っぽい。それに吸い寄せられらように自分の唇を重ねた。何度も何度も、貴女は俺のものだって口内を犯した。熱い息づかい、潤んだ瞳。俺を乱す存在。

「怒ってる?」

その声に押さえ込むようにして寄りかかった身体の動きが止まった。止めざる終えなかった。

「どうしてそう思うんですか」
「……なんと、なく」
「貴女に不安はないんですか。…俺は不安ですよ。卒業して俺の知らない場所へ行ってしまう、遠ざかる貴女に不安で仕方がない」
「私も、不安だよ。だから今日だって私は京治くんの彼女だってアピールしに行ったようなものだし……。でもそれで怒ってるのかなって」

この人もいろいろ考えているんだな。能天気な顔をして、俺を想っていたのか。それを知っただけで全身の血液が速度を増した。どうしようもなく男の俺自身に呆れるが、求めずにはいられない。家に招き入れてがっついて、幻滅されるだろうか。理性が欲望を制御する。

「京治くん名前、呼んだね。私の名前」
「そうですね」
「もう一回、呼んで?」
「ナマエさん」
「もう一回」

嬉しそうに何度も自身の名前を俺に呼ばせる。頬を赤く染めて、噛み締めるように口元を緩める表情にこの人をどこまでも甘やかしたくなる。

「もう一回」
「ナマエさん」
「京治くん」
「はい」
「……キス、して?」

人の気を知らないで、本当にこの人は……。

「いいですよ。その代わり、キスしたら止まりませんよ俺」

怯えなのか、驚きなのか。大きく開かれた瞳。息を呑むように動く細い喉。はっきりと許否をされればこのままミョウジさんを汚さずに帰すことが可能であろう。己の欲を押し付けたくはない。どんなに俺を苛立たせたとしても、どうしようもなく貴女が好きだから。汚してしまいたいほどに。

たっぷりの間を挟み、睫毛を震わせながらそっと俺に触れた指先が酷く冷たかった。その冷たさに全身が粟立った。

「私のものになってよ京治くん」

そんな言葉で俺を煽って、受け入れてくれるミョウジさんをこれから俺は泣かせるのだろう。今にも泣きそうな顔をして笑ったこの顔は、痛いほどに俺に刻み込まれた。今度は貴女が刻まれる番。

「それは俺のセリフだ」

もう俺を押し止めるものは何もない。欲望のままミョウジさんにかぶりついた。本当はこうする前にもっと互いの気持ちを話さなければいけないのだろう。けれどそれより先に求めてしまうのは、仕方のないことだと思いたい。


初めて触れる肌。クラスのやつらは知らない。ミョウジさんの腹に割れた筋肉があることを。俺しか知らない甘い吐息。舌の温度。内側の熱。

「ナマエさん、」
「京治、くん」

溶け合う温度の中、互いの名を呼びあって刻みつけあう。目に見える傷痕を残してしまいたいのに、それは許されない。この狂気じみた欲を貴女は理解をしてはくれないのだろう。刻みたい、刻まれたい。綺麗な思い出なんかじゃなくて、強烈に記憶へと刻み込みたい。真っ白な肌に赤一点。これを汚れと呼ぶならば、真っ赤に汚してしまいたい。

来週、貴女は卒業する。それよりも先に、俺は良い後輩を卒業した。

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