第一話:弟共々売られました

 眩暈がするほどの上空から見下ろした視界には、陰惨とした黒い木々が群れを成して犇めき合い……空には禍々しく歪な球体が二つ、宝石のように怪しい煌めきを宿している。

 頬を撫でる不穏な温い風が、肌に纏わりつく暇もなく後方へと流れていく。
 足が地につかない。縄で縛られた体は不可思議な力で引っ張られていて、だというのに圧迫感も苦しさも感じず空を滑るように移動していた。
 

 ああ自分たちは今、夜の森の上を飛んでいるのだ。


 酷く夢見心地だった。先ほどまでマグロ漁船でしこたま働かされていた身としては、もしや冷凍マグロで頭でも打って死後の世界にやってきたんじゃないか――そんな馬鹿げた想像までも頭に浮かび、そして景色とともに流れ去っていく。
 そして脳裏に残ったのは、この状況を作り出した張本人について思考することであった。

「ここは……? 一体、貴方は」
 弟の入間が口を開く。戸惑い、困惑。どうして自分は今こんな摩訶不思議な体験をしているのかという疑問が思わず喉をついて出てきたような声色だ。
 それに対し、誘拐紛いのことを仕出かしている犯人は唇を震わせる。痩せて骨ばった体躯は大人二人が肩車でもしないと届かないほどの長身で、こちらに向けている背中からは闇夜に紛れ羽ばたく漆黒の翼が生え、夜風を受けて先端の尖った槍のような尾が靡いている。基本的にはヒトの姿を模しているが故のその強烈な違和感。歪に曲線を描く山羊の角が頭蓋の動きと共に傾ぐたび、宙に赤くまたたく月のような天体の光を受ける様は肉を凡てこそぎとった白骨のように艶かしい。

《Oy amurIikuzus aDiakam ahokok.》

(返答、だろうか)
 類は聞き慣れないその言語の集まりをそう解釈した。学校で習った外の国の発音にも似ている気がするし、それでも今までに一度も耳にしたことのない、直接骨の髄に冷水を浴びたような底冷えする音声に思わず身を震わせる。
 隣を見ると、まだこんな囚われの身という状況を夢か何かだと思っているんじゃないかと推察できる、呑気で純粋に驚いた弟の顔が伺えた。類はひとつ舌打ちをする。一歩間違えばこの遥かな上空から突き落とされるかもしれないというのに。

 言葉の通じていない二人の様子に気づいたのだろうか、老人に似た奇妙な怪物は指を打ち鳴らす。少女達はとたんに聴覚がクリアになったように感じた。

「ここは魔界だ。悪魔の言葉が解るように魔術をかけた」

「魔界……魔術を……?」
『っ! 言葉が分かるようになってる……!』

 己らのすぐ前を先導するように飛行する、その人間に似通った生物は自らを"悪魔"と称した。悪魔であるのだから魔術が使えて当然だろう、と語った。今のように別の世界の言葉が分かるように――この男の言い分を信じるのであれば、だが――それも『魔界』、だとかいう訳の分からない世界。縄で縛られて空の上を運ばれている、この状況も目の前の老人が魔術で行っているのだろうか。
 

 類少女の知りうる限り、そんな突飛で非常識なことを言い出す人物なんて今までで二人しかいなかった。そしてその確信めいた予感は、悪魔の次の言葉で予期されていた落胆へと変わる。

「鈴木入間、その姉鈴木類よ。両親は君の魂を我輩に売り飛ばしたのだよ」

 悪魔はこらえきれない笑いを、細く不気味に漏らした。
 ああ、やはり。

 
「悪魔に、ぼ、僕達の魂を売った……!? そ、んなこと…… あ、」
『……あの親ならやりかねない』

 入間はその言葉に苦虫を噛み潰したようなはにかみを返す。
 そう、入間達の両親は普通の人間の枠には収まりきらないほどのクズなのだ。
 それこそ実の子供を見知らぬ悪魔に売り飛ばして、大金をせしめようと思いつくぐらいには。

『今頃キャバクラで遊んでるよ、私たちの父親。母親の方はホストかな』
「はは……目に浮かぶようだね……」
 無表情に呆れを含んだ溜息をつく姉に、弟も同じ気持ちだった。
 
『まあしょうがない、あのクソ親ならどうせすぐお金使い果たすでしょ。どれだけ貰ったのかは知らないけど』
「はは……でもこの状況は流石に」
『ちょっと受け入れがたいよなあ』

「そこはもっと両親に怒るところだと思うのだが」
「怒ってますよ!」
 悪魔さえも見かねたのか会話に茶々を入れ始める始末。
「次会ったらあの、あれです、コラ! って言います!!」
『入間さあ……』
「ウム……怒り慣れてないにも程があるな……」
 入間はお人よしだから、と言いかけて類は言葉を続けるのを辞めた。誘拐犯と和やかな雰囲気になってどうするんだ、こっちは売り飛ばされてる身なんだぞ、と思い直し、再び目の前の老人を警戒することにしたのだ。尤もあの両親が存在する限り、こんな状況はいつもの事ではあるのだが。


 そうしているうちに、見えている景色のずっと先に暗い森の途切れる部分を見つけた。
 空と地平線の境目に広がる薄い闇色を背景に、その建造物は切り絵のように立っている。西洋の城にも似たその建物は、あちこちの三角錐型の屋根上から悪魔と似た角を生やし、怪物の口のようにぱっくりと開いた全ての窓から煌々と黄色くランプの光を吐き出して、今まさに帰還せし屋敷の主とその獲物のにっぴきを飲み込まんと舌なめずりして待ち構えているようにも感じられた。

「あれに見えるは、我輩の屋敷だ」

 そうして悪魔は悪魔らしく、不気味な微笑みをその老いたかんばせに携える。今から自分の巣穴に極上の獲物を連れ込むのだ。表情の見えない後ろからでもその喜びが察せられて、途端に弟は怯え始めた。

「ぼ、僕達をどうするつもりなんですか!?」
 悪魔がそれに答えることはない。
 ギシギシと縄を軋ませ、小さな子供の身体は必死にここから逃れようともがく。しかし魔術で縛られたそれは非常に固く、少しの緩みもない。類は相も変わらず眼前で余裕そうに嗤っている悪魔をじっと見据え、ただ一瞬のすきも見逃すまいと筋肉を強張らせている。
 悪魔にとっては虫にも等しいあまりに軟弱な抵抗も空しく、また子猫のようなやわな警戒にもまったく牙を見せない上等生物の導くままに、三つの影は悲痛な悲鳴を供にして怪物の住処へと吸い込まれていくのだった。











「―――――― へ?」

 用意されたのは上等でふかふかな一人用ソファが二人分。それぞれには蝙蝠の羽を模した意匠が施され、品よく佇むサイドテーブルに掛けられたシルクのクロスに乗せられた籠と色とりどりのお菓子、果物、色は禍々しいが喉越しの良いお茶、足元では小さな角と猫に似た瞳孔を持つ愛らしい生物が一生懸命に扇をはためかせている。可愛いな。

 そしてここに連れてきた張本人は嬉々としてお茶をカップへと注ぎ、戸惑いも最高潮の姉弟を存分に甘やかそうとしてくる。

「入間くぅ〜ん、類ちゃ〜ん、魔茶のお代わりいる〜〜〜〜〜?」
『あ、いえ、結構です……』
「ええ、と、これは?」
「吾輩特性究極甘やかしセット」
((甘や……?))
 さっきまで不敵な笑みをたたえていた悪魔は何処へ行ったのだろう。てっきり食料としてパクっといかれるんじゃないかと震えていた二匹の人間はすっかり毒気を抜かれ、ついつい悪魔の話に耳を傾けてしまうのだ。

「実は我輩独り身でねぇ、ずーっと『孫』を持つのが憧れだったんだぁ」
『ま、孫?』
「そう、孫! おじいちゃんって呼んでくれる孫!」
「は、はぁ……」



「そんな訳で入間くん、類ちゃん! 我輩の孫になってくれないか?」




 いつのまにか悪魔は二人の前に膝をついていた。入間の左手と、類の右手はそれぞれ優しく握られていて……丸眼鏡の紳士めいた悪魔は、ただの老人のように少年たちへ懇願していた。

(手が、暖かい)
 姉は初めて年頃の乙女相応に頬を染める。誰かにこんな風に手を取ってもらえるなんて、今まで弟以外にはありえなかった。
 入間は一瞬照れて真っ赤になり、それから緊張と混乱で身を固くさせた。

「はっ!? えぇ!?」
「もうすっごく羨ましいんだよレヴィやベリアールの孫自慢が!! 何でも買ってあげるし! デロッッデロに甘やかすから!! ねっ、ねっ、いいでしょ!?」
『そっそんな急に言われましても……!』
「で、でも僕たち売られたんですよね? 拒否権はあるんですか?」

そういえばそうだ。ここに来たのだって、しつこく言うが両親の外道な行いが極まったからこそ。自分たちは親に売られ人としての権利を剥奪された『商品』で、目の前の悪魔は自分たちを『買った』のだ。
 けれど入間がそう問うと、上機嫌の老人は快く首を縦に振ったのだ。曰く、君たちの意思は尊重すると。嫌なら断ってくれてもいい。念願の"孫"になってくれるかもしれない存在を前に断られた場合の話をするのはやはり嫌なのか、段々とすねるように口を尖らせたおちゃめな人物は、眉をしかめながらもはっきりとそう言葉にしてくれた。

(でも……ど、どうしよう)
 類は思い悩む。
 お人よしの入間とは違い、類は今まで無理なことは無理だとはっきり断ってきた。それは唯一愛している肉親が滑稽なまでに優しすぎる性格だったのもあり、子供だから、女だからと"狙ってくる"輩から二人分の命と尊厳を守る有力な手段だったからだ。
 しかし、自分の手に縋りついた老人の手はひどく暖かいのだ。それを力づくで振りほどくことだって、まあ相手は悪魔だが、出来るかもしれないのに。

(けれどもしも入間が嫌だと思うんなら、無理やりにでもここを突破して……逃げたって良い)
 そうして彼女は目線だけを動かし、弟の横顔をちらりと盗み見る。
「……」
 少年は近年稀に見るほど真剣な面持ちで深く考え事をしているようだ。姉の最終的な判断が自分に委ねられているとも知らず、入間は未だ初歩の段階で頭を抱えていた。

(生まれてこの方、 断るなんて経験が無い……!)

 類はひとつ思い違いをしていたようだ。
 鈴木入間、双子の弟は姉が思うよりももっと、甚だしく、著しく、あきれるほどの《超お人よし》なのであった。
(今まで頼まれたことにも、頼まれなかったことにも全部「いいよ」で返してた僕だけど――断ってもいいのかな、いやでもお姉ちゃんも一緒なんだし、こんな異常な状況なんだし、断ってもいいなら僕――――)
 入間は現在自分の置かれた立場を正しく理解している。自分の返事一つでこの場から解放されるだろうことも、その選択に姉は何も言わずついてきてくれるという確信も。全てを心得たうえで尚、まるで欲しかったおもちゃを買ってくれた幼児のように無邪気に頬を紅潮させ、待望の一言"お断りします"と、


「しかし!!!!!! だからこそ僕は全力で『お願い』する!!!!!!」
『「っ!?」』
「孫欲しい!! 超孫欲しい!! 『頼む』から孫になってください!!!!」
「あ、うぅ、」
「少しでもこの老体を哀れだと思ってくれるならッ 老い先短い老人を『助ける』と思って!!!」
『ッ……(入間! 早く断りなって! これ以上はほんと笑えないから……!)』
 勢いに押されはくはくと唇を開閉するだけの動作を繰り返していた弟を姉が小突き、はっとしたように入間は再びその言葉を口にしようと――――

「どうか長年の夢を叶えて欲しい!!!!
    『お願い』だよ入間くんっ 類ちゃんッッ」


 入間の背中に電流走る!!
 

 ……入間の弱い言葉ランキング
 1、『お願い』
 2、『助けて』
 3、『頼む』


『……ッはぁ〜〜〜〜〜〜〜……』
 類は気の抜けた奇声を上げて全身を脱力させた。
 試合終了。甲高いゴンクの幻聴を呆然と聞く敗北者然として、心なしか痛む頭を押さえ鬱陶しい髪をかき上げる。

「だ、だってお爺さん泣いてたし……僕にはとてもとても……」
 既に悪魔の契約書にサインを終えてしまった愚弟の、その沈んだ顔を見て愚姉はいくらか機嫌を直したようだった。
『……別に入間が悪いわけじゃないから』
「で、でもお姉ちゃんまで……」
『ああ、もう良いんだよ。十中八九、いや九割五分ぐらいこうなるんじゃないかって気はしてた』
「九割五分!? そんなに僕って判りやすいの!?」
『自分の行動を見直せ』
 甘やかしセットの高級椅子に全力で凭れ掛かり、少女は二人分のサインが書かれた羊皮紙を掲げ喜び舞う老人を見つめた。その舞い上がり様に自然と、口角が上がるのを感じた。


(売り飛ばされた先でおじいちゃんが出来るってのも……まあ、悪くはないんじゃないかな)


 暗い魔界の底、ヒトに似たただの孫大好きなおじいさん悪魔。
 ふかふかソファに美味しい食べ物。人間の世界ではもらえなかったもの。
 隣には大好きな双子の弟。
 もう、私には望みたいものはこれ以上ないんだ。


 ここに悪魔と人間による、冷酷非道な血の家族契約は成立したのだった。




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