ふたりの世界 | ナノ
目が覚めるよりも早く、人の呼吸の気配を感じて意識が覚醒した。まぶたを持ち上げると、浮き出た鎖骨が微かに動いている。美しいカーブだと、漠然と感じた。その鎖骨をなぞってみたくなったけれど、自分の身体に彼の長い腕が巻き付いているものだから、うまく身動きがとれない。

「……まだ、いいでしょ」

巻き付いていた覚くんの腕が、私の身体を撫でるようにして動き、ぎゅうぎゅうと強く抱きしめ直した。そして再び静かな呼吸を繰り返し始める。どうやら覚くんの意識はまだ覚醒していないらしい。
もう少し、いいか。そういった思考に至るのは不思議な感覚であった。何もせず、覚くんの呼吸と体温を感じる。そんな時間がとても、とても不思議で、なんだか嬉しくて、胸の内側の辺りがくすぐったい。そんなことを考えていると、「くふ」そんな音がした。

「覚くん、起きた?」
「んー? ウン。なんか、朝起きたらナマエちゃんが腕の中にいるって破壊力すげーなーと思ったら目、覚めたよね」
「破壊力」

いったい私は何を破壊したのだろうか。顔を見たくて身体を少し離すと、そうさせまいとすぐさま腰を引き寄せられる。覚くんの鎖骨の辺りに額がぶつかり、ふと香る、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂い。また、胸の名所のわからぬ場所がくすぐったい。けれど太ももに硬いものが触れて、その感覚が一瞬でどこかへ行ってしまった。

「朝の生理現象だねー」
「そう」
「もしかして、まーだどれだけ血出るか試したいとか?」

クツクツと喉を鳴らしてわざとらしく羞恥を煽られる。冷静になると、とんでもないことを口にしたなと昨夜を振り返り、自分の行動を忘れたくなって、覚くんの胸へ強く額を擦り付けた。

「今日、予備校は?」
「ありゃ、分かりやすく話題変えてきたね」
「予備校は?」

私の抵抗をけらけらと嘲笑い、「もうちょっとゆっくりしたら行く」と私の髪の毛先を指先に巻き付けて、くるくると指遊びを始めた覚くん。彼の動きひとつひとつに、神経が集中してしまう。身体同士、触れている部分からどんどん自分の体温が上昇しているのがわかる。それがなんだか、いてもたってもいらない。

「朝ごはん用意してきていい?」
「えー。俺、朝は食べない派よ?」
「昨日の夜食べてないじゃん」
「それはナマエちゃんが食べさせてくれなかったから」
「朝食べた方が、頭働くよ」
「まあ、そんな気はするよねぇ。じゃあ、昨日の残りをなんとかしますか」

ほどかれた拘束。ゆっくりと覚くんから離れると、ツンと髪を引かれる感覚に動きが止まる。そして頬に彼の手が伸びきてきて、唇が重なった。

「オハヨウのチュー」

私を見上げた覚くんが柔らかく笑う。その顔は透けた朝日に照らされて、おぼろ気で、儚げで、綺麗だ。それは彼の内なる耽美的な世界の片鱗を見ているような、そんな光景だった。


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「コーヒーメーカーじゃん!」

朝ごはんを終えて、二人で食器を片付けていると、キッチン台の端に置物と化しているそれを見つけた覚くんは声を弾ませた。

「お父さんがコーヒー好きで。入学祝いにって買ってくれたんだよね」
「へー。自分の好きなものを贈るスタイルね。でもあんま使ってないんだ」

物珍しそうにぐるりとコーヒーメーカーを見回して、細部に積もった埃を指差す。確かにこれを使ったのは、引っ越し作業をした日、父とコーヒーを飲むために使ったのが最初で最後だ。

「覚くんコーヒー好きだっけ?」
「いんや、あんま好きくない」
「だよね。いつもココアだよね」
「でも牛乳と砂糖いっぱい入ってるのは好き」
「それなら、飲む?」
「ウン!」

豆は冷蔵庫に未開封のものがある。このコーヒーメーカーは全自動だから、使い方も難解ではない。けれどコーヒーを入れるためにはまず、この機械を分解して洗う必要がある。さて、どうしたものか。どこをどうするんだったか。
記憶をたどり、ひとつひとつ洗浄、そして丁寧に水滴を拭く。それを終えてようやく豆を投入し、ボタンを押す。そうすると豆を砕く音が響き、やがてコーヒーの抽出を始める。その様子を見守っていると、急に覚くんが「ヤバイ!」と慌ただしく荷物をまとめ始めた。

「ごめんナマエちゃん! コーヒー飲みたいなんて言ったけど時間がヤバイ!」
「いいよ。私の手際が悪かった」
「また後でリベンジさして! 次は俺が淹れてあげるから! そんじゃ行ってまーす」

矢継ぎ早に告げられた覚くんの言葉に、ギクリと驚いて思考停止。けれど我に返るのは一瞬で、急いで彼を追いかけて、靴に足を通す覚くんの背中に「行ってらっしゃい」と声をかけた。するとケタケタと笑い声がして、目を細めて振り返った覚くんが私の瞳を覗き込む。

「行ってきますのチュー。しとく?」

赤い虹彩が、いつもより鮮やかな色をしていた。時々思う。この色はなにかの警告なのではないかと。けれど私はそれを警戒しないし、拒絶しない。そんなことできないし、そんな選択肢はない。彼の腕を引いて距離を詰め、身を任せるのだ。
覆い被さるようにして、優しく唇が触れる。そして唇が触れたままに、覚くんが声を発した。

「なんだか名残惜しくなるねぇ」
「夜には会えるのに?」
「それはそうなんだけど」

そこで唇が少し離れ、「だけど、この部屋を出たらきっとすぐに会いたくなるんだよ」そう言い終わるのと同時に再び唇が触れて、すぐに離れた。

「今度こそ行くネ」

手を振る彼が閉めた扉は、やけに重々しい印象を私に与えた。静かになった室内は、コーヒーの香りが漂っている。
大通りが見える窓から、大股に歩く覚くんの背中を見送った。音のない、いつもと少し違った部屋。覚くんの痕跡を見つけて、なぜか頬が緩む。しばし窓枠にもたれかかり、その痕跡を眺めていると、いつの間にかコーヒーメーカーの音が止まっていた。せっかく淹れたのだから。そう思い、冷たいままのコーヒーカップへ茶色い液体を注いだ。
口をつけたコーヒーは、強い豆の香りがした。そして喉の奥、口内に広がったのは、酸味のような、苦味のような。そんなもの。曖昧な感覚を舌で転がしながら、ひとり、窓の外をしばらく眺めた。


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覚くんを待つ間は、いつも通りに過ごした。洗濯、掃除、勉強、昼食、勉強。そして夕方、覚くんから知らされた予備校終了時刻より早く、私は部屋を出た。なんだか自分の部屋が、今日は落ち着かない場所になっていたからだ。
二人分の食器。いつもより乱れたベッド。洗面台の歯ブラシに、いつもより多い洗濯物のタオル。部屋の隅に置かれた、私の物ではないボストンバック。覚くんの、痕跡。それらを見ていると、どうしても覚くんの顔が浮かんだ。勉強に支障が出るほどではないけれど、ふと時計を見ては、無意識にため息が漏れていた。気付けば出掛ける準備をしていて、予備校へ向かって歩きだしていたのだ。



「エェー!? 迎えに来てくれたの!?」

予備校から出て来た覚くんはすぐに私を見つけ、跳ねるような足取りで駆け寄ってきた。そして両手で私の右手を握って「なんでなんで」と、嬉しそうに繰り返す。

「夜には会えるよって言っておきながら俺に会いたくなって来ちゃったの!?」
「バイト代あるから、夕飯は外で食べるのはどうかと思って」
「あぁー、ナルホドー」
「でも早く会いたいと思って来たよ」
「ヒャー!」

私の右手を握ったまま、何を食べようかと歩き出す。いつもの所でもいいし、入ったことないお店に入るのもいい。なにをしても、なにを考えても楽しいね。そう言って覚くんは笑った。

夕食は初めて利用するお店で食べた。内装が薄暗くて、周りはお酒を飲んでいる人が多い印象。
食事を終えて、少し食材を買ってからマンションへ帰ろうか。そんな話をしながら私が伝票を掴もうと手を伸ばすと、覚くんが先に伝票を長い指で摘まんで、それを阻んだ。

「実はさ、ナマエちゃんは怒るかもしんないけどさぁ、俺もバイトしたんだよね」
「別に怒らないよ。どんなバイトをしたの?」
「んー? いろいろ? 日払いのやつを何個か」
「あぁ、それで風邪を引いたと」

ぎくり、なんて聞こえてきそうな顔をして、覚くんは頭を揺らし、苦笑いを浮かべた。

「いやだってさ! ナマエちゃんに全部お金出させるとかダサすぎるじゃん!」
「本末転倒」
「ひー! シンラツ! でも俺、過去は振り返らない主義だから!」
「初めて知った」
「今決めた! だからここは、ご馳走させて!」

でも私も覚くんと過ごすためにお金を稼いだわけで。それなのに奢ってもらうのもどうかと思ったけれど、私の答えを待たずにレジへ向かった覚くんにとってこれは決定事項しらく、私はただお礼を言うことしかできなかった。

「ちょっと寄り道してから帰ろ」
「何か用事?」
「そーいうわけじゃないけど、デートしたいじゃん!」
「そっか。そうだね」

目的なく、最近できたらしいショッピングモールへと入った。アレ見たい、コレしたい。覚くんの欲求に従って、ショッピングモールを端から端まで歩く。「そろそろ秋物が欲しいんだよね」そう口にした覚くんに、「ご飯のお礼にプレゼントするよ」と言えばなぜか全力で拒否された。


「ナマエちゃんは今、何か欲しいものないの?」
「卵、牛乳、あと玉ねぎ」
「いや、まあ、うん」

そーいうんじゃなくてさぁ、と困ったように笑う。そうだろうなとは分かっていた。分かって言った。所謂、冗談を言ったつもりだったのだけれど、うまく伝わらなかったらしい。なので今度は真剣に考える。欲しいもの、必要なもの。

「腕時計が欲しいかな」
「へー! 確かにつけてるの見たことないね」
「持ってないんだよね。高校生の時はどこにいても時計が目についたし、チャイムがあったら必要性を感じなかったけど、最近は腕時計があったら便利だろうなって思う場面が結構あるんだよね」
「なら腕時計見に行こう。レッツゴー!」


ショーケースに入った時計は、宝石のような輝きを放っていた。覚くんといろいろあるんだね、と店内をぐるりと散策。「気に入ったのあった?」そう覚くんに聞かれて、目の前の時計を観察する。色の違い、形の違い、文字盤の違い。違いはあれど、似たり寄ったりだなと思う。

「特に」
「ふーん? じゃあさ、俺に似合いそうなのある?」

覚くんに似合いそうな時計。そう言われて彼の手首を眺める。締まった手首。目立つ尺骨。手の甲の骨に、長い指、筋張った腕、赤い髪。

「これがいいと思う」

私が指差した時計を、覚くんは笑ってイイネと肯定してくれた。

「ならナマエちゃん、コレにしたら?」

そう言って彼が指差したのは、私が覚くんに似合うと選んだ時計より一回り小さいレディース物。

「ならそうしようかな」
「ん!? ちょっと待って!」
「なに? 冗談だった?」
「そういうわけじゃないけど即決? この時計、レディースだけど結構大きくない?」
「そうかもね。でもお揃いで買うならこれがいいんじゃない?」

返答がない。そこで改めて視線を上げて、覚くんへしっかりと視線を向けた。大きく開かれた瞳。それを見て、私の思い違いだったのかと急に恥ずかしくなった。

「ごめん。勝手にお互いにプレゼントし合おうってことかと思った」
「いや、うん。そういうつもりで言ったヨ? ただナマエちゃんそういうの興味なさそうだし、まさか言い当てられると思わなくて」
「なんで? 覚くんの考えてることなら、なんでも興味あるよ」

だって好きな人だから、そう口にした時、一瞬息が止まった。それは物理的に肺を圧迫されたから。音もなく抱きしめられて、現状を理解した時に私は固まってしまった。だって公共の場だし。こんな不意打ち、久々だし。
当たり前に恥ずかしい、けれど嫌ではなかった。だからゆっくりと覚くんに腕を回し、背骨をなぞるようにして、背中を撫でた。すると耳元で彼が低くこぼす。

「ホント好き過ぎてどうにかなりそ」

そんなの、本当に今更ではないか。私なんて、もう、ずっと前から。そう思うと、いつの間にか小さく声を出して笑っている自分がいた。

知ったつもりになっていた花笑み

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