――目覚めると、少しだけ不安になる。


 下の階からの物音にシュクルは目を覚ました。金属が擦れ合うような音と忙しない足音だ。ボウルに入った生地を混ぜているのかもしれないし、すでに焼けたクッキーをオーブンから取り出しているのかもしれない。大きな身体を丸めて、丁寧にお菓子を作っていくジャンの姿を思い浮かべる。

 まだ起きるには早いらしく、カーテンの隙間から漏れる光は青白く、薄暗い部屋をぼんやりと浮き上がらせている。ベットから起き上り、カーテンを開ける。それから、凝り固まった身体をぐっと伸ばして、誰にでもなく呟いた。
「おはよう」

 窓には、寝癖が残るクリーム色の髪と寝ぼけ眼の少年の顔が映り込んでいた。手で頬に触れ、感触を確かめる。昨日と変わらぬ自分の姿に、シュクルは安堵する。
 もうひとつ確認するように見上げれば、見慣れた天井の模様がこちらを見守っている。ふっと息をついて、シュクルは着替え始めた。


 シュクルは目覚めるたびに、自らに問う。自分が自分であるのかを。昨日と同じ場所で、今日を迎えられたのかを。
 どれだけ確認しても、この部屋で初めて目を覚ましたときの涙の味が、胃からせり上がってくるようだ。
 もしも、次に目覚めたとき、曖昧な自己を手放してしまったら、どうなってしまうのか。今、縋り付いている「シュクル」という存在まで消えてしまったら、誰になっているのだろうか。そんな薄っぺらな自分を誰がわかってくれるのだろうか。
 悪い想像が波となって、シュクルのもとに押し寄せる。もがけば、もがくほどに海底へと引きずり込まれていくようだ。

 不安なままに、窓のそばに置かれた鉢植えに目を移す。黄色の花が咲くのだと、ジャンが教えてくれた。小さな蕾はまだ開く気配がない。
 人差し指で優しく蕾に触れる。力を入れると、すぐに蕚から外れそうな蕾の危うさが、自身と重なってみえてくる。花が咲かないならば、すぐに別の花を植え替えてしまうだろう。自分が消えてしまったら、すぐに別の誰かに取って代わる。それだけなのかもしれない。
 ぼやけ始めた視界を拭い去るように、シュクルは目の周りを強く擦った。



‐‐‐‐‐
 一階に下りていくと、焼き上がったお菓子の甘い匂いが部屋を満たしていた。シュクルに気付いたジャンは嬉しそうに朝の挨拶をする。
「ワリィな、オッチャンが起こしちまったんだな。おはようさん、シュクル!」
「おはよう、ジャン」
 挨拶を交わしながらも、ジャンの手は休まることがない。
「今日はお得意さんのパーティーがあるからな。お菓子の注文がいっぱい来てるんだ」
 そう言って、すでに焼き上がっているたくさんのトロワナッツクッキーを示した。三段重ねの白いケーキの上には、男と女の砂糖細工の人形が寄り添うように配置されている。
「クッキーは袋に小分けして、お土産として配るんだ。手伝ってくれねぇか?」
「うん……」 
 シュクルの上擦ったような声に、ジャンが首を捻る。シュクルの顔を見ると、目が赤くなっている。泣いていたのが一目瞭然だ。途端に、心配する声が飛んでくる。
「どうした?大丈夫か?腹でもいてぇのか、風邪引いちまったのか?」
「……大丈夫、欠伸で目をこすっただけ」
 ジャンは生地を混ぜていたボウルを作業台に置き、拳を握り締めては力を緩め、何かを掴むように腕を伸ばしたかと思えば引っ込めた。空を切るような手の動きをひたすら繰り返す。シュクルは不思議そうにジャンの手の動きを目で追った。

「まだ寝ててもいいんだぞ!寒いなら、毛布を増やせばいい。なんなら、オッチャンが子守唄を……」
 自分の年齢が定かではないにしても、過保護なジャンの言葉にシュクルは困惑する。同時に、ジャンの大きな声で眠りにつけるのかという疑問も湧いてくる。
「だ、大丈夫だから。お願い、手伝わせて」
 まだ心配そうな目を送ってくるジャンに、シュクルの胸はじわりと暖かくなっていく。先程までの塩辛い感覚が徐々に薄らいでいくようだった。
「本当に、大丈夫だから」



‐‐‐‐‐
 言葉の通り、顔を洗って出直してきたシュクルはクッキーを袋に詰め始めた。淡いピンクのリボンの飾りが付いた小さな紙袋にクッキーを数枚入れ、太陽の形をしたシールで慎重に封をする。可愛らしいプレゼントがいくつも出来上がっていく。

 シュクルに背中を向けて、ジャンはまた新たな焼菓子をオーブンから取り出している。その背中に、シュクルはそっと語りかける。
「ぼくは、シュクルだ」
「ああ、シュクルだ」
 返事を期待したわけではないのに、力強い言葉が返ってくる。
「もしも、ぼくがぼくを全部忘れたとして……」
「それでも、シュクルだなァ」
 言葉が全て吐き出される前に、ジャンは応える。それでも、シュクルは消え入りそうな声で問い続ける。
「……ぼくがぼくを忘れてしまったら、ぼくは本当にシュクルなのかな。そしたら、今の『ぼく』はどこに行ってしまうのかな」
 ジャンの広い背中は、ぴたりと動きを止めている。

「オッチャンには、難しいことはわからん。……でもなァ、泣いてるやつを放っとけねぇんだな」
 そう告げるやいなや、身体をこちらに向けたジャンが、シュクルの詰める前のクッキーを一枚取り、おもむろにシュクルの口に放り込んだ。シュクルはわけもわからぬまま、反射的に噛み砕いていく。優しい甘さが口全体に広がる。
「うまいか?」
 シュクルが口をもごつかせながら、何度も頷く。ジャンがいつもの笑いを爆発させる。
「ダァーハッハッ!じゃあ、大丈夫だ!」
 突然の大笑いに、シュクルは目を丸くする。
「どうして?」
「オッチャンは美味しいと言って食べてくれる人間を絶対に忘れねぇ!シュクルが忘れても、オッチャンが覚えているわけだ!お前がシュクルだと教えてやれる。だから、心配いらねぇってこった!」

 あまりに確信を持って言うものだから、シュクルはまた驚く。しかし、ジャンの言葉一つで、今朝の不安が吹き飛んでいく。逞しいジャンの腕が、沈みかけていたシュクルをいとも簡単に引き上げたようだ。

 「どうだ、参ったか」と言わんばかりの笑い声はまだ止みそうもない。
 とんでもない理論で不安を笑い飛ばしてしまうジャンにつられ、シュクルも微かに笑みを漏らした。ジャンの笑い声に掻き消されていたものの、やっとシュクルは笑えたのだった。




 翌朝、豪快に笑うジャンを真似て、歯茎を見せて笑ってみる。
 窓に映る僕は今日も「シュクル」だった。

more
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -