5万打 | ナノ

月を食らう


息が切れて、肺が壊れてしまいそうなほど痛い。喉に何かがへばりついているように苦しい。それでも私は走ることを辞めなかった。道行く人にぶつかり、人を押し退けて、自分の行くべき道を進む。そうして大きな病院へ入り、流れた汗も乱れた髪も、整わない息もそのままに病室のドアを開いた。

「光太郎!」
「オース! 早いな!」

木兎はいつもと変わらない笑顔を私へ向けて、右手を上げた。ヘラリと笑った木兎の右足はガッチリとした白いギプスで覆われていて、自由を失っている。

「に、入院、って」
「あー、入院するほどでも無いんだけどさあ」

頬の辺りを骨張った指でかきながら、ぽつぽつと「練習中のプレーで足やっちゃって」と事の経緯を話した木兎。大学の講義中に届いた「入院することになった」といった急な知らせ。詳しい事情も知らされずそれだけを聞かされた私は、兎に角走った。走りながら最悪のことを想像してここまで来たため、命に関わるような病気でも事故による大怪我でもないことを知り緊張が解けたのか、床に崩れ落ちるように座り込んでしまった。

「おい! 大丈夫かよ!?」
「……大丈夫。なんか、安心したら、気が、抜けちゃって」
「そっか!」

なんかごめんなーと、へらへらと笑って謝る木兎はいつもと変わらない。怖いくらいにいつもと変わらなかった。
大丈夫じゃないのは木兎なんじゃないの?そう思うのに、それを口にしてはいけない気がする。私から視線を逸らして、真っ白な自分の足を見つめる木兎。何を思っているのだろう。きっと怪我の大きさだとか、痛みだとかは関係ない。バレーができないのに木兎は平気なんだろうか。

「ギプス取れるまでどれくらいかかるの?」

呼吸も頭の中も落着き、椅子に座って真っ直ぐに木兎を見据えた。先程とは違った緊張が私の身体を縛り付けるように自由を奪う。身体が強張り、自分の手を固く握った。

「手術は必要ねーみたいだし。コレ取れんのはそんなにかかんねーんじゃねえかなー」

つまりは、もう少し何かが悪ければ手術が必要だったってこと? 足首の手術。ボルトを入れたりネジを入れたりするのだろうか。そう思うと血の気が引いた。

「そんな顔すんなって!」
「……今までも怪我、したことあるの?」
「んー? そーいやーあんまりねえな、ケガ。つかギプス初めて! コレってどーやってつけるか知ってる!?」

こーしてあーしてこーして! すげーよな! イリョウって! と明るく話す姿に不安を覚える。落ち込んだり、苛立ちを見せてくれた方が分かりやすくていいのに、木兎は笑う。笑って「なんでもねーよ」って私の頭を撫でる。

「ナマエ学校は? まだ授業あるんじゃねーの?」
「あるけど、いいや。さぼる」
「お! マジで!」

嬉しそうな顔。そんな木兎と久々に長い時間会話をした。お互いの近況。木兎のバレーの話。私のバイト先の話。母校の後輩の話。いつもと同じ。いつもと違うのは、木兎の足が、木兎の翼が折れているってことだけ。

「あのさ、なんで入院なの? 検査入院?」
「そんな感じ」

そうか、それなら良かった。痛々しいギプスを見つめていると、病室の小さなテレビに映し出された温泉特集の文字を眺めていた木兎が、「旅行かーいいなぁ」とぼそり。その言葉に吃驚した。だって木兎らしくないと思ったから。練習がしたい。試合がしたい。バレーがしたい。なぜそれを口にしないの? 今、木兎はバレーができない身体で、今やりたいことはバレーのはずなのに。「あー、バレーしてーなー」ってなんで言わないの?

高校の時、チアがいないからチアが欲しいって言っていたのに。もし留学するなら私も来ればいいって言っていたのに。無理でどうしようもないことも、無理じゃないって駄々をこねるように自分の欲求を我慢する男じゃないのに。

足が折れただけじゃない。木兎の他のなにかも一緒に折れてしまったのだろうか。不安が私を襲う。その不安が恐怖に変わって私を呑み込む。怒りも遺憾も悲しみもないの? 感情が死んでしまったの? バレーをしたいって言ういつもの木兎は死んでしまったの? だからここから逃げ出したいって意味で旅行なんて口にしたの?

真っ白い病室。真っ白い布団。真っ白いギプス。独特の匂い、独特の空気をもつ病院という場所だからだろうか。そんな考えがよぎってしまった。旅行、逃避、失踪。

「……心中、」

自分から出た言葉に息を呑んだ。口にするつもりは無かったのに。何を言っているんだ。いくらなんでも悲観的すぎる。

「シンジュー?」

しっかりと木兎の耳に届いてたらしく、何それ! と弾んだ声で私を覗く瞳はいつもと同じ太陽だった。その虹彩は変わりなく私を煌々と照らしつける。

「バレー、どうするの?」
「来週もっかい病院来てその結果次第! この足だとなんもできねーし安静にしてろって言われた」
「なら休みなのね」
「そう! てかシンジューってなに!?」

なあなあと頭を左右に揺らしながら、執拗に私に迫る。本当に余計なことを言ってしまったなと後悔。けれど今、バレーをしない木兎と離れるのが物凄く不安だ。一人にしてはいけない気がする。

「心中は、旅行。旅行いこうか。今週末」
「え!? まじで!? へいへいへーい!」
「ここ病院。煩い」
「あっ、でも俺……あんま金ないんだけど……」
「私の奢り」
「えぇ、でも男としてさあ」

そう言ってぶつぶつと納得のいっていない顔をする木兎。なんと言えば納得してくれるのだろうか。こんな機会そうそうないし。これは不謹慎だ。木兎を慰めたいの。そもそも落ち込んでいる様子はない。黙って言うこと聞け。これが一番有効そうだけれど……。

「出世払いで返してよ。いつかもっと凄いことして? 期待して待ってるから」
「そーかー?」
「私が木兎と一緒に行きたいの。駄目?」

駄目押しに木兎の手を握れば分かりやすくとろけた顔をして、「そっかぁ、俺も行きたい!」と強すぎる力で腕を引かれて抱きしめられた。


‐‐‐‐‐‐‐


旅行先は大学生のバイト給料二ヶ月分程の旅館を予約した。木兎も少しくらいはとお金を出してくれたので、金銭的問題は無事クリア。木兎の事情を説明して、部屋に大きめのお風呂があって料理も部屋で食べれるよう手配。移動手段は初心者マークを張り付けた親の車で、初心者ドライバーの私が高速道路を三時間ほど運転。木兎は助手席に座って常に煩いスピーカー状態。ただ、一向に落ち込んだ様子を見せることなく、弱音を吐くこともないのが気がかりだった。


「うおー! 風呂でけー!」

松葉杖をついて、目を輝かせる木兎。全く陰りのない瞳。いつも通りが不安を煽る。木兎が分からない。目に見えているものが本当なのか、隠されたものが真実なのか。単細胞馬鹿のはずなのに。単細胞だからこそ、私の知る木兎の予想を裏切られると酷く不安になる。

「ここ高かったんじゃね?」

そう私に問いかける木兎に「給料二ヶ月分」と告げれば「ダイヤの指輪買えんじゃん!」と目を丸くさせた。その顔を見てふっと息が抜けて、肩が軽くなるのを感じた。

「それは給料三ヶ月分。しかもバイトの二ヶ月分はそんなもの買えないよ」
「あぁ、そっか。びびったー」

探検しようぜ。木兎がそう言い、普段の何倍もゆったりとした速度で散歩をした。季節を感じられる木々を眺めて、食べ歩きをし、売店で可愛くないお揃いのキーホルダーを買った。いつも以上に底抜けに明るい木兎。何かを見つけては、子供みたいに声を弾ませて双眼の太陽を私に向けた。
楽しい時間。けれど両手には松葉杖。繋がれない手。真っ白な片足。跳べない、飛べない鳥。不自由な木兎が痛々しく思えて、私の胸が締め付けられた。木兎は今日、バレーの話をまだ一言も口にしていない。


‐‐‐‐‐‐


部屋にもどって食事の時間になれば「肉だ!」とはしゃいで、「サイコーに旨い!」と頬を膨らませた。そしてお腹が落ち着いた頃に、一緒に風呂入ろうぜと言い出した木兎の誘いに頷けば分かりやすく身体を硬直させて目を大きくした。

「一人だと大変でしょ?」

木兎のギプスにビニール袋を被せて、肩を貸しながらゆっくりと浴室へ。

「えー、なんで服着てんの」
「それは今度ね」
「え!? まじで!?」

温めると良くないからと手短に入浴を終える。木兎は「クソーギプスめー」と自身の足を睨みながら浴室を後にした。上がったり下がったり忙しい。ただ、今日は終始ご機嫌だったため私と風呂に入れないだけで悄気る木兎が、どうしようもなく可愛く思えてしまった。

「髪、乾かしてあげようか」

水を含んで重力に従い、下ろされた髪。水滴を撒き散らす勢いで顔を上げたかと思えば「やってやって」と私に背中を向けた。地肌を指先で撫でるようにして、指通りのよい私よりも硬い髪をすく。揺れる度にきらりと光る髪色が綺麗だ。そうして乾かし終れば、俺もやりたいから早く風呂に入れと私を押す。急かされたがゆっくりとお風呂に浸かり、バレーと切り離された木兎を想った。

私の考え過ぎだったかな。そうやって結論付けて部屋へ戻れば、ベッドへ座り片足を伸ばした姿勢の木兎の、表情ない横顔が私の胸を刺す。どこへも行って欲しくない。閉じ込めておきたいと思ったのに、どこへも行けなくなった木兎を見ているのは張り裂けそうなくらい胸が痛くて苦しくなる。胸の痛みに耐えるようにして立ち止まる私を見つけた木兎は、顔を綻ばせて表情をすぐに取り戻していた。

「お! 来たな!」

こっちこっち! とドライヤー片手に手招きをする木兎の前に座れば、乱暴に髪をかき混ぜられた。ワシワシと分け目も毛先もめちゃくちゃ。「よし! 終わり!」と私の顔を覗き込み「んー?」と考えるような素振りを見せる。

「なんかいつもとちげーな」

お前のせいだよと睨み付ければ、わはは! と笑ってまた乱暴に髪を混ぜたかと思えば、今度は私の頬を撫でるようにして髪の毛を耳にかけた。ゆっくりと絡み合った視線。何かに引きつけられるように、鼻先を互いの頬へと擦り寄せながら唇を重ねた。

「なあ、なに考えてんの今」

先程まで私に触れていた唇で囁く。聞いているくせに、再び唇を塞がれて言葉を発することができない。

「また何か考えてんだろ?」

私に答えさせる気の無いような深い口付けをして、離れた熱。そして木兎の虹彩が私を捉えて逃がしてはくれない。「言えよ」って笑う顔が眩しくて泣きたくなる。

「……バレーしたいって、木兎が……言わないから」
「ん? そーだっけ?」

気の抜けるような声で、顔で、そんな言葉を言うから私の感情を塞き止めていたものがすっと消えてボロボロと溢れだした。不安と恐怖したこと。折れてしまったのではないかと、木兎がどこにも行けなくなってしまったと思ったことを全部吐き出した。

「そんなこと考えてたのかよ! すげーな!」

感心した声色で少しの間を挟み、ギプスを撫でながら再び口を開いた木兎。

「ギプス巻かれて、病室に一人で居たときはクソつまんねーって思ったし。早くバレーしてえって考えてたけど、ナマエが息切らしながら真っ青な顔して駆け付けてくれてさ。そんでずーと心配そうな顔して俺のこと見てるし。うわー俺愛されてるーって嬉しくなってさ。フキンシンだけど、ケガも悪くねえって少し。ほんのすこーし思った!」
「……本当、不謹慎」
「てか前に言わなかったっけ? 俺、バレーできなくなるのが不安だったけど、ナマエがいるからそうなってもいいやって。つか俺がケガくらいでバレーできなくなったりしないけどな! ヨボヨボになったら、まあ、わかんねーけど」

そんなの、何十年も先の話ではないか。やっぱり前しか見ていない、立ち止まることを知らない。けれど木兎の言葉に安心してしまう。

「だから、まあ、バレーしたいってかするし。ケガはつまんねーけど、ナマエが考えてるほど俺にとっては重大なことじゃないってわけだ」

分かったか?と偉そうな顔をして、私の顔色を伺う。私の不安も心配も、全部を無理矢理にでも明るく照らしつける強すぎる光。そんな光を向けられて、頷くことしかできない私を見て「よしよし」と満足そうに笑った。

「それよりさ! もっと別の心配しろよ。足りないんじゃね? カクゴが」
「……覚悟?」
「俺はさー、春高前、ナマエに泣かれたときにカクゴ決めた」
「なんの、覚悟?」
「どこまでも連れて行くカクゴ。だからナマエは、俺に連れていかれる心配しろよ」

強すぎる光、強すぎる眼光、強烈な台詞に息を呑んだ。固まる私を木兎は抱き寄せて、そのままベッドへと倒れ込む。この場の空気すら私たちを隔てることを許さない程に、身体を密着させ互いの心音を感じた。溜まりに溜まった不安を吐き出して、その不安があった場所を埋めるように木兎の体温がじわりじわりと流れ込み全身を包んだ。

「……木兎、当たってる」
「な! 勃っちゃった。あークソー! ケガなんかしてなかったら朝までヤれんのに!」
「馬鹿」
「なあなあ、ナマエが上でヤるってのはどー? そんで動いてくれたらサイコーなんだけど。ダメ?」
「……うん」
「だよな、ダメだよな」
「いいよ」
「え、マジで! いいの!?」

私は返事をせずに腕から抜け出して、木兎の逞しい身体に股がり初めて木兎を見下ろした。

「ヤッベー! めっちゃ興奮すんな!」

べろりと舌舐めずりをし恍惚とした顔をする木兎の口に、そっと唇を寄せて舌を差し込み互いを奪い合うようなキスをした。



以前はどこにも行って欲しくないと、私の中に閉じ込めてしまいたいと思っていたのに、どこへも行けなくなった木兎にどこまでも行って欲しいと思う私の矛盾。それでもきっと、この矛盾は続くのだろう。いくら木兎に甘い言葉を囁かれたって変わらない。だって木兎は大空のように自由で、太陽みたいに眩しくて、月のように美しい。そんな人を縛れる訳がない。

行為の最中、薄暗がりの中で木兎を見下ろすように乱れる私を月明かりのような双眼がじっとこちらを見ていた。そうか、木兎が月へ行くんじゃない。月はここにあったのか。


「光太郎、一緒に、行こう」

覚悟は決まった。私はついていくしかないんだ。バレーをする場所でも、しない場所でも。月でも、火星でも。そう、どこまでも一緒に行こう。木兎が太陽であり月でもあるなら、私は光を追う影になろう。そうやって木兎について行こう。

ずんと木兎が私を押し上げ身体が弾み、更に高い位置から月を見下ろす。木兎からくぐもった声が聞こえて、閉じられた瞳。隠れた月。どうやっても縛ることのできない貴方を、時には食べてしまおうか。光を呑み込む影の存在は、いつか足枷になってしまうかもしれない。それでも食べたい。
月食だ。月を食べるように、木兎の瞼へ唇を落した。

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